カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

最上大業物2/14工――「最上大業物 忠吉と肥前刀」が、いや佐賀県立博物館がとにかく素晴らしい話

余談

本当に書きたいことがたくさんあるのである。余裕があるものは後回しにしてしまいがちなのである。しかし光陰矢の如し、5月末に見に行った「最上大業物忠吉と肥前刀」がなんと本日までなのである。これはいかん。

何しろ大変に素晴らしい展示であり、素晴らしい博物館であった。まだ訪れていない近隣諸賢の、いや諸県の審神者諸賢は是非鑑賞されるべきであるし、そばに住んでいない審神者諸賢は今からでもフリーザをぶっ倒して瞬間移動を会得して向かうべきである。

肥前忠広ファンでなくとも刀剣ファンであれば必ず満足のいく展示となっている。

本題

「所謂肥前刀」以前

肥前刀の歴史というのは即ち、忠吉一門の歴史である。というのも大正6年に刊行された「西肥遺芳」にてそのように記されているからである。

無論それ以前、いわゆる古刀時代においても肥前での作刀は行われていた。しかし刀化鍛治の集団の形成には至らず、筑前や豊後などからの単発的な移住で終わっていたようだ。

本展示ではその頃の刀も見ることが出来る。

ということでなんと、備前刀、銘国行の刀(佐賀県重要文化財)、左文字の系譜の刀などいきなりの大盤振る舞いである。

特に筆者は銘 貞俊の刀に心惹かれた。

直刃の美しさもさるものながら、きびきびと凛々しく刀身に刻まれた文字、キュートな栗尻の茎など、見所が多い。何百年も前の刀とは思えない行き届いた手入れに、佐賀県立博物館様のプロフェッショナルさがうかがえる。

最上大業物14工を2名輩出した一門

さて忠吉一門である。初代忠吉は本名を橋本新左衛門と言った。橋本家は武士の家系であり、竜造寺家に仕えていたが沖田畷の戦いによって主君・当主(忠吉父)・と祖父が討ち死に、忠吉は当時元服まであったため断絶した。薩摩人としては開幕から申し訳ない気持ちになってしまったが、橋本家は少弐氏の一族であるという。であれば、ある種復讐を代行したとして見逃してほしい……(竜造寺家は少弐氏から下剋上を行って勢力を拡大した)この辺りは佐賀県立博物館にも詳しいので是非じっくり見ていただきたい。

知行断絶では武士としては最早食べていけない。刀匠に転じることを決意した忠吉は上京し、山城国の刀鍛冶に師事する。その人こそ埋忠明寿であったというから文久土佐藩、幕末土佐藩びいきとしては何やら不思議な気分になってしまうではないか。実装されないかなあ埋忠明寿。

忠吉は中央がきな臭くなったことも感じたのか、慶長3年(1598年)に帰国。「鍋島化け猫騒動」など風説の流布の被害にあいながらも竜造寺より継承され肥前の主となっていた鍋島勝茂によりお家復興を許される。(勝茂は妙法村正を愛好しており、忠吉に写しを何度か作らせたという。また、「享保名物帳」に記載された「鍋島江」の所有者でもある)以降藩御用達の鍛治として幕末まで一門は栄えることとなる。

忠吉自身は晩年、隠居を機に「忠広」と改名した。以降一門は「忠吉」「忠広」「忠行(初代忠吉の孫(3代忠吉の兄弟)が祖とされる)」の名を幕末まで継いでいくのである。岡田以蔵の愛刀であり、刀剣乱舞に登場した刀剣男士の「肥前忠広」はこの初代のことを指すというのが一般的な説である。

改めて初代忠吉の刀を見てみよう。(銀河万丈ボイス)

肥前国忠吉」と5字で名が切られていることから初期の作品であることが分かる。刀剣乱舞の「肥前忠広」からしたらお兄さんということになるが、地金が冴えている。沸き立つ波紋が忠吉一門の中で唯一戦国乱世を知る刀工の心中が表れているようだ。刀身が先細りで反りが浅い形は江戸時代前期の特徴を先取りしているように思える。どっしりとした感覚で、なるほど「実用」の説得力がある刀である。

この初代忠吉と三代忠吉が「最上大業物14工」という刀剣鍛治に対する最大の賛辞を寄せられている。国民的漫画でもおなじみ「最上大業物」は「首切り浅右衛門」としても知られる御様御用(刀剣の試し斬り役)にして死刑執行人の山田浅右衛門がまとめた優れた刀鍛冶たちのことで、古今鍛冶備考という本となっている。役割からしてもなかなかの説得力を持って受け入れられたようである。

その中に同じ一門から2名選出されたというのは忠吉一門の優秀さを示す証明であるといえるだろう。同書の元ネタである「懐宝剣尺」は佐賀唐津藩士・柘植平助であるのでもしかしたらちょっと身びいきもあったかもしれないが……。

他の「最上大業物」には一国兼光を鍛刀した長船兼光や長曾根虎徹和泉守兼定(ただしこちらは歌仙兼定を鍛刀した方の之定)など錚々たる名が並び、またも幕末を感じさせてくれる。極めつけは三代忠吉は「陸奥守」を名乗っているあたり歴史は物語より奇なりというか個人的には俗な言葉を使えば「エモい……」と思う。

3代忠吉は残念ながら薙刀のみの展示であった。個人的には親子合作の刀が「刀鍛冶の名門」を感じられて印象に残った。初代は忠吉→忠広と名を変えたが、五代目以降は忠広→忠吉と名乗ることが多かったようである。

宗家以外の刀も充実

 宗家以外の刀のほか、脇差、拵え、鍔や諸派の刀なども充実していて飽きさせない。

特に筆者が好きなのは初代行広のこの刀。太刀を意識した豪放で力強いつくりがたまらない。存在感が物凄かった。

パネルで刀鍛冶の風景も確認することが出来、他展示の案内まである。

いつまでも見ていたかったが、閉館時間が迫っており、アンケートにその素晴らしさへの感謝をしたためて再びロビーへ出た。無料、とのことであったがなんと佐賀県立博物館自体が無料であり、この素晴らしさへの感謝をなにかしらお金として還元したい、臆面もなく言えばこの博物館に課金したい、という思いで過去の図録を見ていると、グリコ展の図録に心惹かれたので買ってしまった。佐賀の方だったんですね。図録だけでも素晴らしい展示であったことが伝わってきた。朝ドラにならないかなあ。

しかしお姉さんはおまけでポストカードセットをつけてくれるのだった。よそじゃ1枚100円で売ってそうなものをたくさん……実質無料になってしまった。文化度が高すぎます!

因みにこの展示の図録はなかったのだが無料のリーフレットが既に情報量が素晴らしいものがあって、普通にお金をとれるレベルであった。今後の刀剣鑑賞にも役立つことであろう。

ダンディに見送られるつつ、後ろ髪引かれながら同地を後にした。必ずじっくりと時間をかけてまた訪れたいものである。