カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

青春は自分と夢の間に流れる川、あるいは「バーナード嬢曰く。」4巻までの感想

余談

書きたいことはたくさんあるのだが、どうにも疲弊してしまっている。

一つはこの異常気象で、幸い妻の料理のおかげもあり夏バテには至っていないがそれにしたってこの暑さはどうしようもない。仕事中、別棟に移るその間だけで体力をがりがりに削られる。

もう一つは東京医大の女子一律減点問題とそれを生んだ女性雇用に関する構造的問題である。東京医大のことでスーパー門外漢の筆者が疲弊するなんて繊細すぎる……と読者諸賢は思われるかもしれないし自分でもちょっと引いているのだが、鹿児島というどう取り繕ってもやはりいまだに男尊女卑がはびこる地方で、そこに男性として生まれ落ちてしまった以上、残念ながら「無条件にある部分では優遇される」といういわば原罪を背負っている人間ということもあるのかも知れないがひどくショックを受けた。自分のどうしようもないところでしかし確実に自分のせいで他人が害されている、というのは少なくとも筆者にとってとてつもなく精神にくるものがあって、勝手に東京医大の女性諸賢は勿論のこと、男性諸賢もその苦しみいかなるものか……とすっかり市民権を得た言葉で言えば忖度したりもした。

また自分の過去を鑑みて、二十一世紀であってもやはり「女子だから県外には出さない」ということで筆者より何倍も賢いのに県内で進路を決めざるを得なかった彼女らのことを思い出し、また男女問わずそういったしがらみから抜け出す蜘蛛の糸の一つが大学試験であったという厳然たる事実も踏まえるとそこが公平でないということには慟哭せざるを得なかった。冗談でなく足元が揺らいだ気分にもなった。

筆者は後期試験での入学で、試験内容には小論文があった。間違ったことは書いていないと思ったし、だからこそ合格通知をもらって喜びもしたのだが、それすらもしかしたら「男性だから」「現役だから」という「下駄」を履かせてもらったからだと言われたら「そんなことはない」と否定できないのが情けないし、恐ろしい。

少なくとも今までは一笑に付していた「俺が○○に落ちたのは○○の陰謀!」みたいな発言に「もしかしたら……」と思わせてしまうようになっただけでもとても罪深い事件だと思う。

本題

本が好きである。高校生くらいまでは、自分は読書家だと思っていたし、実際毎日なにがしかの活字本は読んでいた。大学に進学し、筆者は「これからはますます本の虫となるのだろうな」と考えていた。実際、当時は四時間かかった実家から大学までの道のりの移動期間のほとんどを本を読んで過ごした。

ところが本格的な一人暮らしが始まると、可処分時間のほとんどは読書ではなくインターネットや、ゲーム(主に狩猟やアイドルプロデュース)、創作に費やされ、読書の時間は高校時代に比べ著しく減少した。

なるほど、と筆者は当時自分で納得していた。「大人に怒られない暇つぶし、いってしまえばサボりが読書であったから自分は読書を嗜んでいただけで、咎められない状況で同じような時間があれば、それよりもインターネットやゲームに勤しんでしまうのだな、自分という人間は」と。勿論決して本が嫌いという訳ではなく、好きであるし、今でもちょこちょこ本は読むけれど、その時筆者は読書家ルートを断念したのだった。その後別に一流の狩人にもアイドルマスターにもなれた訳でもないのだけれど。

だから「バーナード嬢曰く。」の登場人物が筆者にはまぶしい。そういうマンガだからそりゃそうだろ、と言われてしまえばそれまでなのだが彼らはそれぞれのスタンスでしっかり本に対して向き合っている。

そういえば高校の時にあんまり友人と本の話をしたことがないかもしれない。もしかしたらしていたかもしれないが、そんなことより週刊少年漫画の話が主だったのである。昼休みに友人と自主練習をしていたら五時限目の体育の授業で体育館にやってきた三年生にワンピースのネタバレを食らった(友人同士でまさか○○の父親が○○だったなんてという話をしていた)あの時の恨みはすさまじく、今も時々夢に見る。我々と同世代だったはずのあひるの空はそろそろ完結したのだろうか。こういったところからも少なくとも高校時代の筆者にとっての読書は一人遊び、目遊びの範疇であってそこに共有という概念はあまりなかったことが伺える。ますます筆者の中で登場人物たちの輝きが増していく。

4巻の中で特に印象に残ったのはとある特殊な場所での読書のエピソードである。既刊でも「特別な時に読んだ本は特別な本になる」というエピソードがあったが、きっとこの本も特別な本になったことであろう。

あれは卒業式の日(もしかしたら離任式)だったと思うのだが、友人たちと名残惜しむのも一段落し、一人、また一人と家路に着いたり恐らくはファミレスなどで更なるの名残惜しみへ向かう中、筆者はなんとはなしに体育館に向かった。既に昨年卒業したワンピースのネタバレをした三年生を呼び出して決闘をするとかそういったことではなくて、本当になんとはなしであった。なんとなくもう一度コートに行って、シュートを打ちたいなと思った。筆者は囲碁将棋オセロ部にいそうな風貌ランキングが校内で催されたとしたら恐らくは上位が狙える可能性があったが実際には中学から基本的にどこかしらを怪我しているバスケ部であった。といっても実力は風貌通りで(全国の囲碁将棋オセロ部の皆様ごめんなさい)全くもって無能な部員であったけれどあのボールをドリブルするダムダムという音を聞けば今でも高揚するくらいにはバスケットマンでもあったのである。

自分がバスケット適性がないことは上記のように重々承知していたので大学ではバスケに関わるつもりはなかった。体育館に行くこと自体なくなるであろう。よって言うなれば「バスケ修め」をしておきたいという気持ちがあった。いや、正確には「シュート修め」か。天才ではないけれどシュートの練習は楽しかった。自分のエネルギーが外へ正しく射出され、ゆっくり弧を描いて、スパッというかバツッというか、そうした音を立ててゴールに吸い込まれるたびに自分がもう少しバスケ部でいられるような気が現役時代はしていた。困ったことにあんまりそういうことがなかったので基本的にはバスケ部員でいいのかどうか自問自答する日々であったりもした。

意外なことに体育館には誰もいなかった。丁度凪のような時間帯だったのかもしれない。制服のまま、倉庫からバスケットボールを引っ張り出してシュートを打つ。半年かそこらで著しく筋力は落ちており、もともとたいしてあった訳でもないシュート勘は惨憺たるものになっていた。よりにもよって派手にミスしてぐわんぐわんとゴールが揺れる中、一人の来客があった。

彼女がなんで来たのか、どういった話をしたのか、まるで覚えていない。それが大切な思い出だから記憶の奥底に厳重に閉まっていてそのくせカギをなくしてしまったからなのか、ただ単に十年前のことで加齢による健忘なのか、それさえもわからない。

ただ、合格祝いで何かを買ってもらったか、という話をしたことは覚えている。彼女はデジカメを買ってもらったという。筆者はPSPを買った(半額助成)ことを告げた。

「ぷれい、すてーしょん、ぽーたぶる」

当時のCMの発音に寄せた発声をする彼女がなんだかシュールで笑ってしまった。持っててよかったPSP。

それから義理チョコのお返しにホワイトデーにあげた伊坂幸太郎先生の「チルドレン」の話になったような気もする。「重力ピエロ」を貸したような気もする。(卒業というハレの日に自分が墓場まで持っていきたい本とはいえ強姦魔が出てくる本を女子高生に押し付けるのが童貞の童貞たる所以である)その後彼女の友人が来たので筆者はそそくさと退散したようにも思える。一切は昔であり、もしかしたら彼女も今は苗字が変わっているかもしれない。しかしその時の彼女のPSPへの反応が忘れがたく、それが無意識に狩猟をはじめとするPSPのゲームの比重が読書を上回る伏線だったと考えると重要性が増してくるのではないか……とまで書いたところでこれは「特別な状況での読書」エピソードではないことに気が付いた。

1~4巻において恐らくド嬢以下4名は進学等はしていないと思われるが、積み重ねでの関係性が順調に厚みを増している。特にド嬢と神林のそれは友情と片付けていいものか……とまで思ってしまうのは筆者が毒されているからだろうか。それに呼応するように4巻では長谷川さんの掘り下げも進む。ファン必見であるし、またファンになる方も多かろうと思われる。

4巻の冒頭では読書の意味について語られる。筆者は一度、「今まで読んできた本がたまたまめっちゃ面白かっただけで今後読む本はずーっとつまらなかったらどうしよう」という変な強迫観念に襲われ読書が怖くなった時期があったのだが、そんな時ド嬢や神林がいたら不安を解消してくれたのかもしれないな、と思った。

しかしキャラが立ち過ぎて(筆者も大好きである)しばしば未見の諸賢から「この子がバーナード嬢?」としばしば勘違いされる神林しおり嬢がとうとう表紙を飾ってしまったので勘違いが加速するのではないかとちょっとワクワクしている。狙っていたりして。

ちなみに巻末には……この先は君自身の目で確かめてくれ!

 

 

 

大河ドラマ「西郷どん」第二十三回「寺田屋騒動」第二十四回「地の果てにて」第二十五回「生かされた命」感想

余談

妻が実家に帰った。別になにかしらがあった訳ではなくお盆は混雑するためにその前の早めの帰省である。筆者も同行したかったが金銭的事情と仕事の関係もあり見送った。筆者がいるとどうしても妻は「妻」となってしまうため、「娘」としてリフレッシュしてきてほしい、親御さんに甘えてきてほしい、という気持ちもあった。同様に義理の両親も大変良い方であるが筆者がいては気を遣うであろう、とも。

JR九州会員の早割で切符を取ったので、今回の帰省は豪雨よりずっと前に決まっていたことでもあった。幸い妻の実家そばは被害をさほど受けなかったが、折り込みのチラシにさえ影響がありありと見て取れた。一方で相変わらずやっぱりカープがナンバーワンであり、安心したりもした。「筆者が絶対好きそうなものを食べた。うまい」と「階杉」さんのたんたん混ぜそばの写真を妻が送りつけてきたので、単純なもので自分も麺類が食べたくなって「一軒目」さんに行くことにした。先週妻と一緒に行こうと思っていたが、豪雨の影響か一帯が停電しており(イオンさえも!)、営業されていなかったのである。


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開店五分後についたが既に何人かが並んでいた。鹿児島では希少な「おいしい塩ラーメン」が食べられるうえに、他のメニューも外れがないという誠に毎回何を食べるか悩まされるお店であるので待ち時間があるのはかえってありがたい。(食券制なので空いているときに迷っていると後ろから人が来たときに迷惑になってしまう)

ますます迷わせるのは期間限定の麺をしばしば出すためで、出発時に「きょうは魚介混ぜそば!」と心に決めていても揺らがせてくるくらい魅力的なメニューが毎回筆者の心を袈裟切りにしてくるのである。昨夏はこの枠に担々麺があり、実は若干それを期待して行ったりもしたのだが、今回は「よだれ鶏ピリ辛冷麺」であった。中華料理を大胆に野心的なスタイルがいかにも「一軒目」さんらしく、頼んでみることにした。

 
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美しい……涼を感じる皿とのコントラストがまた素晴らしい。よく混ぜてくださいね、とのことだったがそれを躊躇するほどである。意を決して食べ始めると、程よい辛さのスープ、よだれ鶏のうまみ、野菜が麺に絶妙に絡まって合わさり箸が止まらないおいしさであった。

帰り際、店員さんに「今日はお一人なんですね」とお声をかけていただいた。夫婦でよく来る人、という認知をもらっていたことに若干の気恥ずかしさと嬉しさを覚えながら、間違いなくおいしく満腹でありながら、いつもここに来た時のような満足感を得ていないことにも筆者は気づかされた。妻と一緒に食べる、別メニューを注文してちょっと分け合うということまで含めていつからか休日の筆者の外食というものは成り立っているようになったらしかった。

テレビを見ていてもゲームを見ていてもそんな感じの時間が続いた。一人の気楽さというものが勿論ありながらも根っこの部分でそこから楽しめないというか、サランラップ一枚隔てて世界と接しているような違和感が常にあった。思っている以上に助けられているのだな、としみじみ思った。

恩返しというのも変な話だがしかし、何かしらもっと妻に還元していかねばならない、ひとまずは明日は祝日だけど燃えるゴミの日でゴミ収集車は来るから、忘れずにゴミを出そう、と一時間弱駐車していただけで灼熱の車に乗り込みながら考えた。

 

本題

本日からいよいよ革命編が始まった訳であり、視聴もしたわけであるが、随分と遅くなってしまったが島編完結までの感想をまとめておきたい。

島編が本土編のネガとしてまた機能したなというのは初めて理論だった形で吉之助の信望者が出てきたことで伺える。今までバンドワゴン的に、あるいは雪だるま式に虚像として膨らんでいた西郷吉之助像が島ではかえって等身大であるというのはおもしろい。とつぜんのおっさんとのチッスもあってサービスシーン的にもまったくもんだいありませんね。

一方で本土では有馬新七があっという間にその生涯を駆け抜けてしまったわけであって、その悲劇ぶりがまたしても錦戸亮はじめの熱演で彩られるわけであるが、だから幼少期からその辺の思い出を丁寧にやっとけよって話なのである。思い付きでうなぎをとるなと。

真田丸のあれやこれやで歴史的事件も主人公が当事者でなければスルーという演出にはなれたつもりだったがまさか生麦事件と薩英戦争が一週で終わるとは思わなかった。

史実の薩英戦争がどこか戦争でありながら明るさがありなんか夕焼けの中薩摩とイギリスが野原に寝転がってなかなかやるじゃん……おめえもな……みたいな空気を醸し出しているのは幕末期薩摩のおもしろさのひとつであると思うのだが、その理由のひとつと筆者が勝手に思っている「スイカ売り決死隊」が僅かでも触れられていたのは評価したい。実際は錦戸亮くん、信吾(村上ではなく西郷)はそのメンバーではないのだが自分のことのように語る様はこのドラマの信吾像にフィットしていてよい。

いや、ほんとに好きなんですよスイカ売り決死隊。普通生きるか死ぬかの時にそうだスイカを売ろうってなりますか? そいつの頭スイカ詰まってんじゃないのか? でも極限状態の薩摩びとのある種滑稽な、いっそ真骨頂な感じがとてもらしいと思うのである。

そうして呼び戻される吉之助は船で愛加那と再会する。こうした創作らしい部分が史実なのが吉之助という人のファンタジーさを補強している気がする。因みに島でおっさんのお陰でナポレオンに開眼したというのはドラマの都合で実際は吉之助は自分でナポレオンの自伝を島に持ち込んでいる。

あのおっさん、その後西郷の家に住み込む訳でおいおいおっさんズラブかと言った感じであるが(ブレーン的な感じだったのだろうか)それでも借金はまだ返さない吉之助の心地いいほどの鈍感さを今後このドラマが出してくれるだろうか。

 

 

もうすぐ消えるはずの平成(せかい)で

余談

オウム真理教を知っているかって? もちろん。

あの地下鉄サリン事件の時、筆者は幼稚園生だった。それまで親父の読み終わった「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年マガジン」を読んでいたけれど、ついに「自分の漫画雑誌」として「月刊コロコロコミック」を買ってもらうようになったのが95年のことだった。早速、「間違えて別冊コロコロコミックを買ってしまう」というありがちなミスを犯してしまったりもした。

どういうニュースかは覚えていないが、「麻原彰晃こと松本智津夫」が頻繁にテレビに出ていたことは覚えている。明確な「悪」として。麻原彰晃なのか松本智津夫なのかどっちなのだ、と混乱したことも覚えている。同じ人間が名前を二つ持っているということが理解できなかったのだ。

八十年代の終わり、平成の始まりに生まれた筆者にとって、オウム真理教とは物心ついた時には既に「テロ集団」としての代名詞であったし、「宗教とは胡散臭いものだ」という偏見を強力に育てることにもなった。

もう少し大きくなって、自分がモラトリアムに突入する辺りで、結局のところオウム真理教というのはかつての日本赤軍であり、今の極度に日本を愛しすぎたり逆に為政者を憎みすぎたりする人々のように、「果てのない夏休み」を生き続ける人たちなのかもしれない、というように思えて来た。

恐らく普通に生きてきたら少年少女は大人を憎んだり、嫌ったりするフェーズがあるはずである。例えば反抗期のように。人間にとって成長するということは、大人を憎み、そしてやがて生存本能として次世代に憎まれているという感性を鈍麻させながら憎まれていた大人になっていく、と言い換えられると言っていいかもしれない。

そのどこかでエラーがあったとき、人は大人になり切らず、ただ敵を作り続け自らは夏休みのゆりかごの中で永遠に揺られていたいと思ってしまう。相手にのみ責任を追及し、それは先鋭化していく。相対的に自分たちを特別だと思ったりもする。

そのパターンとあの時代の持つ終末的な雰囲気が最悪の融合を果たしてしまったのがオウム真理教という組織だったのではないか、と思う。そういえばMMRとかでもノストラダムスの予言を散々見たような覚えがある。

まあしかし、あれだけ仰々しく自分らを肩書で涙ぐましいまでに飾り付けていた連中が、「山田らの集団」みたいな身もふたもない呼称で扱われているのはなんだか笑ってしまう。こういう人たちの怖さは「神秘性」にあると思うのでどんどんダサくしてほしい。目覚めよと言い続ける彼らが長い眠りから覚めるように。9月1日に進むために。

本題

昨日松本智津夫を含む7名の死刑が執行された。オウム真理教関連の13人(この数字がまた、意味ありげに見えてしまって嫌になる)のうち凡そ半分である。関連死刑囚は同日に執行するのが慣例であって、ただし諸々の負担を考慮して7人に留めたらしい。

死刑囚というのは死刑そのものが刑罰であるから、基本的に労役が存在しない。いつ執行されるかわからないという状態も罰の一つであるのかもしれない。かつては執行前日に伝えられていたが、当日に自殺したことにより伝えられることはなくなったという。

筆者も物の本の知識のみで語っているので実際の所は違うかもしれないが、執行は朝行われ、刑務官の靴音の違いで察してしまう死刑囚は察するという。通常の房にオウム関連の死刑囚も入れられているのなら、分散したとはいえ大体各刑務所に2人くらいずついるオウム関連死刑囚は、他方は突然の死を告げられ、他方はかつての「お仲間」が死へ向かう所を察したはずである。

突然の理不尽な死をもたらした連中に同情する気など一片たりともないが、同事件の同刑罰を受けた人間に対して、この違いはいささかムズっとする。平等性が保たれていない気がするからである。

以下、引き続き執行されなかった他方は相方が執行されたことを知った状況と仮定して話を進めるが、なんだかんだ牢の中で二十年ほど暮らしてきて、(凶悪犯には適用されないが)恩赦もちょっと期待したり、井上に至ってはおまじないめいた再審請求(刑事訴訟法第442条では、再審請求が刑の執行を停止する効果を有しないことが明示されているが、事実として再審請求中は執行されにくい傾向にある。もっとも、昨年18年ぶりに再審請求中の死刑囚が執行されたのだが。井上のように)をしたりしている中、朝突然死を告げられ文字通り真っ逆さまに死に落ちていく恐怖と、それを知り、改めて自分の確実な死を思い出し、またそれが恐らく近々であることを噛みしめながら生かされる恐怖というのは少し毛色の違う恐怖であり、繰り返しになるが同事件の同刑罰を受けた人間に対する平等性という観点から言えばなんだか腑に落ちないのである。後者の方が、現在で少なくとも二日長生きしている点も含めて。

法律というのは基本的に玉虫色の解釈をしやすくしているのだろうが、死刑は判決決定後○○日以内とか明文化すると、色々と省ける手間があるんじゃないだろうか。前述のように、いつ執行が訪れるかわからない不安を刑罰の一部とする解釈であったり、またもちろんあってはならないことであるが冤罪の可能性を考えてしまうと難しいかもしれないが、前者においては○○日「以内」とすることである程度その性質は残せるのではないだろうか。

しかしこれだけの規模、事前に段取りが決められており今更動かしようがなかったのだとは思うが、この未曽有の天変地異の中、大規模執行というのはもうちょっと何とかならなかったのだろうかとは思う。恐らく蜂起を警戒して各地の関連施設にも人員を割いていたりしたのだろう。この1大ニュースになんとか出社したり支持を出したりしなければならなかった人もいたのだろう。それらの人々は災害は大丈夫だったのだろうか。

そうして厳戒態勢で張り込んでいた人々が居合わせた災害で被災者を救助しましたといたニュースが、語られないとしてもそういった出来事が、どこかで起きていれば少しは救われるのにな、と思う。

末尾ながらオウム真理教関連事件にて犠牲になられた方に心よりお悔やみ申し上げますとともに、特別警報に関連する災害による被害の1日も早い復興を願い、犠牲になられた方にお悔やみを申し上げ、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。

 

柳に風、桂に歌。あるいは定額音楽サービスで落語を聞くという選択

いずれ人は死ぬ

関さんがおいらに言った最初の言葉さ

存在がでけえとついつい忘れちまうことだがな

――講談社刊・王欣太先生著「蒼天航路」より 

余談

人が生き物として人生を送るとき、「赤ちゃん」として生まれ、「こども」になり、「若者」になり、「おっさん(おばさん)」になり、「おじいさん(おばあさん)」になっていく。0歳と20歳と40歳は明確に違うが、60歳と80歳と100歳はみんな「おじいちゃん(おばあちゃん)」なんだなと考えると、「おじいちゃん(おばあちゃん)」の守備範囲ってそれまでと違ってだだっ広くそして終わりがないんだなと思う。当たり前のことなんだけど、なんだか本日しみじみそう思った。「おじいちゃん」まで生きられるかな、と思ったりとかして。

ひかりTVを休会した。スカパーと被りまくりだからである。ひかりTVの偉いところはネットで簡単に契約の0円塩漬けが出来るところである。電話は全然つながらなくて引越ししたての家具のない部屋で昼休み中ずっとだんだんとでかくなる保留音と熱を際限なく持ち出すスマホを思い出しちょっと暗澹たる気持ちにもなるがそれはそれとして食券制だから松屋大好き(頼むから早く鹿児島に進出して)という筆者にとって大変ありがたかった。

一方で困ったのがひかりTV休会とともに問答無用でひかりミュージックも塩漬けになってしまったことだ。「かってに改造してもいいぜ」があったり坂道シリーズの配信が速かったりとなかなか筆者の好みにフィットしていてすっかり音楽を購入しなくなって久しかったので一気に音楽から遠ざかり、通勤中はyoutubeを音声のみで聞いたりし、たちまち容量が圧迫されたりした。っていうかいつの間にかパケット繰り越しが出来なくなっている気がする。

二年ほど前に引っ越してから勤務先まで車で十分程度になってしまい、朝は大体ニュースを聞くし、遠出の時はDJ妻に任せるので、余り自分の娯楽としての音楽を意識しなくなったかのように思ったが、やはり選択肢が減ってしまうととたんに息苦しさを感じるようになってしまった。意識しなくなったのは必要性が薄れたからという訳ではなく、空気のように必要不可欠だったかららしい。

仕方がないのでGoogleplaymusicのお試しに入ってみた。前も入っていて、ひかりミュージックと駄々被りなので解約した記憶がある。こういうことばかりやっているのである。spotifyはpremium三か月無料の間にライフイズストレンジの楽曲をひたすら聞いていたのだがいつの間にか「keystone」がなくなっていたので解約してしまった。Amazonprimemusicは既に利用しているが、やはりこれだけでは痒いところに手が届かない感じがある。かといってアンリミテッドまでするかというと……Googleplaymusicとちがってlifelog(Xperiaのアプリ)との連携が弱いのもつらい。audibleはさすがに月四桁は高すぎたので司馬遼太郎先生の短編をざっと聞いて解約した。でも銀河万丈淀殿を熱演するのは多分audibleだけ!

本題

落語に興味があるけど敷居が高くてなかなか、という人は多いのではないか。実は上記の定額音楽サービスには全て落語が収録されているのである。

落語というのは勿論演者の所作も重要であるのだが、音声を聴くだけでも存外楽しめる。音声のみであるから想像がより広がり、かえって落語を身近に感じることもあるかもしれない。

既に上記サービスを利用されており、かつ落語に興味のある方は是非ご一聴をお勧めしたい。検索に「落語」と入れると思いのほか出てくる。

悩ましいのはあっちにあるけどこっちにない、というものが多いところ。

初めてでも聞きやすい「井戸の茶碗

「井戸」で「茶碗」というとすわ番町皿屋敷のようなホラーものと思われるかもしれないがさにあらず、ここでいう井戸の茶碗とは高麗茶碗ともいわれる名物のことである。この話のいいところは、

・悪人が登場せず、ハッピーエンドで終わる(優しい世界)

・三十分前後で終わり、落語の中では比較的短く聞きやすい

・登場人物が少なく、展開が追いやすい

というところで、筆者も大好きな噺である。大定番ということで、演者こそ違うがどの配信サービスにも収録されているようだ…と思ったがprimemusiにはなかった。(アンリミテッドにはある)

特に筆者は古今亭志ん生師匠の「井戸の茶碗」が最高なのだが、ひかりミュージック以外では筆者が好きなバージョンは配信されていないようである(Googleplaymusicでは以前配信されていたのだが……もしかしたらひかりミュージックでも配信停止されているかもしれない)audibleでは別バージョンが配信されているようだ。その噺し方は強烈に「江戸」を感じさせ、とはいえ横文字だって使うしちょっと話を端折ったりもする。飛ばしたりもする。その空気感自体がなんだか大師匠にこんなことを言うのも失礼な話だが、可愛らしくて面白いのである。それがこの井戸の茶碗という優しい話に何ともマッチしていてよい。

桂歌丸師匠の「井戸の茶碗」も聞けるが、歌丸師匠の演目でおすすめは「宿屋の富」

Googleplaymusic、audible、spotifyには桂歌丸師匠の「井戸の茶碗」も収録されている。ちょっと硬い声質が武士のプライドを表しているようでまた違った味わいがある。

ちなみに桂歌丸師匠の演目の中で定額サービスで聞けるものでは「宿屋の富」が筆者としてはおすすめである。ちょっと高飛車な感じが圓楽師匠をあしらったりあしらわれたりの在りし日の師匠をいい具合に思い出させてくれる。

先代圓楽師匠の演目も収録されていて、同じく筆者のおすすめは「あわびのし」ボケとツッコミの温度差が面白い。「大山詣り」もいい。 

定額で物足りなくなったなら

ここを訪れるような読者諸賢においては新作落語も是非お勧めしたい。筆者のおすすめは何といっても立川志の輔師匠。ぜひ「ディアファミリー」を映像でご堪能いただきたい。落語は古臭いものではなく、現代に通じるエンターテイメントであることがきっとわかっていただけるはずである。

 

現在配信されている落語の音源は、筆者どころか筆者の父すら生まれていないときに収録されたものもある。師匠たちの噺にあわせて、多くの笑い声がかぶさる。老若男女がいることがわかる。その声の主の多くは今は生きてはいまい。けれど彼ら彼女らのその日その時の声は、欠かせないスパイスとして今後も生き続ける。無論主役としての師匠たちの噺も。

人はいずれ死ぬ。それまでに何をどれだけどのように遺せたかが人というものの一つの指標となるのならば師匠方のそれは最高の一言に尽きるのであろう。

繋がれた箱の中の愛の撃ち殺し方、あるいは封神演義外伝および覇穹 封神演義最終話までの感想

封神演義全般に対する致命的なネタバレがあります。

封神演義外伝感想

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封神演義外伝」最終話読了後の筆者(イメージ)

こ…これだよ読者が求めていたモノは! といった感じであって、外伝ものに期待するお祭り要素が生かされていた。こんな華やかな場には当然、趙公明がいてしかるべきであるし、太公望は策士であるし、妲己もそれ以上の策士だったりする……というあまりに本編と地続きなまるで連載終了後半年のような違和感ない連続性には改めて驚かされた。太公望が過去の仲間たちに告げた久々の再会へのお礼は、読者たちがそのままキャラクターたちに抱いた気持であったことだろう。

ちなみにゆるキャラっぽい見た目の「羽翼仙」は原典では蓬莱島の仙人。申公豹に唆され、太公望にクレームをつけ、哪吒に煽られ、元始天尊にディフェンスされ、燃燈道人に弟子にされる、というなかなか濃いキャラクターである。その後、原典でも孔宣と対峙し、敗れはするものの孔宣の正体が鳥であることを見抜く、というキーパーソンとなっている。これが藤崎先生のアレンジが加わると怪獣総進撃となるのだからさすがである。

孔宣との別れ際、太公望は悠久の時を生きる彼相手にも再会の約束をする。思えば太公望もまた最初の人としてある種無限の孤独を味わい続けて来た立場であるから、その言葉は重く、またそこに偽りはないことを孔宣も感じ取る。これが主人公であるな、としみじみ感じた。本編において、太公望太上老君にはるか未来、騒乱の果てに何もなくなってしまうことを示唆されるが、もしかしたらあれも孔宣のうっかりだった可能性もあり、今回のことを踏まえ、あの歴史も変わっているかもしれない。断言はできないけれど。導はなくなったのだから。

最初の人残り二人(と、そのスーパー宝具)がしっかりとした描写なく終わってしまったのは残念。神農がほぼほぼ話を進行させる装置であり、意味ありげな表情もセリフも意味ありげなままで終わってしまったのもやや肩透かしであった。ちょっと打ち切り漫画が最後に駆け込みで考えていた設定を詰め込む、みたいに見えてしまったのも重ねて残念。そのあたりまで含めたギャグであり、また今後のさらなる続編への種まきだと思いたいのだが……。またライフワーク的に外伝をやって欲しいものである。

ちなみに最初の人残り二人(燧人・祝融)は伏羲、女媧、神農と同じく古代中国の神であるが、一般的には前漢司馬遷史記」にのっとって伏羲、女媧、神農が所謂「三皇」とされるところを、後漢の班固「白虎通」では伏羲・神農・祝融に、応劭「風俗通」では伏羲・神農・燧人 になっていることを考えると、そこからこの五人を同等の存在として「最初の人」の元ネタとして引っ張ってきたのかなと考えられて面白い。そうなると、西晋の皇甫謐「帝王世紀」では伏羲・神農・黄帝 となっているので、もしまた続編があるとしたら、「もう一人いた危険思想の最初の人」としてラスボスで「黄帝」が出てきても面白そうだなあと思う。

まずは単行本、そして断崖絶壁今何処の復活を切に楽しみにしたい。

 

覇穹 封神演義感想

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覇穹 封神演義最終話視聴後の筆者(イメージ)

覇穹 封神演義の良かったところ

・楽曲がいい(特にOP一期は歌詞まで含め最高。MVフルで見ると途中クレイジーに磨きがかかるのもご愛敬)


Fear, and Loathing in Las Vegas - Keep the Heat and Fire Yourself Up

・背景美術(中国の烈々たる風景、神仙世界がよく表されていた)

・地裂陣の戦闘が詳細に

・声優さんの演技

覇穹 封神演義の悪かったところ

・大体上記以外のすべて

何故目の前の正解を打ち捨ててしまうのか

ぼくは、せつなかったけど、あいつらには、こういった。「いやあ、こりごりだよ……」

 

あのときの王子くん(LE PETIT PRINCE
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、大久保 ゆう氏 訳より引用

あれはもうどれくらい前になるか……封神演義が再アニメ化すると知ったとき、その嬉しさを忘れられない。その時の筆者には素晴らしい原作に沿った丁寧なアニメ化、Twitterトレンド入りするいわし占い、ハンバーグによる初見勢の阿鼻叫喚、趙公明編での突然のアバンでの私立アンニュイ学園、BD特典で私立アンニュイ学園30分アニメ化でざわつくTL、そして2クール(趙公明編終了くらいまで)完走後、続編製作決定に再び湧きたつ古のオタクたち……までが一瞬のうちに幻視されたのだが、残念ながら叶うことはなかった。

覇穹 封神演義は完結した。完結後、筆者は自分の部屋に行き、2時間眠った……ことはその30分後にPRODUCE48が控えていたのでなかったが、うつろな精神が夢に向かって頑張るアイドルたちを見ることでいくばくか回復し、暫くして、沢山のことが失われてしまったことを思い出し、沈痛な気持ちになった。

ごっつあん主人公・太公望

策もなしに王宮に突入し、同族を失い、フィーリングで武王を見出し、楊戩に信頼という名のやりがい搾取を働き、戦いの最中に敵の参謀とよくわからない部屋でいちゃつき、やけに作画の良いゴマ団子にしてやられ、父を救おうと必死な黄天化に何か代替案を示すでもなく静かに首を振り、皆がボコった聞仲をおいしく退治した後、なんかすごそうなやつは妲己ちゃんになんかいい感じにしてもらって、バックレた上になんかコスプレをしました。おわり。

なんだこの主人公……。

殷の父(絶賛ネグレクト中)・聞仲

まあなんか殷とは昔から色々あってわしがいないとダメなんだよね。武成王もいれば最高なんだよね。えっ武成王裏切るの…? 周つぶすわ……肩入れしている崑崙ごとつぶすわ……えっ四聖が封神されたの? 舐めプしてたら結構なダメージ食らったし武成王も封神されちゃったけどペガサス編の海馬みたいな感じでかっこよく決めるわ……我々がお空で不毛な戦いを繰り広げている間に地上の大勢は決して殷王朝はもうぼこぼこで紂王は何したかわからんけど何かした副作用によって一気に老いさらばえたけどまあ敬意を表して一礼したからセーフでしょ……朱氏も褒めてくれたし……最後はなんか武成王…飛虎も温かく迎えてくれたし…張奎? 知らない名前ですね……。

なんだこのライバル……。

 

続・何故目の前の正解を打ち捨ててしまうのか

素直に時系列に従ってアニメ化をするという正解が転がっていたのにどうしてこんなことに……。仮に2クールまでという期間ありきだったとしても、その範囲で原作を忠実にアニメ化していれば、きっと多くの支持が集まり、続けての製作が期待できたはずである。それを原作の要である仙界大戦に絞り、でありながらあちこちつまみ食いしたことによって、だれも望まないキメラが出来上がってしまった。というか、時系列シャッフルだとばかり思っていた部分が実は同時進行だったということで、特に聞仲の駄目太師ぶりは言語に絶することになってしまった。

原作では聞仲が封神される(この時点では紂王は妲己も離れている(蓬莱島に行っている)ため有能な君主に戻り殷は安定を取り戻しつつある。その状態の紂王へ聞仲は一礼する)→妲己帰還。抑えに残していた四聖は改造された紂王により封神される→殷再び荒れる→殷周の雌雄を決する牧野の戦い。殷は敗北する→力を失った紂王は一人朝歌へ……この国にもう、王などどこにもいない……。

ということで聞仲封神によっていよいよもってタガが外れ、殷は崩壊へと向かう――考え方によっては聞仲が「我が子・殷のため全力を尽くしていた」ことによってギリギリまで踏みとどまっていたものが決壊してしまうということがよくわかる構図となっているのだが、アニメでは最終話、ボロボロになった紂王と聞仲が対峙することによってこの流れが一切崩壊してしまい、モンスターペアレンツ気味であった原作とは正しく対照的にひたすら殷を放置していたネグレクト野郎と化してしまった。

歴史の道標、というか最初の人関係についてもあーもうめちゃくちゃだよとしか言いようのない状況で、アバンで既に女媧について散々言及しておきながら元始天尊が本編で原作通り「歴史の道標……(キリリィ…オモワセブリィ…)!」するのは完全にもしかしてギャグでやっているのか!? 案件である。最後に「これより封神計画をはじめる……!」とか言われても終わったよ……もう何もかも……っていうか終わらせられていたよ気づいた時には……と空しい思いしかこみあげて来ないのである。最終決戦の説明は一切何もなく、妲己ちゃんのグレートマザーの説明すらなく、よくわからんけど何とかなったんだなということしかわからない。歴史の改変はいけない、歴史の道標を外れ人が自立しなくてはいけない……ということが原作の本筋であったように思うが、このアニメを視聴して生まれるのはもう一度ぶっ壊してやり直したい…という主人公によって否定されたラスボスの思想である。まあそれもアニメでは主人公が否定すらしてくれていないんですけどね。というか仙道達については仙界が消滅して人界に降りてきたところで終わっているからそもそも建前の「仙人のいない人間界」を達成できていないのである。

青い髪の人々への製作者の過剰な思い入れがなければ尺としてももうちょっと何とかなったと思うし、総集編をやらなければさらになんとかなっただろう。思い出したように雷震子ほかを出す意味不明さにはもはや清々しさすら覚える。

夏目漱石は死後、検死解剖された。(ということで東大には今も夏目漱石の脳みそが標本として残っている)この時、弟子代表の小宮豊隆漱石神社の神主の異名を持つ)は何度も卒倒しながらも最後まで見届けたという。筆者がアニメ版を視聴している間、同じような心持であった。今はただ喪に服したい。黄天化のファン諸賢においては課金しないと喪にも服せないというのはさすがにひどすぎると思う。24話。12時間あったら、色々できたな……。

蛇足・原作未読の妻の感想の推移

序盤

妲己ちゃんがかわいい! 原作は結構飛ばされてる? 気になるな~完走したら原作もチェックしよ!

中盤

えっ先週飛ばして無いよね? 混乱してきた…原作読もうかな…意味が分からなくなってきた……。

終盤

暫く封神演義って単語を見たくない……。 騙されたと思って原作を読んで? もう騙されたくない……。(切実)

 

原作は本当に面白いんです!!!!!

夜はすべての猫が灰色に見える あるいは一人暮らし一年目よSTU48の「暗闇」を聴こう

今年の妻の実家帰省時に撮影した瀬戸内の風景。向かいに見えるのは宮島である。

なんかGooglephotoにアップロードしたらおしゃれな感じにフィルターをかけてくれた。(下図)


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【MV full】暗闇 / STU48 [公式]

はてなダイアリージャスラックと提携していない(アメーバブログとかはしているらしい)のでひとまず上のMVをご覧いただいたり、こちらで歌詞をご確認いただきたい。

秋元康という人は毀誉褒貶の激しい人だが、やはり作詞家として純粋にすごい人なのだな、と改めて思わされる。彼自身は富・名声・地位この世のすべてを手に入れた壮年であるはずだが、なぜその状況に置かれてもなお、こんな自意識が肥大化しがちな思春期を過ぎたと自分では思い込んでいる青春スーツばっちり装着中の若者の思考をトレースしたような歌詞が書けるのだろう。

STU48は昨年発足した国内AKBグループの末っ子グループで、広島のFFといえばファイナルファンタジーよりこっちだろでお馴染みフラワーフェスティバルより本格的な活動を開始した。STUは「瀬戸内」を意味しており、瀬戸内7県を主な拠点として活動するグループである。特色として「劇場船」を持ち、各港に寄港して公演を行う、というものがあるのだが、残念ながら現在まだ完成していない。

上記の「暗闇」は今年1月31日に発売されたデビューシングルである。デビューシングルに随分とネガティブなタイトルだな、と思ったが(サムネも何やら不穏に感じてしまう)聞いてみると透き通った声と切れのいいリズムについ聞き入ってしまう。ちなみに作曲は朝ドラの主題歌となったことで知られるAKBグループのカップリング曲で最も有名だと思われる「365日の紙飛行機」の作曲もされたaokado(青葉紘季さん、角野寿和さんのユニット)が担当されている。

瀬戸内、広島という場所は大学時代の4年間を過ごした、そして伴侶の故郷でもある、筆者にとって特別の思い入れがある場所である。とはいえお陰様で日々をそれなりに忙しく送っており、思い起こすことはあまりない。ところが、今回「暗闇」を聴いたときに10年前のあの頃が鮮やかに浮かんできた。誰にも何も言えない時、人はウェットでポエトリーになりがちだ。それは次の自分になろうとして殻を内側から引っ掻いている状態であったりするのだが、当の本人はなかなかそのことに気づけない、そんな頃を改めて俯瞰的に教えてもらったような気分になった。同時に皆そうなんだな、と思った。社会性の獲得は自己愛の喪失とある程度比例するように思う。

歌詞の中に、瀬戸内にいればこそ自分が今どこにいるかがわかる、というような部分がある。鹿児島から広島に出てきて、ときどき、そう、それこそ瀬戸内海を見た時などに筆者は、「ああ、ここには桜島がないのだ」とふと思っていたことを思い出す。どんな出身地でもそういったランドマークは少なからずあるはずだ。けれどそれが地理的な意味ではなく、自分の精神的な立ち位置にもある種作用していたことは、出てみないとなかなかわからないものである。自分とは逆に、瀬戸内が故郷である人を妻に迎えてようやく、筆者は瀬戸内のある種の呪縛から解かれたのかもしれないと改めて思う。

ちなみに弟2號機は熊本に進学したとき「熊本には太陽がない」と智恵子抄のようなことをぽつりとつぶやいて妻を驚かせたが、これは恐らく鹿児島の地場スーパー「タイヨー」のことである。鹿児島県民の8割は百均市のBGM、または明るいタイヨー家族の歌を脳内再生できるといわれている。

進学したり、就職したりして一人暮らしをはじめ、よくわからんうちに4月が過ぎ、順調に5月病になり、6月は梅雨でますます鬱々としている読者諸賢は、是非「暗闇」を聴いていただきたい。そういうときというのは誰にでもあることで、貴方が他の人と比べて劣っているとか歪んでいるとかそういうことは一切なく、夜明け前が一番暗いということがわかっていただけるはずである。

そしてこの曲では残念ながら選抜されなかった筆者的一押しメンバー甲斐心愛さんが次回シングルで見事選抜となったので(めでたい!)見せてもらおうか……筆者の支持する甲斐さんの選抜ぶりとやらを……といった風に次回シングルを楽しみに生きていただければこれに勝る喜びはない。

瀬戸内(特に広島)では様々な番組に出演しているらしきSTU48であるが、なかなか全国ネットでは見る機会がない。

Huluではセトビンゴ!が配信中であり、MCもメイプル超合金さんで安定感があってのんべんだらりと見られるので加入して絶対に見た方がいい! とまでは言わないが、すでに加入済みであるならよかったら見てください、心が平和になりますよ、といった温度でおすすめしておきたい。ZIP!でお馴染み桝アナウンサーのカープ愛もわかる貴重な番組である。

www.happyon.jp

 

かごんま弁警察がやってくる んもすッ! んもすッ! んもすッ! あるいはゴールデンカムイ14巻感想


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余談

大迫勇也さんが(おお、変換候補に出て来た)半端ないということで、同郷人のはしくれとしては嬉しく思う。

思い出す、あの鹿児島城西VS広島皆実の決勝戦を。当時筆者はこともあろうに広島皆実高校のすぐそばでアルバイトをしており、休憩時間に小さなテレビで完全アウェイの中鹿児島城西を応援したが、空しく敗れたことを残念に思っていた。その後、一人二位のメダルを良しとせず、すぐ外した選手がいた、ということがネットニュースか何かで知った。それが大迫選手だとは今日のワイドショーで知った。

筆者が時々お邪魔していて、このブログでも取り上げたことのある「わっか」のご主人は大迫選手と親交があり、店内にサイン入りユニフォームがあったりもするのだが、「鹿児島城西のサッカー選手」と「日本代表の大迫勇也さん」はその時点では筆者の中でつながらなかったのだった。まさか年下だったなんて……。

関連して2010年の南アW杯を思い出した。深夜の放送、友人宅に集まり、ファストフードを持ち寄って眠たい目をこすりながら、リアルタイムで日本の勝利に歓喜し、岡田監督に皆で謝罪した。あんなに沢山あったW杯とコラボしたマックのグラスは一体どこに行ってしまったのだろう?

あの頃筆者にサッカーを解説してくれた友人たちは今、それぞれの場所で戦っている。そういえば、あの場にいた奴らいつの間にか既婚率100パーセントだな。あの頃は飲み明かすたびに女なんてとほざいてたあいつがねえ……となってくるとこれまた同郷、長渕剛さんの世界になってくるが、今や十年近く前になってしまった、筆者の数少ない大学生らしい思い出たちを呼び起こさせてくれるあたり、やはり大迫さんは半端ないようである。

本題

ゴールデンカムイ14巻収録分(第140話)までのネタバレがあります

門倉さんのCVは藤原啓治さんがいいなあ(挨拶)という訳でゴールデンカムイ14巻は一週間前からkindleで予約注文し、今か今かと夫婦で待ちわびていたのだが、当日は「ストアでは購入したことになっているのにライブラリには表示されず、ダウンロードしても0%から進まない」という状況に悩まされた。ストアランキング一位だったりしたので混雑していたのだろうか?

今回も濃密、あっという間に読み終わってしまい、尾形を敬愛する妻がすでに限定版を予約済みの9月発売の15巻が待ち遠しくて仕方がないといったところである。15巻収録分以降は、大体、封神演義外伝のために買い始めたころと被るので空白を埋められるのでは……と考えたがそうするとそれまでヤングジャンプを買い続けることになるのか……。筆者はついていけるだろうか、外伝のないヤンジャンのスピードに。

ともあれ15巻、筆者はゴールデンカムイを語りたい、同好の士と大いに語りたいのだが、大体本誌基準に皆さんは話を進めているので軽くネタバレを被弾したりしてこの様なネットの隅っこで細々と単行本基準のネタバレをしようという次第である。同じ境遇の方がいたらお話ししましょう。

第七師団の吶喊

狂気が交錯する網走監獄、その中でも相変わらずダントツの狂気を秘めているのは鶴見中尉であった。監獄側を鏖殺すること前提の中央への弁明が淡々と出てくることの恐ろしさ。その提案を粛々と実行させる統率力の恐ろしさ。監獄側が放った禁じ手、凶悪犯たちの解放を文字通りなぎ倒していく第七師団は正しく鬼に会えば鬼を斬り、仏に会えば仏を斬る最強の部隊であった。血化粧を纏っていく見開きの第七師団は、恐ろしくも荘厳ですらあった。

犬童の呪縛

他方、土方チームは「本物ののっぺらぼう」の元へ向かう。それは教誨堂。ま…まさかシスター宮沢が「本物ののっぺらぼう」……!?ということはなく、そこでは犬童が待ち構えていた。鎖の先に鉄球をつけての訓練は来る鎖デスマッチのためであったことがわかる。教誨堂で「死が二人を分かつまで」と言わせるセンスには相変わらず唸らされる。

ちなみに実際の網走監獄の教誨堂は重要文化財となっている。

www.kangoku.jp

漫画に出て来たそのままでテンションが上がる。行ってみたいなあ網走監獄。ちなみに今回の表紙写真は近所のショッピングモールで売っていた受刑者の作業で作られたスマホケースである。この頃はゴールデンカムイにハマる前だったので助かった。今ならもっと散在してしまっていただろう。

犬童が自分を肯定するためには「土方の屈服」が必要だった。が、それはいつまでも果たせず、逆に自らが土方に屈服することになる。が、その時の犬童の表情はどこか満足げである。もし兄が死んでいなければ、土方についていったのかもしれないとすら思わされる。「アンチは一番のファン」という言葉があるが、犬童も土方のことを調べるうちにある種憧憬が育っていったのだろう。が、それは自分の存在意義と両立しえない。どころか、兄の死を汚すことにすらなる。その並び立たぬ矛盾をようやく解決できたことに対する安堵の笑みだったのかもしれない。鎖に縛り付けられていたのは犬童だったわけである。しかし、地下室を見るに門倉さんスパイもろばれですね。

マタイの銃弾

真ののっぺらぼうはやはりアシリパの父・ウイルクだった。キリングマシーン・杉元のアシリパを人殺しにさせるのか、という叫びは悲痛である。チタタプしてヒンナヒンナしていてほしい。ほのぼの杉リパは公式。戦場から自分の魂を連れ戻してくれそうなアシリパを戦場にぶち込もうというのだからそれは怒りたくもなるだろう。

更に核心に触れようとするとき、一発の銃弾が正確にウイルクを射抜く。尾形である。続けて杉元も。それを手引きしたのはキロランケ。以前、最後の晩餐モチーフの構図があったときユダのポジションであったので気になってはいたが、やはり、といった感じ。覚悟はしていてもやはり残念である。一緒にラッコ鍋を食った仲じゃないか……。

自分で狙撃しておきながら、尾形は素知らぬ顔でアシリパとともに網走を後にする。やっぱり母性に飢えているのだろうか。

そして樺太へ……

まあふじもと(不死身の杉元の略)は生きているんですけど。谷垣の写真と間違えるのがギャグなのかマジで脳が損傷しているからなのかわからないのがこの漫画の恐ろしいところである。正しく呉越同舟の中、未知の地で未知のなんかモフモフしたのが出て来たところで次巻に続く……ということで続くが気になってやきもきしてしまう。収録最終話である140話はたまたま前回触れた筆者の推しメンである田中美久さんがヤンジャン表紙になった号であったので家にあり、読んでみたが最後の凶暴なモフモフが単行本でかなり緻密に修正されていたことがわかり驚いた。樺太ヤバイッ! 

他にも見つけられた加筆修正点として、

・フレップワインを連載時は中身が入ったまま投げている

樺太アイヌの女の子のマキリの反りが逆

・ヒグマもより緻密に

などがあった。てっきり谷垣の胸毛の増毛だけだとばかり……野田先生すみませんでした……。

表題について

さて今回は鯉登少将と杉元が語るシーンがあった。劇中で一番まともな「父」ではなかろうか。さすが野田先生、かごんま弁の再現度も素晴らしいのだが、それ故にほんのわずかな部分が気になったので現地住民としてはこのニュアンスの方がよいのではないか、というのを書いてみる。あくまで平成三十年の二十代男性の鹿児島県民の思うニュアンスであって、これが絶対という訳ではないのでご留意願いたい。

指揮官には大勢の若い命を預かる責任があっど

せがれには我から進んで困難に立ち向かい相応しい男になっくんやんせ

(中略)

娘ば利用しようちして育てたんとは絶対違どと思うちょります

――集英社刊・野田サトル先生著「ゴールデンカムイ」14巻 181.182Pより引用

さて読者諸賢、このかごんま弁の不自然な部分がお分かりになるであろうか。わからなくても大丈夫である。世の中で大切なことは梅雨時に張り付いてムカつかない肌着の選び方くらいなのだから。

標準語に直してみると、下記のようになる。

「指揮官には大勢の若い命を預かる責任がある

 せがれには自分から進んで困難に立ち向かい相応しい男になってくださいませ

 (中略)

 娘を利用しようとして育てたというのは絶対違うぞと思っています」

即ち、「あっど」「なっくいやんせ」「違ど」が文脈として不自然な単語である、ということになる(文脈として不自然なだけであってかごんま弁としては存在する)

「あっど」というのは標準語訳の通り常体であり、少将は杉元に対し基本的に敬体で話しているのでここでは「ありもす」が無難ではないかと思われる。ただ、他にも会話中で常体、敬体の揺れは見られるのだが、この会話は少将が自分自身に言い聞かせている側面もあるように見えるのでここ以外では特に不自然さは感じなかった。

「なっくいやんせ」は確実に適切でないといえる。この場合は「せがれ」に対してかかるので敬体であるこの言葉は不自然。「ください」と「ほしい」の意味の取り違えがあったのだろうか。これも「なってほしか」、「なってほしかちおもうちょります」などでよいだろう。

「違ど」というのはそれ単体で強い否定のニュアンスがあり、また「ど」というのは文末に来るときに活用される。既に「絶対」が使われており、また分の途中であるのでここで「違ど」が使われるのは違和感がある。(体言止め的な用法としても通所あまり使わないのでやはりむずむずする)直すとすれば「絶対違っち(ちごっち)思うちょります」あたりだろうか。かごんま弁は「動詞の促音+ち」で「~(動詞)だと」といった活用をされる。

まあ難しかこた考えんじ、いっど、薩摩におじゃったもんせ。

蛇足・妻の感想

公式がここまでやられたらもう…何も言えない(拝みながら)