カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

才無くて悔しいわ/普通、Twitter13年やってらんないでしょ!?

先だって帰省した時、妻のリクエストによって筆者の母子手帳を母から見せてもらう機会があった。

馴染み深い母の字でつらつらと綴られている幼き日の筆者の行動に確かな親の愛を感じてひそかに感動していると、

「本が大好きでだまってモクモクとページをめくっている時がある」

という一節があった。

2歳検診の時の記録である。

3歳の時点で人間の記録は一度リセットされる……というが、どうやらこのことについては引き継いだようだ。幼いころから、本や物語には親しんで育ってきた。

小学校中学年になると、夏休みの宿題用に買ったが余った作文用紙に自分で話を考えるようになった。テスト時間、余った時間をつぶすためにテスト用紙の裏に書いたこともあった。(四コママンガを描いたりもしていたがそれは禁止された)マンガを描くこともも自分で話を書くことも、筆者にとって同じレベルの娯楽であったのに前者は禁止され、後者は褒めてすらもらえることがあることに社会というものの複雑さを感じながら、自分が生み出したものが人に反応してもらえる、ということの喜びを覚えた。

とはいえ、今になって思えばこの頃は「話が面白い」とかではなく「小学生なのに創作活動をしている」ということを褒めてもらっていたに過ぎなかったのであるが。

高学年になり、我が家にはPCがきた。自分が買って読んでいる小説と同じように自分の話が活字になることに興奮し、打鍵した。ちょうどそのころ、はやみねかおる先生の諸作品にも出会い、ミステリにのめりこんでいった。夢は中学生メフィスト賞作家だった。

 

中学生になった。今まで通っていた小学校と、もう一つの小学校の校区が合わさった公立中学校。美術の時間の自己紹介、趣味は小説を読むこと、書くことです。何の気なしに言った言葉だった。筆者が通っていた小学校では筆者がそういったことをしていることは周知の事実だったから。

サッカー部の顧問でもあった美術の先生は筆者の一つ前、サッカー部員だったNの時とは明らかに温度が違う声で相槌を打った。へー、そうなん、なに書いてんの?

筆者は前日も書いていた、その日も帰ったら続きを書くつもりだった話の名前を素直に答えた。

「『人食い館の惨劇』です」

「コワ~~(笑)」

先生のその声に筆者が通っていなかった方の小学校出身の同級生たちがどっと湧いた。通っていた小学校出身の同級生たちが少し遅れて合わせたように笑っているのが目の端に入ってやるせなかった。

やってしまった、という感覚がかかとのあたりから頬にぐっと上がってきて、紅潮する一方で、頭から血の気はさっと引いてずいぶん忙しかったように思う。

結局部活が忙しかったこともあり、ライフワークのようになっていた打鍵は掲示板で同好の士とミステリやワンピースの展開をチャットやBBSで語り合うくらいになり、Wordを使うのは母親のPTA活動の手伝いくらいになっていった。

部活はバスケットボール部で、「通っていなかった方の小学校」にのみあったミニバス少年団出身者たちがレギュラーを席巻し、筆者は補欠の補欠の地位にありながらもいっちょ前に膝の皿を故障し、ますますレギュラーとの実力が遠ざかっていった。

努力は報われるというけれど、追い詰められた時に秘められた力が創作では覚醒するものだけれど、筆者が得たのは「下手なのになに、マジになってんの」という憐憫と嘲笑であった。それでも部活を辞めなかったのは多分に顧問の先生が生活指導の先生であって、怒号を受けそうで嫌だなあ、という消極的な理由だった。

隣町までの通院を口実とした半帰宅部状態は半年続き、その間に移動中のバスや待合室でも邪魔にならない文庫本、とりわけライトノベルに急速に親しんだ。とはいえアニメイラストの表紙など学校で見られたら=死の時代、TSUTAYAのブックカバーがはがされることはなかったし、学校鞄にはいつもカムフラージュ用の宮沢章夫先生の「よくわからないねじ」も一緒に入っていた。

ラノベにはある種の魔力がある。一般文芸よりも距離が近い。自分も書き手側にまわれるのではないか、あとがきで好き勝手出来るのではないか……。その意欲を煽るように、文庫の最後のページやチラシには新人賞募集がぐいぐいと展開されていた。

メフィスト賞、というか多くの新人文学賞がそのまま出版できるようなボリュームの作品を募集しているのに対し、ラノベは短編で応募しやすそうだ――という気持ちもあった。2chラノベ新人賞応募スレを覗いては受賞に胸膨らませ、受賞挨拶や掲載誌での大御所とのじゃれあいなどを妄想するのに忙しく、気がつけば締切ぎりぎりで原稿用紙に鉛筆書きのまま原稿を応募した。そもそも無事に編集部に辿り着いたのかすら不明である。自分が応募した回の受賞作品が店頭に並んで落選を知った。

 

高校生になった。何の因果かまたバスケ部にいた。そしてまた落ちこぼれた。電車通学となり、その間読書することもあった。気づけば色々な創作の主人公と同い年になっていた。自分はまだ何者にもなれていなかった。昼休みは体育館でシュート練習をするか、図書室で読書をするかの両極端な日々が続いた。「ダ・ヴィンチ」の最新号を読むのが楽しみだった。

ある時、「ダ・ヴィンチ文学賞」の募集を誌面で知った。原稿用紙100枚以内。

これだ、と思った。

短編ではそれだけでは書籍を出すのは難しく、他の文学賞で応募されているような300枚以上の長さなど書いている途中で訳が分からなくなるだろう。

100枚以内なら。なんとかなりそうな気がする。あわよくば行間とか開けて薄い感じでそれだけで本を出してもらえそうな気もする。

ダ・ヴィンチ」の表紙は今を時めく人がおすすめの書籍を持った写真だ。果たして自分の本は誰が持ってくれるのだろうか――いつも通りの悪癖で「獲った後」の妄想はどんどん膨らんでいく。

そのあとのことは、マジで記憶がない。応募したんだろうか? とにかくダ・ヴィンチ文学賞受賞の栄冠が筆者に輝くことは無かった。

他方で学校生活ではひょんなことから学校新聞創立記念号の一面記事を書くことになり、ありがたいことに内外で好評があった。初めて自分が書いたことの「内容」について自分と利害関係が全くない人に褒められる経験はあの日美術室で味わった意味とは真逆でありながら、しかし同様に筆者の頬を朱に染めた。

好きこそものの上手なれという訳ではないが、文系教科は学年でも割とできる方だった。級長も務めておりW大の推薦の話が来た。W大出身の数多の文豪が目に浮かび、毎度おなじみ「行ったつもり」で自分がそこに仲間入りする妄想が浮かびもした。

筆者が頂いた話は推薦であって特待生ではなく、進学には普通に私立値段の学費と東京で暮らす資金が必要であって曾祖母2人、祖母1人を介護し後に弟2人の進学を控えている我が家にその負担を強いるのはためらわれた。

結局辞退することになり、センター試験勉強の傍ら代りに進学することになった友人の進学前課題であった読書感想文のゴーストライターを手伝ったりもした。大学受験の前期試験には落ち、小論文のみの後期試験でどうにか滑り込んだ。初年度学費はW大の6分の1であった。

高校生と大学生の狭間、中学から高校への間と違って入学前課題もなかったので、暇に飽かせてwebで応募が完結できたケータイ小説か何かの賞にも応募したがやはり箸にも棒にも掛からなかった。

 

大学生になった。高校時代の厳格な時間割でどうにか人の形を保っていた筆者は己以外誰も律する者のいない空間でぐにゃぐにゃになっていた。あんなに好きだった本も狭い6畳半のスペースを圧迫するばかりであり、春眠暁を覚えずの極みであった。

あわれ床のシミとなり果てるために本州にやってきたわけではない。一念発起して……というほどでもなかったが入学式でもらったチラシを頼りに文芸サークルの門を叩いた。はじめて実生活で「創作をする人がマジョリティ」であるコミュニティと出会い、その心地よさは「ここで居場所を得たい」という思いに直結した。

新歓後の部誌7月号に1作目を提出した。先輩から感想がもらえた。嬉しかった。新入部員だけでアンソロジーを出すことになり、2作目を提出した。サークル内だけでなく、交流している他大学の文芸サークルからも感想がもらえた。とても嬉しかった。

自分はここにいていいのだと思った。居場所を得られたと思った。

原稿用紙10枚~30枚程度の掌編を何か月かに1回部誌に出し、感想をもらい、内容について語り合う日々。およそ今後もないであろう文芸的充実期間であり、筆力としてもピークだったことだろう。

日々は楽しかった。

そして、満足してしまった。

それはある種創作者としての死でもあった。

 

2009年になった。

学祭に向けて作成する部誌の特別号に作品を提出し、また外から感想をもらい、後輩に対して偉そうな創作論を語る日常を過ごしていた。

創作ペースは明らかに落ちていた。創作は完成するまで基本的に1人で道なき道をとぼとぼと歩き続けていくようなものだが、他人の作品に対して批評を述べるのは合評会という名目でワイワイやることもできるし既にあるものに言葉を載せるだけでよい。お手軽で、しかも恐ろしいことに「なんかやった感」が下手をすれば創作よりもある。その「お手軽さ」にズルズルと浸かりつつあった。

web上ではTwitterを始めた。


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結果的にこれは筆者の創作スタンスとしてめちゃくちゃ悪手であった。ちょっと練れば創作に活かせそうなネタを考え無しにつぶやいて「ふぁぼ」やリプライをもらう方にアウトプットが傾いてしまって、長編どころか短編を書くのもままならなくなってしまった。

そんな中1つのネットニュースを目にした。

朝井リョウ先生が「桐島、部活やめるってよ」で小説すばる新人賞を受賞されたのだ。

グッと喉の奥から声が漏れた記憶がある。

ネットニュースにはこう記されていた。「平成生まれとして初の受賞」。

筆者は常日頃昭和の残り香を漂わせているが平成元年生まれであり、つまりは朝井リョウ先生と同い年であった。実生活でも、インターネットでも、生年月日を言えば「平成生まれ! 若いな~」と言われた時分であった。まだ、大丈夫だと思っていた。

甘かった。5分前に知ったばかりの朝井リョウ先生だが、既に筆者はほとばしる「本物」感に打ちのめされていた。きっとこの人は階段を駆け上がっていくのだろうと思った。我々は世間から「朝井リョウ世代」として認知されていくのだろう、という予感があった。

もう、「平成生まれ」はアドバンテージになりえないのだと。(実際この後、同新人賞は2000年生まれの青羽悠先生が16歳で受賞されている)

無限にあるとおもえた可能性が少しずつ狭まっているのを感じながら、年が明けた。

 

翌年、個人誌を作成した。短編をつなぎ合わせることで全体としては1つの長編小説らしくなる、このやり方なら何とか筆者も一貫性のある筆者の作品だけが入った本を世に出すことができた。頒布開始は学祭。しかも、今年は立地がいい。3年次ともなると店番はほぼ免除なのだが出来るだけ在席して自分の本を手に取る人をこの目で見たかった。

だがそれは叶わなかった。前日、曾祖母が急逝し急遽帰省、学祭は欠席することとなったからである。幸いにも好評ではあったようである。

九州新幹線開通前、乗り換え町の博多の書店では「桐島、部活やめるってよ」が平積みされ、やはり評判を呼んでいるのだと勝手ながら嬉しくなった。

 

大学を卒業し、就職した。就活中にもう1人の曾祖母も旅立ち、震災もあり、東京での就職を諦め地元で就職した。なんとかかんとか社会人をやっていきながら、この経験もいつかの肥やし…と勤務していると朝井リョウ先生は平成生まれ初の直木賞作家になっていた。当然専業作家になられるものと思っていたら、きっちり就職し、かつ執筆を続けておられ、創作の基礎体力が違い過ぎると打ちのめされた。筆者は少し前に募集していた「星新一文学賞」に応募し、「第一回星新一文学賞落選者」という称号を手にしていた。

 

後に妻となる人とお付き合いをはじめ、ご両親に紹介してもらうことになった。和やかに話は進み、ご両親とも読書家、最近読んだ本の話になる。御母堂曰く、

「最近はあの人の作品を楽しみにしてます。まだ若い……そうそう、朝井リョウさん!」

同い年なんですよははは、という筆者の顔のこわばりがご両親に会って話していることの緊張であると解釈してもらえたかどうか。

 

2015年、体調を崩し、退職することになった。転職まで間があるのでいっちょ長編にでも挑戦するか! 自分が勝負できそうなもの……「オタク文学」的なものを研いでいけばモノになるのではないか!? などと考えている間に朝井リョウ先生は華麗に「武道館」を上梓されていた。切替えて5年に1度の大賞がこのタイミングで……このために自分は今退職したに違いない! と思って応募した南日本文学大賞にもきれいさっぱりと落選した。

 

マンションを購入し、住環境が改善された。素晴らしいアイデアがこんこんと湧き出て、最高の30代スタートとなるような予感がした。しただけだった。「坊っちゃん文学賞」からは丁寧なアンケートはがきをいただいた。時を同じくして新居に初めて届いたお歳暮を開けると、朝井リョウ先生の短編「銀色の号砲」が封入されているというニクい演出があった。

 

今回この記事を書くにあたり、時系列に間違いがあってはよくないと朝井リョウ先生のWikipediaをチェックしたらW大出身であることを知った。たかみなさんとラジオをされていたことも知った。はやみねかおる先生の作品に帯文を寄せられていたことも知った。

 

 

完敗なのである。これで作品まで読んでしまうともう立ち直れなさそうな気がして結局13年間1度も読んだことが無い。当たり前だが、嫌いとかでは決してなく、逆に深い敬愛の念を(一方的に)抱いている。いや読んだら絶対面白いのである。朝井リョウ先生の作品なんか絶対読んだ方がいいに決まってまんねん。おもろいに決まってまんがな。(急にかまいたちの漫才みたいになる)

今回つらつら書いてみたことでいくらか自分の中で整理がついたので、まずは最近発売したというエッセイからでも手をつけてみようか……と思うところである。

 

sokkyo-shosetsu.com

↑ちなみにここから筆者の超掌編をいくつかお読みいただけます。


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なんでこんなことを書こうと思ったのか。

筆者が一方的に朝井リョウ先生を認知した2009年、アイドル界でも強烈な新星が誕生していた。

スマイレージ――のちのアンジュルムである。


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世界一だか日本一だかスカートの短いアイドルという触れ込みは正直なところハロプロアイドルの斜陽と迷走の最たるものであるように思えたし、大人たちにそんなふうに扱われるデビューした諸賢に同情の気持ちすら抱いた。

当時ハロプロを愛する少女であった妻は「恋にBooing ブー!」や断髪式に憤りを隠せず、48系列に傾斜する一因となったという。

筆者もアイドルマスターに始まり、群像劇の場として現実のアイドルも興味深く追ってはいたものの、スマイレージに関しては「アンジュルムに改名しました」というネットニュースに「ふうん」と思うくらいの温度であった。

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なんと気がつけば1年以上も前、バースデーライブからも半年以上の時が過ぎてしまった柚樹ログさんの記事とTLでの狂乱ぶりをきっかけとして、実に10年以上ぶり、筆者が知っている時代のメンバーはもはやだれ1人としていない、スマイレージ改めアンジュルムに再び触れる機会に恵まれた。

48を経由してみると、楽曲のアクセスしにくさにやきもきさせられながらも、「ダラケ!」終了以降惰性で加入していたスカパー!に意味が生まれることもあり嬉しかった。Tokyo散歩どうなってしまうんだ……。

楽曲の良さはもとより、バラエティーでの「長所短所クイズ」にて短所を「背が高いこと」と言われた佐々木莉佳子さんが即座に「短所じゃないし! 長所だし!」と言い切ったところがなんともよく、また上國料萌衣さんが鹿児島出生、熊本出身と程よく縁が近いこともあって今の「アンジュルム」への好感度は高まっていった。

そこに、今回「悔しいわ」がリリースされた。


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筆者は和田さんの「sachi」をそうしたように、今回もカーステレオで初めて聴いた。出社の気分を盛り上げる勇ましいサウンドに乗って「強い」ワードが耳に飛び込んでくる。ちゃんと聴けば、それは全体的な流れを語るためのフックであることが理解できる。が、初回はその言葉の響きの強さにピクッと固まってしまって、そのうちに曲が流れていってしまい、もったいないことをした。

楽曲提供者によると一度引っ込んだ曲が今のアンジュルムだからこそということで再度陽の目を見たようであるが、


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「今」?「べきべき」の後に出すべき曲として選ばれたのがこれなのか?

という思いは正直なところあった。

つんく♂秋元康、ハン・ソンス。

前田憂佳平手友梨奈、プリスティン。

かつて大人たちに消費されていった少女たちのことを思い義憤を覚えたりもするが、そこに最高のタイミングでエクスキューズとしてメンバーからのブログ記事が投稿され、本人たちがそう思っているのなら、良いことだ、と納得した。

彼女たちがそんなことを言っていないのに彼女たちの代弁者のように振舞い、憤るのは消費する大人たちと何ら変わらないのである(そもそも、筆者自身はアイドルサバイバル番組という少女少年残酷ショーを好んで見ている時点で天国や地獄に行けるわけがないのであるが)

また、楽曲だけでなくMVを見るとまた印象が変わってくる。メンバーがMV視聴をお勧めするのもよくわかる。悔しさは嘘ではないが、ウェットではない、やる気の導火線に着火するような「悔しいわ」は聴く人間もまた奮い立たせてくれる。

この辺りの回収まで含めて「今のアンジュルム(と、ファンダム)なら大丈夫だろう」ということでリリースされたのであれば、慧眼であったということなのだろう。

「べきべき」は良かった。アンジュルムというアイドルのEDなのではないかとすら思った。だけれども、それがアンジュルムというアイドルの「正解」ではないことは楽曲自身が語っている通りである。

アンジュルムは天使ではなく人間である。完成された天使と違って人間は変わり続ける、その千変万化の変化こそが人間としての美しさであり、強さであり、面白さであるということを改めて考えさせられもした。

そういう訳で筆者は同い年の朝井リョウ先生に完敗しながらもしかし「悔しいわ」と思っている。まだ思えている。この気持ちを因縁深い2009年に同じくルーツを持つアンジュルムに掘り起こしてもらったことは奇妙な愉快さがある。

とは言え焦ったってしょうがない
地道にコツコツやろうじゃない
遅咲きの成功者だっているさ
って自分に言ってみる
でも何?このやりきれない感じ
悔しいって感情抱くことが出来るってことは
まだまだ大丈夫だし頑張れるってことさ

Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/angerme/kuyashii-wa/

夏目漱石が作家として世に出たのは38歳。

木本仮名太33歳、もう少し頑張ってみましょう。

地道にコツコツやってきたTwitterとともに……。

 

ちょっとまって

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へぇ、先生もTwitterを嗜んでおられるのか……。

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あ〜もうめっちゃ悔しいわ!!!

 

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