カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

もうすぐ消えるはずの平成(せかい)で

余談

オウム真理教を知っているかって? もちろん。

あの地下鉄サリン事件の時、筆者は幼稚園生だった。それまで親父の読み終わった「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年マガジン」を読んでいたけれど、ついに「自分の漫画雑誌」として「月刊コロコロコミック」を買ってもらうようになったのが95年のことだった。早速、「間違えて別冊コロコロコミックを買ってしまう」というありがちなミスを犯してしまったりもした。

どういうニュースかは覚えていないが、「麻原彰晃こと松本智津夫」が頻繁にテレビに出ていたことは覚えている。明確な「悪」として。麻原彰晃なのか松本智津夫なのかどっちなのだ、と混乱したことも覚えている。同じ人間が名前を二つ持っているということが理解できなかったのだ。

八十年代の終わり、平成の始まりに生まれた筆者にとって、オウム真理教とは物心ついた時には既に「テロ集団」としての代名詞であったし、「宗教とは胡散臭いものだ」という偏見を強力に育てることにもなった。

もう少し大きくなって、自分がモラトリアムに突入する辺りで、結局のところオウム真理教というのはかつての日本赤軍であり、今の極度に日本を愛しすぎたり逆に為政者を憎みすぎたりする人々のように、「果てのない夏休み」を生き続ける人たちなのかもしれない、というように思えて来た。

恐らく普通に生きてきたら少年少女は大人を憎んだり、嫌ったりするフェーズがあるはずである。例えば反抗期のように。人間にとって成長するということは、大人を憎み、そしてやがて生存本能として次世代に憎まれているという感性を鈍麻させながら憎まれていた大人になっていく、と言い換えられると言っていいかもしれない。

そのどこかでエラーがあったとき、人は大人になり切らず、ただ敵を作り続け自らは夏休みのゆりかごの中で永遠に揺られていたいと思ってしまう。相手にのみ責任を追及し、それは先鋭化していく。相対的に自分たちを特別だと思ったりもする。

そのパターンとあの時代の持つ終末的な雰囲気が最悪の融合を果たしてしまったのがオウム真理教という組織だったのではないか、と思う。そういえばMMRとかでもノストラダムスの予言を散々見たような覚えがある。

まあしかし、あれだけ仰々しく自分らを肩書で涙ぐましいまでに飾り付けていた連中が、「山田らの集団」みたいな身もふたもない呼称で扱われているのはなんだか笑ってしまう。こういう人たちの怖さは「神秘性」にあると思うのでどんどんダサくしてほしい。目覚めよと言い続ける彼らが長い眠りから覚めるように。9月1日に進むために。

本題

昨日松本智津夫を含む7名の死刑が執行された。オウム真理教関連の13人(この数字がまた、意味ありげに見えてしまって嫌になる)のうち凡そ半分である。関連死刑囚は同日に執行するのが慣例であって、ただし諸々の負担を考慮して7人に留めたらしい。

死刑囚というのは死刑そのものが刑罰であるから、基本的に労役が存在しない。いつ執行されるかわからないという状態も罰の一つであるのかもしれない。かつては執行前日に伝えられていたが、当日に自殺したことにより伝えられることはなくなったという。

筆者も物の本の知識のみで語っているので実際の所は違うかもしれないが、執行は朝行われ、刑務官の靴音の違いで察してしまう死刑囚は察するという。通常の房にオウム関連の死刑囚も入れられているのなら、分散したとはいえ大体各刑務所に2人くらいずついるオウム関連死刑囚は、他方は突然の死を告げられ、他方はかつての「お仲間」が死へ向かう所を察したはずである。

突然の理不尽な死をもたらした連中に同情する気など一片たりともないが、同事件の同刑罰を受けた人間に対して、この違いはいささかムズっとする。平等性が保たれていない気がするからである。

以下、引き続き執行されなかった他方は相方が執行されたことを知った状況と仮定して話を進めるが、なんだかんだ牢の中で二十年ほど暮らしてきて、(凶悪犯には適用されないが)恩赦もちょっと期待したり、井上に至ってはおまじないめいた再審請求(刑事訴訟法第442条では、再審請求が刑の執行を停止する効果を有しないことが明示されているが、事実として再審請求中は執行されにくい傾向にある。もっとも、昨年18年ぶりに再審請求中の死刑囚が執行されたのだが。井上のように)をしたりしている中、朝突然死を告げられ文字通り真っ逆さまに死に落ちていく恐怖と、それを知り、改めて自分の確実な死を思い出し、またそれが恐らく近々であることを噛みしめながら生かされる恐怖というのは少し毛色の違う恐怖であり、繰り返しになるが同事件の同刑罰を受けた人間に対する平等性という観点から言えばなんだか腑に落ちないのである。後者の方が、現在で少なくとも二日長生きしている点も含めて。

法律というのは基本的に玉虫色の解釈をしやすくしているのだろうが、死刑は判決決定後○○日以内とか明文化すると、色々と省ける手間があるんじゃないだろうか。前述のように、いつ執行が訪れるかわからない不安を刑罰の一部とする解釈であったり、またもちろんあってはならないことであるが冤罪の可能性を考えてしまうと難しいかもしれないが、前者においては○○日「以内」とすることである程度その性質は残せるのではないだろうか。

しかしこれだけの規模、事前に段取りが決められており今更動かしようがなかったのだとは思うが、この未曽有の天変地異の中、大規模執行というのはもうちょっと何とかならなかったのだろうかとは思う。恐らく蜂起を警戒して各地の関連施設にも人員を割いていたりしたのだろう。この1大ニュースになんとか出社したり支持を出したりしなければならなかった人もいたのだろう。それらの人々は災害は大丈夫だったのだろうか。

そうして厳戒態勢で張り込んでいた人々が居合わせた災害で被災者を救助しましたといたニュースが、語られないとしてもそういった出来事が、どこかで起きていれば少しは救われるのにな、と思う。

末尾ながらオウム真理教関連事件にて犠牲になられた方に心よりお悔やみ申し上げますとともに、特別警報に関連する災害による被害の1日も早い復興を願い、犠牲になられた方にお悔やみを申し上げ、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。