
2026年7月28日に熊本県を震源として発生した大規模な地震により、お亡くなりになられた方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様に心よりお悔やみを申し上げます。合わせて、被災されたすべての皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
週末かつ月末が金曜日という鉄火場で様々な業務の対応をする中、唐突にそれはやってきた。
音というのは全くほとんど魔法のようだといつも思う。空気の振動が、こんなにも感情を揺さぶる。
職場であらゆる端末から、緊急地震速報が鳴り響いた。それが早いか、、ゆさゆさと揺れる。いやな揺れ方だ。強く、長い。
避難誘導をしながら、待合室でもテレビから不穏な音が鳴り響いて耳に殴りこんでくる。すわ第二波と思いきや、先ほどまでの揺れの警報が地デジ放送のラグによって遅れて知らされたものだった。と、思いきや、やはり揺れもあった。
熊本で震度7。当地では震度5強。幸い取り立てて何か壊れたり崩れたり落ちてきたりということはなく、余震が続く中、なんだかずっと揺れているような気分のまま粛々と退勤した。帰路、みんな同じことを考えるようでガソリンスタンドは混んでいていつもより給油にだいぶ時間を要した。段々と明らかになる被害状況に心が痛んだ。つい先週、4歳児と弾丸で駆け抜けた高速道路の無残な姿に人の生死というのは本当に時の運だと感じた。
帰宅後、メイトが日頃から備えてくれている水など防災用品の確認をしていると、当人から声をかけられた。
「ひいじいじが亡くなった」
と。我が家はすっかり子ども主体で何事も動くようになることができたのかなってしまったのか、それはわからないがともかく親等も子どもを基準に考えるので、この場合の「ひいじいじ」とは子どもたちにとっての曽祖父、つまりメイトにとっての祖父であり筆者の義祖父であった。とっさに声が出なかった。
どうしようか――と言いかけて、飲み込んだ。どうしようもない。メイトの実家は広島で、今は新幹線も高速も機能不全の状態にあり、広島の空港から実家まではほとんど広島の端から端である(というか広島空港のアクセスがあまりに悪すぎる)しそもそも直通便がない。
「実家には帰れないことは言ってあるから」
既に筆者が考えるような逡巡は越えて、メイトはそのような結論を出してくれていた。もっとも縁が近い人間がそういうのであれば、無理強いをすることはない。義祖父を送ることにまつわる事務的な話をいくつかして、我々は床に就いた。ボリュームのある1日だった。
と思ったらまた揺れた。結局その日は夜中に3回ほど目覚めた。不思議と1歳児の夜泣きと連動しているようだった。何か地震の予兆のようなものを小さいときは敏感に感じ取るのかもしれない。深夜4時、夜泣きを鎮めるためにゆらゆら揺れていると果たして今地面はどうなっているのかわからなくなってくる。心なしか1歳児も寝つきが悪いような気がする。確かに揺れてビックリして起きたとするならその上でなんかデカいのに抱えられて更に揺らされると「なんだこいつ」と思うかもしれない。肩にかつぐように抱っこして反対の手で頭をなでているうちにようやく寝てくれた。すっかり汗をかいたので洗面所に行こうとしたときにまた揺れて、1歳児は泣く。どっと疲労が押し寄せるが、それでも寝床があり、オムツがあり、ミルクがある。子の泣き声と周囲を隔ててくれる壁がある。冷房が効いている。それらすべてがない状況にすぐ隣の県でこの子の同期は直面しているかもしれないと思うと、叫びたいような恐ろしさがある。どうにか2時間ほど寝て、出勤した。

高速道路が寸断されており下道が混むのではといつもより早く出たが、そこまでではなかった。高速そばの電光掲示板には見慣れたICの横に災害にて通行不可の文字。自分の通勤経路には特に隆起などもなかったが、すでに最寄りの物流は断末魔を上げていた。勤務先にも入荷未定のものが散見され、今日入荷しないということでリスケ、それによってその先もリスケ……と玉突き事故のようなパズルゲームのようなやりくりに忙殺されながら、本来の月末業務をする。月末が金曜日だったのでかえって諦めもついたのはせめてもの神の恩寵だったのか。電話している間にも余震があり、電話先と「揺れました?」「揺れましたねえ」と通常起こらない心理的距離の詰め方をしたりした。
ようやくひと段落して休憩に入ると、ニュース画面からひどくゆがんだJRのレールが目に入った。
「鹿児島はねええらい遠いなあ思うたもんでしたよ」
初めて義祖父とお会いした時、そのような話になった。義祖父は教師だった。修学旅行が鹿児島になり、引率をしたことがあるのだという。九州新幹線などはるか昔、普通列車の旅。かつてリレーつばめを挟んでの広島―鹿児島間4時間の旅も結構堪えたものだったが、果たして義祖父の時はどれくらい時間がかかったのかもちょっと想像がつかない。桜島の話、西郷隆盛像の話……義祖父の四半世紀以上前の記憶の引き出しから筆者が共感できるような話を取り出そうとしてくれる姿勢がありがたかった。
蓬髪の文字通りの好々爺という感じの方で、目元がメイトに似ていたが、不思議なことに義祖母とも似ており、長年の伴侶というのはやはり似てくるのだろうか……というのが初めの印象だった。書斎には本が唸り、80を過ぎてなお文芸誌を購読されていた。文学青年の端くれとして緊張しながらも色々な話をした。話している間ずっと笑顔を絶やさずいてくれ、どうにか「実家挨拶」というミッションをこなせただろうか――心中胸をなでおろした。
最後の最後、見送ってくださろうとしたとき、今まで見たこともない鋭い顔つきをされた。おそらく筆者が見ていたのも気づいていなかったろう。目線の先には新聞があり、子どもが痛ましい被害に遭ったという見出しがあった。そこに筆者は人生の大部分を教育に捧げた人の「子どもたちを守らねばならないという教育者の顔」を見て静かに感動した。
入籍ということになり両家顔合わせの席も義祖父のかつての教え子さんが経営されているお店だった。美味しさにわが一族は家族の絆どころか相争って皿の奪い合いに発展しかねない状態であったが、両親ともに義祖父を尊敬のまなざしで見つめているのが小籠包への欲望で目が曇った筆者からしてもわかった。
父は大学時代に、母に至っては小学生の時、それぞれの実父を失っている。お互い特に親戚づきあいによってひと世代早く、様々な社会的行事をこなしてきたことだろう。そんな二人にとって度量深い義祖父と縁ができたことは嬉しいことであったに違いない。
筆者も例外ではなかった。父母それぞれの父が二人が出会う前に鬼籍に入っているということは、当然筆者が生まれた時に血の繋がった「じいちゃん」は既にこの世になく、関係者からエピソードを聞くだけだった。さすがに声に出して言ったことはなかったが、おじいちゃんが欲しかった。お兄ちゃんの次くらいに。結婚してよかったということは色々あるが、「じいちゃんができた」というのは最上位と言っていい筆者にとってよかったことだった。(であればこそ、そもそも婚姻というものがたまたま筆者が異性愛者であるが故に享受できたメリットであることを既得権益者としてずっと考え改善していかなくてはならない)
思い返せば義祖父と直接会ったのは両手で数え切る程度で、しかしメイトと伴走し始めて10年、きわめてよく知っているように思えるのはメイトがよく彼の話をしてくれたからだろう。共有してくれたエピソードの中で特に好きなのは激動の広島を駆け抜けた生粋の阪神ファンであったということ。そんなことあるんだ。(義祖母はお手本のようなカープファン)欠かさずつけている日記は基本的に阪神の戦績表のような形だったが、メイトが生まれた日はその喜びだけが綴られていたこと。のらくろの同人誌を作っていたということで筆者としてはメイトのウスイホンクリエイターとしてのDNAを感じ取ったが、よくよく聞いてみると孤児で帰るところのないのらくろに家族ができてもうさみしくないという自分の浅ましい想像が恥ずかしくなるほどの優しい後日談を作成したという真相、暑がりの義祖母のために地域で初めてクーラーを導入したら完全に街の寄合所になってしまい、大変だったこと……。ユーモアあふれるエピソードで、自分の想像の中で若い義祖父が躍動していた。

「木本さんは、囲碁をやりんさるかね」と初めてのご挨拶の日、義祖母の絶品の干し柿を皆で頂きながら言われた。義祖父は囲碁も好きだった。碁会所へ通うことは晩年までエネルギッシュだったことの一因だったろう。筆者もヒカルの碁世代、なんとなく把握はしているものの、キャラクターが立っている将棋の方にばかり興味が移って、白と黒のシンプルだからこそ無限の広がりを見せる空間には呆然朦朧としてしまって身に着けることができなかったことをこれほど後悔したことはなかった。仕事の合間にアプリで勉強したりするものの、結局へぼ碁しか打てず、義祖父から譲り受けた教授書は解読する前に形見になってしまった。いつか石を並べてみた時、そこに義祖父を見出して泣くほどの力量を得ることはこの先も難しいかもしれないが、囲碁の勉強は再開したい。

4歳児にはまだ、ひいじいじが鬼籍に入ったことを教えていない。筆者とは義理であるが、4歳児にはまぎれもなく彼の血が流れている。これまたなんだか不思議な気持ちになるが、筆者ともメイトとも違う天性の人懐っこさを見るたび、戦後の混乱期に周りに人が集まったという義祖父の因子が発動しているのかもしれないと感じることがあった。
義祖父にとっては初めての曾孫で、コロナ禍が落ち着き満を持して広島の地を訪れた時、本当にかわいがってもらった。都合4歳児が会ったのは2回だったが、その度に並みの1年分以上の愛情を注いでもらった。既に足が悪かった義祖父が嫌がっていた杖をついてまで少しでも早く曾孫に対面しようと駐車場まで出迎えてくださったときは、曾孫パワーというものを言葉ではなく心で理解したものだ。
1歳児は対面することが叶わなかった。長子と同様、1歳になったしそろそろ……という矢先のことだった。長子よりも瀬戸内の雰囲気をその表情によく映す1歳児をどう可愛がってくれるのか、楽しみにしていただけにさみしさがある。
そのように日常のあちこちで義祖父を思い出しながら、8月の初め、義祖父が荼毘に付されたという知らせが義弟からあった。依然鹿児島はほとんど陸の孤島と化した状態で、とても参列できる状態ではなく、義弟に孤軍奮闘させてしまったことを申し訳なく思った。もうあの大きな掌がおれの手を包んでくれることは2度とないのだな、としみじみとした。
日常のリズムに余震のノイズを挟み続けられるまま、8月6日になった。この世からまた1人、あの日被曝し、そして力強く生き抜いた人が世を去った。鹿児島大空襲を、その後8.6水害を経験した祖母も亡くなって久しく、あの頃を知っている方々はどんどんと少なくなっている。義祖父はメイトにも筆者にも戦争や原爆の悲惨な話をすることはなかった。闇市でのハラハラする冒険譚や疎開先でたちまち少年たちの大将に祭り上げられたことの話をしてくれた。それは彼が筆者たちに説かずとも当たり前に戦争とはしてはいけないものであり、それを我々が理解しているという信頼の上に成り立っていたことだったと今になって思う。筆者も原爆資料館で見た光景を忘れることはない。義祖父は大変大きな人で、そのすべてを引き継ぐことなど小人の筆者には到底できまいが、当たり前のことを当たり前にし続けるべく努力は絶やさないようにしたい。彼はこのありさまを見なくて済んでよかった……ではなく、一緒にこの景色を観て欲しかったよ、という未来を作れるのは生きている我々だけなのだから。
それでもやっぱりさみしいよ、じいちゃん。



















































