カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

祭りは香賀美タイガの中に、未来は彼らの手の中に――KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-3話初見感想

余談

10連休が過ぎ、はや2日、どうにか業務をやり過ごす日々である。

気が付けばBSテレ東にて第4話が放送される日が近づいてきており、妻も激戦から帰って来たので、視聴して感想を書きたい。ついさっき(22:30)に観た。

これは今この時に観るべき話だと思ったので、早速まだ初見の方にAbema無料期間のうちに少しでも届くよう、綴っていきたいと思う。推敲もせず思ったままに書き飛ばすので、いつも以上に乱文となると思うがご容赦願いたい。

abema.tv

↑記事を書いている時点であと36時間無料で見られます。というかサムネイルの2/3がタイガなんだな……。

 

ということでここからはKING OF PRISM -Shiny Seven Stars-3話のネタバレというか、とにかく内容に触れていますので未見の方はご注意ください。

 

本題

以前、こういう記事を書いた。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 タイガ回であった。少し先に触れたが、この時期だからこそ是非見るべき回だった。

そういう意味で、今回はSTU48で言うと「暗闇」回であったと言える。風味堂で言うと「おかえりなさいが待っている」回であり、槇原敬之で言うと「いつでも帰っておいで」回であったと言ってもよいだろう。

そしてまた、彼が残念ながらもう公開は終了してしまったけれど、「EZ DO RAP」選抜にどうして選ばれたのかも今回を通してばっちり分かった。

10連休、読者諸賢は帰省しただろうか? もしかしたら初めて社会人になった方々もいるかもしれない。新年度が始まり、なんとなくのうちに4月が過ぎていく。改元のおかげもあり、どこか浮ついた、祭りめいたような調子が既に4月半ばごろからあったことだろう。

そして10連休がやってくる。そうではなかった方々もいるかもしれない。誰かの10連休の為に縁の下の力持ちになってくださった方々が。

どちらにせよ、と筆者は思う。どんな状況下にあっても、我々はなかなかしんどい「五月病」と向き合わなくてはいけないのではないか。このお祭り騒ぎの分だけ、揺り戻しと戦っていかなくてはならないのではないかと。

こと新入社員諸賢においては実家に帰りたくて仕方がなくなっていたりしちゃいないかと、勝手にドキドキしているのである。

だからこそ。

3話を見てほしい。10連休の前後にこのタイガ回があることは決して偶然ではないと筆者は確信するからである。

これは香賀美タイガ(以下タイガ)が地元をレペゼン(代表)する物語、していくまでの物語だ。

筆者は実はタイガを全く真逆と言っていいほど誤解していた。都会に憧れがあり、方言が出ないように強い言葉を使い、都会のおしゃれなスイーツとしてプリンア・ラ・モードを愛好しているのかと思っていた。幼い頃の笑顔がとても良い。

実際はそうではなかった。青森をこよなく愛し、愛するが故に東京に敵対心を持っているくらいであった。「十和田湖の方が凄い」この精神である。東京は凄い。何でもある。何でもあって敷き詰められているから、十和田湖は絶対にない。青森の勝利である。けれど。それは東京では十和田湖を見出せないという、郷愁を同時に産んでしまう。十和田湖に代入できるなにがしかが、地方から出て来た読者諸賢にはきっとあるはずである。当たり前すぎてないことを思いつきさえもしなかったおらが国のランドマークが。筆者で言えば桜島が。

加えてタイガにとって、東京は嫌な場所でもあった。かつて憧れの人をすっぽかしてしまった過去がある。憧れの人がチャラチャラしてしまったのも東京のせいだと思っている節もある。

そんな彼はしかし、古式ゆかしい「家族が勝手に応募したのに……」方式でエーデルローズへ入寮する。姉なる者の真骨頂である。

キンプリにおいて、大切なことはいつだって風呂場で語られる。しかも五右衛門風呂は下から火を焚いているからな。実は、この単語でエリートたちが湧きたっていたのはTLで横目で見ていたので果たしてどんな時に用いられるのか? とこっそり楽しみにしていたのだが、正直なところまだまだ筆者にはこのセリフであそこまで文字通りドッカンドッカン焚き上がって見せる、いや魅せるエリートの域にはかけらほども達していなかった。そこに至るまでの某かストーリーがあったのではないかと思うのだが、共鳴できず悔しく歯がゆい次第である。

ともあれ一度ならず二度までもカヅキ先輩のプリズムの煌めきを浴びてしまったタイガが引き続きプリズムスタァへの道を歩み続けるのは至極当然のことと言えよう。

レペゼンってのはな地元にとどまって東京の悪口を言うことじゃねえ

フリースタイルダンジョンRec6より R-指定

まさしくその通りであり、タイガはエーデルローズ進学によって真のレペゼンへの道を歩み始めたと言える。

そしていよいよ凱旋の機会が訪れる。どうみても寝不足の山田さん。しっかりタクシー代を返済するタイガ。チャラチャラしているのにタクシー代はチャラにせずかつ恩に着せもせずただ素直に今までもタクシー代を受け取り続けていたっぽいカケルが印象に残る。華やかなステージがシュワルツローズに用意される中、地味な営業。そこにやってくるカヅキ先輩。どう考えても予算もメンツもモンスター番組である「めちゃイケ」を視聴率戦争において下したジャイアントキリング・出川さんのあの番組リスペクトであり、そう考えると膨大な資金力を背景にするシュワルツローズに対してカヅキ先輩や主人公サイドが振るうのは決して蟷螂之斧ではないのだという製作陣のメッセージであるようにも感じられた。

相手側の不手際により「祭り」が窮地に陥るその時、タイガはついに己の中の「祭り」を解放する。

そう、タイガが祭りなのである。最初ズボンのテクスチャ透けてない? と思ったが勿論祭りの男はふんどしなのである。愚問なのである。

地元をレペゼンすること。それは自分の中にあるルーツを再構築すること。形作ってくれた一つ一つを乱暴に扱うでも、神格化するのでもなく、いつでも取り出せるように心の中に大切にしまっておくこと。それをタイガは我々に文字通り身をもって教えてくれた。

筆者は理解力がなく、時系列が前後している(同じプリズムショーを青森とプリズム1の会場で2回行った)のか、タイガのプリズム力で会場がプリズム1会場へと変貌したのか(今日は俺の地元に来てくれてありがとうと言ってくれているしこっちなのかとは思うのだが)、それとも筆者にはまだまだあずかり知らぬキンプリユニバースにおけるプリズムの煌めきが生み出した事象なのか、判然としなかったのだがただ一つ言えるのはタイガのプリズムジャンプは最高であるということであり、青森であろうと、東京であろうと、月の裏側であろうと、祭りがタイガの中にある限り、そこはねぶた祭り会場であり、彼の居場所になるということである。

地元や愛しの場に留まる人も、その炎を心の中でそっと育て別天地で頑張っている人も、全てを肯定する正しくねぶたのような力強さにあふれた話だった。さすがにキッスにはどんな顔をしたらいいのかわからず照れてしまった。

レインボーライブとのリンクもちょこちょこ出てきてこれもまた視聴の楽しみの一つとなっている。

ともあれプリズム1も2連勝、未来が彼らの手の中にあることを祈らずにはいられない。

最後に輪入道のリリックを引用して結びとしたい。


輪入道 徳之島 Official Video

東京にのまれんなよ

君の地元熱いぞ

――輪入道「徳之島」より 

 

令和の夜明けぜよ!――「文久土佐藩」始末記

余談

令和おめでとうございます。毎年五月は陛下たちの偉業に思いをはせる為に十連休でいいのでは? 筆者はそう思います。六月も十連休でいいと思います。世界中毎日誰もが十連休でいいと思います。

閑話休題

さて記念すべき令和一発目の記事を書くにあたり、ちょっとした逡巡があったりもしたのだが、折しも弊本丸にてイベントの区切りもついたこともあり、彼の話を書くことにした。

明治の夜明けをついに見ることの叶わなかった男・坂本龍馬。彼の佩刀であった陸奥守吉行が令和の夜明けとともに新たな仲間を弊本丸に連れ帰ってきてくれた、その記録と考察(妄想)を綴ろうと思う。

 

ということでここからは刀剣乱舞イベント「文久土佐藩」イベントの致命的なネタバレおよび独自考察(妄想)、陸奥守吉行の極バレなどが含まれますのでご注意ください。


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本題

はじめに―事前予想答え合わせ

 

kimotokanata.hatenablog.com

 

まずは文久土佐藩という五文字から筆者が妄想を溢れさせた前記事を検証する形で全体の輪郭を縁取っていきたい。

新刀剣男士予想について

筆者が予想したのは南海太郎朝尊・一国兼光・肥前忠広・埋忠明寿の四振。予想と言っても全部賭けに等しかったのだが。昔金田一少年の事件簿でこういう犯人の予想の仕方してたなあ。

実装されたのは南海太郎朝尊と肥前忠広の二振。本命、対抗が順当に入ったという印象を受けた。正直なところ新刀剣男士は一振、あるとして新刀剣男士+長義救済ドロップくらいだと思っていたので二振の同時実装は嬉しい驚きであった。

ということは次回の特命調査は三振実装ということでよろしいですね?(曇りなき瞳)

改変内容について

 やはり土佐藩として特に出来事の密度が濃い文久二年を起点として大きく歴史が改変されている、といった感じに思えた。予想の一つがニアミスしたわけであるが、これも吉田東洋が死んでいる場合と生きている場合をそれぞれ予想したのでまあニアミスも何もないか……しかし新聞広告にて告知されていた人物、特に吉田東洋坂本龍馬の動向についてはなかなか考察を掻き立てられる結果になったと思う。はりまや橋はふつう。

イベント「文久土佐藩」感想

無課金勢にも有り難い良心的なイベント

まずはイベントそのものについての感想を述べたい。筆者は途中三回ほど寝落ち・夜討ち・朝駆けなどによって賽を振る機会を逃したが、それでも4/30の17:00補充分によってどうにか追加課金なしに二振りの新刀剣男士を弊本丸に顕現させることが出来た。一回目に六が出たら二回目に一が出るということが内二回あり、見事なバランス感覚だと感心はするが別に驚くことはないな。初回高知城マップで早く彼らを迎えたいばかりにいいや限界だ使うね! して城下町ボスを倒して得たばかりの七福賽を使用して突破したが、残りの回数は二週目にしっかり引き継がれて安心であった。ある程度のレベルの審神者諸賢であれば、今から始めても十分にお迎えは可能であろうと思われる。

初回、高知城の後ろが通れることを全く頭に入れていなくて、追い詰めたと思ったら文字通り頭上を飛んで行かれた時は己の阿呆さにスマホを叩き割ってしまいそうであったが、それ以外は基本的に楽しく、まるでゲームをプレイしている感覚で楽しく遊ばせてもらった。入電の演出からして格好いいではないか……。検非違使なんかも城下町ステージみたいな感じでステージ上に見える形でいて、ランダムに移動しつつ、かち合ったら戦闘とかでいいのになと思う。(と、言いつつ、筆者は未だに検非違使とガチンコ勝負をしたことがない)

ただ直前まで江戸城をプレイしていたので、賽の目は勿論のこと、勝利内容(A勝利、もしくは完全勝利)で+1マス進めます……ならもっとモチベーションが上がったのになとは思った。そういったところで七福賽の誘惑は課金アイテムとして実に蠱惑的である。城下町クリアで一つ手に入るあたりがまた小悪魔めいている。次回三周目に三振目が実装することがあれば場合によっては課金してしまうかもしれない。今回は九州国立博物館および福岡市立博物館に行きコラボ展開によって存分に還元するためにここでは辛抱するぞという鉄の意志によって何とかすることが出来たが。

肥前忠広の「参戦」の興奮

いや、五振でしか出陣できないという制限でちょっと察してはいたのだけれどそれでもやっぱり文字通りの助太刀(脇差だけど)参戦は心躍るではありませんか。弊本丸に来てくれてからはちょっとパワーダウンしているきらいがあるがこれは政府の力と比べて筆者の審神者力(ぢから)が及ばないことの証左であろう。今日も畑作業を頑張ってほしい。

そして陸奥守吉行との二刀開眼はやはり「脇差」としての実装が分かった時から楽しみしていたが実際に目の当たりにするとテンションストップ高であった。テンションが上がり過ぎてスクリーンショット現代アートめいたものになった。↓

陸奥守吉行の、同じ立ち絵であっても喜色が目に見えるような再会の喜びと相反して常に苛立っている様子の肥前忠広。それは見て来た景色があまりに違う故か。

ところで「歴史改変」と「陸奥守吉行」そして「肥前忠広」と考え、そこに「文久二年」というスパイスを加えた時、肥前忠広がこの様な態度になるのも仕方ないような出来事が一つ存在する。

龍馬脱藩――これは後述するが、今回のイベントにおいては巧妙にぼかされている。文久二年を語るにおいて、土佐において吉田東洋暗殺との二本柱であるにも関わらず、である。

ともあれ龍馬脱藩について。読者諸賢はもしかしたらこのような知識をお持ちであるかも知れない。

坂本龍馬はその脱藩において姉・坂本栄より坂本家の重宝「陸奥守吉行」を授けられ、栄はその後脱藩に家族が関わったことで他家族に迷惑がかからぬよう自害したのだ――という知識を。

これは司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」や武田鉄矢小山ゆう両先生の「お~い!竜馬」でも採用されたエピソードであり、人口に膾炙していると言っていい。

が、この説は現代では懐疑的である。前回、活撃刀剣乱舞九話をお勧めする記事を書いた際に言及したが、脱藩後、寺田屋事件時点においても、陸奥守吉行は龍馬の手元にはないからである。

また、龍馬に陸奥守吉行を授けたとされる姉・栄は脱藩より十七年も前に亡くなっていたらしいというのが最近の調査で判明している。

ただ、刀剣乱舞の世界観においては恐らくこの説を採用していると思われる。それが是か非かということではない。これは刀剣乱舞のまさに設定の妙で、「刀の擬人化」ではなく「刀の付喪神」であるのだから、人口に膾炙した記憶・姿・形になることに何一つ不思議はないのである。

また、先の作品を否定するつもりももちろんない。前述したように栄の没年など新資料が明らかになったのは二作が世に出てより後のことであるからだ。土佐出身の漫画家である黒鉄ヒロシ先生はまた、自身も「坂本龍馬」をものされているが、初めに「竜馬がゆく」について「この連載を通して、多くの日本人に元気を与えた、それが全てである」のような言及をされておられる。(因みに筆者はこの「坂本龍馬」において語られている「土佐では龍馬が恐れられていて(実態を解釈しきれないまま名を恐れるというのは曹操を恐れる昔から変わらぬ民衆ムーヴである)皆がワーッと逃げ出したが、隠れきれなかったヒロシさんのひいばあちゃん(当時幼女先輩)に向かって、『いずれ、均しの世がくるぜよ』と笑って去っていった」というエピソードが滅茶苦茶好きである)

また、先に紹介した作品は両作品とも「竜馬」であるのがポイントである。あくまで史実「坂本龍馬」を下敷きにしたエンターテイメントであるというのを心得て読む分には抜群に面白く、もちろん筆者も愛読者である。もしまだ未読の読者諸賢がいるとしたら是非読んでほしい。特に「お~い! 竜馬」。これを語りだすと止まらないのでそのうち別記事にしようと思う。一つだけ付記していくと、今ではこちらも事実のようになっている「龍馬・武市・以蔵が幼馴染」というのもこの作品が生み出した「発明」であって必ずしも史実ではない。

龍馬のことになるとすぐ早口になってしまっていけない。

さて、では史実において、文久二年、脱藩時、栄さんはすでに亡くなっています。陸奥守吉行は、後から兄におねだりするということは、この時点では手にしていません。では、史実では龍馬は手ぶらで故郷土佐を後にしたのでしょうか。

ここで今一度、前記事において筆者が「南海太郎朝尊」実装の根拠とした「維新土佐勤王史」から引用させていただこう。

(前略)姉の乙女は早くも其の機(龍馬脱藩の意志)を察し、龍馬が日頃臨める、實兄秘蔵の肥前忠広の一刀を取り出し、御身に贐(はなむけ/旅に出る人に贈る餞別)せんとて與(あた)へければ、龍馬は之を推し戴き、首途よしと勇立ち(後略)

国立国会図書館デジタルコレクション「維新土佐勤王史」より引用。()部分及び太字処理は筆者による。

上記書籍はこちらからどなたでも無料で閲覧できるので、機会があればぜひご一読いただきたい。(111コマ目にあります)

そう、正解は越後製菓(平成ジョーク)――ではなく、肥前忠広だったのである。恥ずかしながら、前回南海太郎朝尊説を立てさせて頂いたときは子資料しか参照しておらず、今回国会図書館にあるのを発見して読み進めてみたらこの記述を発見して、筆者は思わずマジか、と声が漏れてしまった。そういう話を聞いた気はしていたけれど、郷土資料にここまでがっちり書かれてしまっているとは思わなかった。

対になる刀だとは予想時点からしていた。

けれど、本来そうであったはずの(後から以蔵に譲られたとしても)坂本龍馬の佩刀としての顕現を他の刀に譲り渡して、自らは人斬りの刀として語られ、記憶され、ボロボロの姿と斬るという衝動をアイデンティティという「ことにして」顕現するなんて、そんな悲しいことがあっていいのか。

坂本家に秘蔵されていた。龍馬は常日頃欲しがっており、手にしたときはこれでうまくいきそうだとさえ思ってくれた、そんな刀が危惧していた「俺なんかどうせ」枠へ入っていく。とりあえず弊本丸では腹いっぱい飯を食べてほしいが、胃袋キャラなのも以蔵収監時の毒殺画策エピソードを下敷きにしているんじゃないかと邪推してしまう今日この頃である。作者の人そこまで考えてないといいと思う。

 

早く極修行に行かせて己の迷いと葛藤を断ち斬って帰って来させてあげたいと思う。首の包帯も折れたことと以蔵の斬首が反映されているのだろうなあ……。服が汚れているのは染髪料がこぼれたということにしておきたい。

南海太郎朝尊は無自覚な神であるのか

アァ~ッこの絵面ちょっと……本当すみませんちょっと……もう少しなんというか……手心と言うか……四年ですよ? 四年孤立無援で(地元の仲間たち的な意味で)陸奥守吉行が頑張ってきたというのにいっぺんにこんなことをされてしまうともう高低差で鼓膜ブチ破れてしまうので小分けにしていただいてもいいですか? どうして豆腐豆腐豆腐ステーキみたいなことするんですか? ありがとうございます。つきましては極もよろしくお願い申し上げます。

ちょっと見苦しいところをお見せしてしまったが南海太郎朝尊もまた、今までのパターンに当てはまらない特異な刀剣男士である。公式に顕現したばかりの刀剣男士であり、自らが人間でないことに自覚的であるという。

南海太郎朝尊の発言は予告動画にも使用され、話題になった。筆者はその意味を測りかねていたが、陸奥守吉行の真逆の発言を受けて少し考えたことがあるので記しておく。

即ちこの思考は元の持ち主を反映しているという妄想だ。

武市半平太という人が、一代の傑物であったことは疑いがない。しかし多くのリーダーがそうであるように、権力を求めた結果、権力の奴隷に成り果ててしまった側面があったことは否めない。

他方龍馬は、「世界の海援隊でもやりますか」と権力に執着を見せなかったエピソードが有名である。これも少なくとも言った場所は懐疑的である(その時西郷はその場にいなかったと思われる)が、人口に膾炙する龍馬のイメージとしては強かろう。

そう、読者諸賢お察しの通り「刀」を力、権力と解釈すると二人の発言が素直に読み解けるのである。いつからか刀に囚われてしまった武市、あくまで自らの目標を切り開くために活用した龍馬……その対比は特に文久年間において余りにも残酷だ。

あるいはこの二つの刀の発言の相関性は、武市が土佐勤王党を指導しようとし、龍馬が海援隊を先導しようとしたことを示しているのかもしれない。これはそのまま、南海太郎朝尊と陸奥守吉行が他のものと接するありかたと反映されているようであり、興味深い。

南海太郎朝尊は自らのことを人間ではないと自覚的であるという。では自らをどうみなしているのか。例えば一見コミカルな時間遡行軍の残骸を罠に仕掛けるという作業も、自らも敵も人間ではない異形であるからこそ淡々と行えることであるのかもしれない。他方で、人であっても必要であれば淡々と某かの駒にしそうな危うさもあり、その一段高いところにいる感じは、ある種、審神者に自らをどう扱うかの選択を伺う神そのものではないか、と思う。眼鏡の奥の瞳が審神者を無自覚ながらも厳しく見据えているのであれば、正しく刀(南海太郎朝尊)の(視線の)延長線上には人がいるのだ。

南海太郎朝尊は前記事でもちょっとふれたように刀としては新しい部類に入り、刀としては先輩である肥前忠広が先生呼びしているのは持ち主の関係を反映(まねっこと考えると可愛いぞ)しているのだろうが、損傷した肥前忠広を武市が南海太郎朝尊(刀工の方)に依頼して脇差に打ち直させたという逸話を踏まえると、脇差としては直系の関係になるのだからそういった意味でも不自然ではなく、面白い関係性だと思う。

とはいえ武市・以蔵・龍馬の関係を踏まえるとこの辺りちょっと不穏なものも感じてそれはそれで考察がはかどるものである。ウッ……本来は望んでいないが尊敬している方の為に手を汚し続ける者とそれを知ってか知らずか甘言で弄す者、そしてそれら二人を旧友としての立場から諫めようとする者……こんなごってりするものを放り込んでくるなら二クールくらい用意していただかなくては困ります!

前述した「維新土佐勤王史」は勤王党名簿から始まる。党首である武市半平太は勿論筆頭、坂本龍馬も一ページ目に名前が確認できる。後近江屋で龍馬と運命を共にする中岡慎太郎(中岡光次)、池田屋事件で命を散らす北添佶磨など多士済々としたメンバーである。

名簿をめくり終え、読者諸賢はもしかしたら最初から見始めるかもしれない。

残念ながら、それは徒労に終わる。変名を使っている訳でも、貴方が見落としたわけでもない。

岡田以蔵土佐勤王党名簿には名前は載っていない。

吉田東洋暗殺実行犯と言われる那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵も載っていない。

その次の項「簿外党員」の欄にて確認が出来る。

彼らを軽んじて元から名簿に載せなかったのか、暗殺他アンダーグラウンドな働きをさせる故に何かあったときに切り捨てられるようにしていたのか……土佐勤王党四天王と言われる吉村寅太郎も簿外党員扱いにされているため真相は不明だが、(天誅組として挙兵が失敗に終わってしまったゆえかも知れないが)しかしこの処遇、必ずしも恵まれているとは言えないだろう。

吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ

――吉村寅太郎 辞世

吉野山天誅組が挙兵した)で紅葉が風に舞っていたならば、自分が太刀を振りかざし血煙を起こしていたと思い出してほしい……土佐勤王党一つのエピローグである。

こんなほっとけない成分まで出してきて……悔しいでも賽振っちゃう……。それでいて武市は三文字の切腹を果たして武士の頭目の面目を保ったわけであるが、南海太郎朝尊の腹部装甲は厚めと言うからこの界隈で言う所の「しんどい」である。

「時の政府」の考える「正しい歴史」とは? 時間遡行軍の正体は?

新たなる刀剣男士について語っていたら早六千字近くなってしまったので打鍵を急がせるが、しかし今回のストーリー……これがまたいやいや……と。一筋縄ではいかぬ代物なのである。

正直なところ筆者は、プレイ中寝ぼけ眼だったのもあって初めの郷士、次の留守居組はTwitterにて確認した。大太刀_参政については南海太郎朝尊が吉田東洋に言及していたこともあり、気にしていたのでリアルタイムで驚かされた。

というか「吉田東洋土佐勤王党の首魁で恐怖政治の主導者」という時点で大分ビビった。確かに吉田東洋土佐勤王党によって暗殺されるに至ったのは勤王思想の対立と言うことではなく(吉田東洋自体は大河ドラマ西郷どん」によって存在を抹消されたが間違いなく西郷吉之助隆盛の人生にとって多大なる影響を与えた勤王の大家、藤田東湖と親交を結んでいるほど勤王思想には理解がある)その開国か攘夷かという点であったから、「勤王」を冠する党の首魁となることもまあ、あるかもしれないが……いやあるかなあ!? そもそも武市も以蔵も姿は見えないし……もしかして高知城に囚われている? ピーチ姫? とか思っているところに大太刀_参政とかスッ……とお出しされても困るのである。いやいや参政って現代で大勲位と言えば中曽根康弘氏であるように、あの頃の土佐、文久土佐で言ったらそんなの吉田東洋以外の何者でもないじゃないか!

でも吉田東洋は人間で、そして今は土佐勤王党の首魁で、そして時間遡行軍は……。

いや。

そうなのか……?

そういう切りこみ方をするのか……?

筆者はその妄想に至ったとき、「刀剣乱舞絢爛図録」を引っ張り出し、公式が発表している「世界観」を今一度確認した。二度確認した。三度確認し、ステレオグラムで見たり、音読したりもみた。

結論としてはよくわからなかった。「神様、よくわかりませんでした」と言う言葉が人類の墓碑銘であるというのは前世紀から決まっていることであるが、しかし分からないなりにやはり妄想を展開することをお許し願いたい。

歴史修正主義者の主張は本当に誤りであるのか

以降はこれまで以上に妄想の上に妄想を重ねる、砂上の楼閣でジェンガをするような事態となってしまうがどうぞ御笑覧いただければ幸いである。

刀剣乱舞と言う作品の大前提に踏み込む話になる。刀剣乱舞と言うのは、西暦2205年に「正しい歴史の修正」を標榜する歴史修正主義者達が時間遡行軍を編成し歴史を攻撃する行為を時の政府審神者」なる者を派遣し追伐する物語である、とされる。審神者なる者は過去に飛び、最強の付喪神である「刀剣男士」と共に歴史を守るのである。(刀剣乱舞図録第二刷/世界観の項目を参照)

もしかしたら読者諸賢の中には既に「ん?」と思った方もいらっしゃるかもしれないが一つずつ見ていきたい。

まず「正しい歴史の修正」を標榜するのは敵対する時間遡行軍側であるという点。それは言うまでもなく「歴史修正主義者達にとっての」「正しい歴史」であって「時の政府」が容認しない歴史、と言うことになるであろう。筆者は引っかかるのである。わざわざここに「正しい」というお飾りを入れる必要はどこにもないはずだからだ。「歴史の修正」で何も問題はない。あえて「正しい」と魚の小骨のように引っかかる要素を残す必要がどこにあるのだろう。また、池田屋の開始台詞から考えるに、歴史修正主義者は一グループという訳ではないようだ。

次に、歴史修正主義者たちは数多の時間遡行軍を編成し歴史を攻撃する。審神者はそれに対抗する。日々積み重ねたお馴染みの後継である。気になるのは、「審神者なる者は過去に飛び」という一文。我々審神者は本丸にて派遣した部隊の健闘と無事を祈る者ではなかったのか……? 確かに「活撃刀剣乱舞」では審神者も過去に飛べる描写があったが、それは緊急時に限るようにも思われた。

これらと先に述べた郷士留守居組・参政、そして志士という名前付きの時間遡行軍の存在、そして「放棄された世界」という存在、「文久土佐」という特性を考えた時、ジェンガは危うくも一つの形を作るのである。

刀剣男士=時間遡行軍という方程式はサービス開始当初からまことしやかに囁かれており、筆者も特に今年に入って諸々の点からやはりそうなのだろうか、と考えていたが、今回の展開で改めてその確信が深まった。そして推測を先に進めてみたくなった。

歴史修正主義者は我々を派遣する政府とはまた別の「政府」であり「時間遡行軍」は我々と別の審神者と刀剣男士達、「放棄された世界」とは他の政府とのバトルロイヤルに敗れた「政府」が瓦解した世界なのではないかと。そして放棄された世界を軌道に戻すことが出来た「政府」は何かしらの利点があるのではないか。

名前付きの時間遡行軍は彼らの佩刀が刀剣男士として顕現して、かつ審神者が同時代に滞在することでより霊力が強まり、名前を得、恐らくは姿かたちも持ち主に近づくほどに「物語の力」を強めた状態なのではないだろうか。

正義の反対は悪ではなく別の正義だというストーリーは一周して陳腐になってしまったきらいがあるが、しかし往々に真実と言うのはチープで救いの無いものだ。考えてみれば、土佐勤王党が恐怖政治を敷いている時点で、吉田東洋が牛耳っている時点で、時間遡行軍を追い払ったところで歴史が、少なくとも我々の知っている歴史に戻るとは思えない。それでも「政府」から来た彼らが「戻る」と言うのなら、戻るのかもしれない。

けれどそれが我々審神者が認識している歴史に「戻る」とは限らないのではないか?

司馬遼太郎先生を始める「物語」によって形作られたという側面が特に多い坂本龍馬の佩刀を、刀剣乱舞の世界、我々を指令する政府においては「寺田屋事件の際に既に坂本龍馬の佩刀であった」という物語を背負わされている、我々の知る歴史とは違う「守るべき歴史」を宿す陸奥守吉行を今回の特命調査のキーキャラクターに任命したのはそのことを文字通り「物語って」いるのではないか? 

肥前忠広こそは「政府が守ろうとする物語としての歴史」と「史実」とのはざまで犠牲になったキャラクターということではないのか? 今やこの2019年においてもどこかへ姿をくらましてしまった彼こそが。

審神者なる者は過去に飛ぶ。もしそれが緊急の最後の手段であるとすれば。相対する審神者が、刀剣男士が、他方の審神者からは時間遡行軍に見えているのだとすれば。南海太郎朝尊の意味深な言葉は単なる情景描写だったのではないか? 陣形を決めて、向き合うとき、刀(剣男士)の延長線上(相対する先)に人(審神者/審神者が本当に人なのか?という点については大いに議論の余地が残ってはいるがひとまず)がいるのだから。

我々審神者は政府の指示をこなせばこなすほど物語を守り、史実に乖離していくのではないか?

調査結果報告にわざわざ「志士を倒したかどうか」があるあたりが実に不穏である、と思う。この世界では少なくとも報告書上は「坂本龍馬めいたもの」を高知城で葬っていなくてはならないということではないか。しんどさを刻んできてくれる。「壊れた銃」を志士を撃破した場所で一行は発見しているが、これは「戦闘によって破損した」ということではなく、「脱藩し、世間の広さを知り、見聞を広める」という一般的な坂本龍馬の物語が高知城天守閣に押し込められるという全く正反対に改変されたことによって「壊れてしまった」ことの表れなのだと考えている。志士≒陸奥守吉行≒坂本龍馬めいたものであるとすれば、物語を失った時彼は何を思ったのだろう。先程の説をとれば、彼らにとってはそれこそが守るべき正しい歴史ではあるのだが、壊れて役に立たない銃を持ち続けていたことを考えると、パラレルな世界になる前に通奏低音として流れていた歴史――仮に正史とする――は同じような気もする。

この世界の龍馬は我々の知っている彼以上に八面六臂の活躍をしなくてはならないようであるが頑張ってほしい。陸奥守吉行が「歴史を守るのが刀の本能」であるとこれまたさらっと重要そうであることを述べた。筆者が名前付きの時間遡行軍ボスたちに現地に飛んだ審神者の力が介入していると考えるのは刀剣男士単体ではこの本能によってどうしても元の持ち主を演じる≒歴史を改変することにブレーキがかかってしまう所を審神者ブーストによって突破しているのでは、という点も含まれるのだが、坂本龍馬めいたものに成り果てる前の陸奥守吉行が最後の本能で本物の坂本龍馬を逃がしてくれていたりしたらいいなあと思う。

以上まさか一万字超えとなってしまい、どれだけの方がここまで読んでいただいたか定かではないが、それほどまでに刀剣乱舞というゲーム本体もなかなか面白いものですよ、未経験の方は他展開もいいけれど、審神者着任お待ちしています。ということを申し述べて終わりとしたい。乱文失礼しました。

 

蛇足

お題箱と言う名の何でも箱を設置しましたのでよろしければご活用ください。

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この時代を「平成」と呼ぶ――平成元年生まれの見た平成について

 

平成が終わる。筆者は平成元年生まれである。平成生まれ平成育ち、周りの知り合い大体平成である。生まれたと思えばバブルが崩壊し、物心ついたら阪神大震災が起き、思春期に入ると9.11テロが起きて、就職活動を始めようとすると東日本大震災が起きた。転職したら熊本地震も起きた。かように天から様々な試練に打ちのめされながらも、しかしどっこいゆとり世代として生きている。別に好きでゆとっている訳ではないのである。この場合断罪されるべきはゆとらせた世代であるはずなのだが、どうもそちらが糾弾されている様子はあまり見ない。床屋や美容室で髪を整えることを「髪を切られた」ではなく「髪を切った」という人々であるのだから、我々のことを勝手に「ゆとった」と思っているのかもしれない。

ゆとり世代は「いや、俺の下からがゆとり世代ですよ」という習性があるらしい。確かに筆者も「ザ・ゆとり世代」というラベリングにはちょっと待ってほしい、と言いたいところもあるかもしれない。筆者の頃は、小学校は隔週で半ドンであった。半ドンと言うとナウでヤングな読者諸賢には通じないかもしれないので説明すると、ドンとはオランダ語で休日を意味するゾンタークから来ており、半ドンとは半分休日、つまりは午前中授業で午後が休みと言うことであるらしい。半ゾンではないのは忍者みたいだからであろう。ちなみに博多どんたくもゾンタークに由来するそうだ。ともかく小学校の土曜日と言えば出校し、サクッと授業を受けて何故か牛乳とビスケットは摂取させられた上で午前中のうちに帰宅し、母のざっくりした昼飯を食べながらローカル番組を見て、頃合いを見て近所の公園でハンベ(ハンドベースボール/手打ち野球)に興じる、と言うのが筆者の原風景であった。これが三つ下の弟になると土曜日が完全休日となっていって、「ここここ! ここにゆとり世代がいますよ!」とホイッスルを吹き鳴らしたい気分となる。他方、土曜日が完全休日と言うことは即ち学校のカリキュラムから外れる時間が増えたということで、そこを塾で埋め合わせている後輩たちは大変そうであった。現在はまた半ドンが復活しつつあると聞くが、一つは土曜をどう過ごすかによって学力の開きがあまりにも顕著になってしまったからであるかもしれない。

改元は今回が初体験であるが、同じような気分になったことは小学校時代に何度かあった。2000年、2001年がそれで、何かしらが肯定的に変わりそうな雰囲気を子ども心にも感じた。ミレニアムと言う響きに新しさを感じた。新世紀と言う言葉に可能性を感じた。丁度その頃、背伸びして親父の書斎から何冊かSFを読み始めて、そのころ設定されていた遠い未来が自分のすぐ手前に来ていることに何とも不思議な気持ちになったものだ。ピチピチのスーツは未だに着ていないし、車も今日も元気に地面に接地しているのだが。

2000年問題のごく小ささ、それは勿論良いことだったのだが、(確か朝刊でどこかの役場のデータが明治何年かになってしまったくらいでした、といった見出しを見たような気がする)やっぱり世界が劇的に変わることってないのだろうか、とある種がっかりしたことも覚えている。その失望はつい最近、具体的に言えば1999年の7の月にも味わったのであったが。その反証は残念なことに、2001年に同時多発テロと言う最悪の形で突きつけられてしまう……。

結局。とその時筆者は思った。結局この、生まれたから何となく感じている薄皮一枚包まれたような、この息苦しさから脱却できるトンネルに新世紀元年はなってくれなかったのだな、と。

小学校時代はまた、ゲームハード競争の花盛りでもあった。とは言え我が家ではゲームハードの選択肢など我が家にはなく、セガサターンというハードの存在を知るのは大分経ってからだった。確か、サターンボンバーマンが十人対戦が出来るというのでやってみたかったのだが、それは我が家のゲーム機では出来ない、と父に教えてもらった時に(父は還暦を迎えたがちびちびとゲームを嗜み、ドラクエも11までクリアしている)初めて意識したように思う。ニンテンドー64はCMでよく見ていたが、これも購入することはなく、友人宅でのアトラクション的位置づけとなっていた。ポケモンブーム真っただ中であり、当時は通信ケーブルを持っていると友人間でVIP扱いされたものだ。ワンダースワン……知らない子ですね……。

ネガティブな話で言えば、サカキバラ事件は被害者が同年代で大きな影響を受けた。金田一少年の事件簿名探偵コナンを読み始めており、ミステリーに興味を持ち始めていたが、だからこそ人が人を殺すときには決定的な何かがあるはずだと思っていた自分にとって、理解不能な動機であり動揺したものだ。

中学は男子の誰もがそうであるように人生で一番馬鹿だったように思い、それ故に楽しかったのだが、記憶があまりない。この間実家に帰ったときにたまさかその頃の写真を何枚か見たが、襟足が長く、肌は日に焼け、ニキビがぽつぽつとあり、首はアルパカの様であって、これは果たして人類なのだろうかと猪首をかしげることしきりであった。卒業式の写真を見るに学ランのボタンは半分くらいなくなっているようであるが、愛護団体的な感覚であったのか、眼鏡の度が合っていない学生が複数人通っていたのか、今となっては判らない。

部活では膝を壊してしまい、その間に真・三國無双シリーズにのめり込んだ。そこから蒼天航路に出会い、ちくま文庫の正史を読みふけった。掲示板で次回の展開を語り合ったりもした。

高校は朝が早いところであった。早い時には五時半には起床していた。弁当を作り続けてくれた母には頭が上がらない。ここで自分は頭がいいのではなく、人より理解が少し早いだけ、早熟であっただけで、そして早く熟れるがゆえにすでに腐り始めており、それまでの貯金を使い果たしつつあることを思い知らされた。主に理系の教科で赤点と言う名で自分が才能と思っていた果実は地面に腐り落ちて叩きつけられていった。高校二年あたりの春休みに戦国無双2が出たのも良くなかった。安土桃山時代の一つの合戦の参戦武将はすべて答えられてもチリの主要産業は一切頭に入っていなかった。

F先生と言う国語科の先生がいらした。ある時、授業で当てられて答えた江雪と言う漢詩の解釈がF先生に気に入っていただけたようで、学校新聞のコラムを書かせてもらうことになった。部活はバスケットボール部であって、新聞部諸賢には申し訳なさもあったが書くことは楽しかった。なかなか好評で、新聞部諸賢の他の素晴らしい記事もあって何かのコンクールで二席を取ったようである。それ自体も嬉しかったのは当然のこと、コラムを読んだ友人知人、教師陣が褒めてくれたり、感想を言ったりしてくれたのは望外の喜びであった。幼少から本は好きだったし、「おはなし」を考えたこともあったが、自らの書いたものを世に発表し、それによってリアクションを得ることの快感はこの時に知った。いわばこれが筆者の創作の原点、スタートであると言ってよいだろう。

一つ自信がつくことで他の科目もそれなりにはこなせるようになった。その後もF先生は目をかけてくださり、他教師陣に対しても好かれるタイプではなかったが人畜無害ではあったので、高校三年生の時にF先生の母校でもあるW大の推薦の話を頂いた。当時は我が家は曾祖母二人の介護に追われており、また弟の高校受験とのダブル受験でもあったことから、大変勿体ない話であったが辞退することとなった。下品ながら書いてしまうくらい、今でも時々夢に見る、人生の中で数少ない後悔である。

広島の大学に進学した筆者はこれから毎日創作をするくらいのモチベーションでいたのは最初の三日くらいで、四日目にモンスターを狩猟するタイプのゲームを買い、日記帳はその日狩ったモンスター目録となっていった。これではいかんと思い文章力を鍛えよう、人の目にかなう創作を考えた時、筆者が辿り着いたのが2chの「文才ないけど小説書く」スレであった。既に大分大衆化が進んではいたけれどもそれでも匿名掲示板と言うのは遠慮せずにものを言い、また言ってもらえる場だと考えたからだ。三大噺的な形式で書かされるという点も、書くものが偏らなくていいと思った。縁もゆかりもない人々からレスポンスがもらえるのは嬉しかったし、歯に衣着せぬ意見はありがたかった。自分と切り離して文章、創作を見てもらえ、当時は住人も多かったためフィードバックが早かったのも利点であった。

他方で、大学でも創作サークルに所属した。これは前述した部分とは綺麗に正反対になっていて、同好の士と話しながら作品を投げて投げられて夜を徹して創作論を戦わせるというのは今まで孤独に創作をしていた人間に与えられた光明であった。他方で、誰それにウケるようにということで自分の創作を自分で歪めていないかを恐れもした。創作者としては、出力に問題があり、(それは今もだ)寡作にとどまった。地震があり、曾祖母が相次いで亡くなり、地元愛なのかどうなのか、ともかくも郷里に帰ることにした。

地方と言うだけで「まとも」な企業である確率と言うのはがくんと下がるのだが、折しも震災不況、筆者が新卒でどうにか入った企業もなかなかな職場であった。それでもなんとか五体満足で転職し、今に至る。妻が創作をする人であるということもあって、このように令和最後の日にポチポチカタカタしている夫を快く見守ってくれている、というか自分もドダダダダダダと何かを打鍵している。突発本を出したくなったらしい。ジャンルの宝である。平成最後の日、令和最初の日を最も大切な人と迎えられることをもう少しかみしめたいが、今かみしめると妻の打鍵の振動で下唇を噛みそうだ。

Twitterで少し話したが、結局自分にとって平成と言う時代は余りにもパーソナルな時代である。どこまでも個人的な話になってしまうので日付と元号が替わる前にこの辺りにしておこうと思うが、このような整理をする機会を与えられたのも生前譲位をご決断されたからであって、厳かなものから文字通りの祭事に発展したこと、まことめでたいと思う。

終わり良ければ総て良しと言ういにしえの建前に拠れば、平成は最高の一言に尽きるのであろう。

愛はさだめ、さだめは血――KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-2話感想

余談

前回、1話他について感想を書かせていただいたところ、予想をはるかに超える反響があり、大変驚いた。なんとGoogleにもおすすめ記事として取り上げていただいたようである。勿論大変うれしかったのであるが、それほどの耳目に耐えるものであったかどうか疑わしく、恥じ入る次第である。

2話もBSテレ東で見た。エリート諸賢が「2話までは見て!」と常日頃主張されていたことが非常によくわかる好エピソードで、今後のハードルがガンガンに上がり切ってしまって心配になってしまうほどであった。1話において「なんだこのクレイジーなアニメは……」と怖いもの見たさで継続視聴した諸賢においてもアニメを見るのではなく、キンプリを観るという体験を改めて味わうことによって単なるネタアニメではないと理解されたことであろうと思う。プリズムに煌めいてあれ……。

しかしその感想となると困ってしまった。本来であればAbema配信までには感想を固めたかったのであるが、平成最後の出勤のための実生活のバタバタであったり、前回過分な評価を得たためにその承認欲求の満たされ振りが忘れられず二匹目のどじょうとして記事を書こうとしているのではないか――と内なる自分との葛藤があったり、なにより感想を書こうとして細部を確認しようと2話を再生するとそのままボーっと終わりまで視聴してしまったりしてなかなか進まなかったのである。

そうこうしている間にabemaTVでの無料配信期間の終了が迫ってきてしまった。また、レインボーライブも早く続きが見たい(実は2話まで見ているのだがそれ以降はこの感想記事を書いてからと縛りを自分に課していた/キンプリで見た人々がいてうれしい。そろそろオーバーザレインボーが結成されるのだろうか)ということもある。

ということで、いつも以上に乱筆乱文になってしまうかもしれないことをご了承願いたい。

abema.tv

以降、ネタバレとなるので未見の方は2話から見ても全く問題ないので是非鑑賞いただきたい。サムネイルのチョイスが謎な以外は表記通り24:09で終わるなど物理的にも安心な作品となっている。CMが本編に被るのでご留意されたし。

 

 

本題

親を子が超える――創作において一つの普遍的なモチーフであり、また現実においてもしばしば話題となるテーマである。それは神話の時代からそうであるし、アニメ漫画的クラシックで言えば巨人の星HIPHOP界隈でやたら引用されがちグラップラー刃牙、実世界に目を移せば和解を果たしたらしい大塚家具など、枚挙にいとまがない。

太刀花ユキノジョウが今回向き合うのはそのテーマ、のように見えて本質は必ずしもそうではないところにキンプリの妙がある。やはりキンプリは愛の物語であって、今回の話と核となるのもやはり愛である。互いの愛が傷つけあってしまうことに気づき、自分が何に拠って立つのかを見出すまでの物語となっている。

ユキノジョウにとっての不幸は、彼がその悩みに囚われた時、既に祖父が他界していたことであろう。

父は同じ舞台に立つものでありながら、国立屋の血を引いておらず、

母は国立屋の血を引いてはいるが、舞台に立つことが出来ない。

2人ともそれぞれ国立屋の、ユキノジョウのことを案じているのは間違いがないが、しかし国立屋の血を引き、舞台に立つユキノジョウの気持ちとは完全にシンクロさせることが出来ず、多くの部分が重なり合っているからこそ、そのシンクロしきらないズレがそれぞれの内面を傷つけてしまう。同じ条件にいた祖父が存命であれば……と思わずにはいられないが、祖父の遺した盆栽こそは自らが死してなお残るものがあるという証明として、ユキノジョウの国立屋を想う気持ちを育ててくれていたはずである。(存命であれば、美しい形を必ずしも保つ必要がないことを教えてくれていたかも知れない)

ユキノジョウが悩んでいる中で、ミナト、カケルがまたスッと風呂に入ってくる。いや、練習の後は汗を流すだろうから非常に論理的な展開ではあるのだが。「嘘がうまい」と言われると同じ声帯を持つラッパーを思い出してしまうが、ともあれ燃えるような髪色そのままの激情を見せられる「高校二年生の太刀花ユキノジョウ」でいられる仲間が出来ただけでプリズムショーは置いておくとしても、エーデルローズにいる意味はあったということであろう。ミナトがカズオ呼びであるのもさらっと言っているがいいな、と思った。洗面器が顔面直撃しても仲裁に徹するミナトが優しく、ユキノジョウがどこを触ったのかがエーデルローズ七不思議に追加されていく。尻アス…いやシリアスなシーンだが程よく中和されているように感じた。(カケルの隅々まで見た発言の時に階上のレオがどんなリアクションを取っていたのか気になる)思えばカケルも大財閥の跡継ぎ候補であり、ミナトもきょうだいを多く抱える身、背負うものを持つ同期から見えないところでも刺激を受けたことであろう。今後それぞれのスポット回で今度はユキノジョウがどのように作用するのかも気になってくる。

自分を「逃げていた」と考えたユキノジョウは改めて自らのルーツ、父と祖父の話に向き合う。父もまた初めから今の父であったわけではない。祖父の藤娘の稽古の姿に藤娘の理想の魂(イデア)を見出し、更にそれを師匠である祖父その人にある種否定されることで一段上の高み、自らの舞台に上がり、当代最高と言われる藤娘を作り上げたのである。

母は「あなたには祖父と父の血が流れている」と言う。しかしユキノジョウのその優しさは、「プリズムショーを志したことは決して逃げではない」と肯定してくれる母の血が流れているからに他ならないと視聴者は感じることであろう。ユキノジョウの髪色はどこからやってきたのだろうとかそんなことは些細な問題なのである。

そしていよいよ、アバンへ時間軸が戻り、プリズムショーが開幕する。\イヨォ~/

迷いのなくなった動きに父母も驚きと感嘆を隠せない。そのままプリズムジャンプに移行し、まずは千本桜フラッシュを造作もなく決める。(そうなると最初の橋は五条大橋なのだろうか?)2連続「国立屋スパイラル」逃れられぬ血のさだめに正面から挑み、乗りこなす。それはその名とは裏腹に迷いの螺旋から抜け出せたことを雄弁に物語っていた。にらみの見事さときたら!

\国立屋!/\国立屋!/

3連続「プリズムジャンプ十八番・国立屋流藤娘:夢見心地恋地獄」現在の歌舞伎演目での「藤娘」は長身の6代目尾上菊五郎がその姿を少しでも華奢に見せるために藤の飾りを大きく作ったことが現代にも受け継がれているというが、同じくすらりとしたユキノジョウがステージに満開の情念と藤に包まれる様は正しく美の暴力と言った形で圧巻である。自らの藤娘とはまた違う形――模倣と違う自らの「魂」を見つけつつある子を悟り、父は動揺する。

\国立屋!/\国立屋!/\国立屋!/

4連続「プリズムジャンプ十八番・百花王子回転炎舞」迷いを捨て、燃え滾る己が血潮。まさか2連続の時にヘモグロビンが映っていたのが伏線だったとは……己の血に眠る祖父を呼び覚ましついに父にその面影を叩きつける。ユキノジョウが分身し、3人で行う連獅子は祖父・父・息子の現実には2度と叶わなくなった3代三連獅子なのだなと思うと力強く、美しくもどこかセンチメンタルである。

\国立屋!/\国立屋!/\国立屋!/\国立屋!/

後半2つの演出は特にすさまじく、BLEACH卍解なのか? 刀剣開放(レスレクシオン)なのか? ユキノジョー・ジャガージャックなのか? といった感じで滅茶苦茶にかっこよかった。かっこいい字体で必殺技名をドンドンドンと出されるのが嫌いな男なんていません。

相手のプリズムショーが観られなかったのは残念だが、結果は見事勝利。父もまた、壁を乗り越えて煌めく息子を眩しそうに見つめるのであった……。

生きるべきか死すべきか、国立屋かプリズムスタァか。まァ一休みしてから考えよう、ではなく総取りを選んだユキノジョウ。そう、二者択一ではない。互恵関係であったこの2つを取り入れることによって、国立屋はますます発展していくことであろう。

久々にスピンオフ「今昔百鬼拾遺 鬼」が発表された百鬼夜行シリーズの「鉄鼠の檻」には今川と言う「うまく描こうとした」ことで伝統芸能の後継者になれなかった男がいる。詳しくは「鉄鼠の檻」を読んでもらうとして、しかしユキノジョウは「国立屋」という檻を見事破って見せた。伝統というのは本来、その時に最善であった革新に過ぎないというメッセージを感じた。このストーリーをわずか三十分足らずで語って見せるのだからキンプリは恐ろしい。

諸般の事情により劇場で鑑賞できないのが臍を噛む思いであるが、3話を座して待ちたい。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

29才8ヶ月のリアル――アラサー男子、ヒプノシスマイクにハマる。①信じて送り出した妻がシンジュクの女になって帰ってきた編

余談

 あの頃、筆者は世に言うブラック企業にいた。タイムカードは存在せず、年棒制と言う名の定額働かせ放題、旧態依然とした風通しの悪い歪んだ体育会系企業。家族的経営の典型的な間違った見本。近所からは「不夜城」と呼ばれる事務所を出るのは午前様であることも珍しくなかった。それぞれが個人主義と言えば聞こえがいいが要するに隣のデスクの人間が何をしているのかわからないし自分が何をしているかを他人に共有する術もない。簡単なことが出来なくなる。俺のせい。俺のせい。一つ一つ慎重にやっていく。定時が過ぎる。大ボスが帰り、先輩がはしゃぎ始め、集中力が途切れていく。スペックの低いPCがフリーズする。俺のせい。俺のせい。ボーンというPCからのエラー音、何かの記念でもらったらしい鳩時計の時の区切りを告げる音。出先から帰ってきたスタッフのけたたましく階段を駆け上がる音、耳障りな内扉の開く音。給湯室の笑い声、一番うるさい音、腹の立つ、自分の、心臓の、鼓動。この世界には音が多すぎる。朝起きる度にどうやったら辞められるかを考える。出社の為にエンジンをふかしながら思い切りアクセルを踏みつけて対岸に飛び込んでしまおうかと。けれど会社は嫌いだけどお客様は好きだった。迷惑はかけたくなかった。今日も週に一度の朝七時からの啓発活動が待っている。下っ端だから六時半には到着して座席他の準備をしなくてはならない。お茶用のお湯を沸かさなくてはならない。玄関を掃除しなくてはならない。失礼の無いよう。失礼の無いよう。精一杯の笑顔を浮かべる。媚びた顔をするなと一蹴される。すみませんと頭を下げる。脳内で[s]を打ち込めば「すみません」がサジェストされるようになって久しい。コネ入社の社員が伝票を間違えている。頭でっかちの提案したスキームは法改正を踏まえていない。上役は用紙が切れているのに気づかずに印刷ボタンを押し続けている。それとなく指摘しなくてはならない。失礼の無いよう。失礼の無いよう。

史上最年少である額の売上を達成した。当たり前のようにそれを基準で次の目標が設定された。分かっていたことだったが。「売上次第で年収が上がる」はずだったのだが、「新卒の最初は売上を全然上げていなかったのにお給料はもらっていたこと申し訳なくないの?」という謎理論により据え置きになった。今や時間で割れば大学時代のバイトより薄給になっていて、筆者には大切な人が出来ていた。辞めることにした。心療内科にかかろうかな、と思ったが今のこの状態に名前を付けてもらうと今後の保険加入諸々で不利になってしまうことを仕事柄分かってもいた。俺は眠りたいだけなんだ。

一世一代の退職願を書いた。「水風呂に入って頭を冷やして見たらどうか」大ボスはこれで大真面目に心配してくれているのである。この人は嫌いではなかった。お金が好きで権力が好きだが、お客様のために自分が矢面に立ち、従業員をこの人なりに愛してくれる人だった。けれど後継者があまりにもあまりにもだったのだ。結局辞めるまでに三か月を要したがどうにか生きて脱出できた。体重は入社した頃から30kgほど増加していた。

しばらく休んでいると妻(当時は彼女)が「これ面白いよ。特にR-指定がいい」とある日勧めてくれるものがあった。

R-指定なんていうから何やらいかがわしいものかと思ったら「フリースタイルダンジョン」というものだった。「ダンジョン」という単語にRPGキッズである筆者は食いついて観てみると、画面ではおっさんが罵り合っていた。

MCバトル。

正直なところ筆者はHIPHOPはそれまで全くの門外漢で、やたら感謝したり語尾をそろえたりする類のものだと思っていた。

だが見せてもらったそこには、むき出しの魂と魂のぶつかり合いがあった。今から思えばダンジョン全体を見渡しても屈指の名バウトであった「VS掌幻戦」を鑑賞して筆者はすっかりMCバトルの虜となっていたのだ。当時はバックナンバーがYouTubeで配信されていたのでむさぼるように観た。

人として生きることの最も根源的な欲求、自分を認めさせる、自分を誇る、自分で道を切り開く。それが凝縮されていた。生きるとはこういうことなのだ、とその番組を通して妻が教えてくれたように思えた。

余りに陳腐な言い方をすれば「フリースタイルダンジョン」に筆者は救われたのだ。


SKY-HI / Enter The Dungeon

主題歌もとてもよかった。エンドロールに流れるたびにワクワクしたものだ。AAAが大変だけど頑張ってほしい。

本題

それから幾年かが過ぎた。HIPHOPは我が家にすっかり馴染んでいた。日々のやり取りにパンチラインを入れ込むことも日常であった。

以前記事にしたように、妻は二月に首都圏にてイベントに挑んだ。最中、妻は適宜状況を報告してくれていた。

「新宿に着いた! 人が多い!」

「渋谷に来ました! おしゃれ!」

「反対方向に乗って横浜についてしまった……」

らしんばん最高! 池袋です」

今思えばこの時察してしかるべきだったのかも知れないが、筆者はただ妻が人ごみに流されて変わってゆかないように遠くから見守るしか出来なかったのである。

実際には、それすら出来ていなかったのであるが――

無事に帰鹿し、妻を空港で出迎えた。待ちかねたような顔。「早く車に行こう!」我が家を恋しく思ってくれる妻を嬉しく思いながら愛車に乗り込むと妻はリュックからごそごそとCDを取り出した。

(写真は後日撮影したものです)

筆者「ゲェーーッ これは!」

妻「私は妻……いえ、シンジュクの女……独歩ちゃんの庇護者……」

信じて送り出した妻はシンジュクの女になって帰ってきたのである。ついでに各ディヴィジョンの聖地巡礼も済ませていたのである。恐ろしい子……!

妻「フォロワさんたちが勧めてくれていたから興味はあったんだけど足踏みしていて……でも新宿サラリマンが物を落としてそれを拾ったら『こんな人のような扱い……久しぶりに受けました……』みたいな顔をされて……その時ああ、サラリマンを応援しようと思ったの」

筆者「なるほど……取りあえず聞いてみましょう」

掌に数千曲が入るようになった世の中で、かえってCDを回転させる機会も機械も日常から減っていった。それは誰にとっても、妻にとっても。東京での色々は今、カーステレオにてヒプノシスマイクのCDを流すことで完結を迎えようとしているのだ。

とっても申し訳ないのだが、初めてすごくかっこいい声がそろって「さーいしゅうけっせん!」と言い出したのを聴いたとき、笑ってしまった。シリアスな笑いと言っていいかもしれない。じゃないのかよ! とも思った。しかし、入間銃兎の切れ味鋭いバースの次に観音坂独歩のバースが流れ込むと、そのフロウは確かに妻が好きそうだな、とも思った。わからんさ! 

そして一週間後、筆者は発売日に「The Champion」を購入するのだった。三軒回った。The Dirty Dawg結成のきっかけが全く見当がつかないので我が家では協議の末「同人サークルだったのではないか?」ということになった。

妻という人は好きになると本を錬成してしまうタイプの人間である。しかし同人においては人気ジャンルにちょっかいを出すことはかなりデリケートな部分でもあるようで、妻は苦悩していた。無論、妻の欲望は金の為にない、妻の為にあり、故に果てしないのであるがなかなかな逡巡があったようである。背中を押すためにバースを蹴ったりもした。(何をしているのだ)

あの史上に残る無様な会見の時もサンプリングで怒りを表明したりした。

妻の一押しは独歩君である。今、筆者は独歩君と同い年だ。けれど夏が来れば筆者は三十歳になる。独歩君は永遠に二十九歳のままだ。そこに幾許かの嫉妬を覚えないでもないが、推しは生活を豊かにすることは筆者もよく分かっているつもりだ。喜ばしいことだと思う。まだ語りたいことの半分にも達していないが、アルバムリリース日になってしまったので急遽複数記事構成であることにして一度筆を置く。リリース、めでたし。

ヒプノシスマイク-Division Rap Battle- 1st FULL ALBUM「Enter the Hypnosis Microphone」 初回限定LIVE盤

 

坂下り――NGT48チームG「逆上がり」千秋楽公演(聞き書き)感想

会合を早く終わらせることが出来、家路を急いでいた。妻に早く会いたかったし、チームG「逆上がり」公演を少しでも見たかったのである。

出発が少し遅れたため、録画をもう一度流したのか? という支配人挨拶はさわりだけ見た(妻によるとのち怒りのヤジがあったようで、ファンの気骨を感じたとのこと)。

妻は最初の寸劇の感想を怒りを乗せて送ってきたが、以降は沈黙しており、少なくとも公演は順調に推移しているのだろうと安心して会合に臨むことが出来た。

やっと駐車場に着いたとき、妻から通知が来ていたのに気づいた。

菅原りこさんと長谷川玲奈さんが卒業発表。

一心不乱に階段を駆け上がり、やはり脛を打ち、鍵を開ける手ももどかしく家に飛びいると、妻は呆然として画面を見つめていた。菅原さんが映っている画面を。

菅原さんはどちらかというと「飛び道具」的なお嬢さんで、まっすぐであるが故にトリッキーと言う不思議な魅力があった。「交通安全は危険です」なんて筆者には一生思いつけないフレーズである。

知らないうちに髪を切っていた菅原さんは、涙に目を濡らしながらしかしいつもの様にまっすぐに言葉を継いでいた。

筆者は前にも菅原さんの涙を見たことがある。総選挙にランクインできなかった時だ。その時に彼女の夢がソロコンサートであることを知った。

そして今、彼女はそのソロコンサートを諦めた訳ではないことを話していた。

今となってはとても皮肉なタイトルになってしまったが文句なしの名曲である「世界の人へ」に総選挙圏外メンバーで唯一参加したメンバー。これからのNGT48を担うべきメンバーがいま、「NGT48のりったん」としてのソロコンサートは行えなくなったことをファンに詫びている。

「少しずつ前を向いていきたい」という言葉にNGTの活力の象徴であった彼女がどれだけそのまっすぐさ故に様々な方向から歪められようとしていたのかが感じられ、胸が苦しくなった。

そして彼女が深く深くお辞儀をした後、チームGリーダーである本間日陽さんがまとめの言葉を言おうとした時、

「ちょっと待ってください」

の言葉が発せられた。聞き覚えのある優しく少し揺らぎのある声。

山口真帆さんだった。

更に痛々しくやつれた彼女はそれでもなお美しく、それ故に一層悲劇的だった。

そして彼女は卒業を告げた。

「最悪だ」

筆者と妻はほとんど同時に声を発した。

二、三、言葉にならないうめきを上げた後、山口真帆さんの言葉の一言一句を見逃すまいと画面に目を凝らした。

この段に至ってもなおNGT48を大好きだと言ってくれる彼女に対する、余りにも酷過ぎる大人の裏切りと、それに対する返答としてもはや選択肢が卒業しかなくなってしまった彼女の諦め。ファンへの感謝、最後の握手会と公演出演の告知だった。

ここまで来ても、彼女はNGT48とファンの為に最後の舞台を用意してくれているのだ。

自分のことを支えてくれてありがとう、今後は自分の為に時間を使って楽しい人生を送ってください――身を斬られるような言葉だった。結局こんな結末になってしまった。

「夢の話をしましょう」そう言っている彼女の笑顔。こんなに悲しい笑顔を筆者は初めて見た。

正しいことをしている人が損をする世の中であってはいけない。初めから一貫している彼女の主張はしかし、とうとうNGT48においては受け入れられることはなかった。

けれども彼女はNGT48になれてよかったと挨拶を結んだ。

彼女もまた深々と頭を下げ、本間さんが今度こそ本当に公演を締めた。

長谷川さんと山口さんが寄り添って退出していく。うつろな目で筆者は「長谷川さんは、(挨拶とか)どうだった?」と妻に尋ねた。

「謝ってた……何度も」

妻もまだ出来事を整理しておらず、そう伝えるのが精一杯の様であった。

本間さんの涙の挨拶の間も心は浮遊しており、いつしか配信は終了していた。

妻からぽつぽつと講演の内容を聞いた。

「寸劇はつぐつぐ(妻のNGT48での推しメンの小熊倫実さん)が出ていて……皆キラキラしていて……言い方は申し訳ないんだけどりかちゃん(中井りかさん)のあんな純な笑顔は初めて見たかもしれない……「エンドロール」はKの印象が強いからすごくかわいいエンドロールでびっくりしたけど新鮮でよかった。「わがままな流れ星」、「抱きしめられたら」、「ファンレター」が個人的には特によかったかな……「ハンパなイケメン」の歌詞が完全にまほほん(山口真帆さん)で……彼女がアイドルとして本流であるべきなのにどうしてって足があんまりやせ細っているのもあって泣いてしまった……もちろん、48Gは既存アイドルのカウンターと言うところから始まっているのは判っているんだけどさ……正統派アイドルが冷遇されるのはともかく人として正当な人が弾劾されるってどんな人外魔境だよと思う……でも全体的に本当にいい公演だったしいいチームだなと思った。正直好奇心と言うか、まほほんがどうなってしまうんだろうっていう部分もあって今回千秋楽を観たという所もあったんだけど、もっと早くからこの公演を見たかった……最後の曲が「To be continued.」で……本当にずっとこの瞬間が続いてほしいと思ったくらいだった。そりゃこのチームを解体しますと言われたらブチ切れても仕方ないよ」

続いて山口さんの今後についても「私なんかがするのはおこがましいけど」と言及を続けた。

「まほほんには本当に幸せになってほしい……でも今後例えば素敵な人が彼女の前に現れたとして、きっとあの瞬間、顔を掴まれたことがフラッシュバックしてしまうと思う。それが同じ女性として本当にあり得ないし許せない。一人の女性にそこまでのことをしておいて、疑惑のメンバーは残っていて、こんなのは納得できないよ。「制服が邪魔をする」(AKB48のメジャー2枚目のシングル)からずっと紆余曲折はあったけど48Gを応援してきたけど、さすがにちょっともう……って感じ。でももふちゃん(村雲颯香さん。山口さんが言及した支えてくれたメンバーで唯一NGT48に残留する)が本当に心配だよ……だから今後も動向はみていくけど、もう応援じゃなくて『監視』だよね……」

NGT48には本当のアイドルがいた。そしてそれを、NGT48自体がアイドルとして殺してしまった。全米が震撼するのと同じくらいのペースでAKSは死に続けているが、今また死んでしまった。信頼は下り坂だ。まだ下る余地があったのかと驚かせてくれる。

長谷川さん、菅原さんともに新潟県の出身である。運営はまた一つ新潟に対して償い難い罪を重ねてしまった。大事な娘さんを預けている親御さんたちの心配いかほどばかりであろうかと思う。

最高のアイドルにせめて最高の花道が来月の公演で用意されることを願いたい。

傲りの悪鬼(オーガ)――NGT48チームNⅢ「誇りの丘」千秋楽公演感想

本当はレインボーライブを鑑賞するつもりだった。

ただ、妻から本日がNGT48の千秋楽公演であるということを教えてもらった。

虹の煌めきとは正反対の厳冬を日々過ごす現実のアイドル達。

その一つの区切りが訪れようとしている。

「これ以上あのクソ運営に金を落としたくない」という気持ちもあったが、かつて愛したグループを「看取る」と言う気持ち、「香典」という考えでもってDMMに課金した。

開演は12:30からと言うことであった。

夫婦で買い物に出かけ、ギリギリになるということで妻は自分の買い物を1つ諦めた。

慌てて階段を駆け上がり、脛を打ったりしながらもDMMにアクセスした。時刻は12:32分となっていた。

画面は静止画のままであった。もしかして時差があるのかと思って暫く待っても始まらない。Twitterで検索してみると他の人々も同じような状況にあるようだ。どうも入場に随分時間がかかってしまっているらしいという話、もしかしたら自体が風雲急を告げており開演に手間取っているのではないかと言う話など情報は錯綜していた。

13時前、漸く画面が動いたかと思うと、加藤美南さんの影ナレが始まった。いつもより声のコンディションが良くないようだった。開演が告げられると、早川麻衣子支配人が登場した。ファンへの謝罪とこれからのNGT48への応援のお願いだった。声は震えており、涙が見て取れた。

山口真帆さんへの謝罪は特になかった。

そして公演が始まった。

惜しくも二ケタ出演に届かなかった(五回)柏木由紀さんのさすがのパフォーマンス、急遽怒涛の研究生公演を押し付けられながらもこなした研究生メンバーの初々しくも可能性を感じさせる動き、そして他メンバーが所々で感極まりながらもしっかりとした演技。正しく集大成であったと言えよう。

公演自体は恙なく終了した。

本当に恙なく。

それこそ異常なほどに「普通の千秋楽公演」だった。

MCカットもなく、メンバーの途中降板もなく、不自然に避けられるメンバーもいなかったように思う。

メンバーが公演の思い出を語り、兼任解除されるメンバーが残されるメンバーへの思いを語り、キャプテンがこれからの展望を語った。

「ちょっと待ったー!」

は内部からも外部からもかかることはなかった。お見送りも普通に行われたようだ。

実のところ、筆者はアンコールの時少し期待をした。本当のファンなら、こんなお仕着せの手打ちではなく、声を上げてくれるのではないかと。

あるいは退出でもよかった。

結局のところ。NGT48の感謝と今後の益々の発展を祈った後、全てのメンバーの名前がコールされ、チーム名がコールされ、アンコールは成立した。

はじめニュースになった時、筆者は襲撃者がニュースにて「ファン」と呼称されたときに憤った。奴らは断じて「ファン」ではないと感じたからだ。

けれど画面越しにそういった光景を見せられると、少なくとも今日において、NGT48を「殺した」その一翼を「ファン」が担ってしまったのだなとさめざめと悲しくなった。

残念ながら会合があるので筆者はチームG「逆上がり」千秋楽公演を観ることは出来ず、妻に託すが、17:30開演でありながらやはり今のところ動きがないことを見るに、早くも暗雲が立ち込めている。

AKSという傲りの悪鬼を懲らしめてくれる桃太郎の登場を望んでやまない。