カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

武か数寄か、それはもはや問題ではなく へうげもの最終巻感想

※「へうげもの」の全編ネタバレがあります。

 

余談

器が好きである。器のいいところは、触れるところだ。なので茶碗やおちょこ、ぐい呑みの類が特にいい。つるつる一辺倒でもざらざらオンパレードでもなく、釉に多少のムラがあるようなものが好きだ。様々な感触を指先に染みこませながら、その器の中のものを食べるとき、五感全部を使って食べ物を自らに取り入れているような気分になる。道の駅だとか、お祭りに行くとつい、その土地土地の焼き物ゾーンに足が向いてしまう。

紅窯さんに出会ったのは昨年の暮れ、地域の市(いち)であった。何とも言えない魚の表情に自然と口元がほころんでいた。出店に立っていたのは作陶された川原さんの奥様で、ご自身も作陶をなさるということだった。

「私も描いてみましたが、主人でないとやはりこのさかなの味は出ないんです。ふしぎなもので、主人がふくらむとさかなもふくらんできました」

やわらかな言葉と表情でそのように言われた。成程、「魚」というより「さかな」と表記する方がよりこいつを的確に表しているようだ。一枚一枚全て異なるさかな達をとっかえひっかえし、腕を組み、一応は唸っても見て、途中ふるまいの豚汁を頂いて冷静になったりもし、これと決めた一枚を買い、その後やはりと二枚買った。妻にブローチも買った。その際貰った抽選券で地元の米が当たってのち、なにやら、さかなの笑みの不敵度が上がったようにも思われるが、本当のところはわからない。

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 彼は器のために死ねたのか?

 余談が、ながくなった。

へうげもの」がとうとう完結してしまった。25巻の大作である。なにやら面白いらしい、という話を聞きながら、読みはじめたのは連載が14巻の辺り。山田先生の歴史の新解釈にすっかり心奪われ、一気に既刊を全部揃えてしまった。その古田織部の数寄道中についてはまた一巻ずつでも感想を残しておきたいが、ひとまずは最終巻、25巻の感想である。

歴史ものの常として、ある種の「ネタバレ」は「史実」として必ず付きまとう。それぞれの人物の史実での最終地点がわかっているからこそ、それまでの造形にギャップがあると、どう着地するのか、あるいは期待し、あるいは不安に思いながら読者は追いかける。

蒼天航路」で「この関羽絶対負けないのでは?」と思うし、

センゴク」で「最も失敗した男の最大の失敗はどう描かれるのか(最近描かれつつあるらしいですね)」と考えるし、

真田丸(秀頼が出てきたあたり)」で「今年の大坂方は勝ったな」と狂喜し、

「龍狼伝」で「もうこれわかんねえな」となりながらも脳の片隅では残酷なまでに史実が浮かんでいる、それが歴史漫画ファンである。

そういう意味で「へうげもの」は実に心地よく史実の裏をかいてくれた。

いいじゃないか。

爆散した松永久秀の平蜘蛛のふたを古田織部が後生大事に持ってたって。

信長が真っ二つになった後ひっついたって。

光秀が芭蕉の句を詠んだって。

利休が三肩衝の一つをぶち割ったって。

秀吉が新日本ハウスの歌をBGMに死んだって。

清正がロケットパンチ撃ったって。

基本的には残酷なまでに史実通りに進めるため、そういった大仕掛けのウソも力づくで納得させられる、なんとも気持ちのいい作品だった。(ああ、過去形になってしまう。悲しい)

その集大成が「古田織部切腹」である。前述の歴史漫画ファンたちは当然、

へうげもの」で「古田織部は最期どうなるのか?」と長年考え続けていたはずである。

今巻ではその答えが示される。

答えが出るまで、巷では様々な噂が出ていた。

  1. 第一話をリスペクトしつつ、三肩衝の中で唯一現存しない「楢柴」(この作品では利休の遺品)と共に爆死するのではないか
  2. 利休の切腹リスペクトで小堀遠州、または上田宗箇が介錯するのでは
  3. 何とかして生き延びるでござるよゲヒヒ

果たしてどうであったか。25巻。既に終わりの始まりどころか終わりの終わり、最終コーナーどころか最後のストレートもあと一歩、九回裏二死満塁ツースリーで投げられたボールはまさに最高速のこの場面で、焦らされる。外堀を埋めるかのように、他の面々の去就が語られていくが、特に白眉は俵屋宗達の名は知らずともこの作品を見れば「ああ! と思うあの作品が大坂の陣を象徴する作品であるのだという解釈の仕方。前述したように様々な大仕掛けのウソで楽しませてくれたが、この解釈は今までで一番仰天させられたし、納得させられた。五年前、ふるさとのデパート山形屋に複製画がやってきたことがあったので、貼っておこう。

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ネタバレどんと来いなんですが、この多くの人が一度は見たことがある風神雷神図がどのように「へうげ解釈」されるのか、その瞬間のカタルシスはぜひその目で味わって欲しく候。

また上田、小堀の双方が介錯したいオーラを醸し出し、イギリスのブックメーカたちが一喜一憂し始める、かどうかはわからないが、読む人々の手には汗がにじんできたことだろう。家康を殺すことさえ辞さぬ勢いで織部を生かそうとする秀忠の思いを知ってか知らずか、織部は自らの死を受け入れ始める。(すれ違いはへうげものにおいて悲しいほどにキーワードである)と、ここで秀忠はならばと介錯役を柳生宗矩に命ずる。どんでん返しだ。イギリス多分大騒ぎ。かと思いきや介錯役で駆け付けたのは小堀……!なぜそんな満身創痍に?

きゃっとわめく青二才を押しのけてやってきた介錯役・真打は、徳川家康その人。古田織部の数々の小細工のせいで家康はもうスーパー公私混同で織部絶対殺すマンから一族滅すマンにレベルアップしていたのである。イギリスはもはやビットコイン市場並みの地獄絵図だ。

しかし古田織部は家康に対し、ついに一笑を引き出す。最後っ屁というかそれ以上の何かによって。切腹人と介錯人から主と客へ。そう、利休の末期の茶席と同じである。その一笑はかつて家康から学んだ、晩年の織部が求め続けた「必死さが生む笑い」。即ち皮肉なことに、この世で最も「へうげもの」を憎む家康がいなければその家康自身に一笑たらしめる織部の求める「究極の必死さが(まあ実際切腹って死の最前線だ)生む笑い」にこぎつけることは出来なかった訳である。互いに不倶戴天であればこそ生まれる笑い。絶対に自分を殺そうとする家康の必死さまで利用した織部の作戦勝ちであろうか。(脳内利休に殴られたおかげのようだが)その敗北を悟ったのかどうか、家康は歯を食いしばり刀を振り下ろし

場面が変わり、時の流れが加速していく、「へうげもの」を彩ったあの人この人が去っていく。しかしそこに、悲愴さはない。

去り切れぬ者がいる。上田宗箇である。齢80を数えてまだ健在。(史実での享年88歳である)同じく健在の岩佐又兵衛と共に「どうもそんな「甲」に散っているとは思えないあの人」の足跡をかぎつける旅に出る。

ところで宗箇の縮景園は我が家にとって非常になじみ深い場所であるのだが(筆者が好きな博物館の真横にあり、妻の母校にほど近い。また、宗箇の居宅は筆者の下宿そば墓所は妻の実家近くにある)すぐに行ける環境にあった自分にそこまで「へうげもの」にはまっていなかった自分が今になって憎い。現在の縮景園は桜の季節が殊更に美しい。

 またも余談になった。いや、このくだり自体がへうげものにとって余話、余談であるかもしれない。しかし神は細部に宿るし、本当に大切なことは余話にそっと告げられるのである。

 

へうげもの」において、古田織部は武か数寄か、どちらかを選ばねばならぬ、かといって他方を選ぶと他方が鎌首をもたげる……という面白さが特に序盤の肝であったように思う。最終的には「武」の象徴、武門の棟梁「征夷大将軍(を引退した大御所)」を向こうに回す「数寄」の代表として向かい合うまでになった。即ち古田織部は「数寄」を選んだ……というわけではななかったのがここまで読まれた方々ならお分かりのはずである。彼の目指す「一座建立」即ち「和」は数寄と武がぶつかり合うことによって生まれるのだと。そして彼は、武者として生きるか、数寄者として生きるかの二者択一という次元から解脱し、ついに自ら「ひょうげもの」となるに至った。なんとも乙なものである。

彼は器のために死ねたのか? さにあらず。

彼は器がなければ生きていけないが、器のために死ぬのならひょうげものである資格がないのだから。