やあ皆さん、モイ!
私は無事昨日年度末を倒し、バカンス休暇を楽しんでいます。
ここは時間の流れも穏やかで、波音に耳を澄ましながらハードカバー版「海底二万里」の原著を読む贅沢ときたら……。
嘘です。「年度末」という地面のゴミ穴にありとあらゆるものをぶち込んだら次の日に大気に開いた「年度初め」という穴からすべてが雪崩落ちてきたようなそんな一日でした。
それでも……私は激務の中で人の皮をかぶるためのよすが、Twitterを開いて彼を探しました。毎年この日に現れる彼。
柔和な笑みを絶やさず、とはいえ看過できぬことには包丁でもって対抗し、全然わからないようでなんかわかる言語を駆使し、我々の食欲を喚起させる……。
……外はカリッとゴールデンブラウン。中はジゴワット…いやジュワッとジューシー。
ミスターナゲットの姿を。
……しかし、彼はどこにもいませんでした。ホームの新着。DMの中。そんなとこにいるはずもないのに。
年度初め、疲れたアラサーの体。欲するのはサクサクとジューシーの黄金比率のナゲット。
しかし夜も更け、代謝の落ちた体においしいもの、すなわち脂肪と糖で出来ているそれをぶち込むなど、猛獣の檻に生肉を投げ込むがごとき所業ッッ。
日中の激務で食事もままならなかった体はこれ幸いとカロリーをため込み、結果ビールも飲んでないのにビール腹が形成されていくことでしょう。
けれど、彼がいれば。
ナゲットの写真をツイートすれば、ミスターナゲットは喜んでくれます。その喜ぶさまを見たくてエイプリルフールにナゲットを買うという奇習は一部で確実に根付いていました。
私はそれはミスターナゲットを喜ばせようという気持ちからだと、自分自身思っていました。
が、彼がいない今、気づいたのです。
彼の存在は、「赦し」だったのだと。
「彼が言うんだから、しょうがないな……」
そういった言い訳でナゲットを食べることを己に赦す、罪悪感を減らすためのギミックとして機能していたのだと。
ああ、ミスターナゲット、あなたに会いたい。お礼が言いたい。
あなたと陽だまりのマックカフェで話がしたい。
たとえあなたが生き馬の目を抜く現代社会のただ一日に現れた癒しの蜃気楼だとしても。
それがかなわぬ今、ただ私は二年前あなたにそそのかされて買ったポテナゲ特大セットのことを、あとあなたがミステリー好きであったことを古びたラジオから流れる流行歌のようにノイズ交じりで思い出すのです。
ゲナッ pic.twitter.com/k3bVMnEd29
— 木本 仮名太 (@kimotokanata) 2020年4月1日
(15分/1008字)