カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

29才8ヶ月のリアル――アラサー男子、ヒプノシスマイクにハマる。①信じて送り出した妻がシンジュクの女になって帰ってきた編

余談

 あの頃、筆者は世に言うブラック企業にいた。タイムカードは存在せず、年棒制と言う名の定額働かせ放題、旧態依然とした風通しの悪い歪んだ体育会系企業。家族的経営の典型的な間違った見本。近所からは「不夜城」と呼ばれる事務所を出るのは午前様であることも珍しくなかった。それぞれが個人主義と言えば聞こえがいいが要するに隣のデスクの人間が何をしているのかわからないし自分が何をしているかを他人に共有する術もない。簡単なことが出来なくなる。俺のせい。俺のせい。一つ一つ慎重にやっていく。定時が過ぎる。大ボスが帰り、先輩がはしゃぎ始め、集中力が途切れていく。スペックの低いPCがフリーズする。俺のせい。俺のせい。ボーンというPCからのエラー音、何かの記念でもらったらしい鳩時計の時の区切りを告げる音。出先から帰ってきたスタッフのけたたましく階段を駆け上がる音、耳障りな内扉の開く音。給湯室の笑い声、一番うるさい音、腹の立つ、自分の、心臓の、鼓動。この世界には音が多すぎる。朝起きる度にどうやったら辞められるかを考える。出社の為にエンジンをふかしながら思い切りアクセルを踏みつけて対岸に飛び込んでしまおうかと。けれど会社は嫌いだけどお客様は好きだった。迷惑はかけたくなかった。今日も週に一度の朝七時からの啓発活動が待っている。下っ端だから六時半には到着して座席他の準備をしなくてはならない。お茶用のお湯を沸かさなくてはならない。玄関を掃除しなくてはならない。失礼の無いよう。失礼の無いよう。精一杯の笑顔を浮かべる。媚びた顔をするなと一蹴される。すみませんと頭を下げる。脳内で[s]を打ち込めば「すみません」がサジェストされるようになって久しい。コネ入社の社員が伝票を間違えている。頭でっかちの提案したスキームは法改正を踏まえていない。上役は用紙が切れているのに気づかずに印刷ボタンを押し続けている。それとなく指摘しなくてはならない。失礼の無いよう。失礼の無いよう。

史上最年少である額の売上を達成した。当たり前のようにそれを基準で次の目標が設定された。分かっていたことだったが。「売上次第で年収が上がる」はずだったのだが、「新卒の最初は売上を全然上げていなかったのにお給料はもらっていたこと申し訳なくないの?」という謎理論により据え置きになった。今や時間で割れば大学時代のバイトより薄給になっていて、筆者には大切な人が出来ていた。辞めることにした。心療内科にかかろうかな、と思ったが今のこの状態に名前を付けてもらうと今後の保険加入諸々で不利になってしまうことを仕事柄分かってもいた。俺は眠りたいだけなんだ。

一世一代の退職願を書いた。「水風呂に入って頭を冷やして見たらどうか」大ボスはこれで大真面目に心配してくれているのである。この人は嫌いではなかった。お金が好きで権力が好きだが、お客様のために自分が矢面に立ち、従業員をこの人なりに愛してくれる人だった。けれど後継者があまりにもあまりにもだったのだ。結局辞めるまでに三か月を要したがどうにか生きて脱出できた。体重は入社した頃から30kgほど増加していた。

しばらく休んでいると妻(当時は彼女)が「これ面白いよ。特にR-指定がいい」とある日勧めてくれるものがあった。

R-指定なんていうから何やらいかがわしいものかと思ったら「フリースタイルダンジョン」というものだった。「ダンジョン」という単語にRPGキッズである筆者は食いついて観てみると、画面ではおっさんが罵り合っていた。

MCバトル。

正直なところ筆者はHIPHOPはそれまで全くの門外漢で、やたら感謝したり語尾をそろえたりする類のものだと思っていた。

だが見せてもらったそこには、むき出しの魂と魂のぶつかり合いがあった。今から思えばダンジョン全体を見渡しても屈指の名バウトであった「VS掌幻戦」を鑑賞して筆者はすっかりMCバトルの虜となっていたのだ。当時はバックナンバーがYouTubeで配信されていたのでむさぼるように観た。

人として生きることの最も根源的な欲求、自分を認めさせる、自分を誇る、自分で道を切り開く。それが凝縮されていた。生きるとはこういうことなのだ、とその番組を通して妻が教えてくれたように思えた。

余りに陳腐な言い方をすれば「フリースタイルダンジョン」に筆者は救われたのだ。


SKY-HI / Enter The Dungeon

主題歌もとてもよかった。エンドロールに流れるたびにワクワクしたものだ。AAAが大変だけど頑張ってほしい。

本題

それから幾年かが過ぎた。HIPHOPは我が家にすっかり馴染んでいた。日々のやり取りにパンチラインを入れ込むことも日常であった。

以前記事にしたように、妻は二月に首都圏にてイベントに挑んだ。最中、妻は適宜状況を報告してくれていた。

「新宿に着いた! 人が多い!」

「渋谷に来ました! おしゃれ!」

「反対方向に乗って横浜についてしまった……」

らしんばん最高! 池袋です」

今思えばこの時察してしかるべきだったのかも知れないが、筆者はただ妻が人ごみに流されて変わってゆかないように遠くから見守るしか出来なかったのである。

実際には、それすら出来ていなかったのであるが――

無事に帰鹿し、妻を空港で出迎えた。待ちかねたような顔。「早く車に行こう!」我が家を恋しく思ってくれる妻を嬉しく思いながら愛車に乗り込むと妻はリュックからごそごそとCDを取り出した。

(写真は後日撮影したものです)

筆者「ゲェーーッ これは!」

妻「私は妻……いえ、シンジュクの女……独歩ちゃんの庇護者……」

信じて送り出した妻はシンジュクの女になって帰ってきたのである。ついでに各ディヴィジョンの聖地巡礼も済ませていたのである。恐ろしい子……!

妻「フォロワさんたちが勧めてくれていたから興味はあったんだけど足踏みしていて……でも新宿サラリマンが物を落としてそれを拾ったら『こんな人のような扱い……久しぶりに受けました……』みたいな顔をされて……その時ああ、サラリマンを応援しようと思ったの」

筆者「なるほど……取りあえず聞いてみましょう」

掌に数千曲が入るようになった世の中で、かえってCDを回転させる機会も機械も日常から減っていった。それは誰にとっても、妻にとっても。東京での色々は今、カーステレオにてヒプノシスマイクのCDを流すことで完結を迎えようとしているのだ。

とっても申し訳ないのだが、初めてすごくかっこいい声がそろって「さーいしゅうけっせん!」と言い出したのを聴いたとき、笑ってしまった。シリアスな笑いと言っていいかもしれない。じゃないのかよ! とも思った。しかし、入間銃兎の切れ味鋭いバースの次に観音坂独歩のバースが流れ込むと、そのフロウは確かに妻が好きそうだな、とも思った。わからんさ! 

そして一週間後、筆者は発売日に「The Champion」を購入するのだった。三軒回った。The Dirty Dawg結成のきっかけが全く見当がつかないので我が家では協議の末「同人サークルだったのではないか?」ということになった。

妻という人は好きになると本を錬成してしまうタイプの人間である。しかし同人においては人気ジャンルにちょっかいを出すことはかなりデリケートな部分でもあるようで、妻は苦悩していた。無論、妻の欲望は金の為にない、妻の為にあり、故に果てしないのであるがなかなかな逡巡があったようである。背中を押すためにバースを蹴ったりもした。(何をしているのだ)

あの史上に残る無様な会見の時もサンプリングで怒りを表明したりした。

妻の一押しは独歩君である。今、筆者は独歩君と同い年だ。けれど夏が来れば筆者は三十歳になる。独歩君は永遠に二十九歳のままだ。そこに幾許かの嫉妬を覚えないでもないが、推しは生活を豊かにすることは筆者もよく分かっているつもりだ。喜ばしいことだと思う。まだ語りたいことの半分にも達していないが、アルバムリリース日になってしまったので急遽複数記事構成であることにして一度筆を置く。リリース、めでたし。

ヒプノシスマイク-Division Rap Battle- 1st FULL ALBUM「Enter the Hypnosis Microphone」 初回限定LIVE盤