カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

この時代を「平成」と呼ぶ――平成元年生まれの見た平成について

 

平成が終わる。筆者は平成元年生まれである。平成生まれ平成育ち、周りの知り合い大体平成である。生まれたと思えばバブルが崩壊し、物心ついたら阪神大震災が起き、思春期に入ると9.11テロが起きて、就職活動を始めようとすると東日本大震災が起きた。転職したら熊本地震も起きた。かように天から様々な試練に打ちのめされながらも、しかしどっこいゆとり世代として生きている。別に好きでゆとっている訳ではないのである。この場合断罪されるべきはゆとらせた世代であるはずなのだが、どうもそちらが糾弾されている様子はあまり見ない。床屋や美容室で髪を整えることを「髪を切られた」ではなく「髪を切った」という人々であるのだから、我々のことを勝手に「ゆとった」と思っているのかもしれない。

ゆとり世代は「いや、俺の下からがゆとり世代ですよ」という習性があるらしい。確かに筆者も「ザ・ゆとり世代」というラベリングにはちょっと待ってほしい、と言いたいところもあるかもしれない。筆者の頃は、小学校は隔週で半ドンであった。半ドンと言うとナウでヤングな読者諸賢には通じないかもしれないので説明すると、ドンとはオランダ語で休日を意味するゾンタークから来ており、半ドンとは半分休日、つまりは午前中授業で午後が休みと言うことであるらしい。半ゾンではないのは忍者みたいだからであろう。ちなみに博多どんたくもゾンタークに由来するそうだ。ともかく小学校の土曜日と言えば出校し、サクッと授業を受けて何故か牛乳とビスケットは摂取させられた上で午前中のうちに帰宅し、母のざっくりした昼飯を食べながらローカル番組を見て、頃合いを見て近所の公園でハンベ(ハンドベースボール/手打ち野球)に興じる、と言うのが筆者の原風景であった。これが三つ下の弟になると土曜日が完全休日となっていって、「ここここ! ここにゆとり世代がいますよ!」とホイッスルを吹き鳴らしたい気分となる。他方、土曜日が完全休日と言うことは即ち学校のカリキュラムから外れる時間が増えたということで、そこを塾で埋め合わせている後輩たちは大変そうであった。現在はまた半ドンが復活しつつあると聞くが、一つは土曜をどう過ごすかによって学力の開きがあまりにも顕著になってしまったからであるかもしれない。

改元は今回が初体験であるが、同じような気分になったことは小学校時代に何度かあった。2000年、2001年がそれで、何かしらが肯定的に変わりそうな雰囲気を子ども心にも感じた。ミレニアムと言う響きに新しさを感じた。新世紀と言う言葉に可能性を感じた。丁度その頃、背伸びして親父の書斎から何冊かSFを読み始めて、そのころ設定されていた遠い未来が自分のすぐ手前に来ていることに何とも不思議な気持ちになったものだ。ピチピチのスーツは未だに着ていないし、車も今日も元気に地面に接地しているのだが。

2000年問題のごく小ささ、それは勿論良いことだったのだが、(確か朝刊でどこかの役場のデータが明治何年かになってしまったくらいでした、といった見出しを見たような気がする)やっぱり世界が劇的に変わることってないのだろうか、とある種がっかりしたことも覚えている。その失望はつい最近、具体的に言えば1999年の7の月にも味わったのであったが。その反証は残念なことに、2001年に同時多発テロと言う最悪の形で突きつけられてしまう……。

結局。とその時筆者は思った。結局この、生まれたから何となく感じている薄皮一枚包まれたような、この息苦しさから脱却できるトンネルに新世紀元年はなってくれなかったのだな、と。

小学校時代はまた、ゲームハード競争の花盛りでもあった。とは言え我が家ではゲームハードの選択肢など我が家にはなく、セガサターンというハードの存在を知るのは大分経ってからだった。確か、サターンボンバーマンが十人対戦が出来るというのでやってみたかったのだが、それは我が家のゲーム機では出来ない、と父に教えてもらった時に(父は還暦を迎えたがちびちびとゲームを嗜み、ドラクエも11までクリアしている)初めて意識したように思う。ニンテンドー64はCMでよく見ていたが、これも購入することはなく、友人宅でのアトラクション的位置づけとなっていた。ポケモンブーム真っただ中であり、当時は通信ケーブルを持っていると友人間でVIP扱いされたものだ。ワンダースワン……知らない子ですね……。

ネガティブな話で言えば、サカキバラ事件は被害者が同年代で大きな影響を受けた。金田一少年の事件簿名探偵コナンを読み始めており、ミステリーに興味を持ち始めていたが、だからこそ人が人を殺すときには決定的な何かがあるはずだと思っていた自分にとって、理解不能な動機であり動揺したものだ。

中学は男子の誰もがそうであるように人生で一番馬鹿だったように思い、それ故に楽しかったのだが、記憶があまりない。この間実家に帰ったときにたまさかその頃の写真を何枚か見たが、襟足が長く、肌は日に焼け、ニキビがぽつぽつとあり、首はアルパカの様であって、これは果たして人類なのだろうかと猪首をかしげることしきりであった。卒業式の写真を見るに学ランのボタンは半分くらいなくなっているようであるが、愛護団体的な感覚であったのか、眼鏡の度が合っていない学生が複数人通っていたのか、今となっては判らない。

部活では膝を壊してしまい、その間に真・三國無双シリーズにのめり込んだ。そこから蒼天航路に出会い、ちくま文庫の正史を読みふけった。掲示板で次回の展開を語り合ったりもした。

高校は朝が早いところであった。早い時には五時半には起床していた。弁当を作り続けてくれた母には頭が上がらない。ここで自分は頭がいいのではなく、人より理解が少し早いだけ、早熟であっただけで、そして早く熟れるがゆえにすでに腐り始めており、それまでの貯金を使い果たしつつあることを思い知らされた。主に理系の教科で赤点と言う名で自分が才能と思っていた果実は地面に腐り落ちて叩きつけられていった。高校二年あたりの春休みに戦国無双2が出たのも良くなかった。安土桃山時代の一つの合戦の参戦武将はすべて答えられてもチリの主要産業は一切頭に入っていなかった。

F先生と言う国語科の先生がいらした。ある時、授業で当てられて答えた江雪と言う漢詩の解釈がF先生に気に入っていただけたようで、学校新聞のコラムを書かせてもらうことになった。部活はバスケットボール部であって、新聞部諸賢には申し訳なさもあったが書くことは楽しかった。なかなか好評で、新聞部諸賢の他の素晴らしい記事もあって何かのコンクールで二席を取ったようである。それ自体も嬉しかったのは当然のこと、コラムを読んだ友人知人、教師陣が褒めてくれたり、感想を言ったりしてくれたのは望外の喜びであった。幼少から本は好きだったし、「おはなし」を考えたこともあったが、自らの書いたものを世に発表し、それによってリアクションを得ることの快感はこの時に知った。いわばこれが筆者の創作の原点、スタートであると言ってよいだろう。

一つ自信がつくことで他の科目もそれなりにはこなせるようになった。その後もF先生は目をかけてくださり、他教師陣に対しても好かれるタイプではなかったが人畜無害ではあったので、高校三年生の時にF先生の母校でもあるW大の推薦の話を頂いた。当時は我が家は曾祖母二人の介護に追われており、また弟の高校受験とのダブル受験でもあったことから、大変勿体ない話であったが辞退することとなった。下品ながら書いてしまうくらい、今でも時々夢に見る、人生の中で数少ない後悔である。

広島の大学に進学した筆者はこれから毎日創作をするくらいのモチベーションでいたのは最初の三日くらいで、四日目にモンスターを狩猟するタイプのゲームを買い、日記帳はその日狩ったモンスター目録となっていった。これではいかんと思い文章力を鍛えよう、人の目にかなう創作を考えた時、筆者が辿り着いたのが2chの「文才ないけど小説書く」スレであった。既に大分大衆化が進んではいたけれどもそれでも匿名掲示板と言うのは遠慮せずにものを言い、また言ってもらえる場だと考えたからだ。三大噺的な形式で書かされるという点も、書くものが偏らなくていいと思った。縁もゆかりもない人々からレスポンスがもらえるのは嬉しかったし、歯に衣着せぬ意見はありがたかった。自分と切り離して文章、創作を見てもらえ、当時は住人も多かったためフィードバックが早かったのも利点であった。

他方で、大学でも創作サークルに所属した。これは前述した部分とは綺麗に正反対になっていて、同好の士と話しながら作品を投げて投げられて夜を徹して創作論を戦わせるというのは今まで孤独に創作をしていた人間に与えられた光明であった。他方で、誰それにウケるようにということで自分の創作を自分で歪めていないかを恐れもした。創作者としては、出力に問題があり、(それは今もだ)寡作にとどまった。地震があり、曾祖母が相次いで亡くなり、地元愛なのかどうなのか、ともかくも郷里に帰ることにした。

地方と言うだけで「まとも」な企業である確率と言うのはがくんと下がるのだが、折しも震災不況、筆者が新卒でどうにか入った企業もなかなかな職場であった。それでもなんとか五体満足で転職し、今に至る。妻が創作をする人であるということもあって、このように令和最後の日にポチポチカタカタしている夫を快く見守ってくれている、というか自分もドダダダダダダと何かを打鍵している。突発本を出したくなったらしい。ジャンルの宝である。平成最後の日、令和最初の日を最も大切な人と迎えられることをもう少しかみしめたいが、今かみしめると妻の打鍵の振動で下唇を噛みそうだ。

Twitterで少し話したが、結局自分にとって平成と言う時代は余りにもパーソナルな時代である。どこまでも個人的な話になってしまうので日付と元号が替わる前にこの辺りにしておこうと思うが、このような整理をする機会を与えられたのも生前譲位をご決断されたからであって、厳かなものから文字通りの祭事に発展したこと、まことめでたいと思う。

終わり良ければ総て良しと言ういにしえの建前に拠れば、平成は最高の一言に尽きるのであろう。