カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

時が流れても、変わらないもの。それは――トイ・ストーリー4 感想(ネタバレ)

トイ・ストーリー4の完全なるネタバレがあります。

余談

子どものころ、クリスマスプレゼントはビデオだった。ライオン・キング、ダンボ、バグズ・ライフトイ・ストーリー……様々な作品が筆者や弟たちの視野を広げてくれた。ソファーは切り立った断崖で、スカーとハイエナごっこをやったり、布団は洞窟でジニーとアラジンごっこをやったり、ピンクの象ごっこをやったり……。

「一人が歌いだすと、他が歌の続きを引きとってプチ・ミュージカルごっこがはじまる」というのは、きょうだいのいる我々世代のあるあるだと思うのだが、どうだろう。

その中でもトイ・ストーリーはやはり特別な作品だ。「だから大切に遊ぶんだぜ」という言葉を受けて、ジャンプの上にフェイスタオルを敷いて、おもちゃの「ベッド」にして自分の隣でかわるがわる寝かせていたりしたものだ。

トイ・ストーリー2は映画館で見てた。よく行く玩具問屋で「誰が買うんだこれ」と笑ってしまった「特急指令ソルブレイン 正木俊介ソフビ」の来し方について思いをはせたりした。(少年筆者は宮内洋という存在をまだ知らない)

トイ・ストーリー3は、帰省時に母と、親友と見た。筆者にとって初めての3D作品だった。親友は、「3Dで良かったよ……涙がメガネで隠れるから……」といい、筆者も鼻をすすりながらうなずいた。トイ・ストーリーの時、布団をかけて寝ていたおもちゃの数々は、ほとんどが筆者の部屋から姿を消していた、と思う。そんな曖昧な認識しかもう、自分のおもちゃに出来ていなかったのだ。

本題

鑑賞まで

さて、トイ・ストーリー4である。筆者はトイ・ストーリーとは「アンディのおもちゃ・ウッディの物語」であって、だからこそ3で大団円だと思っていた。「あばよ、相棒」で当時ぐしゃぐしゃに泣いた。それはアンディと、トイ・ストーリーをリアルタイムで追い続けていたスクリーンの向こうの筆者たちに言ってくれているように思えたからだ。それはおもちゃからの「赦し」だった。筆者と筆者のおもちゃの間に「あり得たかもしれない未来」を描き切り、憑き物を落とすかのような。

所謂派生作品はだから、見る勇気がなかった。時系列もわからないけれど、あれほどきれいに終わった作品の続きを見て、大好きだからこそ少しでもマイナスを感じたくなかった。いい思い出としてそれこそ子供のころのおもちゃ箱に一緒にしまっておきたかった。

けれど、TwitterのTLは日に日にその話題が膨れ上がっていく。いずれネタバレを踏んでしまうこともあるだろう。信頼する人々のツイートによって先入観を持ってしまう可能性もある。見よう、と思った。妻は3を見逃してそのままだったということで、7/11に2人で一緒に見た。「トイストーリーかと思ったら途中途中プリズンブレイクだった……でも面白かった。4も観たい」という感想を引き出し、勢いのまま初日レイトショー4DXを予約した。

まさかの業務が空前の忙しさで、泣く泣く1日ずらすことになった。妻は準備万端であるのに筆者はやっと連絡が出来たのが開幕直前というありさまで、とても申し訳なかった。慈悲深い妻は1日ずれても付き合ってくれた。あんたは俺の相棒だぜ。

情報は、全く入れないで見た。強いて言えば、映画館内の立て看板くらいである。

今日のために、コンタクトを準備した。4DXの解説ムービーが始まり、トイ・ストーリー4の本編が始まった……。

感想(ネタバレあらすじにのせて)

9年前。前作3からの間隔と同じこの数字が出るのは暗示的だ。外の天気と同じ大荒れの雨の中を、おもちゃたちが行く。救出作戦だ。早速4DXの恩恵を受ける。3では1人になり、そして寄付されるバービーがこの時は3体いることがいて、ああ、あのバービーもやはり大切な人形だったんだな、最後の1体になるくらいには、と改めて思わされる。

痛快なアクションとは裏腹な静かな、しかし毅然とした決別。ボー・ピープの不在は3当時から話題だった。台詞でさらっと触れられるだけ。陶器であるから、割れてしまったのだろうか……。としんみりしたものだ。この去り方は、オモチャ(彼女は厳密な意味でのオモチャではないが)として1つの理想だ。必要とされるべき人のところへ行く。それがオモチャであるという考え方。実用という点で、2で提示された結論とも矛盾しない。ウッディはまだアンディに必要とされている。2人は別の道を行くけれど、それぞれの道は間違いではないのだ。

トイ・ストーリー4完。良い補完でしたね。

そうではなかった。いわばこれはピクサー名物ショートムービー枠。そこから9年の時、アンディとの蜜月、バズとの出会い、ジェシーやブルズアイの合流、そして継承――が奔流する。直前に3を見ているので、そのCGの表現力の向上にまだ上があるのかと驚かされた。

現在。アンディのおもちゃを継承したボニーはもうすぐ幼稚園だ。遊びの趣向も変わってきている。お気に入りのおもちゃも。我らがウッディはここのところ、登板回数が減っているようである。バズはそんなウッディが平静でないことに気が付くが、ウッディは誤魔化す。

皆に止められても結局、ボニーの幼稚園体験についていく。同じく一人遊びが好きで引っ込み思案だった筆者自身の過去を思い出して胸が苦しくなりつつも、ウッディの機転によって救われたことにホッとする。

いわばウッディとボニーの合作であるフォーキーはしかし、自分がおもちゃとしての役割を与えられたことを受け入れることが出来ない。一躍一番人気に躍り出たフォーキーがゴミになろうとするのを寝る間も惜しんで止めるウッディ。心配するバズに「内なる声」がそうしろと言うのだ、とウッディ。

初代「トイ・ストーリー」のバズと今回のフォーキーは、突如躍り出た一番人気ということで共通している。ただし、前者は突然職場に現れたスーパー新入社員であるとすれば、後者は予測不可能な赤ん坊であるという違いがある。

ウッディの立ち位置も変わっている。以前は一番人気を取り戻そうとし、今回は一番人気であるフォーキーを育成することで、院政を行おうとするような節がある。

トイ・ストーリーはまた、ウッディの「エゴ」の物語であると思う。この作品に出ている誰よりウッディは人間臭い。アンディ世代の男性であれば、「世紀末リーダー伝たけし!」をご記憶の諸賢は多いと思うが、筆者はウッディを見るたび、あの作品の「へるすィー」や「サンタのおっちゃん」、そしてしまぶーの「エゴについての語り」を思い出してしまうのである。人に喜んでもらいたい、それ自体が既にエゴ、という考え方は当時小学生であった筆者の心を揺さぶったものだ。

ウッディはボニーに対して献身的だ。それはボニーのおもちゃだから。ボニーに幸せになってほしいから。彼自身の言うところの忠誠心である。ただそれは特に今回、「だから、俺を見捨てないでほしい、もう一度愛を注いでほしい」という裏返しのエゴが透けて見えてしまう。思わずアンディの名前を口走ってしまうことがまたその見方に拍車をかける。「もうおれにはこれしかないんだ」という言葉からしても、ウッディ自身もそのことに自覚的なのであろう。フォーキーはユニークでとても愉快なキャラクターなのだが、ウッディにとっても、脚本にとっても「コマ」としての役割の方が強くちらついてしまって、誘導のための無茶な行動や言動が必要なものだと分かっていても、分かっているからこそ筆者としては気になる点がいくつかあったのは残念だった。

そういう下心があるからこそ、やっとフォーキーがその気になったのにウッディはアンティークショップにノコノコと入ってしまう。「ボーに会えるかもしれない」という別の下心で上書きされてしまったからである。この辺り、もうちょっと何とかならなかったのかと思う。フォーキーが興味を示して止めるけどボーのランプシェードが目に入ってしぶしぶ一緒に行くとか。

アンティークショップの描写はため息が出るほどに素晴らしい。骨董の光沢の再現がすさまじすぎるし、棚のつくり込みなど目眩がしそうだ。そこで現れる腹話術人形のベンソンとアンティーク人形のギャビー・ギャビー。

「愛されなかったことは生きなかったことと同義である」というのはルー・サロメの言葉だが、であればギャビー・ギャビーは半世紀以上生きていなかった。生まれつきのボイスボックスのエラーで満足に音が出ないため、子どもに遊んでもらうことも、好事家にコレクションされることも出来ない。それはいつしか彼女の中で、ボイスボックスさえあれば全てがうまくいく、という考えに歪んでいってしまう。その不穏さに気づくウッディたちは逃げ出そうとするも、フォーキーは囚われてしまう。

再び逃亡者となるウッディのもとへ颯爽と現れるのはいかにもな強い女性然としたボー・ピープ。そして羊ガールやサイズと声量が釣り合っていない婦警さんたち。まだ個人のおもちゃで消耗しているの? と彼女は言う。世界はこんなに広いのに、と。オープンワールドゲームであればそのまま自分の操作パートに移行しそうな場面の後、やはりウッディはボニーのおもちゃであり続けようとし、潜入し、これまた大きな見どころであろう大活劇の末に多くの犠牲を払って、結局のところ失敗してしまう。それでも再度挑戦しようとする。「何があっても友達を見捨てない」彼はしかし、バズをある意味では見捨てて無謀な突入をする。持ち主のいないおもちゃに対してしっかり地雷を踏んだ上で。

待ち受けていたギャビー・ギャビーはしかし、しおらしくボイスボックスを要求する。誰かに愛されることの喜びを痛いほど知っているウッディ。フォーキーの件もあり、了承してしまう。最初からそうしておけばこんなに苦労しなかっただろというのは言わない約束である。2では声を出す笛が壊れたペンギンのおもちゃ・ウィージーが大変難儀していたがギャビー・ギャビーはボイスボックスの不調は通常の喋りに特に影響しないんだというのがちょっと気になった。

しかしギャビー・ギャビーの半世紀かけて組み上げた夢は、破れるには5秒もいらなかった。カウボーイは好きだけどアンティーク人形はお気に召さないハーモニー、嗜好がよくわからない。(音が出ること自体に興味を持っていたそぶりがウッディの時あったので余計に)打ちひしがれるギャビー・ギャビー。子どもはハーモニーだけじゃないと諭すウッディ。それはまるで自分自身にも言い聞かせているようで……。

恋は理屈ではない。やっぱりウッディが気になるボーとその一行はウッディたちと合流。あの手この手で引き留められているボニー一家のレンタカーを目指す。お父さんが気の毒すぎる。

途中、ベンソンがコメディチックに離脱するのだが、そのまま放置だったのは悲しいものがあった。

カナダの英雄がトラウマを克服し、ギャビー・ギャビーがまた、当初の想定とは違った幸せを手にする。コロコロ大作戦の面目躍如でもある。「誰かのおもちゃであることの幸せ」「大事なおもちゃがそばにいるとなにもかもうまくいくような気持ちになる」ということをボスキャラクターが表現してくれたのは嬉しい驚きであった。今回物理的なダメージという意味で脅威は猫であり、(もちろん腹話術人形ズも恐ろしかったけど)歴代ボスと比べて悪逆度が低いのはそういう伏線だったのかなと思った。

そうして、お父さんが牢屋行を何とか免れたとはいえ大きな犠牲を払って回転木馬へ役者が揃ったとき、ウッディを皆が迎えに来た時、しかし、ウッディは戻らない。

ウッディはボーたちとともに流れのおもちゃとなることを選んだ。

ある程度覚悟はしていたがやはり、ここでグッと胸が苦しくなった。筆者は既に、3や冒頭で見せてくれた「ボニーの部屋という世界」に愛着がすっかり湧いていて、そこが彼らの帰る場所だと思っていたのだな、と辛い形で気づかされることになった。

「誰かのおもちゃである」というのはおもちゃにとって一種の呪縛ではあるのだろう。しかし、仲間との衝突をも恐れず愚直に「誰かのおもちゃであること」を追求してきたのがウッディではなかったか。

ボーとウッディが決定的に違うのは、持ち主から「No」を突き付けられたかどうかだ。ボーはフリーである。誰のものでもない。(アンティークショップの売り物ではあるのだけれど)どうしようと彼女の勝手である。独立独歩である。

ウッディは違う。彼はボニーの所有物だ。ここでいなくなっては、ただの失踪である。家出である。子どもは興味が移りやすい生き物だ。また何かのきっかけでウッディブームが来ることもあるだろう。その時、クローゼットに彼がいなかったボニーはどれだけ悲しむだろうか。

アンディが大学の夏休みで帰省し、ボニーの家へ懐かしのおもちゃたちを見に来ることだってあるかもしれないではないか。(というか筆者はトイ・ストーリーが再開するのであれば、最後はアンディとボニーが結婚して2人の間の子供の手にはウッディが……みたいな展開になるのかと思ったりもしていたのである)

ウッディは前作で屋根裏部屋に移る友たちに、それでもアンディのおもちゃなんだと言い聞かせていた。しかし今回、自分が同じような境遇に置かれるとボニーのおもちゃであることを捨てるというのは、やっぱり前回は自分は大学行だからという気持ちがあったのかと邪推してしまう。補欠になったとたん部活を辞める中学生かよとさえ思ってしまう。

「クローゼットだろうと、屋根裏部屋だろうと、ずっと遊んでもらえなくても、俺はボニーのおもちゃだ。いつか捨てられたらその時は、どんなところにいても君を見つけてみせるよ」

ぐらいのことを言ってボーと別れるのだとばかり思っていた。

更に言えば、送り出すのがバズなのは相棒だからというのもわかるのだが、「ボニーは大丈夫」というのはバズが言うのはどうなんだろう、と思ったりもする。それはドーリーの役目ではないだろうか。

選択肢として流れのおもちゃというのはあっていいと思う。しかしそれはあくまで「誰かのおもちゃ」という役割を終えてのセカンドライフだと筆者は考えていたのであるし、少なくとも過去3部作においては繰り返しになるが「アンディのおもちゃ」であることの意味を描き切ったと思っていた。

フォーキーには「お前は(ボニーの)オモチャであれ」と言っておきながら、彼の「ゴミでありたい」という自由を否定しておきながら、自らはオモチャとしての自由を手に入れる形で巣立っていく、というのも何やら煮え切らないものを感じてしまった。

また、ボニーがウッディの存在を旅行中ずっと気に留めていないのがやはり気になった。クローゼットにしまいっぱなしならともかく、旅行に連れて行っているのだからせめてクライマックスのシーン、他のおもちゃが後ろに勢ぞろいで並んでいるシーンではさすがに気づくのではないか。

展開妄想

例えば。ボーから誘われ、逡巡するウッディ。そうこうするうちに、ボーの両親が勘づくか何かで、バズたちは車へ撤退する。整列するおもちゃたちと、先ほど見た警察官から、保安官・ウッディがいないことに気付くボニー。車の中で自分を探すボニーの様子に戸惑っていると、ボーは優しく微笑みウッディの紐を引く。

ボイスボックスが故障しているので途切れ途切れのかすれ声になるウッディ。それに気づき、ウッディを見つけるボニー。無事我が手にウッディを取り戻したボニーは外にいたから風邪を引いちゃったんだね、とボイスボックスの不調も物語に取り込み、ボーはその様子にモリーを重ね合わせながらもまた新天地へ旅立っていく……。みたいな展開では、ダメだったのだろうか。

そういう意味で、エンドロールでその後のボニーの部屋は正直なところ見たくなかった。ウッディがいないことでボニーが傷ついていても、ノーダメージでもちょっとつらいな、と思ったからだ。見た限りでは後者だったのだが、その「最初からいなかった人」のような扱いは結構クるものがあった。そういえばピエロって今回出てきただろうか。どうせなら、ギャビー・ギャビーのその後が見たかった。あとベンソン。

観終えて

筆者は時が流れても、ウッディとその持ち主、仲間たちとの絆は決して変わらないものだと考えていた。それがトイ・ストーリーというサーガに流れる通奏低音だと。しかし、製作陣にとってはそうではなかったのかな、というのが今回観て正直な感想である。もちろん道を別にすることが喧嘩別れだとは思っていないが、この決断には寂しいものがあった。

重ねて言うが、流しのおもちゃという生き方自体は何ら否定しない。ただ、3部作が丁寧に積み上げてきたオモチャと人間の関係性を歪め(キャラクター性の改変まで感じさせて)てまでより価値があるような提示をしているように見えてしまったし、製作者側が「新しい価値観」として打ち出したいような雰囲気も感じるが「それ3でグリーンメンが既にやっていることでは?」とも思ってしまうのである。(個人的には彼らの行動は3の中でもやっとする部分(アンディのオモチャでありながら見限るような形で去っていくのがショックだった)だったが今作のウッディは似たようなことをしているというのが余計につらい)

映画自体は実に極上のエンタメに仕上がっている。それは間違いない。それだけにウッディの選択について、自分でも驚くほど引きずってしまっている。7000字以上の感想になるとは思っていなかった。今回は特に推敲もしていない(気持ちの整理がつかずできない)ので読みづらさが大変なことになっていると思うがこれも鑑賞後すぐのライブ感ということでご容赦願いたい。

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他こまごま

・新キャラクターたちは皆魅力的で、特にダッキー&バニーは見た目しか知らなかったのでギャップに驚かされたし、大いに笑わせてもらった。

・個人的にお気に入りのMr.ポテトヘッドやエイリアンズの出番が少なかったのが残念だった。

・バズの内なる声の解釈は面白かったが、リーダーシップという点では前作より劣化していたように思えるのが残念だった。

・お父さんがんばれマジがんばれ

・4DXで観るとシリーズ恒例の派手に転がりまわるオモチャたちの感覚が追体験できるのでそれだけでも価値があると思う。