カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

西郷どん前夜に薩摩人の死生観について考える

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いつの間にかインターネット界隈では「薩摩人ってクレイジー(婉曲表現)」といった言説が罷り通っているように思う。
例えば鬼島津だったり、関ケ原敵中突破であったり、生麦事件であったり、薩英戦争であったり、西南戦争であったりがそうさせるのだろうか、と思い当たる節がないでもない。世界有数の活火山のそばに住み続けているというのもあるのかもしれない。
クレイジーさを突き詰めるとどうやら様々な要素から「死をあんまり恐れてなさそう」と捉えられているのが根幹であるように思う。
そういうことで何故薩摩人は「死をあんまり恐れてなさそう」なのか薩摩人が考えてみることにする。というか、四半世紀以上薩摩で育つと死についてこういう考え方をしている、という話になるのかもしれない。

桜島の存在

以前の記事でもふれたが、薩摩人は「なんでそんなところに住んでいるのだ」と言われることが多い。大体桜島のせいである。
多くの薩摩人は「だって生まれたし」としか言いようがない。そこが生まれた場所で、愛した場所で、棺桶だからである。
桜島は活火山であり、現在の噴火警戒レベルは3(5段階中)である。火山活動の度合いとしては「生命に危険を及ぼす火山活動(噴火)が発生し、居住地域の近くにも及んだ、あるいはその恐れがある。」状態を指す。同じレベルに御嶽山がある。上写真の噴火など珍しくもない。むしろ噴火がない方が人々は心配する。人々に噴火の恐れがないわけではない。百年前、島であった桜島が噴火によって半島となったことは今も語り継がれているし、痕跡はあちこちに残されている。しかし人々の懸念は「桜島の火山灰がどの方向に向かうか」であり、その主な理由は「洗濯物が汚れるから」であり故に「桜島上空の風向き」が薩摩の天気予報では当然のように語られる。

その桜島が薩摩人の死生観にもたらした影響は極めて大きいと思われる。他の地域の人々より「いつ死んでもおかしくない度」が常に高く設定されており死への諦観にも似た覚悟が別に宇宙が一巡していなくてもいつのまにか育てられる。「自分でどうしようもないとんでもなくでかいもの」が常にそばに寄り添っている状態というのは、知らず生についての執着心を薄れさせる効果がある――のかもしれない。また、一方で「自分でどうしようもないとんでもないでかいもの」が存在することは「カリスマについていきたい」という気持ちをまた心中深く宿らせているのかもしれない。これについては次項により詳しく述べる。

薩摩人は桜島がとても好きである。「がっつぃねんづへばっかだせっせぇめわっぜびんてくらい(薩摩弁で本当にもう年中灰ばかりまき散らして大変に腹が立ちますよの意)」といいつつも「桜島が見えるかどうか」は薩摩での部屋決めに関して非常に重要である。もし他の地域で薩摩人がクレイジーな働きをしたとき、それはもしかしたら生き延びてもう一度桜島が見たいがための文字通り死にもの狂いの行動であったという可能性も考えられる。

個の「薩摩人」としてではなく「薩摩」という群体としての生き方

薩摩人が「死を恐れてなさそう」「クレイジー」な印象を与えるエピソードとしての最右翼はやはり「関ケ原敵中突破」になるだろうか。負け戦確定になってど真ん中に突撃して挙句の果てにほとんど死んで何を考えているのだと思われるかもしれない。無駄死にだと思われるかもしれない。捨てかまり(島津の少数ずつ決死隊を切り離していく戦法)なんてまさにそうではないかと。
前項で少し触れた「カリスマについていきたい」という気持ちが薩摩人は少なからずあるのではないかということがこの事案から帰納法的に推測出来る。即ち薩摩人の死生観において、自分個人の死ではなくカリスマの死、頭目の死の回避が最優先事項である。極端も極端の滅私奉公と言えるかもしれない。生と死、勝ちと負けの判断基準が違う。例え自身が屍となっても頭目が生還すれば「我々」の生であり勝利である。「薩摩」の勝利である。同じグループである何某かが遺志を継いでくれれば自分はそこに生き続ける、そういった考えがあったのではないか。故に個人の死は恐れなかったのではないかと。
そしてその考えは「妙円寺参り」という形で脈々と受け継がれ、それが今に――少なくとも幕末維新のその時までは刻まれていったのではないか。
大政奉還のその時、「薩摩」の遺志の一部となった関ケ原足軽は「色々あったけど結局勝利した」と草葉の陰で喜んだかもしれない。
言うまでもなく、その生き方は著しく反近代的であり、「西郷どん」という群体として集った元志士達に飲み込まれるようにして個人である「西郷隆盛」が死を迎えることによって否定されることになる。「晋どん、もうここらでヨカ」は群体としての「西郷どん」の敗北宣言としても見ることが出来る。あるいは「維新志士」という流行り熱めいた群体への介錯であったかもしれない。しかし後の歴史を追っていくと物理的に「西郷どん」を討ち果たした官軍がその流行り熱にかかったように思えてしまうところが悲しい。

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鬼火焚き(いわゆる「どんど焼き」)があった。天を仰ぐオブジェがものの数分で煌々と輝き、そして燃え尽きていく。
かと思えばはねた火の粉が上手いこと細々生き延びていたりする。
それでいいんだよなと思う。筆者が薩摩人から鹿児島人へ近代化する兆しであるかもしれない。