カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

青春は自分と夢の間に流れる川、あるいは「バーナード嬢曰く。」4巻までの感想

余談

書きたいことはたくさんあるのだが、どうにも疲弊してしまっている。

一つはこの異常気象で、幸い妻の料理のおかげもあり夏バテには至っていないがそれにしたってこの暑さはどうしようもない。仕事中、別棟に移るその間だけで体力をがりがりに削られる。

もう一つは東京医大の女子一律減点問題とそれを生んだ女性雇用に関する構造的問題である。東京医大のことでスーパー門外漢の筆者が疲弊するなんて繊細すぎる……と読者諸賢は思われるかもしれないし自分でもちょっと引いているのだが、鹿児島というどう取り繕ってもやはりいまだに男尊女卑がはびこる地方で、そこに男性として生まれ落ちてしまった以上、残念ながら「無条件にある部分では優遇される」といういわば原罪を背負っている人間ということもあるのかも知れないがひどくショックを受けた。自分のどうしようもないところでしかし確実に自分のせいで他人が害されている、というのは少なくとも筆者にとってとてつもなく精神にくるものがあって、勝手に東京医大の女性諸賢は勿論のこと、男性諸賢もその苦しみいかなるものか……とすっかり市民権を得た言葉で言えば忖度したりもした。

また自分の過去を鑑みて、二十一世紀であってもやはり「女子だから県外には出さない」ということで筆者より何倍も賢いのに県内で進路を決めざるを得なかった彼女らのことを思い出し、また男女問わずそういったしがらみから抜け出す蜘蛛の糸の一つが大学試験であったという厳然たる事実も踏まえるとそこが公平でないということには慟哭せざるを得なかった。冗談でなく足元が揺らいだ気分にもなった。

筆者は後期試験での入学で、試験内容には小論文があった。間違ったことは書いていないと思ったし、だからこそ合格通知をもらって喜びもしたのだが、それすらもしかしたら「男性だから」「現役だから」という「下駄」を履かせてもらったからだと言われたら「そんなことはない」と否定できないのが情けないし、恐ろしい。

少なくとも今までは一笑に付していた「俺が○○に落ちたのは○○の陰謀!」みたいな発言に「もしかしたら……」と思わせてしまうようになっただけでもとても罪深い事件だと思う。

本題

本が好きである。高校生くらいまでは、自分は読書家だと思っていたし、実際毎日なにがしかの活字本は読んでいた。大学に進学し、筆者は「これからはますます本の虫となるのだろうな」と考えていた。実際、当時は四時間かかった実家から大学までの道のりの移動期間のほとんどを本を読んで過ごした。

ところが本格的な一人暮らしが始まると、可処分時間のほとんどは読書ではなくインターネットや、ゲーム(主に狩猟やアイドルプロデュース)、創作に費やされ、読書の時間は高校時代に比べ著しく減少した。

なるほど、と筆者は当時自分で納得していた。「大人に怒られない暇つぶし、いってしまえばサボりが読書であったから自分は読書を嗜んでいただけで、咎められない状況で同じような時間があれば、それよりもインターネットやゲームに勤しんでしまうのだな、自分という人間は」と。勿論決して本が嫌いという訳ではなく、好きであるし、今でもちょこちょこ本は読むけれど、その時筆者は読書家ルートを断念したのだった。その後別に一流の狩人にもアイドルマスターにもなれた訳でもないのだけれど。

だから「バーナード嬢曰く。」の登場人物が筆者にはまぶしい。そういうマンガだからそりゃそうだろ、と言われてしまえばそれまでなのだが彼らはそれぞれのスタンスでしっかり本に対して向き合っている。

そういえば高校の時にあんまり友人と本の話をしたことがないかもしれない。もしかしたらしていたかもしれないが、そんなことより週刊少年漫画の話が主だったのである。昼休みに友人と自主練習をしていたら五時限目の体育の授業で体育館にやってきた三年生にワンピースのネタバレを食らった(友人同士でまさか○○の父親が○○だったなんてという話をしていた)あの時の恨みはすさまじく、今も時々夢に見る。我々と同世代だったはずのあひるの空はそろそろ完結したのだろうか。こういったところからも少なくとも高校時代の筆者にとっての読書は一人遊び、目遊びの範疇であってそこに共有という概念はあまりなかったことが伺える。ますます筆者の中で登場人物たちの輝きが増していく。

4巻の中で特に印象に残ったのはとある特殊な場所での読書のエピソードである。既刊でも「特別な時に読んだ本は特別な本になる」というエピソードがあったが、きっとこの本も特別な本になったことであろう。

あれは卒業式の日(もしかしたら離任式)だったと思うのだが、友人たちと名残惜しむのも一段落し、一人、また一人と家路に着いたり恐らくはファミレスなどで更なるの名残惜しみへ向かう中、筆者はなんとはなしに体育館に向かった。既に昨年卒業したワンピースのネタバレをした三年生を呼び出して決闘をするとかそういったことではなくて、本当になんとはなしであった。なんとなくもう一度コートに行って、シュートを打ちたいなと思った。筆者は囲碁将棋オセロ部にいそうな風貌ランキングが校内で催されたとしたら恐らくは上位が狙える可能性があったが実際には中学から基本的にどこかしらを怪我しているバスケ部であった。といっても実力は風貌通りで(全国の囲碁将棋オセロ部の皆様ごめんなさい)全くもって無能な部員であったけれどあのボールをドリブルするダムダムという音を聞けば今でも高揚するくらいにはバスケットマンでもあったのである。

自分がバスケット適性がないことは上記のように重々承知していたので大学ではバスケに関わるつもりはなかった。体育館に行くこと自体なくなるであろう。よって言うなれば「バスケ修め」をしておきたいという気持ちがあった。いや、正確には「シュート修め」か。天才ではないけれどシュートの練習は楽しかった。自分のエネルギーが外へ正しく射出され、ゆっくり弧を描いて、スパッというかバツッというか、そうした音を立ててゴールに吸い込まれるたびに自分がもう少しバスケ部でいられるような気が現役時代はしていた。困ったことにあんまりそういうことがなかったので基本的にはバスケ部員でいいのかどうか自問自答する日々であったりもした。

意外なことに体育館には誰もいなかった。丁度凪のような時間帯だったのかもしれない。制服のまま、倉庫からバスケットボールを引っ張り出してシュートを打つ。半年かそこらで著しく筋力は落ちており、もともとたいしてあった訳でもないシュート勘は惨憺たるものになっていた。よりにもよって派手にミスしてぐわんぐわんとゴールが揺れる中、一人の来客があった。

彼女がなんで来たのか、どういった話をしたのか、まるで覚えていない。それが大切な思い出だから記憶の奥底に厳重に閉まっていてそのくせカギをなくしてしまったからなのか、ただ単に十年前のことで加齢による健忘なのか、それさえもわからない。

ただ、合格祝いで何かを買ってもらったか、という話をしたことは覚えている。彼女はデジカメを買ってもらったという。筆者はPSPを買った(半額助成)ことを告げた。

「ぷれい、すてーしょん、ぽーたぶる」

当時のCMの発音に寄せた発声をする彼女がなんだかシュールで笑ってしまった。持っててよかったPSP。

それから義理チョコのお返しにホワイトデーにあげた伊坂幸太郎先生の「チルドレン」の話になったような気もする。「重力ピエロ」を貸したような気もする。(卒業というハレの日に自分が墓場まで持っていきたい本とはいえ強姦魔が出てくる本を女子高生に押し付けるのが童貞の童貞たる所以である)その後彼女の友人が来たので筆者はそそくさと退散したようにも思える。一切は昔であり、もしかしたら彼女も今は苗字が変わっているかもしれない。しかしその時の彼女のPSPへの反応が忘れがたく、それが無意識に狩猟をはじめとするPSPのゲームの比重が読書を上回る伏線だったと考えると重要性が増してくるのではないか……とまで書いたところでこれは「特別な状況での読書」エピソードではないことに気が付いた。

1~4巻において恐らくド嬢以下4名は進学等はしていないと思われるが、積み重ねでの関係性が順調に厚みを増している。特にド嬢と神林のそれは友情と片付けていいものか……とまで思ってしまうのは筆者が毒されているからだろうか。それに呼応するように4巻では長谷川さんの掘り下げも進む。ファン必見であるし、またファンになる方も多かろうと思われる。

4巻の冒頭では読書の意味について語られる。筆者は一度、「今まで読んできた本がたまたまめっちゃ面白かっただけで今後読む本はずーっとつまらなかったらどうしよう」という変な強迫観念に襲われ読書が怖くなった時期があったのだが、そんな時ド嬢や神林がいたら不安を解消してくれたのかもしれないな、と思った。

しかしキャラが立ち過ぎて(筆者も大好きである)しばしば未見の諸賢から「この子がバーナード嬢?」としばしば勘違いされる神林しおり嬢がとうとう表紙を飾ってしまったので勘違いが加速するのではないかとちょっとワクワクしている。狙っていたりして。

ちなみに巻末には……この先は君自身の目で確かめてくれ!