カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

赤髪はいかにして喜歌を悲歌にしたか――「ONE PIECE FILM RED(ワンピースフィルムレッド)」ネタバレ感想・考察・妄言

ONE PIECE FILM RED (ジャンプジェイブックスDIGITAL)

ONE PIECE FILM RED(ワンピースフィルムレッド)のネタバレがあります

余談

33歳になって1週間が過ぎた。何が変わったわけでもなく、日々は過ぎていき、そんなことより来週にはもう娘は1才1か月になるのか、という感慨の方が大きい。

皆が言うことだが1年の間隔がどんどん短くなっていくな、という恐怖がある。そもそも娘の1才のお祝いだってついさっきしたような気がするのだが。その辺りもさっさとまとめないと9月になってしまう。

あの頃、1週間は長かった。

「ワンピース」の原型「ロマンスドーン」がジャンプに掲載されたとき、筆者はまだ小学生かそこらながらに(父がジャンプを毎週買ってくる恵まれた環境にあった)なんて面白いマンガなんだと思ったし、連載が始まった時は大いに喜んだ。

弟と一緒に布団という大海原に繰り出し、活劇を繰り広げたりオリジナル悪魔の実や能力者を考えたり…「デビデビの実の『悪魔の実人間』(すべての悪魔の実の能力が使える)」、今でもラスボス候補としてワンチャンあるんじゃないかと思ったりするがどうだろうか。

ちびっ子や先生たちにはまだなじみがなかったのか、弟が小学一年生の時「ワンピースが好き」と好きなものに書いた時、先生から「お洋服に興味があるみたいです」というコメントがついていたことを今も覚えている。

筆者の周りの友人たちも続々とコロコロからジャンプへ参入し始め、ちょうどアニメも始まったころで、クラスでワンピースの話題が出ることも多くなっていった。ちりばめられた謎、残りの王下七武海はどんな奴か…語る内容はいくらでもあった。

中学生になり、空島編が始まった。今読み返すと周到な布石と伏線の嵐、余韻と抒情とカタルシスの素晴らしいシリーズではあったがいかんせん毎週読むには辛いものがあった。ちょうど「インターネットで聞きかじりの情報で流行りものを叩くのが通っぽい」と思いがちな痛々しき思春期の始まりでもあり、「ワンピースを如何に叩くか」でセンスが問われるという暗黒時代の様相があったようにも思う。ある種看板漫画の宿命でもあった。それでも恐らく筆者のように、みんな裏ではこそこそ読んだりしていたんじゃないかと思う。

高校生の時に忘れられないのは、筆者がワンピースの素晴らしい魅力の一つだと思っている「合間のめちゃくちゃいろんな要素が詰まっている世界情勢が描かれる話」で明かされたあることが部活の昼練帰りに上級生からサラッとネタバレされてしまったことで、このことは大分尾を引いた。高校生ともなれば通学時にコンビニに立ち寄りジャンプを読むこともあるという考えが物心ついてからこちら「ジャンプは親父が仕事帰りに買ってくるのを読むもの」としてきた筆者には欠落していたのである。

大学生になると慢性金欠でさりとて立ち読みも己の中で許容できず、必然的にジャンプから離れていった。勉学とバイトに精を出していたということもある。勤め先にコミックレンタルがあったので単行本派になっていくが、(実家でもこの頃は細々買い集めていた)頂上戦争編に突入したことでとうとう自らジャンプを毎週買うことになった。ストロングワールドも観た。既に「大メジャー」だと思っていたワンピースが更に1段も2段も上に上がっていくのを感じていた。他方で安易な消費に反発する自分もいた。

社会人になり、ジャンプ+に加入しつつも日々疲弊し、またワンピースも定期的な休載が入るようになり(とてもいい試みである)リズムが崩れ、単行本集めは76巻か何かをダブって買ってしまったことで自分の記憶力に不安を感じ集めるのをやめてしまった。ビッグ・マム編がいよいよ佳境というあたりでたまさか業務が殺人的になり中断し、佳境であるのに読まずにいられる自分に驚きと失望を感じつつ、今年に至っていた。

その間に鬼滅の刃の単行本を揃え、未収録の話を追うためにジャンプ+で過去分をあさったりもしつつしかしワンピースには触れなかった。キャパがいっぱいいっぱいだったのかもしれない。

そんな時に超太っ腹無料解放と、最終章突入を知った。

今こそ読み時なのだろう、「決着(ケリ)をつけようじゃねェかノーランド」と思ったひし形のおっさんよろしく筆者は1話からの再読に取り組み、懐かしさと新鮮さを味わいながら完走し、そのままワノ国編約4年分のジャンプを読み漁って最新話までたどり着いた。

この25年の間に冒頭に述したように筆者は父になった。それ故に以前はふ~んくらいで流していた諸々、特に親子関係が涙腺に来るようになっていたのである。もうドレスローザ編の終盤とか大変なことになっていた。この辺り筆者はつくづく愚者であり経験からしか学ぶことができないのだな…と反省しきりでもある。

そして「ONE PIECE FILM」という大看板がこのタイミングで再びやってきた。しかし平日となれば勤務後、帰りは21時近くなる。子育て真っ最中の筆者にはとても難しい…と諦めていたところに、妻が「映画、見てきたら? 気になってるんでしょ。娘のことで気を遣ってるなら誕生日プレゼントだと思えばいいじゃん!」と明るく送り出してくれた。ちょうど娘が1才になったことで一時預かり保育に預けられ、多少なりとも妻の負担が減り、罪悪感も軽減されたこともあり、そのやさしさに甘えることにした。

第1弾、第2弾の特典配布はとうの昔に終わり、今週末から第3弾配布が予告される平日の夜、いわば隙間を狙うことで感染リスクも減らすつもりでいたのだが、半分以上の客席が埋まる盛況ぶりに驚いていると、劇場の幕が上がった――。

本題

余談が、ながくなった。2,000字超えてしまった。それくらいでこの記事を収めるつもりだったのだがどうにもやはり筆者もワンピースには並々ならぬ思い入れがあったようである。

さてこれからはいよいよ完全ネタバレ忖度なしで映画の感想を書いていきたいのでご了承いただきたい。

端的に言うと赤髪のシャンクスが父親としてダメすぎて辛かった。

Adoさんの楽曲を体感する経験としては素晴らしく、しかしそれ以外の全てがおおむね犠牲になっているような映画であった。

ルフィはそんなこと言わない!…言わなくない?

情報を能動的に仕入れていなかったので、「シャンクスの娘でルフィの幼馴染が歌姫になっている」ということをなんとなく知っているくらいだった。

なので歌姫・ウタがルフィを招待した――のかと思いきや仲間たちが行きたいならまあ行ってみるかあ位の感じっぽいことにまず戸惑った。

冒頭も冒頭、突如ステージに乱入し、ウタとの再会を懐かしみ、シャンクスの娘であることを暴露するルフィ。

ルフィそんなことしなくない???????

いや、「パブリックイメージとしてのルフィ」はそうかもしれない。「人気漫画ワンピースの主人公は麦わら帽子をかぶったルフィという少年で、肉と強いやつが好きで良くも悪くも空気を読まない」みたいなやつ。

一挙無料公開で一気読みした筆者はこの「呪縛」から解放され、意外とルフィはいろいろ考えているやつなんだよなと改めて感じ入ったりもしていたのでいきなりとんでもない解釈違いがぶち込まれて困惑してしまった。

これがまた(本人的には)空気を読んでライブから退散しようとしている描写とかも後に出てくるので混乱してしまう。

脚本上も「ウタを狙う海賊がステージに乱入してそこを助けに来るルフィ、ウタが幼馴染だと気づく」でなんかダメだったのだろうか?

せめて後半出てくる「『UTA』のマークが『自分の描いた麦わら帽子』がもとになっている」ということをこの時点で気づいていて再会の喜びに思わず飛び出すとか、乱入してきた海賊を止めた時に気づいて「おれの描いたシャンクスの麦わら帽子じゃねェか!  やっぱおまえウタかァ!」→シャンクス!!!???とどよめく観客、みたいな流れになるとか…。

「海賊はウタの邪魔をする悪い奴」という風に見える流れにしなくてはいけないという考えからだったのか……。

連動するTVアニメは見ていないが、映画の回想シーンの限りではウタがあまりに「令和のキャラクター」という感じで幼少期ルフィとの他との画面ギャップを結構感じたりもした。そういう「異物感」をあえて出しているのならいいのだが、(トットムジカやルフィたちを追いかける謎メカ、図書館のロボットなどのCGCGしたCGはそういう「異物感」がしっかり出ていてよかったと思う)どうなのだろう。

幼馴染と戦いたくないルフィはそのためか、技名を叫ぶことが無い。

しかしそのウタこそが今までルフィのもとに立ちはだかった誰よりも世界の敵、パブリックエネミーナンバーワンでありかつルフィの物語としての敵である、というのは痛烈な皮肉でかなり食らった。今まで彼は海賊王になるという意志のもと、その道中で困難に立ち向かう人々にもちろん彼の意思の上で助力して、結果として人々を救ってきた。冒険は彼のものでありながらしかし各々の村、街、集落、国家、島において彼は問題を解決する救世主であり、ある種のデウスエクスマキナであった。物語は救われる人々のものだった。

ところが今回の映画ではそれが奇麗に裏返っていて、ルフィの物語の先にウタがおり、それをどうにかしなければ先に進むことができない。今までヒーローと呼ばれることを厭いながら結果なしたことは満場一致でヒーローであった海賊は、海賊であるがゆえに幼馴染と対峙することを余儀なくされたのだった。他ならぬ自分がそのきっかけをつくってしまうことによって。

そういう意味で言えば「塗仏の宴」的であると言えよう。わかりにくく例えてみました。

その結果、彼はその先の道を進むこと、「海賊王になること」を改めて宣言する。

「この海で一番自由な奴が海賊王だ!」というルフィの言葉が筆者はとても好きなのだが、幼馴染との別離を経て宣言される「海賊王におれはなる!」は彼女に代表される民衆を犠牲にした海賊時代の幕を自分が引くという宣誓にも思える。「新時代」でなく「新秩序」を築こうとするようにも思えるその様子は悲痛にも思えるが、しかし一周して「そんな奴があんな空気の読まないことするか????」と思ってしまうのもやっぱり事実ではある。

個人的には、「あと音楽家」という初期にお馴染みだった彼の言葉に急に文脈が生えてきてしまったのは複雑な思いである。

四半世紀の歴史を2時間にぶち込んで生まれた歪み(ディストーション)・ウタ

歌は本当に良かった。映画館で見られてよかった!と断言できる。

ただ、歌声からイメージしていたビジュアルはニコ・ロビン系だったため、(実際尾田先生もAdoさんの似顔絵はその系統で描かれている)ウタのビジュアルから繰り出されるのはそのギャップを狙っていたのかもしれないがなかなか違和感を拭えなかった……というのが正直なところである。

別にエレジアにゴードンと暮らすかつて赤髪海賊団と関わりがあった女の子、というだけでもなんとかなりそうなシナリオなのにルフィの幼馴染という設定まで付加されたのはやっぱりこの物語をルフィ自身の物語にしたかったのかなあ、と思うが、四半世紀続いている漫画の主人公に急に新たに幼馴染がやってきたのだからそんなん2時間でどうにかなるわけがないんである。

連載初期以外にも1回「仕込む」チャンスはあったのに何もなかったということはやっぱりここ3年くらいで生まれてきたキャラクターなのだろうか……。

ただ納得は出来ないままそれが既成事実として話が進んでいくので、筆者としては映画の進行を見守りながら「それじゃああの時も…この時もルフィはウタのことをふと考えたりしていたかもしれないのかあ…」という考えに脳のリソースが割かれたりしていた。月島さんの活躍をチャドが熱弁するときの一護の気持ちをちょっと理解できたようでもあった。

そんな彼女は大海賊時代の犠牲者である民衆の代弁者、救世主として立ち上がるがしかし絶望的に経験値が少ない悲しさ、彼女が行おうとしたのはよく言っても補陀落渡海、言ってしまえば人民院事件のようなシロモノであった。

「理想の世界」ウタワールドが幼い少女がいかにも考えそうな内容であることが悲しい。たった1人の理想郷か……。

その凶行は「実際に事件を解決したという経験を持つ英雄」コビーによって明かされ、観客が恐慌状態に陥る中、なおも強硬に計画を進める彼女は人々を変化させるという強行手段に出る。もはや凶荒となった彼女には誰の声も届かないと思われたが……。

幼馴染と「父」に救われた彼女だが、自らの「新時代」に巻き込んだ人々をもとの世界に戻す――彼ら彼女らがあんなにも忌み嫌った「大海賊時代」へ自らの歌で還らせるという新時代の旗手としての敗北宣言ともいえる行為を行い、その代償として恐らくは命を落とす。

EDでは彼女が生前に遺した曲が今も世界中で愛聴されているシーンが映し出される――つまりここだけ見れば彼女の生死が時代に何の影響も与えていないわけで、彼女の命がけの蜂起はなんだったのかと空しい気持ちにもさせられる。

いや、あの流れで普通に死ぬんだ、というのはちょっとびっくりした。

ウタのキャラクターの下敷きとしていわゆるユーチューバーやらブイチューバー(変換がめんどくさいのでカタカナ)があるのだと思うけれど、そういう前提で子どもが見る映画の結論が「炎上したら死にます」でいいのか!?

見苦しくてもそれでも生きていくんだ! みたいな話にするもんだとばかり……。

というかやり方は滅茶苦茶間違ってはいたけどこの世界の一般人が非常に苦しんでいるということは事実で、ウタが死んでしまうとその辺まで否定してしまっているみたいでなんだかなあ……という気持ちにもなる。

EDの「私が死んでも歌は残る」というシーンには確かにジーンとさせられたけどそれありきで死んでしまったんじゃないかなあというようにも思う。

普通に青空音楽教室ででっけえ絆創膏貼ったウタが助手やっててもよかったじゃないですか……!

足しても1人前になれない2人の父・シャンクスとゴードン

FILM RED、シャンクスの赤っ恥列伝ってことだったのか? と言いたくなるくらい、25年分の株をとことん落としていった男、赤髪のシャンクスである。

トットムジカ」が現存していたことはもしかしたら知らなかったのかもしれないが、ウタウタの実の危険性は十分知っていたはずのシャンクスが最終盤になって駆け付けるのはご都合とはいえいかにも遅すぎる。ルフィは2年間修業していたのでウタが救世主として駆け上がっていることを知らないのは自然なのだが、シャンクスは2年間寝てたのか?

シャーロット・カタクリが共闘しようとしたときに「ビッグ・マムの息子が何の用だ」とか煽ってくるがカタクリは妹の危機を知るや否や駆けつけてくれた訳で家族愛のレベルが違いすぎる。素直に頭を下げてうちの娘を助けてくださいとお願いした方がいい。

そもそもウタをエレジアに置いていくときも嘘が下手というか雑というか、別にウタを庇うにしたって自分が盛大に悪役になることないだろう、架空の海賊でもなんでもでっち上げればよかったのではないか……。というかその悪名が東の海にも轟いていたのならフーシャ村の肝っ玉はでかすぎるしヒグマなんか心臓に毛が生えてるのか? というレベルである。麦わらの一味は船長がそんなやべーやつを信奉していることを心配したりしなかったんだろうか。ていうか本編によればその後ほぼ確定でそんな悲しい記憶のある村にのこのこ帰ってきて実の子どもをもうけているっぽいので更に最悪度が高まる。

エレジアにやってきてからも海軍に啖呵を切る割には娘をみすみす死なせてしまう。死なせたくねェから娘だろうが!!!!

最悪ライブが始まってから駆けつけても覇王色の覇気を即使ってウタが気絶すれば少なくとも最悪の事態は回避でき、ウタ自体も気絶している間に解毒できるし、世界政府や天竜人の目から逃れるために死んだことにするが実はEDで生存が明らかになる……だと何か問題があったのだろうか。

あと、ルフィの「海賊王におれはなる」に呼応してシャンクスにも自分の決意を宣言するシーンが最後に欲しかった。クソでかタイトルを出している場合じゃないんですよ。ウタがあんまりかわいそうじゃないですか。

まさか定期的に表れて意味深なことを言う方が映画で沢山出るよりましだとは思いたくなかった。

ゴードンについてはシャンクスよりかなりマシなのだが父親としてより音楽家としての業がちょくちょく顔を出すのがいただけない。ほとんど絵仏師良秀である。ただ、迫真のウタを思う声には泣かされました。やっぱり津田健次郎さんはすごい。

シャンクスは海賊、ゴードンは音楽家のそれぞれの業、エゴが父親のそれより出てしまっていたのが今回の事態をどんどん大きくし、結果喝采で終わる歌姫の喜歌が絶唱の悲歌に変わってしまったことは残念でならない。

もっと輝いてほしかったコビーとブルック

あんなにだるんだるんだったコビーも宣言通り海軍将校となり、「真の英雄」として観客の前に現れ、ウタの恐るべき計画が明らかになる……が、明らかにあのタイミングじゃなかったと思う。まじめなのはコビーの長所だと思うが、もっと腹芸を覚えるべきだった。

個人的には「新世界」の歌詞にある「僕を信じて」の「僕」はコビーのことだと思っているんだけど、どうだろうか。

それ以上に残念なのはブルックである。一味の音楽家であり、ウタの前に世間を席巻したアーティストでもあり、かつて死を経験したこともある彼。ウタを説得するのにこれ以上ない人材なのにウタウタの音符張り付きの解除方法の解明の他はノルマみたいに与えられた戦闘と下ネタってお前…お前……。

おわりに

例えば「ワンピース改」がはじまってウタが新しく出てくるなら戸惑いつつも受け入れると思うが、地ならしもなしに急にやってこられ、しかも想定できそうな問題がろくに解決できていないとやはり映画の筋よりもその歪みの方に気持ちが向いてしまった。

というか本筋自体がその歪みに合わせているため、展開が、そしてキャラクターが少しずつ歪んでいき、とうとう決壊してしまったような惜しさがあった。

単体映画の最大の惜しさとしては、この映画がワンピースという作品において「フリ」になってしまっていることである。

ワンピースの一般的な展開としては訪れた○○でかつて起きた悲しい事件…!→その原因を現在軸でぶっ飛ばす! であるのだが、今回は「はいウタちゃんが死にましたけど何も変わりませんね。この時代はクソですね」→「(そんな時代をどうにかするために?)海賊王におれはなる!」劇終、であるため、どうにもスッキリしない。

そのモヤモヤをどうにかしてくれ~ルフィ~!! ということで映画公開時のタイミングで始まったジャンプ本誌での最終章を追いかけてくれ! ということなのだろうが、映画単体としてはもう少し何とかしてほしかった。ウタファンの女の子が「あのお兄ちゃんならこの時代を変えてくれるかも……」とか思ったりするだけでも違ったんじゃないか。

百鬼夜行シリーズだと思って憑物落しを楽しみに待ってたら巷説百物語シリーズだった、みたいなモヤっと感がある。ワンピースの世界を広げたという意味では間違いないのだが……。

もしかしたら特典冊子で補足がされているのかもしれないが、映画単体での筆者の感想は以上である。

本当に映画館で見てよかった映画だった。この時間をプレゼントしてくれた妻に改めてお礼を言いたいし、娘には今後成長してどんなにうざがられたとしても直球で愛を伝えていきたいと強く思った次第である。