カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

ぬけぬけと親父になろう

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

余談

8/7、健康診断があった。

一年ぶりの結果は体重、ウェスト共にマイナス13。腹囲1センチが体重1キロという通説を見事に証明する形となった。実際には体重は83キロまで増えたことを確認しているので最大差でいうと15キロほどの減量となる。

それぞれの項目と最後のドクターの診察でことごとく驚かれるのが新鮮だった。健康診断ってそういうイベントだったのか。

とはいえ、そこに快感がなかったかと言えば嘘になる。さながら転生チートものの主人公である。この減量……あんた一体何を? 何って……暴飲暴食を控え日々運動に励んだだけだが? みたいな。

だが目標としていた標準体重63キロには残念ながら届かなかった。油断するとすぐ3キロくらい戻ったりもする。引き続きダイエットを続け、再び「典型的な中肉中背」であったころを取り戻したいと思う。

本題

余談が、ながくなった。本当はもっと長くなりそうだったのだがそうなってくるともはや本題になるので機会があれば別項を立てたい。「メタボ宣告を受けた筆者が1年で13キロ減量できたたった4つの理由」なんともはてな的で良いではないか。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

あなたの「記憶に残っている、あの日」とは?

お題「記憶に残っている、あの日」

「記憶に残っている、あの日」に応募
初めて一人暮らしを始めた日、子どもが生まれた日、大好きな推しに出会った日……。あなたの記憶に残っている日のことを教えてください。写真でもテキストでも投稿可。

 さて、はてなインターネット文学賞である。相変わらずこういう大型イベントの最終日、駆け込み乗車が筆者の悪癖であるのだが今回ばかりはご容赦願いたい。

なにしろ期間中まさに、「記憶に残っている、あの日」が訪れたのだから。

「その日」まで

筆者と妻は結婚して約五年、出会ってからは約十年となる。気が付けば人生のおよそ1/3を二人三脚というか随伴と言うか、そう言った形で過ごしていることになる。今後この割合がますます増えていくだろうことに喜びを感じていたが、他方昨年、ひそかに思うことがあった。

筆者は三人兄弟の長男であるのだが、昨年ついに「自分が生まれた時の親父の年齢」を超えたのである。妻の場合はそれよりもっと前に、「自分を生んだときの御母堂の年齢」を超えていてもいた。

子どもが欲しくなかった訳ではない。コウノトリが運んでくると思っていたわけでもない。けれどいつしか、医学上の定義――妊娠を望む男女が一年以上その成立をみない――ということで言えば、我々は「不妊」の状態にあった。

転職して仕事も落ち着いたころ、我々夫婦は「ブライダルチェック」というものを受けた。端的に言うと生殖能力の確認であり、デリケートな部分だけに正直なところ恥ずかしさもあり、自費診療であるから(筆者の男性ブライダルチェックの場合は3万円であった)懐にも痛い。それでももし仮に問題があった場合、その対応は早い方がいいだろうと考えた。

結果は二人とも問題なし。通常の夫婦生活を送っていれば子どもを授かることが出来るだろう、というものだった。夫婦で胸をなでおろし、まだ見ぬ子のことを思った。

それから三年近くが経っていた。未だ、授かることはなかった。

正直なところ、少しほっとしている自分もいた。毎日飛び込んでくるニュース。その加害者にも親はいる。被害者にも親はいる。もし自分が子を授かったとして、世の中に生まれたが最後、子はそのどちらかになるかもしれない運試しのゲームに自分の意志に関係なく放り込まれる。そんなことをする権限が自分にあるのだろうか?

そんなことを思ったりもしたし、もっと即物的な理由として「もっと妻と二人の時間を過ごしたい」というものもあった。筆者と妻は大学での出会いがきっかけであるけれども、交際から結婚に至るまでのおよそ三年間はいわゆる遠距離恋愛であり、インターネットが二人を繋いでいたのであった。書きながら、「女子大生と付き合う社会人」という社会悪であった時代が自分にあったことに戦慄を覚える次第であるが、その期間を筆者としては未だ取り戻せていないと思っており、結婚直後、GWに行く予定だった熊本城が修復中であったり遅い新婚旅行で行く予定であった台湾がコロナ禍で吹っ飛んだりその他にも様々な遠征など「子どもがいると制限がかかる」イベントをまだ制覇できていない、と考えていたのである。

他方で時間が経てばたつほど、妊娠に関連するリスクは増大し、そしてその多くは妻に降りかかる。そろそろ、一段ギアを上げたほうが良いと我々は考えるようになった。「普通にしてたら普通に授かるでしょう」という楽観を捨てよう、と。

その対策の一つとして体質改善があり、筆者は怠惰に任せて肥え太ったその体をまだ見ぬ我が子を思い叱咤すればこそ、ダイエットが捗ったという経緯がある。

妻は漢方を処方してくれる内科にかかりつけを変え、筆者と共にフィットボクシングをすることで目に見えて調子がよくなっていた。同時に婦人科にもかかり、諸々の助言を受けていたようである。

肌寒くなってきた十一月末、妊娠が判明した。とはいえコロナ禍、産婦人科に集う人々は特に抵抗力が落ちているということもあり筆者は付き添うことは許されなかった。

噂に聞くエコー写真には黒ゴマのようなものが映っていた。

我が子との初邂逅である。

その後のエコー写真ではナマコのようになっており、筆者は漱石の「やすやすとナマコの如き子を産めり」という俳句を頭に浮かべたりしていた。

世の中は進んでおり、クラウドによってエコー動画は共有され、筆者のPCでも見ることが出来た。心拍も確認。母子手帳が交付され、妻が「母」になるのだ、という実感がにわかに沸いてくる。

妻の説明をほう、ほう、と聞きながらも筆者の脳内は

赤ちゃん!!!

ということで急速に占められていた。あの感覚は今思い出しても不思議である。もう三人の生活しか考えられなくなっていた。

コロナ禍は未だ収まらず、妻は里帰り出産ではなく居住地で出産することとなった。今思えば、ここで素早く決断することで「入院予備軍」として扱っていただいたことがのちのち役立っていった。

安定期までは特に辛かった。男親が何を、と思うかもしれないがそこまでの胎児は特に不安定であり、ある日急に旅立ってしまうことも珍しくない。そうなってしまった場合に相手を悲しませないよう、誰にも明かせない不安な日々。出来る限り直帰するが理由がはっきり言えないために生じる同僚との微妙なすれ違い。

家庭内ではホルモンの仕業による妻の感情の乱高下と朝と夜でさえ違う食べられるものの変化。誰よりも妻が辛いのに疲れを感じてしまっている自分に対しての自己嫌悪。しかしまだ見ぬ我が子のことを考える時そういったものはまとめて消え去っていった。初めての胎動、手のひらのほんのわずかなエリアに感じた妻の皮膚越しの命の存在が筆者のよりどころの一つであった。

職場の朝礼で報告して以来、スタッフ皆が気にかけてくれるようになり、少しずつ分担できる業務を切り分け始めた。どさくさに紛れてパートさんの勤務体制の改善も出来たのはささやかな職場への恩返しであった。様々な世代の「お母さん」がおり、その助言は両親教室他すべてがコロナ禍で吹っ飛んだ我々夫婦に対して非常にありがたい生の声であった。

我が子はと言えば、お手本のように成長曲線の真ん中を突っ走っており、各種検査も順調であった。ただし、恥ずかしがり屋なのか、なかなか顔を見せてくれない。性別の「決め手」も見せてくれない。令和らしい個人情報に敏感な子であるようだった。

先生がふとこぼした「かわいい服を買ってもいいかもしれませんね」によって妻はクレイジーなほど女児服を買いあさろうとし、あれほど堅実に学んでいた「サイズアウト」という概念を忘却しそうになっていたので慌てて諭す必要があった。筆者はと言えば、弟を抱っこしたりおむつを替えたり風呂に入れたりした経験はあるが女児は接した経験がないのでゼロからのスタートだな……と考えていた。いつまで洗濯物いっしょに洗ってくれるかな……とも思った。

結局顔も性別も謎のベールに包まれたまま、臨月が訪れた。筆者が市外に勤務していることから、予定日の少し前から参加に妻は入院させてもらうことになった。

筆者としてはおよそ十年ぶりの一人暮らしがスタートした。相変わらず面会なども出来ず、洗濯物を預かっては渡すわずかな時間が夫婦の一時となった。いや、そのたびにすっかり立派になったお腹をさすったりもしたからあれは親子の時間であったはずである。

自由だ! と思ったのは初日くらいで一人の部屋は発熱体が少ないこともあってかクーラーが無くても乗り切れるほど涼しく、寂しさがあった。何かに没頭することが必要だった。ひたすらフィットボクシングをし、溜まっていた楽天ポイントでエクササイズバイクを買った。少しでもかっこいい夫・父として二人を迎えたいという気持ちがあった。

そのストイックな日々を補ってくれたのがTwitterの新機能「スペース」であった。声のみのコミュニケーションは運動しながらであっても両立を可能とし、さまざまな知見を得ることが出来たし、孤独を大いに慰めてくれた。

「その日」

8/7。健康診断が終わり、妻にLINEで筆者は自慢げに結果を報告した。妻は褒めてくれ、また自分も毎日受けている検査結果を報告してくれた。子は動きが少し緩慢になってきており、心拍心なしか元気がないということだった。予定日まではあと二日。初産ということもあり促進剤を今日から打ち始める、という。

たちまち妻から無数の管が生え、次のフェーズに入ったのだということが分かった。この期に及んでも性別は分からないままであった。検査を経て、絶食となる。筆者も健康診断のため絶食であり、妻と少しでも気持ちを共有しようとそのまま昼も食べなかった。そうでなくとも食欲がわかなかったかもしれないが。妻は従容として臍帯血提供の書類を書いたりしていた。

午後三時半頃、高位破水。

午後五時半頃、陣痛が来始めたという。同時に筆者は呼ばれた。妻は暢気なものだが筆者はただならぬ気配を感じながら急ぎ向かう。妻はベッドでヒプマイライブを見ていた。猛者か。

先生の説明としては胎児の心拍が弱まっていること、陣痛周期が安定しないこと、子宮口の開きが弱いことしかし破水しており、胎盤も機能が低下していること、妻が熱発していること――これらすべてが帝王切開を推奨する事態である、ということであった。

あれだけ自然分娩後に出されるお祝い膳を楽しみにしていた妻はあっさり帝王切開を承諾した。筆者も妻が賛成であれば反対する理由はない。各種点滴がつながり手が不自由な妻に代わり書類にサインをし、準備の間に行っておくべしと言われて「戦い」のための食事を調達しに近場のコンビニへ向かった。あんな心境でコンビニに向かったのは初めてで、少しでも妻の気持ちが和らげばと思いヒプマイコラボクリアファイルを入手した。

 戻ってみるとやはり状態は好転しておらず、帝王切開が決定した。よくある妻の手を握って「頑張れ! がんばれ!」というあの構図はここに及んで消滅し、そうなると筆者はただの邪魔なオブジェクトになるのだった。麻酔によって眠りにつく前の妻と一度握手をし、妻の病室に筆者は一人残された。およそ二週間、妻が一人戦ってきた戦場。ご飯はおいしく健康的だが、産婦人科ほど残酷に生と死が交錯するところはない。わずか二週間であってもそこで様々なドラマを妻は半ば強制的に見せられてきた。間接的にLINEで聴く筆者でも辛かったのだからある時は直接相手に聴かされることもあった妻の優しい心への影響を思い、胸が痛んだ。あるいはそれが、少しでも我が子のリスクを減らすならと帝王切開の即断に繋がったのかもしれなかった。

気が付けば初めの呼び出しから三時間ほどが経過していた。いよいよ妻の手術の準備が整い、手術室の重い扉が閉まった。筆者は創作で何万回も見た手術室前の横で祈る夫の役を許されたのである。

が、それはほんのわずかであった。時間にして三十分もあったろうか。扉越しに、赤ちゃん出ますよ、という声が聞こえた。先ほど妻を元気づけてくれていたスタッフさんの声だ。

「おめでとうございます」

あ、本当に「コウノドリ」と同じ感じなんだ、と思った。百メートルを全力疾走した後のような心臓のバクバクと高揚感と浮遊感が押し寄せてきた。さっきの言葉は、妻に対してかけられたものである。妻は全身麻酔をかけられながら、我が子をしっかり見届け、アイコンタクトをしてから眠りに落ちた、と後から先生に教えていただいた。

「女の子だ!」

「40! 大きいねえ!」

「元気ですよ!」

執刀がスムーズだったからか、漏れ聞こえる先生方の声は和やかだ。

でも、まだ――筆者が握りしめていた拳は、

「あ、赤ちゃんなきましたー!」

そのスタッフさんの声でふっとほぐれた。それは、そのまま目尻に行き、涙をぬぐう役目を担うことになった。早速の親ばかで恐縮なのだが、あんなにかわいい泣き声を聞いたことがない。

それから少しして、子を抱いてスタッフさんが出てきた。おめでとうございます、元気な女の子ですよ、という言葉とともに、差し出された我が子をおずおずと抱いた筆者はハガレンホーエンハイムのようにスーッと一筋涙が流れるのを感じた。産後の諸々の検査のため、子は再び手術室に戻り、筆者は再び一人になった。

そうして筆者は父になった。体のどこにメスを入れるでもなく、そこに至るまでの長い長い期間体にデバフを受け続けることもなく、のうのうと人の親にさせてもらった。その恩を妻と子には一生をかけて返さなくてはならない。

とっておきドラえもん むねいっぱい感動編 (てんとう虫コミックススペシャル)

「のびたの結婚前夜」を読みたくて待っている間に買ったこの本なのだが、「ぼくの生まれた日」も収録されていて、なんとそこで出ているのび太の誕生日が我が子と同じであり、運命というもののいたずらを感じて驚かされた。

沢山祝っていただいたのもそれを指摘してくれたのもインターネットでしか面識のない方がほとんどであり、つくづく自分はインターネットに生かされているし、活かされているな、と感じた。

妻が麻酔から覚めるまで付き添い、お礼を言って帰ったのが午前二時半。しずかちゃんのお父さんよろしく夜空に星を探したが、台風前の悪天候であったのは残念であった。

現在も母子ともに元気である。

帰宅し、床に就いた筆者はああこの日こそはまさに「記憶に残っている日」の例示である「一人暮らしをした日」「子どもが生まれた日」「大好きな推しに出会った日」のロイヤルストレートフラッシュだな、とかそんなことは全く考えずに即寝た。それはもはや一人の時間を早く過ぎ去らせて「最推し」である妻子に会う時間を少しでも早く手繰り寄せようとしているがごとくであった。