カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

川よ、俺の川よ―避難指示、その時のある鹿児島県民の記録。

余談

26年前の8月6日、筆者は未就学児で、母と、まだ未婚で筆者をかわいがってくれた伯母――この年にはクリスマスプレゼントか何かで「五星戦隊ダイレンジャー」の「ウォンタイガー」を買ってくれた(そういえば少し前に話題になったグリッドマンのオリジナルもこの年であったはずだ)――と一緒に七夕飾りを作っていたという。

8月に七夕飾り? と思われるかもしれないが、元来、鹿児島は七夕を旧暦で祝うものだそうである。

にわかに大人たちが騒ぎ出した時も、筆者はわっか飾りの色が隣同士で被らないかどうかにご執心であった――という。

全て煮え切らない口調になってしまうのは母からの伝聞であるからである。

大人たちが騒ぎ出した理由である豪雨災害は、8.6水害と呼称され、今なお語り継がれている。鹿児島県民の共有神話となったといっていい。

筆者が強く覚えているのは、団地に住んでいた親戚の白いバンが流されたこと、その中の商売道具が全部水に浸かってダメになってしまったこと。その親戚は階段が浸水してしまい、ドアにまで到達して開けることも叶わず窓から避難したこと、である。

とはいえそんな状態の団地に筆者を呼ぼうはずもないから、これもまた少し落ち着いてから写真か何かを見せられたのかもしれない。

それでも筆者がその記憶を脳裏に刻み込んでいるのは、そのことを語る親戚の意気消沈した顔の傷ましさがあるのだろう。ザ・薩摩人という感じの彫りが深く、顔が四角く、豪快で情が厚いその親戚がその話題の時だけは、目に見えて気落ちしていた。個人事業主であった彼には商売道具の損害の補填も十分為されず、再起に大変苦労し、また親友も災害で喪っていたのだとまた別の機会に母から聞いた。そういうことを自ら決して言わないのもまた、良くも悪くも生粋の薩摩人らしさがあった。

特撮でもしばしば、大自然が人を襲う。その背後には悪の組織や怪人・怪物が暗躍していることもあり、その排除によって解決することがままある。

けれど実際の災害において、そんなわかりやすい敵はどこにもいないのだった。

長じてからも8.6水害は筆者の人生にちょくちょく顔を出した。小学校の遠足で行った石橋記念公園はその水害を受けて石橋を移設したことが発端の公園であったし、働き出した頃に8.6水害から20年が経過した記録放送がMBCラジオで行われ、当時の放送そのままがラジオで流された時にはよりによってその日が結構な雨であったので今の状態かと大慌てして、一人でウェルズの「宇宙戦争」かよみたいなことになっていた。

後の妻が鹿児島にやってきてくれて、二人で暮らす部屋を探す時に川近くを両親から猛反対されたのも印象深い。それほどに鹿児島県民にトラウマを刻み付けた出来事であった。

 

本題

雨の音で目覚めたのか、いつも通り眠りが浅かったのか。ともかくその日はぼんやりとまぶたを開けると同時に耳にはザアザアという音が飛び込んできた。雨自体は、先週からずっと降り続いていた。10号線も冠水している箇所があった。

それまでは空梅雨のような日々が続いており、寒暖の調整もそうだが、どうも鹿児島の天候の神というのは緩急のつけ方が雑だな、としみじみ感じていたりした。

ともあれもうひと眠り――と思ったところに耳障りな音が鳴った。エリアメールである。避難勧告が発令されていた。

筆者は窓を開けて周りを確認した。幸いなことに我が家の周りはいつもの雨の日の風景である。今のところは。さすがに眠る気にもなれず、家族にLINEをしてお互いの状況を共有したり、雨雲レーダーを見たりして脳を少しずつ起こしていった。

通勤時間に差し掛かり、スタッフ連絡網でもどこそこの用水路が溢れている、などの情報が共有され始めた。通行止めの箇所も既に出てきており、これにより定時に通勤困難なスタッフも出てきていた。

筆者も少し早めに出勤したが、考えることは皆同じなのか大通りは混雑しており、結局いつも通りの時間に到着した。

様々な問い合わせの電話に対応しているうちに1日が終わり、明日はさらに雨足が強くなる、という言葉に隣町のスタッフは近隣での宿泊を決意した。波乱の文月の幕開けであった。

正直2日は雨足自体は大したことがなく、7月3日が最も長い1日であったといえる。既に県外に居住する高校時代の友人たち数人から「無事か?」という問い合わせを何回かもらっていた。全国ニュースになっているらしい。

その日の夕方に筆者も自身で見る機会があったが、都会のキャスターの語りで中継される「コウツキガワ」はおらが村の出来事ではないような不思議な感覚があった。

誰もがあの日を過らせていた。8.6水害を。

筆者の勤務先は一般的な企業とは性格を少々異にする場所で、こういう時だからこそ必要とする人々がいる。であるので営業はしつつ、しかし来る予定の方々に決して無理はしないよう、(避難指示が出ているのである)呼びかけも同時に行った。スタッフも近隣に住むスタッフ最小限で運営することとした。

それが社会的使命と分かっていても、しかしエゴで言えば帰りたさも正直なところあった。何しろ晴天であっても筆者は帰りたさを身にまとっているような人間である。妻は自宅で一人心細いのではないかと心配でもあった(後に分かったことであるが遊戯王デュエルモンスターズタッグフォーススペシャルの闇マリクを倒してご満悦であるようであった)

そんな休憩時間に #鹿児島大丈夫 のハッシュタグを見かけて随分救われた気持ちになった。あらためて感謝申し上げたい。勤労意欲が湧いた。蘇る勤労である。勤労ロードショーなのである。

通常よりだいぶ早く上がったものの、ガソリンスタンド、スーパー、他もろもろの施設が早じまいしており消灯していたため、まるで時間が分からず少なからず混乱した。

明日以降どうなるかわからなかったこともあり、ガソリンを満タンにしておこうと開いているガソリンスタンドを探した。途中、当地の大動脈である国道が封鎖されているのを見ていよいよ異常事態を肌で感じた。モータースポーツのCMのようにタイヤが水しぶきを高く舞い上げる。いけどもガソリンスタンドは見つからず、給油ランプはけたたましく点滅した。ガソリンスタンドに向かおうとしてガス欠になるという寓話めいた結末が脳裏をよぎったが、そんなさなか一生のお願いで願ったことが功を奏したのかなんとか24時間セルフのガソリンスタンドを見つけて給油することが出来た。なお、一生のお願いは2時間後、無事帰宅して調子に乗って食べたセイカの南国白クマアイスによって腹を冷やしのち下したことによるトイレ籠城時に再び使用されることになる。

帰宅をSNSで幾人かのフォロワーさんに労っていただいた後、妻が雨ということでと作ってくれたカレーピラフを貪った。何が雨ということでかさっぱりわからなかったがパラパラでとても美味しく……ハッ! 雨がパラパラ降りになるようにという祈願だったのかと今思い至った。

満潮のことが気になりつつしかし、疲労が蓄積していたようで泥のように眠ってしまった。

一夜明けた。冗談のように良い天気だった。だから、調節が雑じゃないでしょうか、神。昼休みに確認すると、妻から「洗濯物を干しました」とLINEが来ていた。機を見るに敏。

上記写真は3日と4日それぞれの同じ場所の写真である。

ようやく筆者は川についてリソースを割く精神状況になり、「甲突川」で検索した。

甲突川は、耐えていた。

残念ながら、支流であったり筆者の近隣がそうであったように小川や用水路の氾濫、堤防の決壊、増水による冠水は所々であったけれど、本流の致命的な氾濫はなかった。

筆者は、甲突川が好きである。歴史の流れを文字通り脈々と伝えているような大きな川。これまで何度も意図して、あるいはせずしてその上を通ってきた親しみ深い川。そのそばでは、笑顔が溢れていてほしいと思う。だから、危険の代名詞のような(実際そうだったのだが)状態で連呼されていること自体が苦しかったし、大氾濫が繰り返されず、汚名を上塗りすることがなかったことはよかったと思う。

誠に痛ましいことに、現在分かっているだけで鹿児島県内で2名の方が犠牲になっており、心からお悔やみを申し上げたい。であるから、今回も我々は天災に勝つことは出来なかった。とてもそんなことは言えない。けれど、一矢は報いたのだと言いたい。26年間の、地道な努力、公共事業、対策の結果が実って、8.6水害より前進しているのだと。経営者判断による早期閉店も素晴らしいことであったと思う。

天災は天がもたらした災いである。しかし、それはまたむざむざと人がそれに対してどう備えてきたかを映し出す鏡、即ち人災である部分を炙り出す側面を持つ。今回のことがまた、8.6水害がそうであったように、フィードバックがなされ後の人々の為の様々な方策に活かされることを願う。

ヤマタノオロチ荒れ狂う河川の具象化だという説がある。我々の歴史は川との付き合いの歴史である。畏怖、対策、改善の3種の神器が正しく活用されることが望ましい。