カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

私はこの恐ろしいドラマだけは感想を書きたくなかった――「悪魔が来りて笛を吹く」を視聴して

長谷川博己氏が金田一耕助を演じた「獄門島」。そのリブートぶりに度肝を抜かれつつも最後シーンの等々力警部よりの電報「悪魔が来りて笛を吹く」に次作の製作を予感し多くのファンは続報を心待ちにしていたはずである。

果たして、およそ二年後の今年七月末、「悪魔が来りて笛を吹く」が放送された。金田一耕助役に吉岡秀隆氏を迎えて。

それはやはり「獄門島」のように挑戦的な作品だった。筆者は本放送をうっかり見逃し、オンデマンドで視聴して慄いたのち、再放送を見てハッシュタグで他の視聴者諸賢がどのように感じているか、というリサーチも行ったりした。極彩色でありながら陰惨で酸鼻を極め、しかし目を覆う手の隙間から凝視することをやめられないような物語であった。しかしこれを日曜日の昼下がりに放送するなんて攻めるな、NHK。獄門島をオンデマンドで再配信してくれ、NHK。「犬神家」と「八つ墓村」の深読み読書会も。

ともあれ今回の「スーパープレミアム『悪魔が来りて笛を吹く』」を基本として、原作やJET氏のコミカライズなどと比較しながら「悪魔が来りて笛を吹く」の感想をつづっていきたい。

金田一・都会もので作者の横溝正史先生が一番に推す作品

本作は途中、淡路島まで舞台が変わるけれども基本的には都内の椿邸にて話が展開される。金田一耕助というと地方の因習に満ちた事件を解決する探偵、というイメージが強いかもしれないが、こういった都会の事件も彼は多く解決している。それでも前述のような印象が強いのはやはり有名な作品が地方ものが多いからであろうか。

エッセイ「真説 金田一耕助」によると某週刊誌で発表された「金田一耕助ものベスト5」は1位 獄門島、2位 本陣殺人事件 3位 犬神家の一族 4位 悪魔の手毬歌 5位 八つ墓村

ということで、このランキングは田中潤司氏の手によるということだがなるほど見事な選抜であると思う。筆者も全く異論はない。これら全ては前述する地方もので、ネームバリューも高い。必然、金田一耕助が地方の事件を解決する探偵というイメージが醸成されたのもうなずけるところである。ちなみに他にもよくあるイメージの「よく犯人が自殺する」であるが、上記事件での自殺率は……この先は読者諸賢自身の目で確かめてくれ!

その5位に続く事件として、上記エッセイで横溝正史先生自身が挙げているのが「悪魔が来りて笛を吹く」である。都会ものとしては自作で一番と認定している、と言ってよいだろう。

執筆されたのは1951年、事件の下敷きの一つとして使われている帝銀事件からはわずか3年ほどしか経っていない。(ちなみにこの犯人と目される平沢貞通氏が逮捕されたのは奇しくも筆者の誕生日8月21日である)現代であれば自粛(という名の他粛)を要求されそうな事態であるが、実在のマリー・ロジェ事件がエドガー・アラン・ポーに世界初の推理小説を書かせしめたように、実際の事件が作家の創作心を大いに刺激することが当たり前のことであって、現代がむしろ閉塞しているのかもしれない。(椿元子爵の自殺も実際に起きた自殺事件を下敷きにしているといわれる)

そうしたまだまだ戦後の混乱期に――戦争があったからこそ生まれた悲劇として――立ち現れるのが「悪魔が来りて笛を吹く」である。

ちなみに前作「獄門島」では船中で「悪魔が来りて笛を吹く」の電報を受け取ったことになっているが、原作では獄門島事件とはちょうど一年ほどの間が空いている。

原作との相違

先だって「挑戦的な」と言葉を使ったように、今回のドラマ版は原作からかなり大胆なアレンジがある。一番の相違点はやはり「悪魔」が笛を吹かないことであろうか。平成最後の夏、悪魔来れども笛吹けず。タイトル違うじゃん! と思ったのだが、これについては「もしかして今作では製作者の規定している『悪魔』は別にいるのでは? とも思い、これについてはまた項を分ける。筆者は未見であるが、別の映像版でも「悪魔」が笛を吹かない作品があるらしい。その作品では「悪魔」が複数であるからだとか。

しかれどもやはり、「悪魔」が笛を吹くシーンはやはりタイトルの回収であり、そして椿元子爵がその曲に込めた意図が明らかになり、そして何より絵的にとても映えるシーンでもある。今回のキャストでも是非見たかったので無くなったのは残念ではあった。

(原作では章題が第1章が「悪魔が来りて笛を吹く」真ん中の第16章が「悪魔ここに誕生す」最終章が「悪魔笛を吹きて去る」と美しい並びになっているのも素晴らしいだけに何とか笛を吹いてほしかった)

椿元子爵が曲に込めた意図自体は今ドラマ版でも明らかになる。全てが解決したところで新宮一彦が吹いて見せてくれるのである。(しかし片や恩師、片や父の形見の曲であるからとはいえ嫌な思い出のある曲を「吹きましょうか?」と言ったり「吹いてほしい」と言ったりするのは分からない! 文化が違う! という気持ちになる)そこで今回の事件の感傷に浸る……だけではなくこの曲に込められた意図に「気づいてしまう」のがまた名探偵の業である。原作では「悪魔」は皮肉交じりに「どうして誰かに吹かせてみなかったのです」と金田一耕助に言うのだが今回の演出では金田一耕助がそれを自問しているように見え、「名探偵のジレンマ」をまざまざと見せつけられる。

この演出は今ドラマ版オリジナルの旅館シーンに繋がり、「無力感に襲われる吉岡金田一(かわいい)」であったり、「探偵は明日を生きる訳を見つけるための存在」であるという全てのミステリーの探偵役のエールが見られた点は良かったと思う。

次に大きいのは「悪魔」が自分の正確な出生を知らないという改変であろう。原作では小夜子の死を知った「悪魔」がおこまを問い詰めることにより、己の出生の秘密を知るが、ドラマ版では金田一耕助に告げられるまでそのことを知らない。これにより椿邸に入る理由も「小夜子の死を探るため」という風に変更されている。

この改変によって「あくまで真実を追求し、つきつけてしまう探偵の業の深さ」や「貴族階級と一般階級のどうしようもない認識のずれ」、「全てを取り返しのつかない状態で知ってしまい、自分が知らずに悲劇を再生産してしまっており、実の母にダメ押しされる」という部分で原作よりまさしく劇的な感じにはなっており、クライマックスの盛り上がりとしては素晴らしく仕上がっているのだが、「小夜子の死を探るためなら殺さずに色々聞きだせよ」であったり、「なんで火焔太鼓を砂占いの時に出現させたのか」という疑問が解決しないままになってしまう。玉虫の御前が引き下がった理由も微妙に変わってしまうし、「悪魔ここに誕生す」を何故消したのかもよくわからない。(筆者が見落としているだけかもしれないので説明されていたら教えてください)

秋(実際は左右が逆の「あき」)子の死因及びその秋子への「悪魔」の殺意も異なっている。「秋子をどう扱うか」というのはクリエイターの心を指摘するのか、以前のメディアミックスでもかなり違いがあるようだ。原作では薬の中に毒を仕込まれ、嵐の中それを飲んで狂乱の内に死に至る。漫画版では「悪魔」に抱きついたところを絞殺される。そして今ドラマ版では「悪魔」にめった刺しにされて哄笑しつつ死んでいく。(華子さんも何回か刺してもよかったんじゃないかと思う)原作では母への慕情を捨てきれないのか(大きな意味では秋子もまた被害者ではある)、計画の失敗すら期待しているが、漫画版及び今ドラマ版では自らを「悪魔」にせしめた醜悪な姿を見せられることによって明確な殺意が発露したという違いが見られる。今ドラマ版においては、利彦と長幼が逆転したこともあり、秋子が「悪魔誕生」に至った惨劇を主導していたように思えることもあり、原作とはまた違ったおどろおどろしさを出している。

華子が利彦の死後、解決編において自らの意志を出し始めるのも原作にはなかったシーンであるが、これは過去は抑圧されたままで終わっていたけれど現代にこのドラマをやるこうなるという意味が感じられた。(原作でも利彦の死によりちょっと元気になったような描写はある)

信乃やお種、出川警部などが今ドラマ版では出て来ない。これは尺の為に仕方がないところか。

細かいところではあるが、原作とは違い灯篭の足元に判り易く「悪魔ここに誕生す」と書いてあったのも気になる。結構目立つんじゃないかな。

 もう一つ、今回は原作に倣って元子爵などというように表現したが、劇中ではエピローグまではまだ華族令が廃止されていない気がする(爵名に「元」がついていない)ように思えたがちょっと時期がずれているのだろうか。

キャスティングについて

吉岡秀隆さんの金田一は非常に良かった。ただ、60を過ぎても若々しいらしい金田一が白髪交じりなのは気になるところではあったが……。ヒューマニストではあるものの、謎があると解決せずにいられない、真実を語る前には躊躇するけれども相手が一度要請すると、後は何があっても真実を残酷なまでに叩き込んでくる、事件の解決後は非常な無力感に襲われる、まさしくイメージの金田一耕助であった。

今回は解決編が全体の半分という攻めた構成であったが、吉岡さんの長台詞はすっと入ってきた。解決編に至る際の長い廊下――正しく正気と狂気の境を渡るかのような――をしずしずと歩く金田一耕助のシーンは素晴らしい。

また、何が…何が…なにが…! なにが…ッ! と頭を掻きむしりながら、その背景で同じ「きょうだい」でありながら余りにも対照的過ぎる2組がフラッシュバックするシーンなどは吉岡さんの声でなければあの何とも言えない寂寥感と無常感のコントラストはでなかったであろう。

真相を開示しながら、自分も等しく傷ついていく、自らを依代として託宣を伝える巫女のような金田一耕助であった。

美禰子役の志田未来さんは美禰子役にこんな美人を起用したらダメだろ! という気持ち。しかし原作で痛いほど伝わる意志の強さは良く表現できていた。自ら地獄の蓋を開けてしまう所も。

三島東太郎役の中村蒼さんは「深読み読書会」の犬神家回で記憶に残っていたので今回の起用は嬉しかった。終盤の表情がいちいち心に刺さるいい演技だった。一彦との差別化のためか、原作にある好青年的イメージはあまり感じられなかったが。是非機会があれば多門修をやってほしい。

菊江役の倉科カナさんは画面制圧力がすごすぎる。一筋縄ではいかない飄々としつつその下には冷たく荒涼とした意志が流れている様にはやられた。

筒井真理子さんの秋子は恐ろしい。妖の一字である。

 

本作の悪魔は誰か?

さて記事も長くなってしまったので前述した今ドラマ版の悪魔について私見を述べて終わりとしたい。

勿論、前提としては一連の事件の犯人であろう。

しかし別の視点では?

例えば金田一耕助が現れなければ、帽子を壺に掛けることもなく、今回の惨劇自体が起こらなかった可能性がある。起こったとして、恐ろしい秘密が明かされることもなかった。パンドラの匣を開けにやってきた悪魔が金田一耕助だということが出来はしまいか。

いや、美禰子が変な意地を張って真相を要求しなければ、椿邸の人々が崩壊するまで追い込まれることはなかった。世間を知らない美禰子こそが悪魔ではなかったか。

そうではなく――椿英輔元子爵こそが今ドラマ版における悪魔ではなかったかと見終えて筆者は思うのである。

結果だけ見れば、椿元子爵は自らの手を一切汚さず、それどころか同情を勝ち取って、椿家の家名を汚す「悪魔」とその血脈を一網打尽にせしめたのである。天銀堂事件の汚名すら雪いで。

他人の悪意を転がして自らの満願を成就せしめる――そのまま悪魔の所業と思えるのだが、いかがであろうか。製作者の人そこまで考えてないと思うよ、と言われてしまうとそこまでであるが、どうしても金田一少年のあの事件や京極堂のあの事件を思い出してしまうのである。

あるいは悪魔のトリルのように悪魔が来りて笛を吹くは元子爵が悪魔と出会った末に生まれた呪われた曲であったのかもしれない。

漫画版がおすすめ

今ドラマ版で金田一耕助に興味を持ち、原作の違いを知りたいが小説を読むのはハードルが高い……という方は漫画版をお勧めしたい。長らく絶版であったが最近kindleで刊行された。犯人のモノローグが入り、より分かりやすい構成になっているが、展開自体は秋子の死因以外は原作に準じている。同時掲載の「雌蛭」は金田一耕助が変装する(しかもアロハシャツ)というレアエピソードでこちらも「都会もの」であるのでぜひ押さえていただきたい。

次回の金田一耕助

今後もエピソードごとに金田一耕助の配役が変わるのであれば、是非、濱田岳さんに一度やって欲しい。または風間俊介さんや、斎藤工さんなども結構ハマるのではないかと思う。

 

悪魔が来りて笛を吹く (あすかコミックスDX―名探偵・金田一耕助シリーズ)