カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

楽土は僕らの中にある――Twitter一夜城とブログ本丸

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写真は熊本城の櫓。本文とは特に関係ないが熊本城はやはり名城……。

余談

筆者がインターネットの大海に漕ぎ出したおよそ二十年前(ウッ頭が……)、世は大個人HP時代であった。

各々の「城」には城主選りすぐりの宝物が並べられ、据え付けられた日記からは城主の日々の研鑽の様子が伺い知れ、掲示板では譜代外様様々な人々が活発な論議を交わしていたものだ。

が、城の宝物と言うのは貴重であるから宝物なのであって、中々日々増える性質のものではないものがほとんどであった。

必然、日記や掲示板がメインコンテンツへ移行していく城主が多く見られた。

筆者にとっての「ブログ」とはこの時に現れた日記の外部サービス化という認識である。

多くの城が、天守閣の模様替えを行った。存外住み心地が良かったらしく、個人HPは顧みられることが少なくなっていった。

まさしく戦国期における山城から平城への移行と同様であった。城主と言えど人間、手軽さを求めることは当たり前のことであった。

個人の情報発信は即ちブログで行われることが主流となっていった。

ゼロ年代後半、Twitterニコニコ動画、pixivと多くのコンテンツ発信ツールが稼働を始めた。

言うなれば大名屋敷とでも言うべきさらに手軽さ、利便性が高まったそれは発信者の心を大いに惹きつけた。消費者も同様であった。ブログは更新情報の通知ツールという扱いになったりもした。

個人のコンテンツ発信場所としてのブログは勢力を失い、いわゆるまとめブログやちょっと胡散臭い感じの意識高いブログが「ブログ」の代名詞となりつつあった……。

それが昨年、自分がブログを始めるまでのブログについての認識であった。

本題

ブログを始めるまで

筆者がインターネットにおいて自らの所属を何か一つ明らかにする必要があるとすれば、それはTwitterになると思う。今年で十年目になる(ウッまた頭が……)。

Twitterはいい。気軽である。マジな話、Twitterのお陰で精神の均衡を保ち、何とか人間のふりを出来ていた時期と言うのが筆者にはある。

筆者は群像劇が好きだ。だからTwitterが好きだ。登場人物全員が意志を持っていてリアルタイムに情報を発し、ある時はその交錯が垣間見えるとかめちゃくちゃに楽し過ぎるコンテンツである。しかも自らも登場人物として介入することだってできるのだから。

一昨年、「真田丸」があった。べらぼうに面白く、筆者もハッシュタグをつけて何度か実況に参加した。この一体感はTwitterの醍醐味だ。特に大河は「この頃この地方では、誰々はこんなことを」「こうなっているけど史実は」という補足情報も流れてくるのでドラマの理解に一層役に立つ。

その中でひときわ鋭い知見を発し続ける方がいらして、確認するとなんと考証を担当されている丸島和洋先生その人であった。その下支えによって真田丸を益々楽しむことが出来たが、先生は兼ねての宣言通り、真田丸の完結と共にアカウントを消してしまわれた。

これは筆者にとって痛恨であった。アカウントが消えればツイートも消えてしまう。筆者のFav(現いいね)欄ががらあんとしてしまい、それはなかなか慣れることはなかった。

また、それ以外にも真田丸を見ていて様々湧き上がった感情をリアルタイム以外で吐き出したいという感情も芽生えていた。筆者は脳の処理能力が余りよろしくないので、三日後くらいにはっとすることがままあるのだが、そのタイミングでいきなりハッシュタグをつけてつぶやくのもなあ、というのがあった。

翌元旦に本ブログを開設したのは上記のようにTwitter諸行無常と自分の出力熱の高まり、そして今回の言及先の結騎さんの「ブログ良いよブログ」というたぶらかしのせいだ。結騎さんはこの大Twitter時代においてもブログにて熱い記事を上梓し続ける、稀代のアウトプッターでありホイホイ始めてしまった。HIPHOP的文脈で語れば「俺が狂ったのはあんたのせいだ」ということでもある。

即ち筆者自身が軽率にブログを始めてしまったTwitterのオタクであり、結論から言うと「ブログ良いよブログ」である。

Twitterのツイートという一夜城

誤解を恐れず言えば、Twitterは基本的には消費される文章である。もちろんすべての文章は消費されるものであるが、そのインスタント性がより強い。

その代わり、即効性がある。速度がある。先程Twitterを大名屋敷としたが、ツイートは一夜城である。そこから放たれる火矢である。

何度も書いてきたし、今後も書き続けていくが、速度が無くては届かない言葉と言うのは確かにある(届いてしまう、ということにもなるのだが)。

速度に乗っかることで出てくる言葉というものもある。端末を起動し、タイトルをつけ、構成を考え、どれ、としている間に失われてしまう、文字通り「つぶやく」という形だから出力されうる言葉というものが。

二日酔いの朝、枕元のスマホを手に取り思わずつぶやいた言葉。

テレビ画面を注視しながら、無意識にスワイプしていた文章。

終電の車内、つり革を握りながらの一言。

そこにはエチュードの妙味がある。

けれどTwitterは「流れていく」ツールである。タイムラインと言う激流は、一夜城の建築材料を運びせしめた川のように色々なところへつぶやきを届けることに一役買うけれども、後から追いかける人々はその激流をかいくぐって見つけなければならないという難点がある。

また、「文脈」を追いにくいのもまた難点である。

Twitterでしばしば見かけるのは、

「Aは○○という意見があって、それは確かにそうだ(最初のツイート)」

「でもAには××という側面があるのも忘れてはいけない(二つ目のツイート)」

「BはAより××では優れているけど全体的には私はAが好きかな(三つ目のツイート)」

という「連ツイ」が例えば最初のツイートだけ加速度的に伸びてしまって、親切心または他の気持ちで「Aには××という側面がありますよ!」「××も把握していないとかニワカか?」「ホントそうですよね!A最高!」「ちくわ大明神」などという文脈が全く理解されていないリプライがつきまる地獄の顕現である。

言葉と言うのは端的に言って化け物である。140文字に格納するということは特に対象への思い入れが強いほど困難である。無論、であればこそ140文字に格納してみせると言うのが文章への矜持の見せどころでもある、と言えるが、これまた普段の「界隈」では何を今さら、の部分であるから省略した部分が流れて行ってしまった結果、それが通じずに地獄に発展してしまう場合もある。

また、一ツイートには四枚しか画像を添付できないというのも弱点であると言えるだろう。

ツイログがあるじゃないか、という話になるが、ツイログはあくまで「自分のツイート」がまとめられるのであって、RTを含めた「その日の状況の保存」という意味ではやはり難が残る。というか、過去の自分のツイートを見返すと「>RT なるほどなあ」みたいなツイート多過ぎんだよ! 何がなるほどだったんだよ!引用RTならいいのかもしれないが、未だに筆者はちょっと抵抗があったりする。たまに使うけど。

Twitterが流れていくことでもう一つ懸念事項としては、自らも把握できないということである。しばしば、過去の自分が未来を収奪に来ることがある。若さゆえの無知なるツイートの発掘だ。

自分が忘れているちょっとしたつぶやきがネットの大海原を漂い続けているというのは、考え方によっては結構なリスクである。

ブログという本丸

他方、ブログである。以下、特に言及がなければ「はてなブログ」の話だと思っていただきたい。

筆者にとっての利点はまずは文字数制限がないところ。次に写真が大きい画像で沢山載せられるところである。

そして、気を遣わない。自分の家だからである。城だからである。本丸なんである。

それでもはてなブログは他サービスと比べてソーシャルな側面は強いかなと言うのはあるし、独自ドメインではないけどまあ「はてなマンションのカナタガタリ号室」でくつろがせてもらっている、くらいの気持ちではある。

Twitterは路上である。公共の場所である。もちろん、ブログだってそうではあるんだけれども、Twitterでは路上弾き語りで、ブログでは演奏会へようこそ、くらいの感覚である。

逆に言えば、訪れる方もちょっと靴を脱いでゆっくりしてください、と思う。

ブログとTwitterは喧嘩しない。むしろ、相乗効果が期待される。

今回のブログ自体、下記のツイートに肉付けした感じであるし。

記事が出来たらツイートで告知も出来る。現状このブログは検索流入Twitterが半々くらいである。

もう一つ、今回の記事を書こうと思った理由がある。

www.ongakunojouhou.com

筆者はフジファブリックが好きである。あの十二月の、気温だけではない寒々しさを忘れることはない。だからこそ離れていた期間があった。情報をシャットダウンしておきたい期間が。

漸く情報を拾えるようになった時、このブログ記事はしっかり残ってくれていた。別に筆者のためではない。けれど筆者は救われたのだ。この記事が令和の今この時にあってくれて良かったと。

このブログにも、昔書いた感想記事を今も見に来てくださる方がいる。そういったことに筆者は幸せを感じるし、急上昇した理由を探って新作の発表を遅れて知って喜んだり、久しぶりに記事を読み返して当時の自分の熱量にちょっと赤面しながらも結構興味深く読んだりもする。

刹那、閃光のようなその一瞬だけ輝き、消えていってほしいからこそTwitterというツールを愛用している方々も多数いらっしゃることだろう。

けれど自分の感情の置き所一丁目一番地をウェブ上に置いておくことで救われることがある、というのを身をもって体感している人間としては、いいですよ、ブログ。と言っておきたい。

そしてあなたの文章を残してほしいし、読ませてほしい。

あなたから見える景色はあなただけのものだから、それを共有してほしい。