カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

煎じ詰めれば千字になるか・月末編

月末である。年度末である。どうにかこうにか、来年度の自分を信じて業務を投げ散らかしてきたわけだが、目を閉じて開けたら来年度の自分になっているというこの状況はどうしたことか。年度末の翌日に年度初めを設定した人間は人の心がないと見える。ロスタイムという発明を会計年度に取り入れることを急いでいただきたい。

 

さて、そういったこともありここ最近のエンタメ周りが停滞が目立ったが、他方で時々訪れる「自民党の人物Wikipedia巡りブーム」がまた鎌首をもたげてきており、そこからまた「大宰相」を一通り読み、Kindleアンリミテッド対応の自民党関連本も何冊か読んだ。党内情勢複雑怪奇、昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵、一昨日の敵はやっぱり明々後日も敵、そういった感じのクソデカ感情が煮詰まったような人間関係が展開され、ほぐれては収束し、また絡み合いダイナミズムが生まれるさまは、傍から見ているには抜群に面白く、事実は小説よりも奇なりをまさしく地でいっている。

 

とはいえ相手は生きた人間、特に政治家というタイプであるから、その本当の心根というのは本人にしかわからないし、またその本人が語ることが必ずしも真実であるとも限らない。眉に唾をつけて、あくまで「フィクション」として楽しむのがちょうどよい距離感なのだろう。

 

典型的な例が「大宰相」にある。「大宰相」は「小説吉田学校」をさいとうたかをプロが劇画化したもので、途中挟まれるベトナム戦争の経緯など完全に絵面がゴルゴなのだが、さておきいわゆる「三角大福中」時代を俯瞰するに比肩するものがなかなか見当たらない一級のエンターテインメントである。

 

現在出回っている新版と違い、筆者の所持する旧版は田中角栄の秘書・早坂茂三氏が各巻解説をしており、その饒舌ぶりもご愛敬なのだが、そのあたりからも察せられるように「大宰相」は基本的に親田中視点である、という点に注意せねばならない。

 

その田中角栄は本作で吉田茂に貴重な示唆を与える青年代議士として颯爽と登場するが、他の人物の回顧録吉田茂の娘を含む)を参照するに、どうもその場に角栄はいなかったようなのである。そしてこのシーンは、現在好評連載中「角栄に花束を」でも採用されてしまっている。無論「角栄に花束を」は「大宰相」よりさらに外連味を増した内容であり、フィクション配分も多めなのであろうが、こと近現代においてはなおのこと「嘘のつき方」は気を付けなければならないとエイプリルフール五分前に思うのであった。

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歴史劇画 大宰相 第一巻 吉田茂の闘争 (講談社文庫)