カナタガタリ

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阿津賀志山RPG2・そして伝説へ――ミュージカル『刀剣乱舞』~つはものどもがゆめのあと~初見感想

ミュージカル『刀剣乱舞』 〜つはものどもがゆめのあと〜

  余談

 

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 ということで第三弾である。厳島での神事も国技館での祭りももちろん見てはいるのだけれど、記事にするタイミングを逃してしまった。いつかまとめたいものである。

――まで書いて、しばらく放置してしまった。連日20時に情緒をめちゃくちゃにされまくるのだからそうもなろうという話である。とくにこの「つはもの」と「むすはじ」そして「みほとせ」とある程度のスパンがあったから受け止められていたであろうそれを立て続けに叩き込まれてしまうと「やめてくれないか! ことばの洪水をワッと浴びせかけるのは!」と筆者が思うのも仕方がないことではなかろうか。こういうのを贅沢な悩みというのであろう。

過去二つの記事のようにリアルタイムだから吐き出せた気持ちもあるだろうし、今、他の演目を鑑賞した上で書ける感想というのもあるだろう。

そう信じて今このタイミングで、まずは「つはものどもがゆめのあと」の初見感想をつづっていきたいと思う。

本題

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。

秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。

先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。

衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。

泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、

笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 

夏草や兵どもが夢の跡

 

――松尾芭蕉奥の細道」より。

前作の劇中歌でも歌われた「つはものどもがゆめのあと」。いうまでもなく、松尾芭蕉奥の細道の道中、平泉で詠んだ歌がもとになっている。かつて栄華を誇った奥州三代の本拠地・平泉も往時の面影はなく、その無常に思わず芭蕉もリスペクトしている杜甫の一節を引用ツイしつつエモ泣き……といったところである。(乱暴)

つはものどもがゆめのあと。

もちろん、普通に解釈すれば、「あと」とは「兵士たちの夢の残骸」あるいは「残滓」とするべきであろう。

しかし本作においては、「つはものどもがゆめのあと」とは「武者たちが夢見たその後――つづき」を示唆しているかのように筆者は思えてならないのである。

武者たちの夢。義経が平泉に戻ってくること。兄と手を携えること。戦をなくすこと。劇中においてそれらはあまりにも皮肉な形で実現していく。

特に劇中において、大きく感情を動かされた人物がいた。藤原泰衡である。

一作目「阿津賀志山異聞」より少し昔の時間から始まる本作。前作で一人だけIWGPみたいなテンションでのっけからバーサーカーだった泰衡が、兄・頼朝のためにと快く義経を送り出すところからはじまる。泰衡は、驚くほど好青年である。

「源氏の重宝」を知らない今剣、源氏兄弟に与えられた密命、どんな本丸でもぶれずに報連相を行わない三日月宗近――。

色々な不穏が交錯する中で、まず三日月宗近義経を思う泰衡が邂逅する。泰衡を友と呼び、蓮の花を差し出す三日月宗近と闖入者に刀を振るう泰衡。

場面変わって岩融は膝丸に「自らは存在しない刀ではないか」と問いかける。かつての主と自らが呼んだ、その人が握っていた薙刀は自分ではなかった。そして源氏兄弟のことを自分は知らない――今剣も。

自分はともかく、今剣はそれを知ったらどうなってしまうのか。心配する岩融と対照的に髭切は楽観的だ。

どうあれ歴史は、物語は、絵巻は進行していく。

平家物語」のハイライト、一の谷の合戦、屋島の戦い壇ノ浦の戦いイーリアスよろしく神々の視座から刀剣男士によって歌われる。「物語」となったこれらであるからこそ、今剣も岩融も見てきたかのように高らかに歌い上げていく。

そうして驕る平家は久しからず、源氏の棟梁・源頼朝は勝利を手にする。

そして再び、今度は頼朝の親しげに現れる三日月宗近。語りだすのは我々の知る歴史――近くは「阿津賀志山異聞」でうんざりするほど痛感させられた――頼朝の義経追討に続く物語。

三日月の暗躍あってか義経は都を追われ、再び「物語」である安宅の関――「勧進帳」の話が繰り広げられる。その主を思えばこそ打ち据える弁慶を見て、岩融は自らの今剣への接し方がエゴであったのではないかと感じる。

今度は泰衡に義経を討つよう進言する三日月宗近。泰衡は三日月の「友」の意味を知る。彼は何度もこの時代でこのように憎まれながらも調整者としての役割を果たしてきたのだ。自分に対してこのように自分と己の役割を説いてきたのだ。

それに感じ入った泰衡は、己の役割――親愛なる、兄弟同然の義経を裏切り、頼朝に媚び、しかし逆に軍を差し向けられて一族を滅ぼされ、自らの首は晒される、という史実の道を進むことを選ぶ。

蓮の花を供えてもらうことを三日月宗近に願って。

一方の三日月宗近は一連の流れを見ていた小狐丸と対立するが、審神者という蓮の花を咲かすための泥というべき役割であったことが髭切のとりなしにより判明し、ことなきを得る。

冒頭の約束通り生きて平泉に戻った義経を待っていたのは「阿津賀志山異聞」そのまま、泰衡の急襲であった。それは寸分違いなく、であればこそ筆者はそこに載せられた感情の分厚さに泣けてしまう。義経の「泰衡殿ではこの首持て余すであろう」という言葉の響きがこうも変わってしまうとは。脚本の見事さで、こういうリフレインに弱いオタクとしては完全にやられた! という感じであった。

しかしクライマックスで、三日月宗近義経主従を逃がす。ここで死んだことにすれば歴史の辻褄は合う。だから逃げろと。

かくしてつはものどもがゆめのあとは伝説となって細くしかし確かに続いていくこととなったのである。そして「物語の中の存在」と自らを受け入れた今剣もまた修行へ向かい、舞台の幕は下りる。

考えてみると一作目、ほぼほぼ史実通りの展開を見せる「阿津賀志山異聞」は「異聞」である。さすれば今回のこの展開(義経主従は人知れず生存)こそが刀ミュの考える「事実」であると考えるとまた表題まで見事に呼応させた展開であるとしみじみさせられる。そしてそれは、現存し確たる物語を持った三日月宗近が暗躍するだけでは決してなされず、物語から生まれた今剣、岩融、小狐丸や、そうであるとされる刀が複数存在する髭切、膝丸という他の刀剣男士とのかかわりを通して生まれたファジイさであると考えると、その配置の巧みさに唸ってしまう。

なんとすれば、その後生き永らえた義経岩融自身の口から語られる「物語」によって今剣や岩融はその核を得たのではないかとすら考えられるではないか……。

夏草や兵どもが夢の跡。

その跡から発掘された泰衡の首桶。そこには発芽しなかった蓮の花の種子が残っており、現在は「中尊寺蓮」として復元され、別名を「泰衡蓮」というのだとか。

劇中、三日月宗近は千年前のことなど誰も覚えていないと嘯く。しかし八百年の時を経てよみがえったこの蓮を見るにつけ、少なくとも筆者は敬愛する人物を己の役割(ロール)を全うするために柄にもなく悪ぶって声が裏返ってしまったりもした、愛すべき奥州藤原家の末代を今後も思い出さずにはいられないのである。

具体的には二部の太鼓ですぐ思い出すことができた。やはり太鼓はショック療法に効く。