カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

「野生の思考」でシン・ウルトラマンを読み解く(ネタバレ感想)

TLの誰も彼もが見ていて、もはや痛みを知らないただ一人になってしまったのではないかと危惧する中、本日シン・ウルトラマンを鑑賞することが出来た。

既に綺羅星の如き数多の考察・批評・感想がwebの海には漂っていることかと思うが(チェックできないままに流されていったふせったーがいくつあるのか考えるとしょんぼりする)、丁度就寝しようとする妻に「感想は記憶が鮮明なうちに書くんだぜ」と助言も頂いたので、走り書きしておく。一時までには床に就きたいのであと36分だ。ウルトラマンよりは長い活動時間とはいえ、急がなくてはなるまい。

それにしても妻、今日は筆者が映画を鑑賞したことでいつもよりワンオペタイムが長かったろうにそこまで気をつかってくれるとはまことありがたい。

ということでシン・ウルトラマンシン・ゴジラも)のネタバレがあります。

冒頭、「仁義なき戦い」を彷彿とさせるような畳みかける展開で幕が開き、早速「ああ、親父と一緒に見たかったなあ」などと思う。

まさか某息子ちん君の「ぺギラ」イラストが「匂わせ」だったとはね……。

この開始何分間かをYouTubeとかで流したら見に行こうと思う人、結構増えるんじゃないかなあ。

「禍威獣は日本にしか出現しない」ということだったけど、もしかしたら「別バースの地球の東京駅前にいるゴジラ」を「すごいエネルギー」として追い求めた結果こっちの地球にたどり着いた連中だったりするのだろうか? それともこの段階からメフィラス星人の仕込み?

などと記事を書く今頃になって不意に思うが、いよいよ公開延期のあおりを受けて近所のスーパーのおもちゃコーナーでは公開前に3割引の不遇な扱いを受けていたネロンガの登場である。恐らく配偶者に「今夜のご飯はラ王がいいな」となかなか言い出せないタイプの西島秀俊であろう班長が攻めあぐねる中、光の巨人が降り立ち、ネロンガを撃破し、そして去っていく。

この段階で筆者はひとつの違和感を抱くが、続くガボラで少し安堵し、続くザラブ星人でまた違和感が強まっていく。

筆者は「ウルトラマンメビウス」の1話が印象に残っていて、劇中、地球に赴任した新米戦士のメビウスはついはりきりすぎて(ウルトラマンザプライム参照)周囲を顧みず、建物など多くの被害を出すに至ってしまった。

シン・ゴジラでのゴジラの進撃はまさに天災のそれで、筆者は今年ようやく観たのだが、いわゆる熊本地震を経験した公開年には到底見れなかったであろう程の息を呑むリアリティに圧倒された。

なので、本作では「ウルトラマンが交戦時に発生させる建物他への被害」についてもっと言及があるかと思っていたのだが、原点である神永を巻き込んでしまったことと、偽ウルトラマンが故意に襲撃したこと以外はそんなに世論が盛り上がっている感じがない。

ザラブ星人との交戦時など、あ! もう一人のウルトラマン! やっぱり破壊の限りを尽くすウルトラマンは偽物だったんだ! となっているところに後から出てきた方が最初からいた方を思いっきり高層オフィスビルに叩きつける! とかやると被害が順調に拡大してしまって「えぇ……」となるんじゃなかろうか。最終的に空中で爆発させるんだから最初からそうすればよかったんじゃ……。まあ悪いウルトラマンザラブ星人ということを白日の下に晒す必要があったのかもしれないけど……。

とはいえ、やはりおなじみのポーズで変身して、二人のウルトラマンが並び立った時は自分でも戸惑ったがポロリと涙が出た。待ちに待った変身、「きたぞ、われらの」という気持ちがあったのかもしれない。

山本メフィラス耕史の怪演も素晴らしかった。持ち合わせいくらあるんだろう。ザラブ星人でも符合する部分があったが、この辺りで「あ、だから『野生の思考』なのか」と勝手に納得する。

神永となったウルトラマンが書庫で読んでいた本。『野生の思考』はまさしく知の「巨人」レヴィ=ストロースが著したパラダイムシフトとなった名著であるが筆者は遥か昔に高校倫理でもってそのエッセンスに触れたに過ぎない。

ので、本日帰宅後にいつもより離れている時間が長かったからか大変甘えん坊となっていた娘氏をあやしながら、ちくま新書の『レヴィ=ストロース入門』で駆け足でその要諦を復習――というかほとんど新規に学んでみた。とはいえ浅学のななめ読みなので間違いなどあればご容赦願いたい。

非常にざっくり言えば「野生の思考」はいわゆる未開の人々を侮る西洋近代人への批判、という骨子になる。「野生の思考」―それは具体の科学。近代人がその科学の進歩と共に切り離してきた「感性」と「理性」が同居しているもの。だがそれこそが普遍的な思考であり、西洋近代の知は実はそれを排除することで(レヴィによれば『われわれの宇宙の外』――「外星」である!)成り立っている限定的なものである、というのだ。

要するに、『野生の思考』で「西洋近代人よ、未開の人々をなめんなヨ」という構図が、そのまま「外星人よ、地球人なめんなヨ」として本作には適用されているように思えるのである。

「野生の思考」は「呪術的思考」とも呼ばれ、「近代科学の思考」から前述したように排除されたものとされる。

そう。

例えばザラブ星人に拉致された神永を発見するために用いたのは「アナログな印画紙にプリントされた写真」

メフィラス星人が隠していたβボックスを探し当てるのはこれまた原始的な「匂い」と「嗅覚」を用いた。(風呂に入って無い描写は別にいらねえよな……)「野生の思考」の活用である。

この時メフィラス星人が「こんな変態的な……」というのもまた、外星人がそういった「原始的なこと」を排除してきたことの証左であろう。

「西洋的思考」は「管理され、培養された植物のような脆さ」がある。スマートなメフィラス星人にそのイメージが重なる。それを「野生の思考」が上回った。乱暴に言えば「雑草魂」である。

そしてメフィラス星人の「地球人を有用な資源としてしか見ていない」というのはまさしく植民地時代の西洋人と植民地の奴隷の構図そのものではないか……。

(もっと言えばこれは古典SFの「地球は宇宙人の動物園/牧場である」というテーマにも通じる)

シュッとした怪獣を見るとすぐにパワード怪獣と思ってしまう筆者からするとすわメフィラス星人のパワード化か、と思うようなスタイリッシュメフィラスはウルトラマン相手には有利に進めていたように見えたものの、原典と同時代の星明子ばりに見守っているゾーフィの存在に気付き、立ち去っていく。

原典ではIQ一万を駆使して少年に「地球をあげます」と言わせようとするお茶目さんだったが、そのチャーミングさが今回も遺憾なく発揮されており、「私の好きな言葉です」がネットミーム化しつつあることからもそのキャラクター造詣は成功したと言えるのではないだろうか。シン・メフィラスソフビ、確かに出たら欲しい。

てっきり「エヴァー」みたいなもんだと思っていた「ゾーフィ」だが、その実態は「ゾフィーゼットンの情報が錯綜した結果子ども雑誌に生まれたあだ花『宇宙人ゾーフィ』」を拾ったんではないかというから驚かされた。オ…オタク……!

やはりあの「ピポポポポ……」音と「ゼット~~ン」は身が粟立つような根源的な恐怖を思い起こさせる。

ウルトラマンは対決し、(ここのスケール感とデカ光輪が全く効いていないことで生まれる絶望感は予感があってもやはり打ちひしがれてしまった)敗れる。

しかし彼は、勝利へ繋がるヒントを人類に託していた。

またまた、「野生の思考」の肝、「ブリコラージュ」である。

プリクラでもブリトロでもなく「ブリコレ」という単語がもとになったこの言葉は「具体の科学の神話的思考」を例えてそういう。よくわからない。

これまた乱暴に要約すると、「限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ること」であり、「たいていは以前の仕事の残り物とか、取っておいた物とか、『偶然に与えられた物』」であるという。

先ほどの前提から考えればこの作品ではこれこそが「人類の知恵」であり、「ゼットンを撃退するための方程式」であるということが出来る。

ウルトラマンから与えられたヒントを元に人類が知恵を振り絞る」という構図もまた、「野生の思考」に示唆されていたことであるのだ。

かくしてゾーフィもまた人類を認め、また人類を「好きになった」ウルトラマンをも認め、意志を尊重する。

「人間は光の巨人たちと同じ領域まで達する可能性がある」……そう、対比を続けてきたが、「西洋近代思考」と「野生の思考」は必ずしも反対の関係にはないし、『野生の思考』は「未開の地って、素晴らしいんだゾ」という話でもない。知性あるものの根っこ(野生の思考)は同じである、それを排除するのではなく思い出せ、取り入れろ、という批判と提案の書であった。

ゼットンに特攻するかのような「ぐんぐんカット」で筆者はまた泣いたりもした。

ウルトラマンの意志にして遺志。それは自らの過失によって死なせてしまった神永に命を分け与えること。まさしく「呪術的」なこの展開が、原典では「西洋近代=外星人的思考」のゾフィーによって否定され、新しい命によってどちらとも助かるのだが、本作ではそのまま受け入れられ、恐らくウルトラマンは命を落とす。それは「野生の思考」を取り入れた結果ではなかったか。

そう考えると、ウルトラマン=神永こそが人間と外星人の断片をつないだブリコラージュであるともいえる。リピアが地球で過ごした断片が「銀色の巨人・ウルトラマン」を生み出したのだ。

あるいは、若くしてアマゾンの人々と交流を持ち、構造主義という考えに至ったレヴィ=ストロースその人こそが、原典ではその後地球へ光の国の巨人を飛来させ続ける転換点ともなったウルトラマンその人に通じるようにも思えるのである。

知の巨人と光の巨人の融合の瞬間だ。

ということをぼーっと頭の片隅で考えながら、ウルトラマンと怪獣、外星人の戦いに胸躍らせることの出来る映画だった。が、逆に言えば、そんなことを考え続けられる程度には「かぶりつけ」ない、思考を寸断されるさまざまがあったことも否定できない。

それは凝り過ぎた結果か素人っぽく見えてしまうことがある(見づらく感じる)アングルだったり、アニメ的なテンションを引きずった結果実写では浮いてしまうような所作であったり、筆者のような素人にはよくわからない「間」であったりした。

設定面では、筆者は「ウルトラマンシリーズ」の魅力の一つを群れ=ウルトラの兄弟や光の星の戦士たちであると思っていたのだが、本作ではウルトラマンが自分たちの個に対して人は群れる、というように着目しており、個人的には解釈違いだったし、「エヴァ使徒と人の関係性をそのまま持ってきて矛盾をしてしまったのでは?」と邪推もしたくなってしまう。

また、ゾーフィは「他の外星人に地球人が資源として目をつけられると色んなとこに影響が出て危険だから消すね」といいつつ「地球人みたいな宇宙人はいっぱいいるから消えてもヘーキヘーキ」みいたいなことも言って地球人のレアリティ判定がよくわからなかったりもした。

加えて勝手に納得したことであるが、「野生の思考」が下敷きになっているのならば、ウルトラマンの敵役と言えば……で恐らく一位を取るのではないかというバルタン星人が今回登場しなかったのも納得がいく。原典で地球人側がバルタン星人を無抵抗で大量に殺戮してしまうという「西洋近代的ムーブ」をとってしまっているからである。

そして筆者としては自身が感じた本作の最も大きなブリコラージュ=寄せ集めを記しておかねばなるまい。

それは、本作自身である。ブリコラージュは前述したとおり、その作者の来歴や感性と切り離すことが出来ない「断片」を繋ぎ合わせて作成するものだ。

この例えとしてレヴィ=ストロースは郵便配達夫シュヴァルが組み立てた「理想宮」を用いた。

ja.wikipedia.org

そして、この対極としてヴェルサイユ宮殿を挙げている。ヴェルサイユ宮殿には設計図があり、どこかが欠けても部品を調達して修理すればよい。

しかし、「理想宮」では同じような断片は存在しないから、シュヴァル=監督、製作者は何かが欠けた、「ボツ」になったら再び手持ちの断片…自身の思い出、過去作のオマージュ、代案……と向き合って修正していかなければならない。そしてそれは、元と全く同じではないから、本来の姿とは少しずつ「ズレ」が生じていくという。

それが「真正な社会」であれば、そうして生まれたブリコラージュは作者の「証」として残る、とレヴィ=ストロースは言う。

果たして本作における「真正な社会」とはなんだろうか。

すなわち、本作が大手を振って受け入れられる社会とは。

筆者はそれは、残念ながら「一般社会」ではないのではないか、と思う。シン・ウルトラマンを構成する断片はその一つ一つが強烈な個性を放ち、それ故に受け入れられる範囲が狭まってしまっているのではないか。

そうではない人、例えば筆者は、間違いなく「燃えた」部分はあるものの、全体としてはどこかちぐはぐな印象が残ってしまった、というのが正直なところであった。無論、コロナ禍他様々な外的要因があったとは思うが、出されたもので判断すると、そう言わざるを得ない。

だから、次が観たい。この一作で終わらせないでほしい。

外星人第7号、ウルトラセブン(仮称)。

待ってます。