カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

NGT48は「すべてを真っ暗にしてからやり直す」ことが出来るのか

余談

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NGT48を筆者が初めてしっかり見たのはHuluの「さしきた合戦」で、どちらかというとHKT48が目当てだった。と言ってもリアルタイムではなく、丁度今から1年前くらいに見た。実際の放送は2016年の1月だったというから2年ほど間が空いていたことになる。

若いグループ特有の初々しさや「食少女」でふと見せる素顔に筆者と妻は魅了され、関連情報を検索してみると2年の間に少女たちは誰もかれも別嬪さんになっていてたいそう驚いたりしたのだった。

「おかっぱちゃん」「かとみな」「おぎゆか」という単語くらいしか知らなかった我々は視聴が終わる頃には「なぜ『にいがったフレンズ』は配信してくれないのか」と思うまでになっていた。

そして筆者はとりわけ、「世界はどこまで青空なのか?」という曲に心を打たれた。


<期間限定>NGT48『世界はどこまで青空なのか?』MUSIC VIDEO Full / NGT48[公式]

 

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 以前の記事にも書いたがこの曲はMVも含め、今のAKB系地方アイドルを描き切っているように感じられとても好きだ。正直兼任する必要あるのか? と思っていた柏木さんの存在感がまた良い。稲穂を背に絶望してはいけないことを全てを一度通り切った眼で歌う彼女は誰が何と言おうとNGT48だった。

続いてリリースされた「春はどこから来るのか?」も紛うこともなき名曲であった。その後第10回選抜総選挙があり、PRODUCE48があった。一部のメンバーは韓国でも「見つかって」いったものの、ネガティブな話題も多く、全体的には先年よりもトーンダウンしている印象がありもどかしかった。

3周年記念公演の告知があり、もうそんなに経ったのか、と驚いた。

本題

まほほんこと山口真帆さんの涙の訴え…という記事を筆者が観測したのは昨日の朝のことである。NGTの誇るビジュアルクィーンでありながらも滑舌が残念でおっちょこちょいよりである、というのが筆者の彼女に対してのイメージだった。

最近はTwitterで意味深な発言を繰り出し、ただでさえ痩せているのにますます痩せる、しかもその原因はストレスであると公言するなどなにかが彼女の身に起きていることは感じていた。

しかし記事タイトルはにわかには信じがたく、一瞥して筆者はいかにもバイラルメディア的な飛ばし記事だと思った。夫婦はアンテナが似通う。妻も同様の記事を目に留めたようだった。スクロールしながら、妻の顔が厳しくなっていくのがわかった。

自ら確認してみると胃の中に重油を流し込まれたような気分になった。彼女が最近心身のバランスを崩しているのは明らかであり、またそういった場合は物事を極端に解釈したりストーリーを生み出してしまう例もままあると聞く。そういった類なのか、と思った。思いたかったと言っていい。一方で「23歳自営業と発表してもらうことにした」という辺りなど、失礼ながら作り話としては余りにも行き届いていて引っ掛かりがあった。それは喉に下された錨のようにジクジクと筆者を苛んだ。

そして昼、NHKニュースに山口さんの件が報道された。少なくとも男性が恐らくはNGT48の寮に入り込んでいたのは明らかであることが裏付けられ、背筋が凍った。ということはその他のことも真実なのではと思うと歯の根が合わなくなりそうなほどであった。

他方、その男性を「ファン」と呼称されることに何とも言えない憤りを感じた。なるほどファンがファナティックを語源とするならこれほど相応しい行動もないのかもしれないが、しかし筆者の中の「アイドルファン」はこれをファンと呼ぶことは、同類と認めることはどうしてもできなかった。世に言う「厄介」以外の何物でもない。

大本営、NGT48運営は沈黙したままであった。翌日には3周年記念公演が控えているのにも関わらず。

夜も更けてようやく、「メンバーは無関係である」ことが発信された。メンバーは誰もかれも沈黙していた。山口さんがSOSを発した場でもあり、NGT48やSTU48など設立が若いグループや加入して歴が浅いメンバーにとっては主戦場でもあるSHOWROOMでの配信も行われず、日々配信してファンとの交流と実績づくりを行ってきた(まいにちアイドルというシステムで何日連続で配信しているかカウントされる)幾人ものメンバーの記録が途絶えた。

運営の発表に対抗して更なる爆弾投下を期待とも不安とも言い難い気持ちで見守っていた人々は結局のところ憶測と憤懣を抱え込んだまま寝不足な朝を迎えることとなった。

そして本日、3周年記念公演は行われた。わざとらしい自然さで「PARTYが始まるよ」が流れ出す。「すべてを忘れて」から始まるのだから最高の皮肉である。

なんとも盛り上がり切らない中、柏木由紀さんの名演で知られるてもでもの涙が流れる。登場したのはオリジナルメンバーである柏木さんと。

山口真帆さんであった。オープニングには登場しなかったのでざわめきは大きい。筆者も完全に虚を突かれた思いであった。パフォーマンスは堂々としているが、やはり痩せた体が痛々しい。

そしてその後、山口さんは謝罪した。深々とお辞儀をした。

え?

そして公演は終わり、多少のざわつきはあったもののアンコールも行われ、支配人以下大人は出ないまま3周年記念公演は「平和裏に」幕を閉じた。

それはNGT48運営が今日一度死んだことを意味していた。

どうやったらこんな悪手以上の何かを出来るのだろう。支配人は鹿児島出身であるという。おいは恥ずかしかっ生きておられんごっ!といった気分にさえなる。

追って防犯ベルで対策しますという発表もあったという。最も有効な使い方はそれでそんなことをのたまう阿呆の頭をカチ割ることだと思うがそれはいい。

大人が逃げてはいけない。

それだけである。

北原里英さんのコメントがわずかな救いだろうか。

「世界はどこまで青空なのか?」の歌詞で予感されたすべてのことは最悪の形で結実した。あとは山口さん自身が言ったように新たなNGT48がこの暗闇からやり直されることを信じるしかないが、正直なところ今の筆者には無理である。

白い紙に黒い点が一つ打たれたら、もうそれを白い紙と認識する人はいない。それはもう黒い点が打たれた紙である。白の面積がどれほど大きくても。


〈期間限定〉 NGT48 3rdシングル「春はどこから来るのか?」MUSIC VIDEO Full ver. / NGT48[公式]

NGT48の春はどこから来るのだろう。筆者には長い氷河期に入ってしまったようにしか思えない。

妻が残したメッセージ性の高い落書きを以て結びとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(妻の)同人道~風雲在庫管理編~あるいは同人活動をする妻の為に在庫・売上・粗利益をExcelシート1枚で管理できるようにした話

余談

妻は同人を嗜む。白樺派とかアララギ派とかそういうのではなくて、白魚のような肌をした男子をアララァ……みたいな感じの同人であるようであり、日々せっせとお姉さま方と魂の交流をしているようで羨ましい。

今年からは自家通販を始めるようにもなった。幸いにも好評であるらしい。一方で経費の考え方や在庫管理など不慣れであったり認識できていない部分もあるようであった。妻はまだ登り始めたばかりだからよ……このどこまでも果てしない同人坂を……。

とりわけ在庫においては冬コミを終えた読者諸賢にとっても是非ご留意頂きたい問題であるので、折角なのでまとめてみることにした。

本題

例えば。話を簡単にするために同人誌10冊を印刷代1,000円払って作成してもらい、200円で頒布するとしよう。他に費用は掛かっていないとする。

  • 全部売れた場合

話は簡単である。

売上は200(円)×10(冊)=2,000(円)である。

これに対する原価は印刷代の1,000円である。

粗利益は2,000(円)-1,000(円)=1,000(円)となる。

利益率50%である。実際こんだけ儲けられたら笑いが止まりまへんな、というのはさておき、このように在庫がすべて捌けた場合は問題はない。

  • 在庫が残った場合

問題はこの時である。例えば3冊在庫が残ったまま、期末(雑所得者を含む個人事業者の場合は12月31日)を迎えたとしよう。

売上は当然、200(円)×7(冊)=1,400(円)である。

原価は印刷代1,000円であるから粗利益は1,400(円)-1,000(円)で400円…ではないのである。

何故か。原価というのは売上げた商品に対してかかった代金だからである。

今回の場合の印刷代1,000円というのは本10冊分。これをすべて原価としてしまうと在庫の3冊分の原価が浮いてしまうのである。3冊分の気持ちも考えてほしい。

3冊分と税務署のお気持ちを忖度した場合、1冊あたりの原価を出してやる必要がある。

印刷代1000円で本が10冊であるから、

1,000(円)÷10(冊)=100円が即ち1冊辺りの原価ということになる。

よって7冊売れた場合は

1,400(円)-700(円)=700(円)

が正しい粗利益となる。

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図にするとこんな感じか。咄嗟に作ったので全くユニバーサルデザインに即してなくて申し訳ないが(そう考えるとポケモンの赤緑ってすごいな)払った印刷代は1,000円でも、期末に在庫が3冊残っている場合はその部分は今期の原価(経費)にはならない、というのを視覚的にわかっていただければと思う。

まれに勘違いされる方がいるが、印刷代を払った時はしっかり1,000円帳簿につけてよい。今回の様に期末に最終的な在庫をカウントして、その数字を計上することで差し引き計算できるからである。

そのカウント作業こそ棚卸と人は呼ぶのである。

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しかし在庫を数え、売上を合わせ、粗利益を算出するのはなかなか面倒くさい……ため、Excelシート1枚にまとめてみた。黄色い部分さえ入力してもらえば後は自動で計算してくれるシートである。一応言っておくがこの数字は全くのサンプルであって妻の同人誌とは全く関係がない。

注意すべきは、献本した場合。1冊2冊であればまだしも、複数献本する場合は、原価にて売上をつけておいた方がよいであろう。(自分で使用した分、という意味で自家消費という)こうしておかないと在庫がないのに売上は上がらず、得したことになってしまうからだ。

棚卸を行い、期末の在庫を確定させ、その金額を計上する意味もここにある。

例えば今回の場合は、期末在庫を計上しなかった場合(期中の印刷代をすべて原価にしてしまった場合)との差額は300円程度であった。しかしたとえば3万円であったら?

最低税率の5%の場合であっても、あえて厳しい言い方をすると1,500円脱税してしまっていることになるのである。

1円の払い過ぎも1円の納め忘れもないように留意したい。ハブアナイス同人!

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因みに今回述べたことは青色申告者であれば作成しなくてはならない損益計算書で見るとわずかこの辺りの話に過ぎない。機会と需要があれば、他の部分のお話も出来たらと思う。

Kindaichi can't pack emotionあるいはスーパープレミアム「獄門島」感想

余談

 

kimotokanata.hatenablog.com

 ということで今年も精矛神社へ初詣に行ってきた。

視聴は変わったが無事お手洗いは完成していた。

幾許かの力添えということで今年も御朱印を頂いた。

昨年はお陰様で楽しい一年であった。その感謝と今年の楽しい一年を祈願した。

本題

さて今まで2回の金田一ドラマの感想を書いてきた。

 

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 特に前者の事は書いて結構経つけれどもいまだにアクセスも多く、書いた人間としては本望である。

この一連の金田一リブートの始まりと言えばやはり2016年放送のスーパープレミアム「獄門島」になるであろう。

金田一ルネッサンスとでも言うべき同作品はまさしく賛否両論を巻き起こした。

正直なところ原作にも思い入れが強かった筆者としては当時は否の方に気持ちが傾いていた。

長谷川博己氏をはじめ豪華なキャスティング。美しい映像。それがあるからこそ今日では映像化不可能と言われ続けて来た「きちがいじゃが仕方がない」のそのままの使用。悍ましくも美しい死体とそれを装飾する明朝体の俳句という過去金田一作品を連想させるカット。

だからこそ。

そのまんまでいいじゃん、と筆者は当時思ったのである。普通の金田一耕助を、原作通りにやってしまえばよいではないかと。変化球はその後でもいいではないかと。どうして上等な料理にハチミツをぶちまけるが如き所業をするのかと。

本日、再放送があった。2年の時を経て長谷川金田一はやはりトリッキーではあったが、吉岡金田一とは異なりながらも間違いなく金田一耕助ではある、と改めて思い至った。

当時は書き散らす場所もなかったが、今はこのブログがある。放送中のツイートをまとめなおしながら改めて感想を記しておきたい。

ということでここからは「獄門島」の様々なネタバレがあります

復員兵としての金田一耕助

かつて映画「悪霊島」にてジョン・レノンの「Let it be」が使われた。それは語り部が去りし事件を振り返るとき、同時代の曲として効果的に使われていた。

今回の「獄門島」にはマリリン・マンソンの「Killing Strangers」が使用されている。獄門島事件は1945年頃、「Killing Strangers」は2015年の曲であるから実に70年の時を経たコラボとなるが、これが不思議とマッチしている。

この曲はベトナム戦争中に秘密部隊に属し、罪のない一般市民を多数殺害した父をもつマリリン・マンソンベトナム帰還兵をモチーフに制作した曲であるという。

マリリン・マンソンは歌う。

We're killin' strangers, so we don't kill the ones that we love

(俺たちは他人を殺したさ、だが愛する人を殺しちゃあいない)

We pack demolition We can't pack emotion

(俺たちは破壊に蓋は出来る。だけど感情にはできないんだ)

Marilyn Manson - Killing Strangersより。拙訳。

ちょっと恣意的な訳になってしまったかもしれないが歌詞を見た時筆者は色々が腑に落ちた。まるで長谷川金田一へのアテ書きのようではないか。

やはり製作陣が書きたかったのはそこなのだ。復員兵・金田一耕助を。地獄からやっと舞い戻ってきたと思ったら再び地獄を見せられる金田一を書きたかったのだと思わざるを得なかった。

戦争。「悪魔が来りて笛を吹く」では戦争から死ぬ気で復員したことが悲劇を生む。「犬神家の一族」では復員の仕方を間違えたことが。「獄門島」では復員できなかったことが。

けれど。

そもそも当たり前すぎるけれど、戦争そのものだってとんでもない悲劇なのだ。70年を経た今、つい普通に受け止めてしまうけれど、金田一耕助が駆け抜けた時代は戦争という地獄からどうにか日常に回帰しようとした時代でもあった。

金田一も、地獄を見た。沢山の人が意味もなく死んでいく。他人を殺し、他人に殺されていく。

だからこそ。長谷川金田一は意味を求める。本当は。本当は、人が人を殺すのは大変なことなんだと。あの場所は地獄だったから異常だっただけなのだと。人は明確な意味を持って人を殺すのだということを確認することによって彼は彼なりに日常に回帰しようとする。

そしてその目論見は失敗する。獄門島もまた、戦場であったからだ。地獄だったからだ。監視社会であり同族が相争っている。ある種金田一が先に体験した戦争よりひどいかもしれない。

そして。

以降は、次項にて述べる。

地獄の番人への一矢

そして獄門島では、少なくとも一連の事件では、人が死ぬということにはやはり理由はなかった。

「お上」というどうしようもない大きなものに動かされ人が駒として扱われ消耗されて他人を殺し殺されていく地獄から這う這うの体で帰還した長谷川金田一を待ち受けていたもの。それは愛すべき隣人であるはずの同じ島民を嘉右衛門というやはりいかんともしがたい権力とその怨念によって見立て殺人の駒として扱って殺す、情念の操り人形となった犯人たちであった。

大きなものに踏みにじられ、腐った魚のように死んでいった戦友の願いはやはり大きなものに踏みにじられてしまった。

長谷川金田一版「獄門島」では了然和尚は「俳句を屏風にしてヒントを与えたが金田一は止められなかった。期待外れだった」と述べる。これに対して長谷川金田一があたしゃキレました、プッツンします、するのが長谷川金田一版のある種最大の見どころであるスーパー無駄無駄論破タイムである。

のだが、この点実は原作とは真反対である。ここで和尚は自分の敗北を認めているのだ。もちろん、全てを完遂したという余裕があったのかもしれないが。

なぜこのような改変をしたのか。原作の罪の告白シーンの章題は「封建的な、あまりに封建的な」となっている。長谷川金田一は戦場と獄門島、2つの個人の意思が尊重されない地獄に押しつぶされつつある。それに立ち向かう金田一を表現するにあたってのことではないかと思う。無責任な軍部と勝手に失望した和尚がオーバーラップし、あそこまで金田一は激昂したのではないだろうか。

因みにお前の目論見全然だめだったもんねーバーカバーカする内容については原作においては金田一が言いたくないんです、といいつつ止める間も与えず全部ベラベラ喋って和尚は結局憤死する。アプローチは違っても人の配慮よりも真実を追い求めずにはいられない辺りが金田一という人間なのである。(ある意味言いたくないな~チラッチラッする辺り本家の方がたちが悪いかもしれない)

毎度のことで恐縮だが漫画版では了然和尚の昇天シーンが最高なので是非漫画版をチェックしていただきたい。

長谷川金田一、吉岡金田一その相違点

最終盤、原作が誘ってたから一応誘っとくか、みたいな雑な感じで長谷川金田一は早苗を島外へ誘う。よりどころがあれば、帰るべき日常があれば……という思いもあったろうが、自分の推理をミスリードしたことで散々罵倒していることもあり当然断られる。

長谷川金田一は日常に戻るため事件を解決し、吉岡金田一は関係者を日常に帰すため事件を解決する……というと乱暴だがそのように感じた。

長谷川金田一も吉岡金田一も真実を追い求めるあまりちょっと人の扱いが雑になりがちなところが正しく金田一である。長谷川金田一は無駄無駄ラッシュで真実をぶち込み、吉岡金田一は真綿で首を締めるようにゆるゆると真実を突きつけるという違いはあるが。どちらもまぎれもなく金田一耕助であると今回再視聴して改めて感じた。

観終えて

やはり和尚との対決シーン、画面が一幅の絵のようでとても美しくてたまらない。(2019年の今見ると「まんぷく」力の高いシーンでもある)キラーシーンである。また死美人のカットは前述したが横溝作品だなあ、と感じる。

この金田一で「百日紅の下にて」をすごく見てみたい。また、「幽霊男」とか遠慮なくぶちのめせる犯人が出てくる作品でまた登板してほしい。

見逃した方は「悪魔が来りて笛を吹く」ともども配信も期間限定でしているので是非見ていただきたい。

www.nhk-ondemand.jp

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KILLING STRANGERS

KILLING STRANGERS

 

 

1年の計器元旦に狂い

今週のお題「2019年の抱負」

お陰様で当ブログは一周年。

結構波があるのだがならすと大体1日100人?回?くらいのアクセスがあったようで有り難い話である。

妻が知人より頂いた出雲そばでつくってくれた年越しそばはこちら。

夜中に小腹がすいて追い年越しそばもした。

最近韓国料理に親しんでいるせいかとくに辛くもなく普通においしかったのだが、その後ご不浄で地獄を観た。なかなか苦難を予想させる年越しであったと言えよう。

元旦はお雑煮も食べず、おせちも食べず、昼前にスシローに乗り込んだ。こんな元旦があってもよいと思う。

今年の抱負は実生活においては業務の成果を給与に反映させること。

ブログにおいては月最低4回の更新と購読しているブログをちゃんと読むこと。

もっと色んな人へボールが届くよう、今年も頑張って投げていきたいと思う。

よろしくお願いいたします。

解放セヨ、物欲。師走にニンテンドーswitchを買った話。

大乱闘してみたいなあ、と妻が言った。

妻が助っ人外国人であれば審判に被害を加えないよう止めなければならないのだが、幸いにそうではなかった。妻は大乱闘スマッシュブラザーズSPをプレイしてみたい人なのであった。

よくよく考えれば「大乱闘したい」というのが日常会話で使用できるというのは面白い時代であると思う。

それはクリスマス前で、とっくに品薄になっていると思っていたニンテンドーswitchはまだいくらかの在庫があるとAmazonで告げていた。

そう、我が家にはニンテンドーswitchがない。大乱闘スマッシュブラザーズSPをプレイしたいと思ったその時には既にニンテンドーswitchの購入は終わっていなければならないのだが、そうではなかったのである。

筆者も世代としてスマブラは初代からプレイしている。が筆者にとってスマブラとは友人宅でプレイするゲームであった。

ゲームハードは同世代は一台までであった実家ではSONYハードが鎮座している限り任天堂ハードの入り込む隙はなかった。そう考えると大学生時代XBOX360PS3が同居していたのは筆者にとってある種の自己変革であったと言える。このことについてはまたいずれ。

PS4でも依然楽しんでいる。が、最近は妻が戦国無双4エンパをいよいよ極めてきており(ついにプラチナトロフィーを取得していた)そこに割り込んで他のゲームをやろうという気分にはなかなかなれない。また年末の疲れからそもそもゲーム機の電源を入れるゲームをクリアするのが難しい状況になってもいた。

そんな状況で妻がスマブラに興味を持ってくれている。これはチャンスであると思った。夫婦で共通の話題があると楽しい。同じ時間を過ごせることも。また、妻がPS4で遊んでいる間も携帯モードでゲームが出来ることも良い。たまさか妻の仕事を手伝って夫婦共同の臨時収入があったこともあり、クリスマスプレゼントという名目で購入することにした。

年末年始は何かと物入りであることを警戒する理性が「switch(のワンクリック購入を)押させるなァーッ!」と言った気もするがいいや限界だ押すねッ!

途中、スマブラ同梱限定版をカートに入れたはずが売り切れるというファントムスマブラを受けたりもしたが、クリスマスプレゼントは12/22にやってきた。早い!早いよスレッガーさん!

いくつになっても男の子は開封の儀が好きだろう? と土方歳三が言っていたような気もするが全くその通りで、わくわくのswitchを押してもらった気持である。

暫くはお裾分けプレイをしていたがやはり限界があったのでPROコントローラーを追って購入した。そして是非ともやってみたかったゼルダも。

現在スマブラのキャラクターは50名ほど使用可能になった。妻も一人でちまちまとプレイしつつキャラを増やしてくれており、帰宅後キャラクター選択画面を見るのが最近の楽しみである。

今までのスマブラは他人の家で、既に出そろったキャラクターで遊ばせてもらっていた。他人のコントローラーだからスマッシュにも遠慮があった。

それでもヤマブキシティ上空ステージでペラッペラのポケモンが飛び出して来た時、懐かしさにちょっと泣きそうになってしまった。

ようやく自分のものになったスマブラを楽しみたい。

ひとまずはこのタイミングでセールになっているswitchソフトの中から何を購入するかという幸福な悩みが待っている。

ハードを購入したときはいつも、ソフトの視野が広がるのが何よりも楽しい。おススメがあったらご教示ください。

 

 

 

私の妻は鯉登少尉の女――あるいは冬の仙巌園を満喫し御殿企画展示「明治北海道と島津氏~斉彬公と西郷どんが夢見た北の大地~」とゴールデンカムイパネル展示を堪能した話

余談

その日、鹿児島の気温は二度であった。

前日というかその日の一時まで続いた忘年会の帰り、代行を呼んで乗り込んだ車のフロントガラスは凍っていた。帰り着くと恐らく日が変わる前後までは頑張って起きていてくれたのであろう気配が――例えば居間の暖房が消え切らない温かさなどから――感じ取られた。

既に夢の中にいる妻は二次元を嗜む。夢の中にいるが夢女子ではなく掛け算するタイプの女子であるらしい(あまり踏み込まないようにしている)中でも鯉登少尉は日を追うごとにますます別格であるようで、この間は「待ち受けを鯉登少尉にした」という報告がスクショとともにLINEで来た。年の瀬に配偶者のスマホの待ち受け画面が鯉登少尉になったことを報告された時の筆者の気持ちを五十文字以内で応えよ(配点:十五点)ということはさておき妻への鯉登少尉の思いはいよいよ絶ちがたいらしい。

どうも妻はある分野においてはある程度のポジションを築いているらしく、年明けには今までは自家通販を行っていたがついに鬼の哭く街・凍狂のイベントに参加するらしい。らしいというか飛行機のチケットと宿の手配は筆者がしたので確かな情報である。面倒くさい(月島軍曹顔)ともあれ基本的には妻が安穏と過ごせる日々が即ち筆者にとっての平和であるので妻が活発であると筆者としても楽しいし平和である。

仙巌園への訪問が二月イベント用の取材も兼ねているのならば。日本酒でどっしり重い頭を抱えながらこれはどうにか明日は仙巌園に行かねばならない、と改めて決意し、震えながら寝た。

翌朝。筆者が朝シャワーを浴びていると妻が起きてきたようであった。仙巌園は何時からか試みに聞いてみると「九時」と即答された。出来ておる喃……。

奇しくも時刻は九時。「九時半までに準備が出来たら出発しよう」と見くびっていってみたものの、浴室から出ると既に準備は完了されていた。明らかに普段とメイクの質が違った。覚悟完了である。

日差しの明るさがかえって放射冷却で明日の冷え込みを約束させる中、我々は出発した。

本題

 

仙巌園は正月準備まっさかりであった。

今回の企画展示は御殿であるので通常の入園料千円+御殿の入場料三百円の合計千三百円が必要である。もし入場口で御殿分の追加料金を払い忘れても、御殿での支払いも可能であるからご安心である。

いずれこれも記事にまとめたいと思うのだが、妻の「経費」にするため二人の会計を分けることとした。

入場すると蓑が飛び込む。また谷垣の家の源次郎がミノボッチ被ってついてきているのか? と一瞬錯覚しそうになるが、これらは色とりどり品種とりどりの牡丹を守るための処置。

覗き込むとその鮮やかに心奪われる。特に島津紅の美しさは無類である。

 

道なりに行くと「ジゲン流」の解説展示がある。

薩摩ジゲン流は「示現流」と「薬丸自顕流」の二つに大別される。

東郷重位が「タイ捨流」(妖怪首おいてけこと島津豊久はこちらの流派であったといわれる)と「天真正自顕流」を昇華させ江戸初期に誕生したのが示現流である。

その高弟であった薬丸氏の子孫が江戸後期に西郷どんでもお馴染み調所広郷の支援で立ち上げたのが薬丸(野太刀)自顕流である。門外不出、御家流派であった示現流と違い薬丸自顕流郷中教育(地域の年上が年下を教える教育制度)にも取り入れられ、下級武士の間で大いに流行した。「明治維新薬丸自顕流によって叩きあげられた」という言葉もあるほどである。

時は流れ、門外不出であった示現流は以前も少し触れたように中心街に道場及び資料館を開放しているし、下級武士御用達剣術であった薬丸自顕流の一会派は今年初詣にも行った精矛神社にて加治木島津家当主が指導されているというのだから歴史というのは面白い。

翻って鯉登少尉は「自顕流の使い手」であると杉元と対峙したときに尾形が言う。上記を踏まえると鯉登父は下級武士出身であり、郷中教育によって薬丸自顕流を学び、維新志士として明治維新に貢献、西郷下野には従わず東京に残り、海軍閥に属して日清日露を戦い抜き、現在の地位に就いたと想像できる。

よって鯉登少尉は東京育ちであるためふだんは標準語を使いこなすが、家族での会話は薩摩弁であり、また薬丸自顕流を習得しているため戦闘状態や極度の興奮状態に陥ると薩摩弁や猿叫が出てしまうのであろう。とも推測できる。

鯉登少尉ファン諸賢は彼を分析するにあたって是非参考にしていただきたい。

さて二流派は初太刀を大事にすることや反復練習が中心であることは共通するが、打ち込みやその対象などに相違点がある。ジゲン流の代名詞ともいわれる蜻蛉の構え(と一般的には言われるが「構え」は防御のための行動であるとしてジゲン流の習得者たちはあまり使わないともいう。蜻蛉を取る、というらしい。使うと通っぽいかもしれない)もそれぞれ違いがある。

薬丸自顕流は「横木打ち」と言ってその名の通り横になった束ねた木を打つ。

示現流は立木打ちと言って縦の木を打つ。開祖・東郷重位は庭の柿の木をすべて打ち枯らしたという。

3月のライオン」で藤本雷堂氏が打ち込んでいたことでもお馴染みですね。

因みに立木を達人が打ち込むとこの様になるという。これは新選組もビビる。

ブース内では演武も見ることが出来る。猿叫を聞きたい方にも是非お勧めである。

 

さて御殿に向かう道中、晴天のため桜島が美しい。

あの伝説の相撲回でもお馴染みのスポットである。

いよいよ今回のメイン、御殿に乗り込む。お殿様のお住まいに我々がお邪魔できてしまうのだからすごい時代である。先に料金は払っているのでチケットを見せてスムーズに入場。時間を合わせればツアーもあるようだが妻の思考回路はもはやショート寸前、鯉登少尉に今すぐ会いたいよ……という様子であったので先を急ぐ。

いきなり雰囲気負けしてしまう。空調も場を壊さないよう配慮されている。

中庭の風景の美しさには参った。筆者が文学的素養があれば和歌の一つでも詠んでしまう所である。中庭の周りはぐるぐる回る順路になっているが、そのたび微妙に表情を変えた中庭を楽しむことが出来る。

紅葉の降り残してや島津御殿

ロシア皇帝に贈られたという薩摩焼の復元。ゴージャスながら大陸の気風と薩摩の息遣いが見事に同居しているように感じる。

そして企画展示。西郷どんで残念だったのは、吉之助が農本主義者でありその思想を実現させようと頑張る、という切り口で戦うことも出来たのに、節々にその萌芽が見えていたのに、結局テンプレート的な描写から抜けきれなかったことであるな、と改めて感じた。弟である従道が開拓使を閉じるのもなんだか象徴的である。

鹿児島では有名であるがゴールデンカムイともコラボしたサッポロビールを作ったのは鹿児島人。北海道のサッポロビールは筆者のようなビール下手でもおいしかったのでぜひ飲んでほしい。

 

ゴールデンカムイパネル展示は全体像は是非見てほしいので掲載は避けるが、こののち妻は鯉登少尉のここ……空いてますよ? 言わんばかりに屏風の空白部分にすっ……と並んだので筆者も無言でシャッターを切った。記念撮影にお勧めである。

しかし鶴見中尉&鯉登少尉のポストカードが手に入るひみつのことばがあれでよかったのだろうか……(そういえば基本的に企業アカウントと友達にならない妻がポストカードの為に音速で友達申請をしている辺りも本気度がうかがえる)

ちなみにひみつのことばは入り口のスタッフさんにお伝えすれば大丈夫である。

更に進むと再びロケ地が。

 

執務室は中に入ることが出来、撮影も可能。(調度品に触れることは出来ない)殿様の気分で撮影してもらったが写真を見てみると完全に殿様に叱られてガチへこみしているさまにしか見えない。

寝室、お風呂、ご不浄まで見ることが出来てしまう。しかし轡紋がゲシュタルト崩壊を起こしそうである。

御殿内の釘隠しは凝っていて、色々な種類がある。ちょっと上を見ながらの探索もまた楽しい。

 素晴らしい余り二周してしまった。やはり幕末と現代が地続きであることを確認していくのは楽しく興味深い作業である。

引き続いては仙巌園ブランドショップへ。薩摩切子のお重という珍しいものを観られた。

薩摩切子と桜島、大小二つの薩摩名物のコントラストが美しい。

展示は一月七日まで。是非お尋ねいただきたい。

 

オミットされた愛、発掘された愛――犬神家の一族2018年版感想

余談

犬神家の一族横溝正史先生の作品の中でも最も映像化が多い作品であるという。(映画3本、テレビドラマ6本)

原作の初出は1950(昭和25)年というから驚きで、雑誌に予告が出たころに横溝先生はかの江戸川乱歩氏に「今度、犬神家ってのをやるでしょう 僕犬神だの蛇神だの大嫌いだ」と言われたという逸話がある。(これに対して横溝先生はいや山田家の一族や小林家の一族だと平凡だから「犬神家」ってしているだけで犬神とか蛇神とか関係ないんですよ、と弁明している)

70年近い昔の作品がなぜ今も命脈を保ちうるのか。それは勿論、この話自体の面白さもあろうがやはり1976(昭和51)年公開の市川崑監督映画によることが大きいのではないか。

70年近く命脈を保っているといった舌の根の乾かぬ内に恐縮であるが角川文庫によるリバイバル、そして映画化に至る大ブームまで犬神家の一族をはじめとする横溝作品は瀕死の状態であった。角川春樹氏が述懐するに遺族に文庫化の許可をもらいに行こうと思ったら本人が出てきて面食らったというくらいである。

氏は言う。金田一耕助は「夕日のガンマン」であると。古びているが故、それ以上古びない。なのでいつの時代も訴求力があると。事実、角川書店が仕掛けた横溝ブームの時に既に25年が経過していても、世は受け入れたのであるから。

筆者の父は正しくそのブームに乗りに乗った世代であって、実家の書庫には横溝正史ゾーンがある。あのおどろおどろしい表紙が今月の新刊として書店に並んでいた日々を筆者も一度目にして見たかった。(一時期表紙リバイバルでちょっと再現されましたね)

ともあれ1976年版犬神家の一族は強烈であった。と言っても同時代で体験したわけではないが、初見で筆者はたいそう驚かされた。その豪壮なつくり、カットの迫力、古谷一行さんの金田一耕助が「人間・金田一」の極致だとすればマレビトとしての極致のような石坂浩二さんの金田一。そしてスケキヨのあのマスクインパクトと逆さ死体の映像的破壊力。

そしてとどめにこれほどの惨劇であってもメイン・テーマは「愛のバラード」というタイトルの大名曲を持ってくる。

犬神家の一族という作品はここに極まったと言っていい。

では2018年版の犬神家の一族はどうであったのか。休みに入りようやく見ることが出来たので、次項以降で感想を述べたい。

 

本題

以下、犬神家の一族(原作含む)のネタバレがあります。

犬神家の一族ラブ・ストーリーであると筆者は思う。当初、本作品は推理小説としての評判はあまり良くなかった、らしい。(比較対象がこれまた不朽の名作本陣殺人事件や獄門島だというから酷な話ではあるが)1つに通俗性が強いからであったというが、しかしだからこそ、様々な愛が重層的に絡まり合うからこそ本作品は傑作足り得たのではなかろうか。複数回の映像化に耐えうるのではと考える。

そう考えた時、犬神家の一族2018年版は犬神家の一族たらしめる複雑な愛の螺旋、あるいは連鎖がいくらかオミットされていたのが残念であった。しかし一方で、発掘された愛もあった。

そう言った視点で原作・過去映像作品と比較していきつつ感想を書いていきたい。

大事なのは、ハートにラヴ。

黒木瞳氏の熱演、松子には文句なし!

今回の俳優諸賢の中ではMVPはやはり黒木瞳さんであろう。先程筆者は犬神家の一族ラブ・ストーリーであると述べた。その中でも軸となるのは親子愛である。松子の佐清への盲目的な愛情が恐ろしい惨劇へと繋がっていく。

それは一方で父・犬神佐兵衛から得られなかった愛を取り戻そうとしているようにも見える。そう言った意味で、一連の事件の犯人は松子であるけれども、黒幕は犬神佐兵衛であると言い切ってしまってよい。実の甥達(と、若林弁護士)を殺したのは間違いなく松子である。引き金を引いたのは彼女であるけれども、弾丸を詰め、撃鉄を起こし、銃口を向けたのは佐兵衛であると言い換えてもよい。

遺言状を手に入れるとき、いわば最後の言葉にさえ父は自分に愛情のひとかけらも向けていなかったと悟った松子の心境はいかばかりであったろうか。

といっても佐兵衛をそこまで意固地にさせたのは松子達三姉妹側にも責がある。青沼菊乃・静馬親子襲撃事件は1976年版ではストップモーションと白黒映像を用いて迫力満点に描かれたが、今回も鬼気迫る出来栄えである。松子の手に持つ火箸と冷徹な視線の地獄めいた温度差は鬼の一言。

鉄壁の松子が本当の佐清と対面するや、もろく崩れていく様も見事であった。

佐清もまた母を愛していたし、また犬神家を愛していた。しかしそこにプライド(そして戦争という隔絶)という潤滑油が一滴入ってしまっただけで地獄の機械は悲劇へと歯車を回しはじめ、母を連続殺人鬼に、息子を事後共犯者に変えてしまった。

それでも助清には救いが与えられ、ある種松子は勝ち逃げの様に世を去る。

くちびるのはしにちょっぴり赤いものをにじませて。

横溝正史先生:犬神家の一族(角川文庫:kindle版より)

退場の時の上記の一文は何度読んでも那須の寒さと血の鮮やかさを思い起こさせながら抒情を感じさせ、稀代の名文であると思う。

三姉妹から失われた救済

ところで原作では松子は最期を迎えるとき、珠世に対して二つのお願いをしている。

・犬神小夜子と佐智の間に生まれる子供に財産を分けてあげてほしい。

・もしその子に才覚がありそうであれば犬神家の事業に参画させてあげてほしい。

好き勝手しといて何言ってんだこいつという話だが、珠世はどちらも受け入れ、松子はこれで少しでも罪滅ぼしが出来たと言う。

我が子を失った竹子、梅子にとってもささやかな救済であるし、また松子にとってもその印象を読者に対して改善してくれる効果のある展開である。

2018年版のみを観た読者諸賢は思うだろう。

「そんなシーンなかったしそもそも小夜子って誰?」

そう。犬神竹子の娘であり佐智といとこ同士で付き合っていた犬神小夜子は2018年版ではそもそも存在しないのである。

佐兵衛があんな遺言状を遺すせいで佐智には邪険にされるしそいつが死んだ後で妊娠していたことが発覚するし精神の平衡を崩すしもう散々な役回りであるのだが、しかし竹子・梅子二人の血を継ぐ子を宿していることが大団円に繋がるという重要なキャラクターであるのでオミットされたことにより、三姉妹の救済が失われてしまう残念なことになってしまった。

菊乃の設定変更は救いか、物語の平坦化か

松子の琴の音色から怪我に気づき金田一に示唆を与える松子の琴の師匠・宮川香琴は原作では三姉妹を呪った青沼菊乃その人である。

原作においては三姉妹の脅迫のため静馬を養子に出し、日陰の人生を歩み続けるが運命のいたずらか松子の師匠が病に倒れたため代稽古を務めている、ということになっている。

三年に一度ほど会いに行っていたが関係はぼかしており、出征時にとうとう親子の名乗りをし、その時静馬は自らの出生の秘密を知るのである。

原作において青沼親子は同じ一つ家におりながら、とうとう親子の付き合いもなく静馬は惨殺される。やっと拾った息子の命を再び松子に殺されたことが明らかになったときの菊乃の悲嘆は読むたび胸が締め付けられる。

また、自分を愛してくれた佐兵衛の臨終の席に立ち会いながら、その手を取ることが出来ないその辛さも計り知れないものがある。

2018年版においては静馬は「母から三姉妹の恨み言を子守歌に育った」ということで菊乃は同居してその恨みを静馬に伝承していたようである。(金田一少年のある事件を彷彿とさせる)言及もないので恐らく宮川香琴=青沼菊乃という設定もオミットされたのだろう。もう死んでいるのかもしれない。

設定変更により菊乃は救われたのだろうか。けれど運命に翻弄されるこの女性が本作のドラマティックさにより厚みを加えていたことを考えると、やはり生かしてほしかった設定であると思う。

珠世を巡る愛情

今作のヒロインである野々宮珠世についても設定について大きな変更がある。

犬神佐兵衛は恩人・野々宮大弐と衆道関係であり(原作では冒頭三ページ目くらいでいきなり言及されたりするがこれも2018年版ではオミットされている)これを巧妙な伏線として実はその妻・晴世と佐兵衛が関係して生まれたのが珠世の母、即ち珠世は佐兵衛の実の孫であることが原作後半では明らかになる。

2018年版ではそのような言及はない。(冒頭、佐兵衛が珠世に注ぐ視線は三姉妹へ向けるものとは違う親愛のそれであるとは思うのだが)単に恩人の孫を大事にするスーパー聖人と化している。

またこれにより、原作では静馬は珠世と甥姪の関係になってしまうので逡巡するという描写があるのだがこれもオミットされている。三姉妹への憎悪がすごいだけで根は普通の青年である静馬の一面が見られて好きなのだが。

そういった意味ではどこを切り取っても佐兵衛の情念が渦巻いている「犬神家の一族」という言葉の持つおどろおどろしさは少し影を潜めてしまっている。

これは珠世という人が佐兵衛の泥のような情念の中咲いた蓮の花であるという彼女のアイデンティティにも関わる要素であるので残念であった。

今一人、珠世を巡る人間として若林弁護士がいる。原作ではこの人は珠世に恋慕しており、それがゆえに松子を危惧して金田一に相談するのであるが、これも2018年版ではカット。とはいえ職業倫理もくそもなくなってしまっているのでかえって救われたかもしれない。

 

発掘された愛

オミットされたばかりではなく、今回の脚本で新たに光をあてられた愛もある。

一つは猿蔵の犬神家の一族への忠誠心である。原作・過去映像版においても珠世における忠誠心は抜群であったが、今作では松子の為にヨキケスの見立てを考案するという役どころを与えられている。またあえてトンカチを遺すことでいざというときは自らが捕まる覚悟を示すなど、その忠誠心の幅が広がっている。

古舘弁護士は松子が若林弁護士殺害を淡々と述べた時に部下の為に憤るという部下愛を見せてくれている。所長になだめられて収まるが、こういったシーン一つあるだけで古舘弁護士の人となりがわかりよい演出であったと思う。

観終えて

NEWS・加藤シゲアキさんの金田一耕助はやっぱりちょっとカッコよすぎるきらいがあったが、狂言回しとして過不足なく立ち回っていたと思う。

賀来賢人さんの助清も良かったし生瀬勝久さんが本家「よしわかった!」を務めるのは感慨深い。ズラだったらどうしよう。板尾創路さんが本家に出演しているのも同様である。

けれどやはり黒木瞳さんの力によるところが大きいな、と感じた。是非このキャストで今度は悪魔の手毬歌をやってほしい。

 

 今回は比較しませんでしたがJETさんの漫画版は犬神家の一族も最高ですよ。是非。

 

 

「犬神家の一族」オリジナルサウンドトラック

「犬神家の一族」オリジナルサウンドトラック