カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

煎じ詰めれば千字になるか・感想編

またまた、こんな時間(23:29)である。土日こそはそれぞれ通常営業の記事を書きたい…いや書く! とここで宣言しておこう。

筆者も気になっていたある映画が封切られるや否や、賛否両論を巻き起こしているらしい。(だいぶオブラートに包んだ表現)見る間に、「どれだけ〇〇か大喜利」の様相を呈し始めているのが観測され、またか、と暗い気持ちになる。

電脳世界、特にTwitterというのは、「盛っていく」風土にある、と思う。初めは「牛丼並盛」であった注文はU字テーブルの向こう側に行きつく頃には「牛丼特盛ネギだく生卵付き豚汁セット+生ビール」になっていることなど日常茶飯事で、事と次第によってはなぜか満漢全席に変容していたりする。それを注文もせずにはたから見ていた人々が、「あの小籠包、絶対まずいぜ」と普通に牛丼を食べた人からはどう考えても起こり得ない感想を生み出し、いつしか電脳世界では「牛丼屋の小籠包はまずい」ということが疑いようもない事実として固定化される。そういった光景を何度も見てきた。

ていうかそういう「映画好きとして憤りを隠せない」みたいな人のホームとか覗いてみると「××の〇〇まじで△△で最高」みたいなコメントと共に映画のスクショ貼り付けたツイートが往々にして存在するのマジで何なんだ……という気持ちになる。「画像は拾い物」じゃねえんだわ。それ捨ててないんだわ。

ともあれ断定することは甘美である。かっこいい。同調する人々も多くあるだろう。しかしやはり自分は、そう言った快刀乱麻を断つのではなく、ゴルディオスの結び目を正攻法で解きほぐしていくような感想を書いていきたい、と改めて思わされる出来事でもあった。

近頃自分でもびっくりするくらいそういう「これは好きなだけ叩いていいですよ!」の号令がきつくなっていて、人間としては少しまともになっているような気がしている。

すべてのSNSをやっている人々にはそのツイートを「私が呟きました」の写真付きで大々的に自分の行動圏内に張り出されても大丈夫かどうかをツイートの基準にしてほしいとすら思う時がある。

ところで「とある脅威が去った後に残されたものの処分方法」として筆者が知る中で最も冴えたやり方は「とっても! ラッキーマン」で紹介されていたので機会があればぜひご一読いただきたい。

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