カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

大河ドラマ「西郷どん」第十四回 「慶喜の本気」

余談

バグダッド日報」という、言われてみれば「侍魂」とか「僕の見た秩序」と並んでいそうな老舗テキストサイト味があるタイトルトピックから、ゼロ年代テキストサイトを彷彿とさせる文章群が出てきて思うのは、人間はどのような状態であっても何かしらに娯楽を見出しうるのだなあということであった。思えば筆者も恐ろしいことに十年前になるが、一人暮らしで広島後に放り出されてから暫くは、ネットも開通せず、携帯電話も二年前のガラケーで、お金もなく、友人もいなかったので、親からもらった五年日記をやたら詳細につけていた。

よく思うことであるし、もしかしたらいずれかの記事にも書いたかもしれないが、創作というものは大きく分けて欠乏からくるものと充足からくるものがあり、件の日報とか、並べるのもおこがましいがかつて筆者が誰にともなく書いていた日記というのは、前者に分類されるのではないか。日報の場合、内輪感覚でどんどん加速していったような感じでもあるが。読み物としては非常に面白いが、公文書としてはどうなんだろう。そういう部分で公表したくなかったんじゃないか、と思う。増田に顔を出せというようなものではないか。ちょっと違うか。

筆者の五年日記はその後バイトを始め、サークルを始め、学部の友人も出来、家を空けることが増えて、少しずつ内容が薄くなっていき、GW明けにMHP2Gを買うに至り、本日狩ったモンスター日誌と成り果て、フェードアウトしていって、mixiへ流れ、そしてTwitterにたどりつき、途中ブログをちょいちょい挟み、昨年は一瞬マストドンをしたりするのが筆者のライフログの変遷であるが、しかしもうちょっと続けて見ればよかったなあ、と今回の報道を見て思った。あの濃さというのは、もう自分には出せないが、あの習慣を続けていれば、その濃度をもう少し今の年まで引きずってこれたのではないか、としみじみ考えたからだ。あのままでいたら、二三年前に死んでいたかもしれず、適度に鈍くなるということは人としての生存戦略であるのかもしれないが。

本題

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↑前回も紹介した菓々子横丁で売られていたお菓子。左は小豆、右はゆずのあん。おいしい。

家定の可能性を誰も、親でさえ、妻でさえ、自分自身でさえも、考えないのが悲しくて仕方がない。激動の時代において純粋であるということは時として罪である。しかし家定は果たしてそうであったのか。史実は知らず、本大河においては違う可能性も見えていた気がしただけに悲しい。

さてその家定と篤姫のやや異質ながらも仲睦まじい関係を積極的に裂きにかかるのが斉彬である「篤姫は不幸になる(キリッ)」じゃなくてお前が篤姫が幸福になりそうになったらぶっ壊しにかかってんじゃねーか! 家定と篤姫の仲自体は壊れなかったものの(しかし、篤姫の家定への訴えも、家定自身の決意も家定本人が長くないということを前提としているのは繰り返しになるがあまりにも悲しい)、その歪みを受けて周りはもうガタガタである。

さてタイトル、「慶喜の本気」が何を意味するのか、BSと本放送と二回見たが、正直判らなかった。最後の啖呵なのだろうか。もしかして逃げ足のすさまじさだろうか。

今回は井伊直弼の「徳川宗家の脅威絶対排除するマン」ぶりに昨年度の大河を追いかけて人々は感慨もひとしおだったのではないかと思うが、しかし吉之助の家族構成まで薩摩まで行って調べておきながら、そういう脅しに屈するはずがない男であることを全く見抜けないあたり、どうなんでしょうな……。

直弼自身が急に大きな責任を背負うことになった(十四男であった彼が藩主となるなど彼自身も全く思いもよらぬことであった)のでもしかしたら慶喜になにかしらシンパシーを感じているのでは…という風に感じさせる当たりやはり俳優の力であろうか。

さて来週いよいよ家定が、そして斉彬が退場しそうな気配である。視聴者はついていけるだろうか。彼らのいない脚本のスピードに。次回を待ちたい。