カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

君は音もたてずに師走になった

霜月において、初日、二日目と順調に更新できていた筆者は「おや…? これは今月はフル更新いっちゃうか……?」と思っていたのもつかの間、にわかに本業が忙しくなり、また町内会であったり他にもなんやかんやとあって竜頭蛇尾どころか蛇頭ミミズ尾くらいの情けない状態となってしまった。

とはいえその間にも書きたいことは沢山あった。

今月は結婚してからの懸案であった北海道旅行を泣く泣く断念して時間もできたので本業はますます忙しくなるものの隙を見て更新していきたい。

では次回予告として黒光りする我が人生の好敵手を載せて今回はこの辺りで。

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野生の息吹、理性の蠢き。あるいは「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド(BOTW)」が筆者に与えた役割(ロール)について。

本題

自分へのクリスマスプレゼントとしてゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを本体と同時に購入したのは一昨年のことだった。発売当時から絶賛されていたし、スイッチの購入理由の一つでもあったそのソフトを筆者が一応の終わりを迎えるまでには約半年の月日を要した。

初めて起動したことを思い出す。冬の底冷えのする朝、まだ眠る妻を起こさないように気を付けながら、筆者はスイッチの本体にブレスオブザワイルドのカートリッジを差し入れた。昨日は遅くまでスマブラで激闘を繰り広げていたので熟睡しているとは思うが。

スイッチをドックに入れ、いつもは妻が使っているプロコントローラーを掴む。ファミリンク機能で自動的にテレビが立ち上がる。昨日までスマブラしかなかったメニュー画面に新しい選択肢が生まれている。ブレスオブザワイルド。迷わず決定ボタンを押す。

そうして、筆者は目覚めた。彼は目覚めた。百年の時から。それは寒々とした風景で、コントローラーのボタンを押す度に、皮膚が張り付いて剥がれるような気持ちがした。
息詰まる祠から這い出すと、緑が広がっている。英雄が敗北したとはいえ、fallout世界のように荒廃したりはしていないようだ。リンゴを取れる。木の枝を拾える。崖も...登れる。オープンワールドでどこまで出来るのか、その自由度の一つは壁をどう突破できるかが一つの尺度だと思うのだが、そういった意味ではなかなか期待できそうだぞ、と少しにんまりする。

情報はなるべく入れないようにしていた。思えば筆者の人生は、「面白そうだけどどうせ今後接することもないだろうからネタバレをガッツリ踏んで時間を節約しよう」という愚かな思想に支配され、未来の筆者に殺意を抱かれ続ける繰り返しであったわけだが、ブレスオブザワイルドの情報にTwitterでちらりと触れたとき、「あ、これはまっさらな状態で接したいやつだ」という直感が働いた。発売当時はswitchを買うかどうかなど全く考えていなかったというのに。
そういうわけだから、筆者の頼りは画面上に出る説明のみである。事実、ちらっと出たけど読みのがした弓が壊れたときの再装備の方法はいまだに分からないのでいちいちポーチを開いて装備している。
見るからに怪しげな老人に出会う。筆者の考察脳はフル回転である。
「これは切り離された善のガノンドロフではないか?」
「いや、ガノンドロフ第一の手先であって最後の最後で正体を現す最初のボスかもしれない」
ともあれ先を進むにはこの老人に従う他無いらしい。何度もさらに広がる世界に足を踏み出そうとするが、ままならない。さすがにそこまでの自由度は難しかったか...と完璧な優等生の弱点を見つけたようで少し邪悪な気持ちになりながらも、祠を攻略していく。てっきり冒険の節目節目で手にはいると思っていたアイテムがどんどん埋まっていき景気がいいな、と思う。

物語が進むたび、筆者が動かす「彼」は「リンク」になっていく。それは今までのプレイ体験にはない、不思議な感覚だった。

例えばドラゴンクエストシリーズでは一般的に主人公は「あなた」として(選択肢は基本的に二択であるものの)自分の分身としての側面が強いし、ファイナルファンタジーシリーズでは逆に、主人公は物言うキャラクターであり、もちろんこちらもプレイヤーが干渉する部分はあるけれど基本的には主人公という確立した存在の追体験をする、というデザインを押し出しているように思う。

本作はそのどちらとも違う、そして過去のゼルダシリーズとも違う体験をプレイヤーに与える。

はじめ、筆者と、プレイヤーと「彼」は平等である。筆者は文字通りその世界にやってきたばかりであるし、逆に「彼」は様々なことを長い年月で忘れ去ってしまっている。

初めに出会った老人を皮切りに、多くの人が「彼」に言う。

「彼女」は「彼」をずっと待っているのだと。

なるほど、と老人の話を聞いたときに筆者は思った。王道も王道、大王道だ。囚われの姫を騎士が救い出す、その役割(ロール)を筆者に背負わせてくれるというのだな、と。

しかし女装したり、雷に打たれたり、鶏肉をちまちま集めたり、がんばりゲージをドーピングして高いところに昇ったりしているうちに筆者は、「彼」と少しずつ乖離していく。

同じまっさらな状態であっても筆者は知らず、「彼」は忘れている、という決定的な違いがある。即ち「彼」の自己の獲得によって筆者の主人公としての役割(ロール)は喪失していくのである。

道中、ふとしたところで「彼」はハッとする。そして思い出す。過去の記憶を。そうして「彼」は少しずつ「リンク」となっていき、筆者は己の真の役割(ロール)を知るに至るのである。

「彼」を「彼女」に会わせにいくこと。あのゼルダの伝説の象徴にして今や災厄の中心である場所まで連れていくこと。それこそが自らの役割(ロール)なのだと。

しかし一方で、世界はあまりにも魅力的であった。目指すべきところは文字通りの中心にあるのに、冒険を始めると、なんか変なところを追いかけて行ってコログのミを見つけ、クエストに出会い、ほこらに挑戦し、気が付くと目指すところの真反対に突き進んでその日はこの辺にしておくか……ということを幾日も繰り返した。人々にはすべて固有の名前がついていて、血が通った言葉をかけてくれた。

そうして出会う人々の中にはかつての「彼」を知るもの、伝え聞いている者もおり、ますます筆者と「彼」は乖離していく。その中で、同じ英傑たちとの邂逅は特にいずれも味わい深いものになった。ライバル、相棒、姉御、大切な存在……それぞれの立場で掘り下げられる「リンク」の姿はその目線を注ぐ彼ら自身も魅力的な存在であることもまた証明してくれた。

特にライバルである「彼」の下に辿り着いた時の、既に肉体は滅んでいる彼の憎まれ口には思わず目が潤んでしまった。軽口をたたきながら、しかし「リンク」が自らのところまでたどり着くことを全く疑っていないその口ぶりはなんと取り繕おうと親友のそれではないか……。

筆者はそれでも物語を先に進めることに抵抗があり、彼らそれぞれのもとをぐるぐる回りつつ、なかなか踏ん切りがつかないでいた。先に進めることを決意したのはちょうど半年が経ったことに気付いたからだ。

そうだ、「彼女」は待っているのだ。いや、そればかりではなく、「彼ら」も待っているのだ。ぐるぐる回っていた甲斐があって、装備を贅沢に使って禍々しい「奴ら」を倒すのはそこまで苦労しなかった。「彼」の十八番の超ジャンプを活用して、裏口から本丸へ突入する。オープンワールドの真骨頂である。緊迫したムービーからのごっつあんモードがはじまり、もはやスタッフロールの一部と言っても過言ではない戦いが始まり――負けた。据え膳をかっこもうとして盛大にむせた格好である。

筆者はとぼとぼと滑空し、それからリアル時間で3日ほど彷徨い、英傑たる証の剣をこちらも一度無事倒れながらも手にした。

今度は正面から突入した。気負いのなさが勝利を呼び込むというジンクスめいたものが筆者をそうさせ、それが功を奏したのか戦いはいよいよ最終局面へと至った。「彼女」の声がする。二人の再会はすぐそこまで来ていた。コントローラーが汗で滑る。目の前でもがく野生の息吹。一方でどこかで筆者の理性は冷めて蠢いていた。己の役割(ロール)を悟っていた。

エンディングが始まり、筆者は微笑んでいる自分に気付いた。

ああそうだ――こういう時かける言葉を筆者は知っている。

「幸せにおなり」だ。

あるいは機知を利かせてBon Voyage(良い旅を)であったかもしれないが。

すっかり満足した筆者が再び起動すると、画面左下には控えめに達成率13.5%が表示されるのだった。恐るべし、ブレスオブザワイルド。

 

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch

 

 

久方の光のどけき秋の日に誰いうともなく運営報告

11月である。先月書いた記事はなんと2記事。なんたること……と思って過去を見てみれば、昨年の10月は1記事であった。期せずして生産性を2倍にしていたわけであるが、10月というのは筆者にとってそういうシーズンであるのかもしれない。

ともあれ、そんな放置気味であった先月にもありがたいことに多々アクセスを頂き、おかげさまで累計30万hit(今はPVというのかもしれないが筆者としてはこのように表現したい)を達成することが出来た。

Twitterのログを見ると、去年の9月辺りに10万hitだったらしいのでペースが上がっており大変ありがたいことである。収益化はしていないが、やはりそれだけの目に触れているというのは嬉しく、同時に身が引き締まる。

せっかく月初めでもあるので、2年前の5月からろくにしていなかったブログ記事の鉄板、「運営報告」というものを久々にやってみたい。

 

当ブログの「看板記事」はなにか?

これも2年前に少し触れたが、当ブログには「Googleアナリティクス」という巨大帝国Googleによってアクセスを分析してくれるシステムが存在する。もっとちゃんと勉強すればいいのだろうがろくに使いこなせていない。四コマ漫画とかにしてほしい。こちらの対象期間を出来る限り長くして、それぞれの記事の閲覧数から当ブログの看板記事を探ってみた。我がブログの五虎大将軍、結果は以下である。

 

5位

kimotokanata.hatenablog.com

 今も気が付けば注目記事に上がっていたりする。筆者に反響が返ってきた数としては同じ金田一映像作品でも「悪魔の手毬唄」が圧倒的に多かったのだが、検索でコツコツと閲覧数を稼いでくれているようである。というか、筆者はこの記事が急にブログ内で注目記事に上がったので金田一関連で調べてみたら「悪魔の手毬唄」の放送を知ったという経緯がある。当ブログにおいての金田一ニュースの観測気球ということもできるだろう。タイトルから内容に至るまで、比較を軸にしてなかなかいい感じにかけていて良いのではないか、と今見ても気に入っている記事の一つである。

 

4位 

kimotokanata.hatenablog.com

 ヒプマイ関係の記事はいくつか書いたが、このシブヤ記事が頭一つ抜けて多い。のわりにTwitterとかでエゴサーチしてみても全く引っかからないので鍵アカウントでお叱りを受けているのでは……とドキドキしていたりもする。「ピンク色の愛」という曲名をもじっていること、発売日に更新したことがSEOにいいように作用したのかなと思う。記事としてはすぐに記事という形にしたいという焦りが見られて加筆したい気持ちもある。この頃は3月にはコロナなんとかなるだろ、みたいな空気だったなあ……。

 

3位

kimotokanata.hatenablog.com

1か月そこそこの記事であるのにやはり半沢直樹は強かった。同じくGoogle提供のサーチコンソールによれば、当ブログでアクセス数が最も多いワードは「アルルカンと道化師 ネタバレ」であり、次点が「半沢直樹 アルルカンと道化師 ネタバレ」であるというからすさまじい。ちなみにその後は「鬼滅の刃 205」であった。こちらも経験から発売直後に記事を書くぞ、という焦りからちょこちょこせわしないものの、全体をさっとなぞりつつ補足を入れる形でそれなりの記事にはなっているのではなかろうか。ちなみに筆者はこの記事も言及を一切見たことがないのでどこかで見かけたらこっそり教えてください。

 

2位

kimotokanata.hatenablog.com

これまた半沢直樹である。初回感想記事であるのだが、毎週毎週コンスタントにアクセス頂いていた感じ。予想記事としてはほぼほぼ惨敗なのだが、この記事へのアクセス数の推移が半沢直樹という「現象」のすさまじさを現わしているようで考えさせられた。

 

1位

kimotokanata.hatenablog.com

 1位はこの記事。この記事をきっかけに当ブログを知っていただいた方も多いのではないか。当時の当ブログの1年分のアクセスをほぼ1日で稼ぎ、はてなブログTOPになり、界隈の多くの「神」からも言及頂いた、当ブログにおいて「以前」「以後」の節目となったまさしく記念碑的な記事である。

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グラフにするとこんな感じである。どれだけ異常事態であったかがわかるだろう。因みにその後の大きな波としては「キンプリみたよ」「悪魔の手毬唄」「アイズワン新曲MV考察」「維伝観劇」「鬼滅最終回」「半沢直樹ロスジェネ最終回」が筆者の記憶としては残っている。 

またしても手前味噌ではあるが、深夜のテンションと興奮がいい感じに昇華した「こいつめちゃくちゃ面白かったんだろうなあ」というのが今読んでも伝わってくる記事だた、と思う。TLに人が多いニチアサタイムに再度投稿できたのもよかった。

色々がたまたま重なった神の気まぐれとは思うけれども、やはり人様に読んでもらえる、ばかりか褒められるというのは代えがたい快感であり、今もあの光景よもう一度と思う気持ちがあることは否定できない。また、ブロガーの端くれとして1年以上の間最高記録を更新していないというのも歯がゆさがある。この記事を超えることは目標としてずっとあり続けているし、早めに達成したいと思う。

ちなみに次点はツイステッドワンダーランドの記事であった。半沢直樹の強さ、ジャンルが分散していることの利点を同時に観測できる結果となった。

 

増える検索流入、減る交流。

ただいまリアルタイムのはてなブログの機能によるアクセス解析によると、アクセス元はGoogle検索が75%、Yahoo!検索が15%、Twitterが4%、はてなブログtopからが1%であった。100にならない……。ともあれこの中にはてなブログがあると、自分が知らないうちにtopでちらっと紹介され、そして消えていったことがわかりちょっともやもやする。初めのうちはほとんどTwitter経由であったのだが、やはり上記の映画「刀剣乱舞」の記事を境に徐々に検索流入が増え、半沢直樹でいよいよ顕著になったように思われる。見ていただく機会が増えるのは大変ありがたいことなのだが、既に書いたように最近アクセスに比して言及、交流が少ないことは検索流入の増加と比例しているので(確かに筆者も検索して読んだ記事を言及するのはそこまで多くない)検索から訪れた諸賢が思わず言及せずにはいられないような魅力的な記事を書けるように精進していきたいと思う。いつも感想をくださる皆さん本当にありがとうございます。

今後について

毎度のことになるが書きたいことは沢山あるのである。なんと1年以上寝かしている記事もあるので、夜が長くなる季節、今月は下書きの解消を目標に頑張っていきたい。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

フロアがきつね色にアガるとき―映画「とんかつDJアゲ太郎」ネタバレ感想

余談

有名料理マンガの科白に

いいかい学生さん、
トンカツをな、
トンカツをいつでも
食えるくらいになりなよ。
それが、人間
えら過ぎもしない
貧乏過ぎもしない、
ちょうど
いいくらいって
とこなんだ。

というものがあって、最近目下減量中の筆者にとっては「そしていつでもとんかつを食べることが出来る体調管理も大切であることだなあ」と思うことしきりである。やはり肉、そして揚げるということはそのまま「おいしいものは脂肪と糖でできている」の代表格であり、ずいぶんとご無沙汰であった。

二週間前、鬼滅の刃「無限列車編」を鑑賞した筆者は予告編で「とんかつDJアゲ太郎」を見た。

ジャンプ+の草創期にその「フレッシュさ」「既存誌には感じられない斬新さ」の代表格としてよくピックアップされ、筆者もちょこちょこと読んでいた。2016年にはアニメ化され、筆者も丁度フリースタイルダンジョンにハマってHIPHOPをかじり始めていたところであったから、ナレーションがサイプレス上野さんであることをも相まって楽しく見させてもらった。アゲるのはもちろん、マンガよりも「チル」の概念がより伝わっている感じが好きだった。原作も無事大団円を迎えているので是非続編を作ってほしいが……。


【実写映画化記念!】アニメ「とんかつDJアゲ太郎」第1話 期間限定無料公開

確かその頃から実写化の話はあったはずであるが、筆者の狭い観測範囲では暫く追うことが出来ず、次に知ったのはコロナ禍で上映延期、というもの。それからややあって、残念ながら伊勢谷友介氏逮捕の報で再び知るところとなった。そして木曜日には、伊藤健太郎氏の事件の報……。

しかし制作陣は10/30フライデイの上映開始を動かさなかった。罪には罰である。自らの犯したことは必ず身を持って償うべきであり、被害者の方には心からお見舞い申し上げる。しかしそれは個々人の問題であり、映画には罪はない。この制作陣の姿勢を応援したい、と思った筆者は妻を誘い、黒豚王国・鹿児島の中でも筆者が最も偏愛するとんかつ屋さん「竹亭」さんへ向かった。

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1100円。(上とんかつ定食)安い。早い。うまい。とんかつの三冠王である竹亭を噛み締め、そのjuicy&crispyを堪能しながら我々は誓っていた。上映初日に「とんかつDJアゲ太郎」を見ようと。

本題

ということでここから「とんかつDJアゲ太郎」のネタバレがあります。

いや~……よかった。

冒頭、ワーナーのロゴの辺りでキャストの皆でワーワー言い出すあたりで不安を煽られたりもしたし、YouTubeの下りやDJKooの下りはちょっと冗長な気がした。

しかしそれを補って余りあるパワーが本作にはあった。青春の葛藤、うぬぼれ、挫折、恋、友情、成長……。それらが終始ご機嫌なビートとDJプレイによってまぶされ、アゲられていく。陳腐な言い方だが映画館がクラブに様変わりする感じは映画は「体験」だという気持ちを高めてくれる。例えば地上波初放映でTwitterハッシュタグをつけながら、という感じでも大いに盛り上がる映画ではあるが、間違いなく劇場に向けて最高にミックスチューンされたこいつを劇場で賞味しないのは非常にもったいない。

それだけではなく、この映画は映画館をとんかつ屋にも変貌させる。というか、レイト―ショーで見た人間には辛抱たまらん熱々のとんかつが揚がるシーンから本作は始まる。アニメを見ていた時からとんかつDJアゲ太郎に何か既視感を感じていたが、今回実写化されてはっきりした。

べしゃり暮らし」とのシンクロを本作からは感じるのである。都内の老舗の跡継ぎ、後継ぎ役の主人公は生まれながらに人生のルートが決まっているような自分の境遇について複雑な感情を頂いているが、自分の店については誇りを持っている。父親は寡黙な職人肌で一見厳しいが、いつも息子を気にかけている。そして主人公は自分の店がそうであるような、笑顔があふれる空間、みんなが楽しんでいる空間を愛し、別のフィールドで自分の腕一つでそれを実現させようとする――こう書いてみると箇条書きマジックも相まって思った以上に共通点が多い。

そして二作に共通するのは父と子のラブストーリーであるという点である。筆者は普通のサラリーマンの家庭であるので、(何の因果か似たような職種についているが)このような「背中で語る」職人のオヤジに憧れる。アゲ太郎の親父を演じるブラザートムさんが抜群に良い。カメラが回っていないところでもとんかつを揚げ続けたということもわかるような彼の背中は完全に「職人」であった。アゲ太郎の想像の中でクラブでとんかつを揚げている親父はめちゃくちゃに格好いい。後半、クラブで涙するところがまたいいんである。息子に確かに自分の想い、「しぶかつ」の魂、バイブスが伝わっていると分かったのであろう漢の涙は親であること冥利に尽きている。

そして三代目道玄坂ブラザーズの面々がたまらない。「とんかつDJアゲ太郎」はライトでアゲアゲな娯楽作品と見せかけて、というかもちろんそのように見ることの出来る肩の凝らない素晴らしい作品なのだけれど、しかしその衣にくるんで労働賛歌を我々に見せつけてもくれる。

とんかつ屋「しぶかつ」三代目アゲ太郎を筆頭に旅館、電飾業、薬局、書店の三代目で構成された三代目道玄坂ブラザーズは初め、アゲ太郎の晴れ舞台にキメキメのスーツで臨み、アゲ太郎共々失敗する。

紆余曲折在り、アゲ太郎の再起の舞台にも彼らは行動を共にする。それに臨む姿はそれぞれの仕事着。それでもってアベンジャーズ歩きする彼らはめちゃくちゃに格好いい。世界は誰かの仕事で出来ているというキャッチフレーズがあるが、渋谷は彼らの仕事で出来ているのである。

フロアでは衣装に着替えてしまったのが些か残念であるが、そこからの「とんかつアンセム」はもう圧巻。

まず響くのはアゲ太郎のサンプリングを駆使したパフォーマンスだ。それはキャベツを刻む音、溶き卵を混ぜる音、そしてとんかつが揚がる音……。日常に「アガる音」は潜んでいるのである。

そこから繋がるのは師匠、DJオイリーのフェイバリット・ヴァイナルである「juicy&crispy」まさしくアゲ太郎はとんかつとDJが同じであることを自らの手腕でもって再現して見せた。合わせて軽快に踊る三代目道玄坂ブラザーズたち。

そして電飾業「東横ネオン電飾」三代目・夏目球児からはじまる三代目たちの自分の店レペゼン・ラップ。もう、泣くしかない。かつてR指定はverseを蹴った。「レペゼンってのはな 地元に留まって東京の悪口を言うことじゃねえ」意訳すれば、レペゼンとは自分のフィールドに、安全圏にいるだけでは決して果たせない、とも言えるだろう。三代目道玄坂ブラザーズ達は苦い思い出のあるクラブに再び立ち向かい、アウェーでもって自分たちの職業をそれぞれ最高のラップでレペゼンして見せた。これはモンスターエンジンの「中小企業ラップ」以来の快挙である。かっこよすぎる。

そこにライバルである屋敷とのセッションも加わり、興奮は最高潮。ソーシャルディスタンスの座席であることに感謝し、暗闇の中で筆者も小刻みに揺れることを止めることが出来なかった。

授賞式の場に、アゲ太郎たちはいない。今度はしぶかつでお客さんたちをアゲアゲにして笑顔にしていたからである。その見事なスイッチぶりはまさしく名DJであった。

そして劇中ではキャベツ太郎からぬか漬け太郎へのの上達で終わるかと思っていたしぶかつ三代目としてのアゲ太郎も最終盤でついに揚げ太郎への階段を上がり……。

そのラストシーンの爽快感は是非劇場で「アガって」ほしい。

ちょっとだけ残念だったところ

とんかつDJアゲ太郎」の根幹とも言える左右にとんかつとDJを配し、中央でアゲ太郎が「とんかつとDJ」って同じなのか!? と悟るシーンが予告編では完璧だったのに本編では変なとこがくどくて再現性が落ちていたのは残念だった。台詞リピートはいらない、一度の叫びがあれば……

DJオイリーが思いのほかダメ人間でビビった。アゲ太郎役の北村匠海さんがDJ経験もあるということでDJプレイシーンは説得力のあるものになっていたが、その上達ぶりは過程がわかりにくいものになっていたので、オイリーとの修行シーンは前半の冗長なシーンをもう少し縮めて具体的にしてほしかったし、そういった師弟らしいシーンがもっとあれば終盤のDJオイリーの名誉挽回だ! という感じももっと強くなったのかなと感じた。DJオイリーとイベント主催者の和解シーンもぜひ欲しかった。ついでにいえば最後のDJプレイのシーンでは満を持してジャケットをブースに掲げるのかと思ったらなかったのは肩透かしだった。

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表紙の人物のうち半分が不祥事というのもすごい話である

パンフレットもアナログ盤ジャケットを意識した感じで最高だった。キャストインタビューのほか、劇中のプレイリストの意図を選曲者が明かしてくれたり、DJオイリーのDJ入門はおろか親父のとんかつ入門まである贅沢仕様である。

ただ、「とんかつDJアゲ太郎」のオリジナル楽曲である「juicy&crispy」や「passion dancer」のライナーノーツは絶対あると思ったのになかったのは残念であった。アニメ版も良かったが本作の解釈もとても良かったので余計にである。

サウンドトラックは既に大手音楽サブスクに収録されているというからすごい時代である。早速筆者も本日はヘビロテであった。

open.spotify.com

しかしこれもまた、サムネイルを「juicy&crispy」のジャケットとかにしてくれればアガッたのになあ……。と思う。そういう意味では「フィッシュストーリー」は完璧であった。

最後にちょっと愚痴めいた感じになってしまったが、映画はカラッとアガッた気持ちのいい作品になっている。繰り返すが、作品に罪はない。ぜひ一人でも多くの方に劇場で観ていただきたいと思う。自分の仕事を頑張ろうと思うし、もれなくとんかつが食べたくなること請け合いである。

映画ノベライズ とんかつDJアゲ太郎 (集英社オレンジ文庫)

さみしくとも明日を待つ――劇場版「鬼滅の刃『無限列車編』」完全ネタバレ感想

表題にある通り劇場版「鬼滅の刃『無限列車編』」の縦横無尽なネタバレがあります。原作の以降の展開に関してのネタバレは8巻収録分に関し最後に再度注釈と共に多少ありますが、それ以降のものはありません。

余談

久々にこんなに長い間ブログを書かなかったかもしれない。相変わらず書きたいことは色々あるのだが、ありがたいことにダイエットが継続できていて、8月からすると10kgほどやせ、ウェストもマイナス9㎝となった。主に食事制限とフィットボクシングによるものなのだが、それをこなし、ゆっくり風呂に入ると日が替わる、という日々が続いてなかなか記事に着手できないのである。意を決してswitchのコントローラーをもう一組購入し、妻と一緒にトレーニングができるようになったので時短になるので今後はブログの方もまた書いていきたいと思う。来週末はオンラインイベント「ヒストリカルマーケット」にも参加させていただく予定である。人間忙しいうちが華。頑張っていきたい。

本題

表題の内容が知りたいのにいきなりおっさんの近況報告をして慣れぬ読者諸賢には大変申し訳なかったが大体こういうスタンスなのでご勘弁願いたい。

そんな日々に忙殺されながらも無限列車編は初日レイトショーで無事鑑賞することが出来た。というかそれを見られるようにするために諸々忙殺されていた、という側面もある。

よかった……ただただよかった……それだけでいいのだが、せっかくこのような場所を設けていることもあるので展開を追いながら、筆者なりの感想や妄言を記していきたい。

平日21時、コロナ禍以前でも見られなかった映画館の熱気を感じながら、用意していたハンカチを早くもドラえもん映画の予告で濡らし、シン・エヴァの予告に驚き、そして無限列車へと乗り込むのだった。

レイトショー、現実とスクリーンの暗闇が溶け合い、否応なく物語に没入していく……。

四者四様鬼殺隊

Twitterで本映画はTVからの延長線上にある映画によくある「これまでのあらすじ」がない、そのパワープレイでも成り立っていてすごい、という意見を目にしてなるほどと思ったが、筆者の感想としては無限列車に乗り込み、煉獄さんと話し始めるまでの時間で竈門炭治郎の人の良さ、我妻善逸のビビり散らかしぶり、嘴平伊之助の猪突猛進さ、煉獄杏寿郎の闊達ぶりがすっと入ってくる構成であったと思う。

四者が揃った後、車掌が切符を切ると共に映画の初戦の幕が――どころか鬼の首までもがほとんど同時に切って落とされる。その剣技の使い手は炎柱・煉獄。アニメ初披露の炎の呼吸はヒノカミの炎とも竈門禰󠄀豆子の血鬼術とも違うまさしく業火で、その作画にUFOtableの本気をさっそく感じさせられる。

やった! アニキはすげえや! 弟子にしてくだせえ!

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

甘美なる悪夢の中で

が、それは既に下弦の壱・魘夢の血鬼術の中の出来事であった。

そのまま煉獄は夢の中で自らの家に。自らの炎柱就任を報告するが、自らもかつて柱であった父は喜ぶどころかそちらを見ようとすらしない。その後に駆け寄ってくる弟にそのことを煉獄は隠さない。それでも自らは挫けないこと。弟には自分という兄がいて、兄は弟を信じているのだということを伝え、抱きしめる。

早速筆者は泣いてしまった。筆者は、三兄弟の長男である。鬼滅の刃のTV版においても主人公の長男ぶりに何度も筆者は目頭を熱くさせられた。しかしここにもまた、模範たる長男ぶりを見せつけてくれる男がおり、その頼もしさ、兄は弟を信じているということは先に生まれたものが兄であるというような自然の摂理であるという程度の自然の摂理であるというごくごく当たり前な様子に、現在全員別の県に暮らしており、コロナ禍にあって会うこともままならない弟たちのことを思い、ほろりとさせられたのである。

善逸や伊之助の夢世界のコミカルさをうまく使ってそのギャップでさらに涙腺にハバネロを練りこむような刺激を与えてくるのは炭治郎の夢世界である。

深々と降る雪。寒々とした木々の広がる風景。

その光景を筆者は覚えている。第一話、まさしく「残酷」としか評す術のなかった文字通りのあの悪夢の舞台。竈門家である。

そこに見えるは――失ったはずの家族。

炭治郎号泣。筆者も号泣。劇場中がハンカチを目に当てるために衣擦れをさせるのを感じた。今回、炭治郎役の花江夏樹さんの演技が本当に素晴らしく、原作でも読んだし言ってしまえばベタな展開であるのに涙腺はいとも簡単に決壊してしまった。

当たり前の日々。そうだ、鬼に突然家族が襲われるなんてことの方が荒唐無稽な悪夢の出来事なのである。

それでも現実の今や唯一の肉親である禰󠄀豆子の血鬼術によって炭治郎は自らが悪夢に囚われていることを悟る。現実に戻ろうとする炭治郎――

――の目前に現れる人間である禰󠄀豆子。なんたる鬼畜の所業か。

炭治郎は大いなる野心を秘めているわけでも何でもない普通の少年である。

ワンピースを追い求めているわけでもない。火影になりたいわけでもない。

最高のヒーローになりたいわけでも。それらは偉大だが、しかし炭治郎には重要ではない。

では何が重要か。

家族である。

本来であれば、家族とともに慎ましくも幸せな生活を送るはずだった炭治郎。

それが家族を鬼に奪われたばかりに、妹を鬼にされたばかりに、それを元に戻せる手掛かりを探るために、彼は持ったこともない刀を振るい、尋常ではない鍛錬をし、幾度も死線を潜り抜けている。

それが、ここにはもうすべて元のままで在る。もういいじゃないか、と思ってしまっても無理はない。「あちら」が悪夢だったと思えばいい。こちらの、家族が健在な世界で生きていこうと。

しかし、炭治郎はそうしない。現実の本当の禰󠄀豆子が自分を待っていることを彼もまた兄として信じている、いや、知っているからである。自分の妥協した幸福を投げうってでも、兄は妹の本当の幸いのために文字通り身を斬る思いで帰還を果たす。

幻であっても六太の叫びは痛切でありハンカチに再び水分が供給される。またBGMがあの「竈門炭治郎のうた」のインストゥルメンタルだから反則である。炭治郎の走る様に寒い日に走る、肺が凍るような冷気が入る感じすら覚えるような臨場感があった。

その炭治郎のまっすぐな心は魘夢の刺客であった青年すらも改心させ、そして他の鬼殺隊に向けられた刺客たちに理解を示しながらも昏倒させる無駄のなさによく表れている。

この悪夢パート、テンポが多少犠牲になっていたような気はしたものの非常に良かったのだが(花江さんの声だけでガンガン泣けるのでもう少し演出はあっさりでよかったかもしれない)伊之助の無意識領域に出現する伊之助のようなものが彼の理想の姿(ツノがあり/火を吹き/立ち上がると三メートルある)である、ということはともかく、原作ではあった補足がだいぶカットされていたのでTVアニメ→本作と梯子されている諸賢や筆者のようにうろ覚えだった諸賢は些か戸惑ったり腑に落ちない部分があるかもしれない。

蛇足ながらいくらか書いておくと、煉獄はもちろん刺客である人間を殺さないように無意識下ながらもぎりぎりの加減をしているし、炭治郎の夢に現れる禰󠄀豆子箱や父はご都合展開というよりはヒノカミ神楽時の走馬灯のように炭治郎の本能が既に悟っている脱出へのヒントが形となって表れた形である。鬼殺隊と刺客たちを繋いでいる縄は魘夢特製のもので刀で斬ってしまえば夢の主でない者(刺客)は永遠に目が覚めないがこのことは刺客たちにも説明がされていない。魘夢にとって人間は使い捨ての食糧でしかないからである。ちなみに錐も特殊なもので、魘夢の歯と骨で出来ている。炭治郎以外が目覚めることが出来たのは禰󠄀豆子の血鬼術で切符が焼けたからである。

原作はナレーションが多い作風だがアニメではほぼ廃されていた影響が出た形だろうか。目覚めることが出来た理由は単行本の欄外補足であったので、ぜひアニメでは織り込んでほしかった。

列車上の決闘

覚醒し、臭いをたどって無限列車の屋根へ上る炭治郎。そこにいるのは魘夢。平川大輔さんの演技がまさしく振りほどこうとするたび絡みつく悪夢を思わせ、最高に最悪である。誠氏ね。更なる上「上弦」を彼が目指すのも無理はないほどチートと言って差し支えない強制睡眠を連発しても炭治郎は怯まない。効かないのではなく都度自裁しているのである。その並大抵ではない胆力に精神面から切り崩そうと家族が罵倒する悪夢を見せる魘夢だが、完全に炭治郎の逆鱗に触れる。そこにあるのはやはりまっすぐな家族への信頼である。再びよぎるあるはずだった家族の情景――劇場の観客の流す涙の雫はそのまま炭治郎の巻き起こす逆巻く水流となり、炭治郎と観客の怒りを乗せてまたもUFOtableマシマシの圧巻の作画による水の呼吸十の型・生生流転によって魘夢の首が断ち切られる!

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

狭所の攻防―人質を守り、悪夢を断つ

屋根の上の魘夢はもはや抜け殻、疑似餌のような存在であった。本体は既に無限列車と融合し、ありとあらゆるところから捕食用の肉塊を出せるようになっていたのである。それは即ち、乗客二百人を人質に取られたことを意味していた。TVアニメでもそうだったが、この肉塊の醜悪さ、不気味さにも作画リソースがふんだんに注ぎ込まれており、思わず劇場アームレストに置いている自分の腕を見てしまうくらい鳥肌必死の演出となっている。

無限列車は八両編成、炭治郎は自分が守れるのは二両が限界であると考える。明らかに人手が足りない――。

仲間たちの覚醒を願う炭治郎の声にまず応えたのは自称親分の伊之助である。図らずも彼の思考通り「ヌシ」となった無限列車。奮い立つ彼の「どいつもこいつも俺が助けてやるぜ」という叫びは天下無敵の伊之助親分である。剣技の狂い裂きも四方八方の掃討に相性がいい。

禰󠄀豆子も鬼の膂力で乗客を救うべく奮戦するが、接近を余儀なくされるスタイル(単行本で解説があるが、血鬼術を使いすぎると彼女は眠くなってしまうので軽々に使えないのである)、少しずつ肉塊に四肢を拘束され、締め付けられていく。彼女の命と青少年の何かが危機に晒されたとき、走る蒼光――。

善逸である。居合技が嫌いな男の子なんていません! 兄蜘蛛戦より更に大盤振る舞いの演出がなされた霹靂一閃・六連はヤッターカッコイイ! の一言。

「禰󠄀豆子ちゃんは俺が守る」の言葉と有言実行ぶりに筆者も年甲斐もなくトゥンク……といった次第であるが直後にフガフガプピーしてしまうあたりが善逸の真骨頂である。劇場版ポスターに鼻ちょうちんで出演している男を侮ってはいけない。

その彼らの活躍も一人前方で奮戦する炭治郎は把握できない。状況が把握できない不安と狭所での戦いであることが神経をすり減らす。

そこに列車を揺らす勢いで駆け付けた煉獄。紅蓮を走らせそこに至るまでに細かく斬撃を入れつつ、五両を守ることを宣言。炭治郎達に指示を出す。

その的確さと素早さに感嘆しながらも炭治郎と伊之助は鬼の頸を探す。そのありかは車両前方、機関室。渾身の一撃で床をえぐると禍々しく車両に通る鉄骨のように太い頸の骨が姿を現した。

更に激しさを増す肉塊。やはり夢を見続けていたい人間である機関手に腹を刺され、血鬼術も加わり危うく現実世界で自裁しかかる炭治郎を伊之助が叱咤する。二人の力と家族の力――ヒノカミ神楽「碧羅の天」によって魘夢の頸はついに斬り落とされたのである!

断末魔を上げ、脱線する魘夢列車。(原作ではヘッドマークに顔が出て邪悪なきかんしゃトーマスになっていたような覚えがあったが再読したら全然そんなことはなかった)今度は列車事故として大勢の命が危険に晒される。炭治郎自身もまた、ヒノカミ神楽の使用と腹部の傷によって体がままならず、危機に陥るが「自分を刺した相手を人殺しにさせない」という意思が、「誰も死なせない」という決意が彼を突き動かす。炭治郎の守るべき「家族」が鬼殺隊の活動を通して拡張されていっていることがよくわかる。

夜明けを感じながら、地面に横たわり、呼吸を整え、仲間の無事と回復を祈る炭治郎。

その姿を体が崩壊し始めている魘夢は捉えている。が、もはやどうすることもできない。彼の計画は完璧なはずだった。細かい切符を用いた血鬼術で鬼狩りを無力化させ、自分の嗜好も我慢し、列車に融合し、一度に大量の人間を食う。「こんな姿になってまで」という述懐から、彼の美意識的には元の姿を捨てるのは結構耐え難いようであったフシもある。

だが、結果としては策士策に溺れる。全力を出せず、人間を一人も食えなかった。

規格外な守備力・攻撃力、獅子奮迅の炎柱、煉獄。

術中にあり眠りながらも神速の剣技を放った善逸。

鬼の身に堕ちながらも乗客を守り続けた禰󠄀豆子。

動物的な勘の冴えで視線を捉えず暴れまわった伊之助。

そしてまさかの自力で術を突破してきた炭治郎。

古き良きテンプレート的な「こ、こんなのデータにないぞ!」のオンパレードがロイヤルストレートフラッシュでやってきたとき、計画は瓦解し、その主因となった柱さえも超える異次元の強さ「上弦」に迫るという野望もまた、潰えた。

負ける。死ぬ。くやしい。やり直したい。やり直したい――現実が己によってこれ以上ない惨めな悪夢となった眠り鬼・魘夢は誰にもその死を見送っても認識もしてもらえず散っていく。

本映画は彼が「嫌を通り越して厭な悪役」に徹してくれたことも傑作となる一つの要因だったであろう。原作においても「かわいそうな累きゅん」の後にお出しされた更なる強敵でありながら、人の不幸が大好きな性癖トガリネズミであり下弦の中間管理職的悲哀をにじませながら退場した彼のその「ザ・厭な奴」ぶりが筆者はとても好きであり、本映画で「悲しいバックグラウンド」が用意されたらどうしようかとドキドキしていたがしっかり厭な奴として散ってくれたので安心した。零巻で人間時代からチョコラータみたいなクズ野郎だったことがわかり二度ニッコリである。

そんなことはいざ知らず、地面に大の字の炭治郎の前に煉獄が現れる。呼吸の指南をする彼は、それを極めることで「昨日の自分より確実に強い自分になれる」と鼓舞する。

乗客乗員は全員無事。けが人は大勢だが命に別状はないと伝える煉獄。

悪夢は終わったのである。

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

最悪のシ者

そこに現れた招かれざる者。猗窩座(あかざ):CV石田彰。ついさっき魘夢が「異次元の強さ」と称した上弦のその参。ナンバースリーである。原作を読んでいるとき、筆者はマジで先ほどまでの展開を読みつつ「あーなるほど次から炭治郎継子編が始まるのね。それでついに炭治郎が柱への道が見えてくるのか……?」とか考えていた時のあの「襲来」には驚かされたのを覚えている。

また、劇場でもこのシーンには興奮させられた。何しろメインビジュアルや予告編に猗窩座は全く出てこず、もちろんCVのキの字もなかったため、「もしかしたら本当に魘夢戦までで終わりなのだろうか……?」と思ったりもしたほどである。パンフレットを開いたら一ページ目にCV付で載っていたので、見終わるまで封印していて本当に良かったなと思った。あの登場、そして第一声の衝撃は初見の特権であろう。これだけの巨大コンテンツとなった中で、少なくとも筆者の観測範囲ではフライングがなかったのには頭が下がる。他方、その手法故に「猗窩座グッズ」が全くないのが寂しいが……ロングラン上映になったら途中で解禁されたりしないだろうか。

その猗窩座の炭治郎への強襲にもひるまず的確な状況判断で技を繰り出す煉獄。腕にクリーンヒットし、真っ二つに裂けるもあっという間に再生してしまう。そして圧迫感と凄まじい鬼気。上弦たる所以である。

炭治郎という弱者は自分と煉獄の話の邪魔になるという猗窩座。彼は至高の領域に近く練り上げられた煉獄に彼としては敬意を表して鬼になることを進める。至高の領域に近づきながらも踏み込めないのは煉獄が人間であり、老い、死ぬからであると。鬼であれば百年でも二百年でも鍛錬が出来るのだからと。

煉獄は拒絶する。老い死ぬことも含めて人間は愛おしく尊く儚く、そして美しいのだと。そして強さは肉体にのみ宿るものではなく、炭治郎は弱くないと続ける。

交渉は決裂。猗窩座は術式展開「破壊殺・羅針」の構えを取り、足元に雪華が描かれる。柱と上弦の激突はニンジャ動体視力を持たない我々にとっては稲光のようなものだ。それでもそれこそ至高の領域である作画によって我々はその一端を覗くことが出来、そしてただただ息をのむばかりだ。何とか助太刀に行きたい炭治郎はそれを見透かされ、外ならぬ煉獄に待機命令を出される。

戦局は、互角に見えた。いや、互角だった。煉獄が放った斬撃は幾度となく猗窩座にダメージを与えたが、それはことごとく完治していく。対照的に煉獄は左目がつぶれ、あばら骨が砕け、内臓が傷ついてもそれらを回復する術はない。もとより長期戦は不利なのである。

しかしその段階に至ってもなお、煉獄の闘気は衰えることはない。そしてやけっぱちになっているわけでもない。再生が早いのであれば一瞬で多くの面積を根こそぎ抉り斬る技を放つのだ、という状況判断も働いている。

「俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!」

映画版の宣伝にも使われた言葉を放つ満身創痍の煉獄は気高く、まさに存在そのものが夜明けの炎刃である彼から炎の呼吸奥義・玖の型「煉獄」が放たれる。その煉獄の姿にますます歓喜する猗窩座は「破壊殺・滅式」で迎え撃つ。

轟音。猗窩座の腕に、肩に食い込む斬撃。土埃――

――みぞおちを猗窩座の拳に貫かれた煉獄の姿がそこにはあった。

圧倒的優位にある猗窩座はしかし、哀願するかのように煉獄に鬼になることを求める。

お前は選ばれし強き者なのだからと。

その言葉は煉獄に幼き日の記憶を思い出させる。強き者のノブレス・オブ・リージュとして弱き人を助ける使命があり、そのような強く優しい人の母になれて幸せだったという彼の母もまた、肉体的には弱くあったが間違いなく強く優しい人であった。

母に託された願い。自らの責務とした人を守るという気持ちが今ひとたび煉獄の心の炎を燃え上がらせ、猗窩座の頸に刀を突きたてる。その母から生まれたという誇りが、剣勢を後押しする。猗窩座が突き出す左拳をもう片方の手で受け止め、猗窩座を戦慄させる。いや、彼を戦慄されたのはそれだけではない。

陽光だ。もともと迫ってきていた夜明けは今や間近。鬼の始祖・無惨さえも克服していない太陽は猗窩座であってもひとたまりもない。一刻も早くこの場を去らねばならないが、煉獄は先ほどの呼吸の応用で自らのみぞおちに貫通させた猗窩座の腕を締め付けて離さない。煉獄と猗窩座、それぞれのすべてがぶつかり合う雄叫びは劇場を吹き飛ばしてしまうかのような迫力であった。

伊之助が弾かれたように飛び掛かる。が、一瞬早く猗窩座はその頸に煉獄の刀を刺したまま、陽光の差さぬ林の中へと駆けていく。それは撤退ではない醜態、逃走に筆者は感じられた。

安静を命じられた炭治郎も矢も楯もたまらず猗窩座へ駆け出し、自らの日輪刀を投げつける。太陽から距離をとることを第一にしていたこともあったのか、それは猗窩座の胸に深々と突き刺さる。

そこからの炭治郎の言葉はまたしても筆者のハンカチをしとどに濡らした。もしかして花江さんの前世は炭治郎だったのか? というくらいの言葉の細部まで染み渡っていく感じは是非未見の方は会場で体感していただきたい。

大正時代。夜の闇が闇としてあり、妖怪新聞すら未だ発行されていた怪異にとって最後の華やかなりし時代、いわば鬼たちのホームグラウンドで戦う鬼殺隊は生身の人間だ。同じ一人の人間が、血のにじむような鍛錬の果て、異形に挑み、二百人の同じ人間を一人も失わないという偉業を成し遂げた。戦い抜いた。守り抜いた。

それこそが勝利であった。そして鬼の、猗窩座の敗北なのだ。

炭治郎は叫ぶ。叫ばずにはいられない。

筆者もまた鑑賞しながら、そうだ、そうだとこぶしを握り締めながら涙を流し続けることになった。ほとんど嗚咽する寸前であった。

静止するのはほかならぬ煉獄であった。叫ぶと腹の傷が開く。それで炭治郎が死んでしまったら煉獄の負けになってしまう。今までで一番優しい声で炭治郎を諭すと、彼はヒノカミ神楽について、父や弟への遺言、そして禰󠄀豆子を信じることを話す。

炭治郎や伊之助、善逸に心を燃やし続けること、鬼殺隊の未来を託し、敬愛する母に労われ常に前を未来を、明日を見据えていた彼の瞳が細まって晴れやかな笑顔が見られ――。

炎柱・煉獄 杏寿郎。

無限列車の乗員乗客二百名を守り切り殉死。

享年二十。

皮肉にも鬼殺隊の太陽が昇天したとき、その背に後光のように太陽が照っていた。

今はただ、涙

残された隊員たちはそれぞれの姿勢で伝達された煉獄の死を悼む。笑って逝った煉獄の涙を引き受けたかのように泣き続ける炭治郎たち。善逸によると横転の瞬間いくつもの技を煉獄は繰り出し、列車を救ったという。もしかしたら、その消耗が無ければ彼は猗窩座に勝てたかもしれない。しかし同時に、その時炎柱でも彼はなくなっていたことだろう。

なんで上弦なんか来るんだよ、という全観客が同意したであろう善逸の言葉に続けて、悲しみとふがいなさ、悔しさ、自分が煉獄のようになれるか不安で涙し続ける炭治郎が大写しになる。筆者はスケルトンズの「ナミダライフ」を思い出した。

  こうなりたいよ気付かれたいよ捨てたいのはこの弱さ

そうなれないよ見つからないよ今はまだ涙

――スケルトンズ「ナミダライフ」より

以前はAmazonからアルバムが購入できたのだが現在は確認できなかった。機会があればぜひご一聴いただきたい。

そんな二人を叱咤するのは最も自然の摂理の厳しさを見せつけられてきたであろう伊之助。誰よりも泣いている彼の「悔しくても泣くんじゃねえ 信じるといわれたらそれに応えること以外考えるんじゃねえ」は痛切である。彼らの胸には確かに煉獄から受け継いだ炎が燃えている。

映画の開幕を引き受けた御屋形様・産屋敷が煉獄の労を讃え、映画は終わる。

煉獄は死んだ。もういない。その存在感故に大いなる寂寥に襲われるけれども、その遺した篝火もまた煌々と燃え続け、明日を照らし続ける。

時間を止めることはできない。さみしくとも明日を待ち、そして日々の成長を続けることこそが煉獄への弔いであり、鬼殺隊の本懐へ繋がるのである。

無限列車編ー完ー


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

途中ブリッジかジングルかみたいな感じに使ってしまったが(リスペクト先)、

www.jigowatt121.com

この「炎」がまた大名曲であった。令和の世で最も人口に膾炙した曲ではないかと思われる「紅蓮華」に続く曲、とんでもない重圧だったかと思うが、エンドロールで流れるこの曲を含めてこの映画は完全体であると断言できる素晴らしい作品だった。静かに立ち上がり、燃え盛る曲調とLiSAさんの歌声がこれ以上ないくらいマッチしている。梶浦さんとLiSAさんの手腕に敬服するばかりである。筆者も随分涙腺が緩んできているが、エンドロールで「追い泣き」するのは「ゴールデンスランバー」以来であった。

劇場の明かりがつき、恐らくは満員であった客席から整然と前から順に退出していく。皆涙に瞼を晴らしながらも、心には焔を灯していることが伺えるなんとも言えない表情をしていた。

同じく鑑賞した妻も最近は「鬼滅はね……一時ほどよりはさすがに落ち着いてきましたね」というスタンスであり、事実、会場前は限定版パンフレットのみに留めていたが、鑑賞終了後はショップに駆け込んでいた。無理からぬことであろう。

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今回妻がお迎えしたのは一番右。

 しかし妻、好みがブレない。敬意を表する。

あえてのオタクのわがまま

ここから先は原作8巻の映画化分以降のネタバレが含まれます(9巻以降はありません)

本当に素晴らしい体験をさせてもらった。感想記事を書こうとして、振り返る度に涙が出てきて記事が進まない、という体験は初めてであった。もう二度とあんな喪失感を味わいたくないという気持ちと、映画の力を全身でまた浴びたいという気持ちがせめぎあっている不思議な状態である。

あえて、本当にあえて言えば、原作8巻の残りまで収録しても良かったのではないか……と筆者は思うのである。序盤の夢の辺りは声優さんの力量により、もう少し短縮できるのではないか、とも……。

そこまで収録することで煉獄と猗窩座の対比、炭治郎の煉獄の遺志の継承者としての立場の明確化、ヘイトが溜まったままであろう煉獄父の救済がはかられ、よりすっきりしたのではないかと。今の御屋形様に始まり御屋形様に終わることも素晴らしいのだが……。

次回のTVアニメがいつになるかはまだ情報が錯綜しているが、待ちきれないオタクの妄言と思っていただければ幸いである。

ともあれ久しく無い経験をさせていただき、これまた久しぶりの一万字超えの感想記事となってしまった。やはり怪物作品である。

劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 ノベライズ (ジャンプジェイブックスDIGITAL)

紀本常務かわいそうです>< 半沢直樹「銀翼のイカロス」編最終話含むネタバレ感想

余談

とうとう「半沢直樹」が最終回を迎えた。

今回も予想を裏切り、期待を裏切らない展開を見せてくれた。

以下、原作の簡単なあらすじと、ドラマ版との違いを比較しつつ、速記的な感想を述べていく。

いつも以上に乱筆乱文となるであろうがご容赦願いたい。

本題

原作「銀翼のイカロス」ネタバレあらすじ

巨額の赤字を垂れ流し続ける「帝国航空」。東京中央銀行では業績不振に陥った取引先を担当する「審査部」が長年担当していたが、その歯止めをかけることが出来ず、中野渡頭取(旧S出身)半沢が所属する営業第二部にお鉢が回ってくる。

もちろん今まで担当していた審査部の曾根崎や審査部を含む債権管理担当常務である紀本(いずれも旧T出身者)は面白くない。

旧T出身者、新政権の人気者、専門知識のない白井大臣が立ち上げたタスクフォース、金融庁の嫌われ者・黒崎――それぞれがそれぞれの思惑で半沢を妨害する。

開発投資銀行の民営化に伴って債権放棄拒否を宣言する半沢。

しかし紀本常務が自らのクビをかけることで債権放棄に行内は傾いてしまう。

が、そのこだわりが半沢に帝国航空に関連する旧Tの暗部に思い至る。

旧知の検査部部長代理・富岡の協力を得て、新政権のフィクサーである箕部と旧Tとの黒いつながり、そして隠蔽されていた多くの旧Tの問題貸し出しについて証拠をつかむ半沢。

他方、紀本と同級生であった乃原はその旧Tと箕部との黒い関係を掴んでおり、紀本が使えないとなると頭取を直接脅しにかかる。

中野渡頭取は紀本常務と直接向き合い、牧野副頭取が選んだ自殺という判断は間違いであったこと、彼は一流のバンカーであった。だからこそ、生きて責任を果たし、今この問題について共に語り合いたかったと涙ながらに語る。紀本はついに観念し、旧Tの問題貸し出しについてコンプライアンス室に証言をすることとなる。

その裏側で半沢は再び債権放棄の拒絶を宣言。自らの銀行の恥部である上記の問題貸し出しについて公の場で発言、乃原以下タスクフォースの面目を潰し、白井、箕部の政治生命を絶つ。帝国航空の再建は企業再生支援機構へとバトンタッチされることになった。

全てが終わった後、中野渡頭取は退任を表明。富岡も関連会社へ出向が決まり、二人の尊敬するバンカーを見送った半沢は、その伝説を引き継ぐのが自らの使命だと胸に誓うのだった……。

ドラマ版感想:紀本常務がさすがに気の毒

以前の感想でも触れたし、上記あらすじを読んでいただいても分かるように原作では大和田が銀行を追われた後旧Tの首魁として君臨する紀本。牧野副頭取の棺に寄り添った腹心として「棺の会」という会を結成し、旧Sへの恨みの炎を燃やしている。

ところが、ドラマ版では元秘書の女将や中野渡頭取も旧T在籍者、棺の会メンバーであり、また牧野の忠実な部下という側面を女将に奪われてしまったばかりか、原作では一切触れられていない口止め料を自らの懐にしまい込むという描写まで追加されてしまった(このパターンは「ロスジェネの逆襲」の三笠副頭取と同じである)。これにより地位と金に恋々としがみつく情けない小悪党に成り下がってしまった紀本が同じ「きもと」としては不憫でならない。

極めつけは演者の年が違うから消滅したと思われていた「乃原と幼馴染」設定が小学生をいじめる中学生という形で再現されてしまうとは……。しかも小学生に手痛い反撃を食らってしまうし。な、情けなや……。

登場時は段田さんのスマートさも相まって、原作の「紀本」ポジションを大和田が引き受け、富岡のポジションを兼務しつつ中野渡頭取の後任を任されたりするオリジナル展開が――? と思っていたことが懐かしい。

ただ、最終話直前のカタルシスには大いに貢献してくれた。地下室での半沢アベンジャーズ勢ぞろいは原作にはないシーンだが、大変良かったと思う。

「信頼の砦」中野渡頭取の矜持

今回の「半沢直樹」は予告の使い方がべらぼうにうまかった。大和田が常務に復帰するのかと予感させたり、箕部に半沢が一喝されるのかと思わせたり――ミスリードが絶妙であった。筆者は先の台風で途中までの録画が吹っ飛んでしまったので、それが今確認できないことが残念である。

その真骨頂が最終回直前の予告。「三人まとめて千倍返しだ!」と啖呵を切る半沢。筆者も含め視聴者諸賢は「箕部と、紀本と……あとは誰だ?」と指折り数えたことであろう。乃原か? とも思ったが、一度はメンツをつぶしている。白井も同様である。と思いながら、本編を見ていくとなんとそのセリフが出るまでに紀本が屈服してしまった!

驚く我々をさらに驚かせるのはラスボスと目される箕部に取り入っているように見える大和田と中野渡の姿。さすがに半沢も動揺が隠せず、しかし信念を曲げることもせず、その場にいる箕部、大和田、中野渡に向かって言い放つ。「三人まとめて千倍返しだ!」と。まさかの引きに先週は動揺させられたものである。

が、真相は自らを犠牲にして証拠になり切らない書類を餌に、敵の懐に潜り込むのが目的であった中野渡。大和田はその駒となり本当の証拠探しに奔走していた。お前は小林靖子脚本の主人公かというくらい全てを背負った男、中野渡はその顛末を牧野の墓前で見届け、銀行を半沢に託して去っていく。原作でもそうだったように、この「銀翼のイカロス」編のもう一人の主人公と呼ぶにふさわしいラストシーンだった。

オリキャラ」大和田取締役の奮戦

散々書いてきたが今期のドラマ原作において大和田は一切登場しない。が、香川照之という稀代の俳優の恐ろしさ、今回もトレンドに入るのは大和田発信のものがほとんどであった。筆者としても彼がどう話を転がすのか、というのがドラマを見続ける一つの吸引力となったことは疑いがない。

原作の富岡の役割を補填しつつ、半沢とはトムとジェリー的な「仲良く喧嘩しな」なやり取りを終始続けてくれた。会議のたびに席次が上がっているのがポイントである。

頭取とは出身行が異なり、また平取締役であることからドラマオリジナルの展開として中野渡に後のことを託される、頭取じゃなくとも「大和田常務」に最終話で復帰するのでは、と考えていたが中野渡に殉じて銀行を去ることになった。原作と違い銀行を去ろうとした半沢へ最高の発破を残して。

彼とのやり取りから、本当は半沢の父を死に至らしめてしまったことをずっと気にしていて、そのためにがむしゃらに出世に突っ走ったようにも思えたのは筆者が今期のオリジナルキャラクターである大和田にほだされてしまった結果なのだろうか。

逆に言えばこれで原作とドラマ版の大和田の道は再び重なったわけで、今後の原作に行外の人間として登場することがあるかもしれない。

個人的には「頭取になったら土下座してやるよ!」が振りとなって、

CM明けにジョジョ5部のラストシーンみたいに椅子に座る半沢、目の前で土下座する大和田、みたいに時が飛んでいても良かったのだが。(窓を開けるのは渡真利)

白井大臣、笠松秘書、花。半沢世界の政治の希望。

原作では中身も知らずズケズケ物をいう素人上がり、という鼻持ちならない役割に終始する白井大臣だが、ドラマ版では自らの理念を持ち、花という「有権者」の後押しもあって「誠実」に振舞い、視聴者の留飲を下げてくれた。花も原作では登場しないが、誰も彼もが半沢にメロメロになる中、まさしく「本妻の貫禄」を見せつけてくれたし、テレビの向こうで政治を見ている有権者としての立ち位置が原作にはないものでドラマの厚みを増したように思う。彼女が白井大臣に託した「桔梗」は「麒麟がくる」の主人公、明智光秀とも縁深い花であり、そちらに出演していた内藤部長こと松永久秀吉田鋼太郎さんや、近藤こと足利義昭滝藤賢一さんへのエールでもある……というのは深読みしすぎだろうか。

笠松秘書も男気を見せてくれた。せいぜいセリフ一言二言、あっても「秘書が勝手にやったことです」で罪を着せられてフェードアウト……くらいに思っていたのでまさか大島さん、いや児嶋さんがここまでの活躍をしてくれるとは思わなかった。さすが名作保証人である。ラスト、ゼロからの出発となった白井元大臣と笠松のコンビは半沢世界の政治に希望を持たせてくれるいいシーンだった。

トミさんがいい味が出ているだけにもったいなさも

原作では筆者が一番好きなキャラクターがトミさんこと検査部部長代理・富岡である。さえない窓際行員だが半沢も一目置く優秀なバンカー、その実態は頭取の懐刀であった……というまさにサラリーマン水戸黄門的な設定を背負ったキャラで、原作では頭取とサシで飲むシーンなど実に味わい深いのだが、他のキャラクターに押されてしまった形なのが残念。頭取が去るシーンなどいてほしかった……。半沢は頭取とトミさんを銀行員の「光と影」であり、しかしどちらも彼が心から尊敬するバンカーとして原作では見送っているので、ラストに特に言及がないのはもったいないなあと思う。(誤解は解けたのだろうか)出てくるシーンはまさに筆者が思い描いていた「トミさん」だっただけに、ますますその思いは募るのであった。

黒崎と渡真利の女房役デッドヒート

原作より大幅に直樹…半沢に肩入れし、調査官を追われてしまった黒崎。部下に慕われていたこともわかるラストシーンは半沢の最敬礼も合わせ、忘れがたいシーンであった……としみじみしていたら紀本を追い詰めるために参戦してきたのには喝采であった。最終話でも箕部の資金を抑えるのに大いに活躍。役を外れたということで原作で最終的に帝国航空を引き受けることになる企業再生支援機構に収まるのかな? と思ったが特に言及はなかった。だったら最後に調査官に戻って部下が大はしゃぎしている(間につかまれる)シーンとかがあっても良かった。

こちらも原作以上に危ない橋を渡らせられまくる渡真利。半沢を頭取になるべきだという説得はしかし愛情の欲目で、筆者的には渡真利のようにバランス感覚がすぐれている人間が頭取には適任だと思うのだが……。

二人とも今回もキャラが大いに立っていたので今度スピンオフでもやってほしい。(半沢の最新刊「アルルカンと道化師」はもともと渡真利のスピンオフだったらしいし)

苅田

なんでいたのかよくわからない。近藤が役者さんが大河出演で出られないからバーターだったのだろうか。役者さんは良かっただけにもっとうまい使い方がなかったものかと思う。

見終えて

来週から暫く「半沢ロス」に陥ると思う。筆者がついていけるだろうか。半沢のない1週間のスピードに。

ドラマ「半沢直樹」原作 銀翼のイカロス: 2020年7月スタートドラマ「半沢直樹」原作

この世は舞台、人はみな役者――半沢直樹シリーズ最新作「アルルカンと道化師」ネタバレ感想

余談

細々とネットの片隅で展開しているこのブログだが、最近土日にやたら伸びる。

どうも「半沢直樹」の記事を多く読んでいただいているらしい。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 

 

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グーグルサーチコンソールでもって調べてみると、「半沢直樹 木本常務」でかなりのアクセスがあるようである。

みんな……!

きもと常務は……「紀本」だょ……! 「紀本 平八」ダョ……!

なかなかドラマで音だけ聞いていたら思い描くことが困難な苗字ではあるが。

ということでまさか、筆名「木本」仮名太が予期せぬSEO効果を生んでしまうとは思わなかった。人生の妙味である。

そんなドラマが大人気放送中の「半沢直樹」原作最新作が実に六年ぶりに上梓された。

前作「銀翼のイカロス」が上梓されたときは筆者は会計事務所勤務。銀行も割かし身近で楽しんで読んでいたものの、国を相手にした後となると次は世界を相手にするしかなくなるのでは……とそのインフレぶりを心配したりもした。「ロスジェネの逆襲」から家族の描写も少なくなり、半沢の超人化も進み、ここから次回作を展開するのはかなり難しいのではないか、と。

実際に長く間があき、続編は潰えたかと思った時にサプライズ的に書き下ろしで現れた「アルルカンと道化師」。それは言わば「半沢直樹・エピソードゼロ」であった。第一作、「俺たちバブル入行組」(ドラマ化前は半沢直樹シリーズは「オレバブシリーズ」と呼称されていたことが今となっては懐かしい)よりも前、大阪西支店時代の半沢直樹の話の幕が上がる。

本題

ということでここからは最新作「アルルカンと道化師」を含む半沢直樹シリーズの致命的なネタバレがあります。

一時間半ほどで一気に読み終えてしまった。月並みな言い方だが、ページを繰る手がもどかしいリーダビリティはさすがである。実際には前作までと同じく電子書籍で購入したので、スワイプがもどかしかった。

今回は「半沢直樹シリーズ」とはいうものの、どちらかと言えば池井戸潤先生の処女作である「果つる底なき」や「シャイロックの子供たち」を彷彿させるようなミステリ仕立てであることがそのもどかしさを加速させる。

そして謎の方に気を取られているうちに、半沢直樹名物の大仕掛けな「倍返し」の方の伏線がキレイに収斂していきあっと驚かされる――。

予想にも期待にも応えながら、しかししっかり読書のカタルシスを味わうことのできるこの感じをこれだけハードルが上がった中でも体験させてくれる池井戸先生には脱帽である。

アルルカンと道化師」を巡る悲喜劇

表題である「アルルカンと道化師」はもはや伝説となったアーティスト・仁科譲がその名を知らしめた一連のコンテンポラリーアート。仁科が突然自殺してしまったことにより、ますますその価値を高めたその作品がこの話のカギを握る。

半沢直樹が所属する大阪西支店の取引先、仙波工藝社にも仁科の「アルルカンと道化師」のリトグラフ(ただしアルルカンのみ)があった。その仙波工藝社に無理やり同行してきた大阪営業本部・伴野は普通に考えて常識的な人間はしないだろう、という買収ごり押しトークをして、社長や半沢を不快にさせる。

この買収案件は半沢の天敵で現業務統括部長・宝田が糸を引いていた。その宝田の同期が大阪営業本部副部長の和泉であり、こいつが懐かしの大阪西支店支店長・浅野匡と大学の先輩後輩の間柄であることから、岸本頭取が力を入れようと考えているM&Aを成功させて自分たちの出世の足掛かりにしよう――という待ってましたの声を上げたくなる「半沢悪役スキーム」である。

仙波社長は無礼な買収をはねのけるが、起死回生の策のはずであった企画展が頓挫。運転資金として二億円が必要となってしまう。経営計画を修正しようともするが、「社会意義」という言葉に甘え、今一つうまくいかない。我が意を得たりとばかりに再び近づく伴野が提示する買収価格は破格の十五億円。その買収相手はIT企業・ジャッカル。社長の田沼は生前からの仁科のパトロンであり、多くの作品を所有。現在自前の美術館さえ建築中という人物だが、仙波は自社の美術批評誌が特定の美術館の系列に入ることを社是である「論説な公平」を曲げることになるのではと葛藤する。同時に半沢は、宝田が獲得した顧客である田沼の意思に沿うために強引な買収を持ち掛けていたのだろうと納得しつつも、その破格の金額で田沼が仙波工藝社を買おうとする理由がわからず疑惑を深める。

仙波の思いを受け、あくまで買収を受け入れず、融資にて仙波工藝社を救おうと奮闘する半沢。だが連続赤字で無担保の会社が融資を受けるのは容易ではない。しかも、縁戚関係にある堂島商店の計画倒産に加担したのではないかというコンプライアンス上の嫌疑までかけられてしまう……(これまた王道の「宝田が手を回した」展開である)

その流れで半沢は仙波工藝社のあるビルがかつて堂島商店があったビルであること、そこに若かりし仁科が在籍していたことを知る。社長の堂島(現在仙波工藝社にある「アルルカン」のリトグラフは彼が購入した)が死の床でそこにある「宝」を仙波に託そうとしていたことも。

仁科はなぜ自殺したのか? 田沼が法外な値段で買収しようとする理由は? 「宝」とは一体何なのか?

それは半沢が堂島社長の遺品を組み合わせることで一気に収斂していく。カフェで見つかった巨額の価値が付いた巨匠の落書き。堂島商店のデザイン室で撮られた写真。その壁に映っているのは――アルルカンとピエロ。

その写真をヒントに倉庫となっている元デザイン室を捜索すると、そこには確かに現在高値がついている仁科の代表的モチーフにそっくりなアルルカンとピエロが壁に残されていた。仁科の作品であれば、価値にして十億は下らないだろう。

ここで筆者はなるほど! と思わず心中膝を打った。

「なるほどなるほど、このことを何らかの理由で知った田沼がそうとは知らせずこの作品を手に入れようとしていたわけか……もしかしたらこの価値をさらに高めるために田沼が仁科を……? ともかくこれで大逆転、倍返しだ!」

と。

しかし、壁に描かれたアルルカンとピエロの下の署名は仁科ではなく、写真で彼の隣に映っていた青年、佐伯のものであった。だが、描かれた時代は仁科がそのモチーフで世を席巻するはるか前……。

既に故人となっていた佐伯の故郷で半沢は「アルルカンとピエロ」のモチーフは佐伯がオリジナルであり、壁に描いたのも彼であることを知る。仁科はパリに修行に行ったものの行き詰まり、藁にも縋る思いで描いた「アルルカンとピエロ」で世に出てしまう。佐伯に謝罪する仁科だが、佐伯は病弱な自分では果たせなかったことを仁科が果たしてくれたことがうれしいと返事をし、そして翌月病死した。

ミステリ的に言えば「被害者が共犯」のパターンであることがこの現代美術の一大スキャンダルが長い間覆い隠されていた秘密であった、ということが出来るだろう。

仁科の死の真実。それはやはり自殺であり、恐らくはこの罪悪感が大きな要因となっていたことを半沢は察する。合わせて、佐伯の実兄が佐伯という画家を世に知ってほしいという願いと弟の仁科を守りたいという遺志を尊重したいという気持ちで揺れ動いていることも。

「宝」は幻となったが、その生きた証に魂を突き動かされた仙波社長は経営計画を練り直し、堂島未亡人の目にもかない、彼女が倒産からも守り通した物件を仙波工藝社の担保とすることを承諾してくれる。

しかしそれでもなお融資部担当調査役の猪口など宝田の息がかかった連中により怒涛の妨害が続く。このまま資金がショートしてしまうのか、買収を受け入れるのか……?

佐伯は歴史の闇に埋もれてしまうのか……?

人情の街・大阪

第一作でのラスボス・小物界の大物、大阪西支店長の浅野匡。それ以前の彼は……もっと小物だった。副支店長の江島も同様である。

人事部畑を歩いてきたエリートである彼にとって伝統ある祭り(という名の営業協力のお願い)はよりも上司に追随するためのゴルフの練習が重要である。

その代わりを押し付けられた半沢。いくら半沢と言えど支店長と融資課長では格が違う。祭りを支える長老方=根幹顧客たちはとうとう東京中央銀行に愛想をつかし、立売堀製鉄会長、本居竹清にならうように融資を引き揚げ、一気に百億近くの融資額が吹き飛んでしまう。

もちろん浅野は「おあしす」(おれじゃない あいつがやった しらない すんだこと)の精神で貫き通し、査問委員会にかけられるものの宝田以下根回しは完了。半沢がスケープゴートになるというデジャヴュなのか未来視なのかわからない現象が起こる。みんな大好き小木曽も登場だ。

が、実は浅野がゴルフ練習をしていたところは本居会長の旧知の場所。地道な活動を通じて社会に恩返しをしたい本居会長と信頼関係を築いていた半沢はその証拠を突きつけ、査問委員会では不問に付される。

一方、浅野も宝田の力でその場を切り抜けるが、それは宝田の思惑通り半沢が挙げてきた稟議を握りつぶし、仙波工藝社が買収されるように仕向けることを意味していることは明らかだった。が、半沢は見事担保を取り付けた稟議を承認するように迫る。宝田との工作をもっと上に暴露することをほのめかして。

結局、その場をしのぐために半沢の稟議は承認され、それによって今度は宝田の憤怒を買い、全店規模での「M&A案件の発表」に担ぎ出されることになる浅野。その対策は完全に半沢に丸投げである。お前……。

かくしてM&Aは失敗しましたと発表し、浅野と半沢は頭取の叱責と参加者の失笑を買うのか。またしても「半沢あるある」である半沢の出向話も持ち上がる。業務統括部長・宝田の力に一回の融資課長は手も足も出ないのか……?

大坂人情喜劇「アルルカンと道化師」

そして「アルルカンと道化師」を巡る悲喜劇と大阪の人情がラストに向けて、幸福なマリアージュを果たすのが池井戸節の真骨頂である。

まず出向話は人事部長・杉田のもとに宝田が仕組んだストーリーとは真逆の半沢がいかに取引先を思う銀行にとって有用な人物であるかを述べた本居会長と仙波社長の書簡が届いたことで粉砕された。小木曽、こんなんでどうやって今まで銀行で生き残ってたんだ?

宝田一派の怨念は全店会議に向かって燃え上がる。華々しいM&A成功案件が語られる中、大阪西支店はトリである。

壇上に上がる半沢。ジャッカルによる仙波工藝社の買収は失敗したことを述べる。ざわつく場内、勢いづく宝田。

そこに提示される買主・本居竹清財団、売主・田沼美術館、譲渡額五百五十億円の巨額のM&A案件。これこそが大阪西支店のM&A事案である。

仙波社長は言っていた。芸術には社会的意義がある。

本居会長は言っていた。社会に貢献したいと。

そう、彼が設立した財団が美術館を所有する、という伏線は劇中にさりげなく張られていたのである。

この美術館は常設展示として「仁科譲と佐伯陽彦展」を開き、佐伯は名前の通りの陽の当たる場所へついに躍り出たのである。

田沼が仙波工藝社を買収したかった理由はそこにある佐伯のサインが入った「アルルカンとピエロ」が世に知られ、自分のコレクションの評価額が暴落するのを防ぐためだった。逆に言えば、そのコレクションごと誰かに譲渡できれば、買収にこだわる理由はなかったのである。

そして宝田はそのことを知ったうえで美術館建築のための資金三百億円を田沼に融資した。価値が下がるかもしれないというリスクを知ったうえで。自分の実績を上げるために。銀行に対する重大な利益背反行為である。

こうして東京のエリートどもの思惑は大阪の人情パワーによって敗北し、宝田は自らが「敵に回すと恐ろしく、味方に回すと頼もしい」と評した査問委員会に無事かけられることになったのだった。

なお浅野支店長は全く反省していませんでした。これが変な成功体験になって後々ああなったんじゃないか、あいつ。

銀翼のイカロス」が牧野の遺書で始まったように、本書は仁科の遺書で幕を閉じる。アルルカン、道化師、ピエロ。似ているようで違う者たち。アルルカンはずる賢さがあり、ピエロは純真さがある。仁科は自分をそのどちらにもなれない愚かな道化師だと評した。

思えばこの作品はアルルカンになれなかった男たちの物語だとも言える。

半沢直樹は長いものに巻かれるアルルカンにはなれなかった。

仙波友之社長も買収に飛びつくアルルカンにはなれなかった。

宝田などこれほど滑稽な道化師はなかなかいないであろう。

しかし彼らはこの世という舞台において彼らにしかできない役を、少なくともこの「アルルカンと道化師」という一幕において見事にやり遂げた。そのことに筆者は万雷の拍手を送りたい。

蛇足

六年ぶりということを感じさせない見事な作品だったと思う。あれだけ人気が出た黒崎や大和田を安易に出さない点も良い。

半沢と言えば旧Tと旧Sの対立だが、現在進行中のドラマと原作とはポジションが違うため、混乱させないように今回はその点は影を潜めていたのかなと思った。「銀行の良心」杉田部長は次回作辺りでしれっと頭取になってたりしないだろうか。

言ってしまえば後付けなので仕方がないのだが、時代の寵児ジャッカルの関わるM&Aなら確実にマスコミも飛びついただろうに「ロスジェネの逆襲」ではそんな感じではなかったのは少し気になった。個人的には「追い詰められたキツネはジャッカルよりも凶暴だ」という名セリフもあることだし、業界同じだしフォックスとなんか関係があると思っていたら全くなかったのは勝手に肩透かしを食らった気分であった。

同様に「俺たちバブル入行組」では5億であんなに大騒ぎしていたのに今回は扱う金額が500億円越えなのもインフレが宿命とはいえ時間軸的にはうーん……と思ったりもした。

銀翼のイカロス」以降も書く予定があるということだが、審査部時代の半沢のエピソードもぜひ読んでみたい。ヤング半沢直樹、楽しみである。

半沢直樹 アルルカンと道化師