カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

何かをするために・c

平成28年4月14日から発生した九州・熊本地震により、犠牲になられた方に心よりお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。

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生きていると 悲しい

生きていることは 悲しくない

アスキー・メディアワークス 「キノの旅Ⅶ」時雨沢恵一先生著 より

 

(写真は地震の二年前に筆者が撮影したもの)

二年前の今頃、後から余震だったと定義しなおされる地震があった。

弟弐號機は熊本の大学にいた。大学の体育館でバスケットをしていて、特に大事はない、と兄弟のlineトーク画面で述べた。この時間の体育館でバスケをするリア充ムーブに驚かされながらもほっとし、万が一のこともあるから風呂おけに水を貯めておいた方がいい、と弟初號機とともに助言した。ガス栓がどこかおかしくなっているということで、弐號機は同じ下宿の友人たちと共に食堂で寝たという。

当時は高速を使って通勤していて、弟たちのこともさることながら自分も通勤中に余震が来たらひとたまりもないなと早めに出発したりもした。熊本城がダメージがあるということを心配したりした。今後西郷どんでどれだけ描写をされるかわからないが、熊本城というのはいわば官の、中央の代名詞としてその勇名を薩摩隼人たちの間で轟かせ、究極の仮想敵としてある種友情や愛情に近い畏怖心を持たれ続けた名城であり、薩摩隼人たちの見果てぬ夢のため明治期において多大なる迷惑を掛けられた。用の美に満ちており、小学生の時に修学旅行で行って以来、筆者は二、三年に一回のペースで訪れるほど惚れぬいた城である。

油断を誘っていたかのようにまたも深夜にそれは訪れた。弐號機曰く、洗濯機の中に入っていたらこんな風であるだろうと思ったという本震が。

何度聞いても慣れぬ耳障りな緊急地震速報で跳ね起きた。弟から、下宿崩壊、と短いlineが来た。浅慮にも咄嗟に電話を鳴らしてしまった。繋がらなかった。TVをつける。真っ暗な避難所が中継されていた。断続的な情報が流れていた。「大学生行方不明」「大学生連絡取れず」のテロップのたび、形容しがたい疼きが胸を襲った。全体としての大学生ではなく、俺の弟はどうしているか教えてくれとどうしようもないことを思った。TVの向こう側に入り込めるわけでもないのに、夜が明けるまでじっと画面を見続けていた。当時はまだ籍を入れていなかった妻が、気遣って寝るように促してくれた。(弟の様子を見がてら、GW前に熊本に行って熊本城を見てみない? とこの少し前に話したばかりだった)弟もそうであるが、彼女もまた不安であるのだ。それなのに気を使わせてしまっている。果たして自分は何をしているのだろう、と情けなくなった。

夜が明けて太陽が残酷なまでに様々を白々と映し出した。弟からなんとか生存報告が来たが、電池残量はほぼないということだった。添付された写真の数々に絶句した。入学祝に弟にプレゼントした原付があちこち凹んで横倒しになっている写真を見て、おとといまでと明らかに何かが変わってしまったのだと改めて感じた。家族で連絡を取り、母を窓口にして弟と連絡を取ることにした。何もしないと現実世界で叫びだしてしまいそうで、Twitterではたいそう情けない呟きを連投した。見た方々が温かい声をかけてくださり、また有益な情報を頂いたりもした。

弟から避難所から出て、友人の軽で大分周りに強行突破する、と連絡があった。そこまで避難できたのならそのまま救助を待ってほしい、と思ったが、食糧が不足しており、少しでも避難所の食い扶持を減らしたいこと、スペースを空けたいこと、何より何もしないでいることが怖くて仕方がないのだという現地からの叫びに安全圏にいる筆者の言葉は著しく無力であった。

どうにか福岡へたどり着き、公民館に泊めてもらえたと弟から連絡が来たのはもう4/17になっていた。随分久しぶりに聞いた弟の声が前より厚みがあったように思えたのは気のせいだったのかどうだったのか。「よかったじゃん、無事で」とそっけなく返事をし、彼女の作ってくれたつわの煮物を食べて後、熱いシャワーを浴びながら暫くの間泣いてしまった。どういう涙なのか今になってもわからない。

夕方になってようやく弟と合流した。自分のメガネは壊れてしまい、先輩のお古をメガネを借りていた弟はそのこともあってか別人のように感じた。

「6人くらい、助けられたよ、瓦礫とかから」

そんな阿呆なことをするのは当然弟であるのでやはり本人であるようだった。あのな、と筆者は怒った。それはやめろと最初に言っていたからだ。人倫にもとる行為であるかもしれない、けれどまずはお前が生きることを第一に考えてくれと。自分の命を最優先に考えろと。事実、瓦礫をどかしている途中に余震があったりもしたようであった。(また、火事場のなんとやらというか、この後病院で腱を多少損傷していたことが明らかになった)弟が今目の前にいることは様々な幸運が積み重なってのことである。少し何かがずれていれば、自分はだから言ったじゃないか、と喪服姿で呟いていたかもしれない。嫌なほどにリアルにその光景が脳裏で思い描かれた。筆者の文章力では到底表現しえない様々な感情が渦巻き、しかし結局のところ肩を叩いてようやった、お前はようやったよ、とだけ言った。正式な訓練を受けたわけでもない大学生が危険地帯で着の身着のままで救助するなど二次災害に至りかねないもってのほかの行為である。けれども弟は人を助け、自らも戻ってきた。約束を守った。

それでいいじゃないか、お前が今この場で弟を肯定せずしていつ誰が肯定するのだ、と全筆者が叫んでいた。

帰りの車中ではビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」が流れており、ちょっと出来過ぎなんじゃないかと思いながらも、弟の果敢な行動の一つの区切りが着いたことを感じたのだった。

それから暫く、大牟田で月一の研修を受ける機会があり、そのたびに途中一車線になる高速、そこから見えるブルーシートに覆われた家々で爪痕をまざまざと見せつけられ続けたが、先日福岡市博物館に行った時は随分と復旧していたようだった。それでもなおいまだに仮設住宅暮らしの方は多くいるというし、弟も元のキャンパスにも住居にも戻れていない。

筆者があれから何か熊本のためにできたか、というと、声を大にしていえることなどないが、能動的に何かするというだけでなく、忘れないということも大切にしていきたいと考える。

べつにそういうつもりで頼んだわけではないが、我が家のウォーターサーバーの水は南阿蘇のものであるし、今日行ったタピオカジュース屋さんは本拠が熊本であるようであった。そういうことくらいをやっていこう、と思う。

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くまもとが大好きでよかった! と不意打ちで宣言してくる黒いあいつを擁する熊本はいつか倒したい、だからそれまで誰にも倒されないでくれ、という鹿児島人の複雑な愛情を吐露し、夏に訪れることを宣言して、この項を閉じたい。


くまもとサプライズ!(みんなで踊ろう!バージョン)