カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

ミュージアムのアラサー、あるいは晴れた休日の朝鹿児島市立美術館へ行った話

入館まで

丁度一週間前、「ミュージアムの女」を再読した。

 

ミュージアムの女

ミュージアムの女

 

 KADOKAWAお得意の「一風変わったお仕事の人の実録4コマ」といった趣のこの作品はしかし確かな画力と構成、作者の方のやさしさ、仕事への矜持と愛が満ち満ちており、その枠にとどまらず筆者に高い満足感を与えてくれた作品であった。

優れた作品というのは人に影響を与える。そもそもがミーハー体質であった筆者はがぜん美術館へ行きたいという気持ちになっていた。とはいえ出不精の筆者も並列して存在し、均衡状態が続いていた。

均衡を破ってくれたのは妻であった。妻は鹿児島市内において友人と会う約束をしていたのだが、踏切のタイムロスを見誤り、タッチの差でJRに乗り損ねたのである。これにより筆者は妻を友人の元へ送り届けるという大義名分の下、鹿児島市内へ向かい、そのまま鹿児島市立美術館へ入館することにしたのだった。時間は十時二分。開館より二分、恐らくは純粋な(展覧会の関係者などを除く)入館者としてはその日初めてであったかもしれない。館内は新しい朝の爽やかさと収蔵室で待ち構えている作品たちが放つ重厚さがセッションを繰り広げているような面持ちであった。

小学校以来、何度も訪問しているはずなのだが観覧料を支払う場所が2Fであるのに間違えて1Fのインフォメーションを尋ねるという失態を犯してしまった。

秋の所蔵品展

若干赤面しながらまずは秋の所蔵品展に臨んだ。ルノアールセザンヌピカソ、ダリ、ウォーホルの作品はやはり覚えがあり、その再会に懐かしい気持ちになりつつも、一つの展示作品に驚かされた。

オディロン・ルドンの「オフィーリア」。

www.digital-museum.jp

既読の読者諸賢には判り切ったことを書くことをご容赦願いたいが、先述した「ミュージアムの女」において声に出したい芸術家ランキング上位ランカーは間違いないであろうオディロン・ルドンは重要な立ち位置にある。その本を読んで美術館に行きたくなり、そしてその作家の作品に出会うというのは、ちょっと出来過ぎていて冷め始めていた頬が再びぽっぽとしてきてしまった。

ちなみにオディロン・ルドンと言えばバックベアードのデザインのルーツとも目されており、このロリコンどもめ!そういえば最近視聴できていないゲゲゲの鬼太郎が思い出されたりするのであった。バックベアード田中秀幸さんなのか……。

www.toei-anim.co.jp

ちなみにルーツ云々についてはこちらの説明が判り易い。

blog.goo.ne.jp

またその時の筆者は「ミュージアムの女」表紙の絵もオディロン・ルドン作であることをすっかり失念しており、オディロン・ルドン(打鍵しながら脳内で音読すると大変気分がいいので今後もフルネーム表記のままでいきます)といえば「黒」というイメージがあったので(実際に同じく展示されていた「聖ヨハネ黙示録『日を着たる女…』は黒い版画作品であり、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソオディロン・ルドンとの公平性の為に一回こちらもフルネームにしてみました)の青の時代の様にオディロン・ルドンには黒の時代が存在する)その鮮やかさに再び驚かされてしまった。悲劇のヒロインが鮮やかに活写され、その表情は様々なものを含んでいるようである。色の説得力が炸裂しているように思えた。

 この他所蔵品展の中では、電話で名前を相手に伝えたら聞き返されそうな芸術家ランキング常連であろうデュビュッフェの「都会脱出」に描かれているキャラクターが筆者は非常に好きで、勝手に市立美術館のアイドルに認定しているのであるが、著作権の関係上上記の様にデジタルライブラリーではご紹介が出来なかった。是非ご訪問いただき、その何とも言えない力の抜けたキャラクターを見ていただきたい。

特集:世を動かした薩摩

続けて特集「世を動かした薩摩」を鑑賞した。西郷隆盛(南州)書の「敬天愛人大久保利通(甲東)書の「為政清明」をはじめ、幕末・明治を彩った薩摩に関する作品が展示されている。特に川口雪蓬の書では書題の李白に影響されたような豪放な書きっぷりにくわえ、いわゆる「エモい」史実を知ってこれが大河で再現されるのかという楽しみが生まれたりした。

大河と言えば、政府にブチ切れ腹切りマンと化した横山安武を惜しんで西郷が書いた弔旗も展示されていた。実弟である森有礼(日本最初の文部大臣)の書もあった。

かつて多くのお嬢さん方をロスに誘った五代友厚の書画もあったりする。素朴である。

島津斉彬公・久光公の歌もそれぞれあるのだが、筆者は久光公の方が好きであった。武骨さとスケールの大きさがうかがえてよい。

西南戦争を報じた錦絵もあった。昔よりメディアはいい加減であったことは以前も書いたけれど、西南戦争においても西郷は「悪者で大物っぽくするため」実際を捻じ曲げてぼうぼうのひげをどの錦絵においても生やされていて「君なんか錦絵と違わない?」と城山で言われなかったかいらぬ心配をしてしまった。

当時の鹿児島城下、すなわち今美術館のあるまさにこの辺りをよく知ることが出来る「天保年間城下絵図」はインフォメーションで販売しており、先程の失態を取り戻すがべく購入した。大ボリュームである。

小企画展「彫刻家の版画」

様々をゆったりと鑑賞し廊下にて「忠犬ハチ公」(渋谷のものの原型)越しにかつて就活であのあたりをぶらついたことを思い出したりしつつ、所蔵品展と共通で観覧できる小企画展「彫刻家の版画」も鑑賞することにした。筆者は芸術作品の中では彫刻が好きで、それはその量感に説得力があること、ものによっては触れてより身近に感じられることによる。

版画というものについて考えるとき、確かに立体と平面の狭間のものであるという事実があるのだが、筆者はそれについて考えたことがなかった。それぞれは(企画展の解説にあるように)アプローチが異なり、独立したものであると考えていたからである。しかし並べてみるとマリノ・マリーニの版画はその動きと周りに配置された鮮やかな色が彫刻へ結実したときにその躍動感へとつながっているように思えるし、ヘンリー・ムーア(名前に聞き覚えがあると思ったら広島にて「ナチスに退廃の烙印を押された作家たち」展にて作品を鑑賞したことがあった)の象の頭蓋骨に対するアプローチは版画が狭間であるからこそ成し得たもののように思えた。一方でアルベルト・ジャコメッティに関しては、メインは版画であるとはいえ、彫刻作品は写真での出典であったので少々寂しかった。とはいえ、ジャコメッティが病を得、自らの死――終わり――を猛烈に意識しながらも「終わりなきパリ」という名の連作を精力的に行っていること、そしてそれには題名とは裏腹にやはりどこか終わりの影を感じてしまうことに対する作家と作品との関係性について思いをはせるだけでおなか一杯ではあるのだけれど。

鑑賞を終えて

何度も行った美術館ではあったのだけれど、なんとか今のところ日々新しく物事を脳みそに蓄積して生きているので、例えば今回のオディロン・ルドンであったり、ヘンリー・ムーアであったり、「キャンバスを切り裂くだけで作品って気楽でいいな」と見るたびに思っていたフォンターナの「空間概念(期待)」が立体と平面の概念という意味で革新的な作品であると小企画展を通して見方が変わったりなど、新たに仕入れた知識と慣れ親しんだ作品がつながるというカタルシスを十分に味わえたので大変有意義な時間を過ごせた。こんなにいい作品がいっぱいあるのにほぼ貸し切り状態だったのは嬉しくもあり、悲しくもある。是非一度足を運んでいただきたいと思う。