余談
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前回の記事で触れたように、映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を観た。1人で観た映画としてはシン・仮面ライダー以来?
今年に入ってから観た映画は「ドラえもん」と「私がビーバーになるとき」で、どちらも第一子と見た。今後一緒に観ることが確定している(前売り券を購入済)のは「マリオギャラクシー」と「クレヨンしんちゃん」。アンパンマン映画はもう、大丈夫。とのことだった。あんなにアンパンマン(あんまんぱん)を連呼していたのに、(今でもテレビでやってたら観たりするのに)もう卒業なんだな……とちょっとしんみりした。ドラえもん映画は去年から、クレヨンしんちゃん映画は今年デビューである。(去年のボーちゃんのやつもかなり面白そうだったけどタイミング逃したんだよな~)
メイトとは昨年「ザファ」の復活上映を観たのが最後である。今年もあるといいな~。
近場(車で1時間弱)の映画館では映画鑑賞ごとに1pt、6ptで一回無料というキャンペーンがあって、複数人で観る場合一回の受付だと1ptだが都度購入すると(一緒に干渉する人との間に他人が割り込んでくるかもしれないというリスクが一応あるけど)その度に貯まる。つまり「ザファ」「ドラえもん」「ビーバー」で丁度一回無料で観られることになっていたので、「家族のいる男がひとりで家庭も顧みず前売り券も買わずに(正直今の子どもたちのハチャメチャ具合だと2時間半も休日離脱するなんて不可能だと思って前売り券は買わずにいたのだ)高い金を払って映画を観ている」という状況はひとまず免れたわけだ。
ドリンクやポップコーンはとても蠱惑的だったし日頃「映画館を支えるためにそういうのはなるべく買いましょう」という言説に従ってもいたが、今日に限っては我慢することにした。すっかり、誰かと分け合うポップコーンでしか自分の食べる量がわからなくなっていたのだ。
そうなると途端に時間が余ってしまい、開場までの間、駐車場をぐるりと一周したりしてそれでも時間が余ってもう一周――まるで周回軌道みたいに――としたところでようやく入場。淡い期待だったがやはりワッペンは配布終了しており、俄然「大作映画」を観るぞ、という気持ちになってくる。
配給のタイミングなのか、3種類くらいの映画の予告編を繰り返し繰り返し見た後、「ひょっとして、ループしているのか?」と疑いだす頃に、画面は宇宙を映し出し始めた――。
本題
余談が、ながくなった。
ということでここからは「プロジェクト・ヘイル・メアリー」原作・映画の区別なく、一切配慮無くネタバレを致します。
久々の2時間半という長丁場映画、しかしそんな時間は全く感じさせなかった。そのスピード感のために原作から削られた描写もあったし、余韻のために新たに加えられた描写もあった。
ただ、原作を読み終えた時、勿論傑作SFを読み終えた! という充実感や忘れ難い余韻を味わいながらも、心中に引っかかっていたものは、映像化にあっても残念ながらそのままだった。
変則的な構成だが、時系列とかそういうことを丸っと無視して、映画原作問わず、プロジェクト・ヘイル・メアリーにまつわることで筆者が気になった順にトピックを挙げて書いていきたい。つらつらと書いてしまうといつまでも終わらなさそうなので。
教師グレースの残していった生徒たちについて
原作でも映画でもず~っと引っかかっていたのはこれだ。原作のグレース先生、大好きだ。今からあの言葉を言ってしまう……かつてそれを言っていた大人たちに冷たい視線を向けていた子どもだったことを忘れて……。
「あ~ 子どものころにこの本読んでたらなあ そしたらもっとちゃんと勉強したのに」
言ってしまった。さておき、大好きだ、原作のグレース先生(同じことを倒置してさらに強調するな)本人も述懐していたように子どもたちは大人が本気なのかフリなのかわかってしまうもの。原作のグレース先生は生徒に全力で向き合ってくれているいい先生だ。新しい知識を仕入れて「明日はこれを生徒に教えちゃお!」となってくれる先生、よすぎるよね。
だから……。原作でも映画でも万感がぐーっと迫るラストシーン……。グレースが「生徒」たちに、彼らの前世代の勇者たちが尊い命を散らした遠因でもある相対性理論についてクイズを出す(そしてみんなが理解している!)シーンが素晴らしければ素晴らしいほど、筆者はグレースが地球に置いてきたかつての生徒たちのことを思ってたまらなくなってしまうのだ。地球の「未来」「可能性」そのものの彼ら。少なくともグレースが目覚め、「真相」を知るまで、途方もないミッションに挑んだ動機の一つとして、支えとして、彼らはあったはずだ。
原作で生徒に言及されるのは帰路に着き、異常を発見するまでの間が最後。みんなに生き延びて欲しいがそうもいかないだろう――という思考の末、「深く考えるのはやめよう」となる。
映画では早々に生徒たちの言及はなくなってしまう。そもそも、生徒たちへの指導からしてなんだか今一つ覇気が無い。「学界を追われ、仕方なく腰掛けでやってます」という雰囲気がある。原作におけるアストロファージやペトロヴァライン周りの解説を生徒に振られて(仕方なく、という感じ、ちょっと解釈違い!)説明するなど脚本の工夫は見事だが……。
書きながら気づいたが「教師グレース」の象徴である「地球」をロッキーにプレゼントするのってアシタカがカヤちゃんからもらった首飾りをサンにプレゼントするみたいだな……。
ちょっと話がそれた。原作、プロジェクトヘイルメアリーが成功した(太陽が元の光度を取り戻した)時、筆者はその成し遂げた人たちの中にグレースのかつての生徒がいて欲しかった、というかいたと信じている。(地球上で経った時間のことを思えば、そうなっていてもおかしくはないだろう)できれば、それをグレースの旅立つまでが描かれた時のように、カットバック形式でサラッと書いてほしかった。我々読者は知り、グレースは知ることのない、彼が地球に残してきた意思が、知識が、ちょっとした屁理屈や時々使いどころを間違えるユーモアが、しっかりと息づいていることを教えて欲しかった。だって、あとからまた書くかもしれないけど、この物語は宇宙の果てでロッキーというスパダリに会ってなんとかなったぜって話じゃなくて途方もない積み重ねの尊さを知らせてくれる物語だと思っているので。
そういう意味で、映画の授業シーンではさっき述べたような解釈違いこそあったものの、プロジェクトヘイルメアリーに関する要素に対して異様に食い下がる生徒が出てきて伏線では? と期待してしまっていた。
果たして、映画では追加シーンで「ビートルズが到着した地球」がほんの少しだけ描かれる。今だ! 冒頭の生徒が成長して登場するチャンス! と思ったものの、残念ながらそういったことはなく、地球上での「グレースが教師として生きた証」が示されるチャンス、筆者が観たかった風景はやはり展開されなかった。
小説を読んだとき、久々に学ぶこと、新しい知識を得ること、既存の知識を組み合わせて困難な命題に取り組むことの楽しさを味わうことができた。それは間違いなくグレースの語り口あってのことだったし、そういう教師の天性があるということを作者のアンディー・ウィアーとしても伝えたかったのだと思う(だからこそあのラストシーン)ので、いっそう、観たい風景だった。
「その後の地球」について
その追加シーンについて。
筆者は劇場で観た時、「現実の世界だったら多分飛び立って持って二三年で一回地球が超混乱してストラットはよくて更迭悪くて処刑されてそうなので映画の世界は民度が高くて素晴らしいな」と思っていたのだが、監督によるとやっぱり数年で世界は混乱してストラットは終身刑になったけど脱獄して逃亡しながら世界を救う旅を続けているんだって。(タトゥーは終身刑・仮釈放なしを示す)そこは何とか劇中で説明しとこうよ!
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ちょうど今Xで「インフラ系ヒロイン」という言説が広がっていてその意味するところはよくわからないけれど管理者権限系ヒロインであるところのストラットは原作ではある種裏主人公的な印象のある人物で、人類を(できるだけ多く)救うという目的のための自身の考える最短距離をズバズバ突き進んでいく様はグレースが様々な仮説を立てては失敗し、挑戦しては試行し、飛躍しそうになったら踏みとどまる「善き人」であるだけに一層鮮やかで一種痛快ですらある。
ただ、彼女にはその資質があるけれど本性ではない。役割(ロール)を演じているのだ。
「わたしが大学でなにを専攻したか知ってる? なにで学位をとったか?(中略)歴史よ。歴史専攻だったの(中略)たいていの人は科学か経営学専攻だろうと思ってるけど。あとはコミュニケーションとかね(筆者注:すごいユーモアだ。後略)」
――プロジェクト・ヘイル・メアリー下巻274Pより引用
核を用いての地球温暖化、湿地を破壊してのパネル設置、沢山の知的財産権の侵害、そしてグレースへの死への片道切符の強制――冷酷な科学の権化として君臨していたストラットは元々は歴史学者。それを知ると、合理的ではあるけど極端な先述した数々は本来専門家でない人が「そうあろう」として必死に大げさにやっているようにも見えてくる。
ストラットは賢者だ。歴史から学ぶ。その結論の到達点がグレースを犠牲にすることだった。しかし一方で歴史というものは先人や自らの経験値を積み重ねた人々がちょっと(あるいは、すごく)はみ出していくことで変えてきた。グレースがそうであったように。
これまた追加シーンのカラオケの歌唱は映画のハイライトの一つだろう。そもそも映画ではそれまでのストラットの「悪行」はかなりマイルドにされているけれど、彼女の人間性を感じさせるのにとても効果的なシーンだった。なんか爆発直前のシーンではグレースといい感じだけに、そこからの原作通りの急転直下が悲しい。
自分が役割を演じているからこそ、同様に演じてくれないグレースに一層当たりが強くなってしまったのかもしれない。
演じるといえば、エヴァ・ストラットという人物にザンドラ・ヒュラーをキャスティングした人はすごい。超大作を二時間半に収められた理由の半分はキャスティングだろう。とりわけザンドラ・ヒュラーとライアン・ゴズリングの演技、特に目の表情の巧みさは時に百万言より雄弁で、観る側に説得力をもたらしてくれた。ロッキー役のエリディアンについては残念ながら筆者は今まで把握していなかったが、今後引っ張りだこになることは間違いあるまい。
おっと、やっぱり話が横道に。残された側、しかしどっこい生きているストラットがグレースがビートルズに託した映像を見る、この時の目! 素晴らしい。彼女が歴史から導き出した「賢者の論理」を、ほぼ間違いない人類の滅亡を、見事打ち破って見せたグレースへの心地よい敗北を味わっている視線。最高なのだが、しつこいようだけどストラットにはグレースの「生徒」にも心地よい敗北を喫して欲しかった。
あの映像のどこかでグレースが本人も特に意識せず、「クイズ」を唐突に出してストラットの後ろから笑顔でかつての生徒が答える、その表情にはストラットに対して「どうだ」という、自らの師の功績を誇る色がある――そんな風景が観たかった。
あと、せっかくビートルズなんだからあのシーンは「ヒア・カムズ・ザ・サン」流してほしかったな~。
Here comes the sun, doo-doo-doo-doo
Here comes the sun, and I say
It’s alright
Little darlin’, it’s been a long, cold, lonely winter
Little darlin’, it feels like years since it’s been here
Little darlin’, the smile’s returning to their faces
Little darlin’, it seems like years since it’s been here
Sun, sun, sun, here it comes
Little darlin’, I feel that ice is slowly melting
Little darlin’, it seems like years since it’s been clear
It’s alright
太陽が戻ってくる
もう大丈夫さ
長く孤独な冬だった
こちらに来てからずいぶん長いこと経ったみたい
みんなに笑顔が戻るだろう
ずいぶん長いことかかっちゃったけど
「陽はまた昇る」ってやつさ
氷河期だって終わる
久しぶりに「晴れ」を思い出そう
もう大丈夫だからさ
――Beatles「Here comes the sun」より引用。和訳は映画版「プロジェクトヘイルメアリー」を踏まえて筆者が好き勝手やったもの。
逆に言えば、この他にも「チケット・トゥ・ライド」だったり「ゲット・バック」だったり筆者のような凡人であれば色々入れたくなってしまうところ、あのように絞るのがやはりプロの技、ということなのだろう。
「ネタバレ厳禁」の功罪
一番言いたかった「いや地球の生徒わい」ということを書いていたら5,500字を超えていてさすがに少し落ち着いた。ところで、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」については「ネタバレ厳禁」と言われ続け、映画のプロモーションも直前まではフォローした人にリプライを送るという前代未聞の形だったりした。
筆者も例にもれず、先人からネタバレを踏まないようにと言われ、そのようにした。電子書籍だったので残りのページ数とかで展開を予想したりとかもせず、純粋に文章を追いかけていられた。
読み始めた時の感想は「すべてがFになる」を初めて読んだ時を思い出した。何か賢そうな独白があり、文章空間のイメージとして「白い」がある感じ。
「信頼できない語り手」が信じられないようなことをどんどん言ってくるし、置かれた状況がとんでもないことが語られる。少しずつ語り手と読者の知識や前提条件が繋がっていき世界が輪郭を確かにしていく頃に訪れるファーストコンタクト。
これかあ~~と当時思ったものだ。こりゃ確かに知らずに読んでほしいわ。あ、そっちのジャンルもやってくれるの!? という嬉しさというか、サービス精神旺盛さというか。
ただ、これは上巻の大きな大きなハイライト、筆者は下巻でも何か「ネタバレ厳禁」な何かがあるに違いないと警戒し、そちらに神経を配るあまりタウ・セチでの大冒険には熱中できていなかったかもしれない。
映画と同様に原作も地球でのできことが時系列順に段々と近づいてくる、ここに仕掛けがあるのだろうとは思っていて、(このカットバックはとても映像的で「ネタバレ厳禁」ではあるけど「映像化不可能」とは全く思わなかった)
・ヤオとイリュヒナをグレースが殺害したのをそのショックで自ら忘れている
・本当のグレースは既に死んでいて、語り手のグレースはクローンまたはアンドロイドである
のどちらかだと思っていたのだが、下巻の大ネタとしては恐らく「グレースは自分の意志で搭乗したのではない」という部分だったのだろう。確かにすっかりグレースに感情移入していたのでショックではあったけれど、個人的には想定を超えてはこなかった。
映画から観た人には「それで、なんであんなにネタバレ厳禁って言われてたの?」ってなるのも無理はないだろう。予告編でロッキーがバリバリ出てくるし。個人的には予告では「何か(ブリップA)の影が映る」くらいでよかったんじゃないかなあとも思うが、このロッキーフィーバーの前にどちらがプロモーション的に正しかったなんて言うまでもないだろう。もう少ししたらロッキーが表紙にめちゃくちゃデカく載っている文庫版とか出るんじゃないか。
筆者的にはネタバレに対しては「公式がTwitterで話題にしたらある程度言及していい」くらいの気持ちでいるが、あまり過度に言われるとハードルが無限に上がってもしまうので難しいな、と感じた。それこそ「シン・○○」系も色々大変だったネ……。
友情に振るのは分かったけどそれにしちゃあもったいないことをしている気がする
その「ネタバレ解禁」も今は昔、ライランド・グレースのイニシャルがライアン・ゴズリングと同じでアテ書きの「におわせ」だったという話がフツーにTLに流れてくるくらい大ヒットしているわけであるが、さっきもちょっと書いたけど確かにグレースだ! という実感がすごかった。筆者は地元のゆかい温泉施設「スパランド裸・楽・良」を思い出してしまうこともあり「ラ・ラ・ランド」は未見なのだが、観たくなってしまったくらいだ。長大な原作を支えるグレースの独白が圧縮された彼の表情、とりわけ目の動きは――ザンドラ・ヒュラーの時と同じことを言っているが筆者のような人間にもわかるくらいどちらも多くのものを内包している目なのだ――たまらない。
動きとしては隔離されながらアストロファージが生物であることを突き止めた時、ロッキーが恐らく彼にとってのヘイルメアリー・パスとしてキセノナイトでメッセージを託した、それを宇宙空間で受け取った時のガッツポーズがそれぞれ特に印象に残っている。
少し残念だったのがロッキーとの出会いで最初は「恐怖」が勝っているようだったこと。原作は地球のみんな、すまねえ。でも目の前にファーストコンタクトがぶら下がってるからよ……! くらいのぶち上りっぷりだったので余計に。(それでまた、読者としてもいやあ、いくっきゃねえよな! ここはよ! みたいな気分にさせてくれるのだ)ただ、宇宙船の追いかけっこはシュールで面白かった。
そこからの「バディ」ロッキーとの出会い、これまたたくさんの積み重ねと試行錯誤で意思疎通する原作の面白さは減ってしまっているけれどロッキーの「視界」は映像ならではの凄味を感じたし、自分の動きをトレースしてくれるロッキーから去りがたいグレースの仕草に彼らそれぞれの孤独を思い、しみじみとさせられた。ロッキーがいかにして一人になりそこから孤独な時間を過ごしたかも、原作の放射線の恐ろしさよりも「エモ」に比重が置かれていたと思う。映像で宇宙空間の果てしなさがこれでもかということ描写されるだけに、一層響く。
そこからのいわば日常パート、タウ・セチでの息の合った連携とそれぞれが命懸けでの相手へのフォロー……映像美の真骨頂だ。特撮の意地というのも見せてもらったように思う。
ただ、死を半ば覚悟していたグレースへのロッキーの「アストロファージあげるよ」周りがちょっと軽いかなあ、というのはあった。
相対性理論や放射線を知らないために必要量以上のアストロファージを積み込み、クルーが犠牲になってしまった、しかし、その「無駄な」アストロファージがグレースを救うことになる禍福は糾える縄の如き展開、死を覚悟していたグレースが思わずあふれ出す安堵の感情……。それらはライアン・ゴズリングの特級ハグによってエモに包まれ深い感動となるものの、もう少し前段の「その手があったか!」感も含め、描写があっても良かったなと。
禍福は糾える……と言えば、その決死行で無事得たタウメーバのコントロールのために大活躍した窒素は爆発事故によって搭乗できなかった正規科学者デュボアの自殺のための用品だし、(なんで積みっぱなしだったのかは不明、グレースはああいう乗せられ方だったので文字通り死に方も選べなかったということなのだろうか)それまで無敵で素敵な超技術だったキセノナイトが地球を救うために進化させたタウメーバの前には全く無力になってしまったりといった展開の目まぐるしさも薄れてしまっていたのは残念だった。
命を懸けて得たそれぞれの故郷を救うアイテムをそれぞれの知恵と技術を持ち寄って増やし、それぞれの必要分を分かち合って永遠の別れを交わす――あとは凱旋したグレースが「学界を通報された俺が世界を救う英雄となった件~ESA長官が謝ってくるけどもう遅い~」する様がエピローグ的に描かれていくのかと思いきやエラーが発生し、対処はしたもののこのままでは親友の宇宙船が大きな棺桶になってしまうと知った時の衝撃。
原作を読んでいてもここのショックが一番大きかった。片道切符の旅で、でも帰れるかもしれなくて、実はそもそも無理やり生かされてて、ミッションをやり遂げられるかもわからなくて――でも、できた。
後は帰るだけ。英雄になるだけ。凱旋。
自分だけは。
友人は? 死ぬ。
そんなことってあるのかよ。
映画はその前に「そんなカス母星なんて捨てちまえよ!」と言いたくなるように最悪の真実がこのタイミングで告げられたりするのだが、原作ではグレースは生き、ロッキーは死ぬ、あるいは、その逆。例外はない。という残酷で冷たい方程式が淡々とわかりやすく語られ、読者はただそれでもどうにかならないかと祈るようにページを繰る。
そして、グレースはロッキーを助けに向かう。すなわち、自らが死ぬことを決断する。それでも母星には義理を果たしてビートルズたちを旅立たせて――映画でのこのシーンは本当に素晴らしかった。
ただ、特に映画では直前に情けなく死にたくなくてわめく無理やり乗せられるグレースがいたからこそ、「改めて自分で片道切符を選択する」グレースの覚悟をもっと感じたかった。自己犠牲とかではない――恩寵(グレース)――結局のところこの物語は史上最大規模のラブストーリーなのかもしれない。(エヴァ=イヴであったり、ロッキー=ペトロであったり聖書的な下敷きが用いられるのは洋画では珍しくないが、こういうのを見るたびに聖書をちゃんと読まないとなあと思う)(なんでロッキーがペトロになるのかはゴールデンカムイを読めばわかる)(なんでだよ)
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もちろん、再会からのハグは最高だった。それだけに、そのためにグレースが何を差し出してそこまでやってきたかをもっと伝えてきてほしかった。映画の組み立てならなおさら。
極めつけは禍福は糾える縄の如しの最終着地点――死の覚悟を決めてやってきたブリップAに大量に貯蔵されている憎き? 変異型タウメーバを食料とすることでグレースも生き延びる目算が経つ――という大いなる隣人愛が還元される帰結が映画でははっきり示されなかったのも残念だった。トロッコ問題なんて関係ねえ! だっておれたちはトロッコじゃなくてヘイルメアリー号とブリップAだから問題ごとぶち壊してまた構築してやっていくぜ! というあの思考の死角を突かれる感じ、味わいたかったぜ。
おわりに
なんとここまでで9,400字になってしまった。3,000字くらいでサクッと書くつもりだったのに……。ここまで読んでくれた方、どうもありがとうございます。
あとは流れの中で言及し損ねたけど書いとかないと一生外に出さなそうな感想を脈絡なく出力して終わりにします。今までもそうか。
仮にメアリーと呼ぶけど、あのヘイルメアリー内のシステム、よかったなあ~。「怪盗クイーン」シリーズのRDや「ウルトラマンジード」のレムを思い出させてくれた。フツーのSFだったら相棒ポジになっていると思う。なので映画ではエリドでも元気にやってる姿が観られて嬉しかった。
ほんとにのっけのヤオとイリュヒナ、泣かされましたよ。こればっかりは原作既読の特権かもしれない。特に規律正しいイメージのヤオがお子さんと一緒に変顔している写真……本当に素晴らしいカットだった。彼の人生、大切な者たち、それを守るために自らが死地に向かう覚悟、たった1枚の写真でヤオという人間を理屈ではなく精神(こころ)で理解できた気がした。あれで「この映画、いいぞ!」早速確信が深まった。
正規科学者と副科学者、デュボアとシャピロ。あまりに単純なミスで飛び立つことが叶わなかった二人。――本当にミスなのだろうか? そもそも万が一を防ぐためのバックアップなのにどうして二人ともその場所に? 離れて別々の場所にいることがリスクヘッジなのでは? 恋人同士だったから? あれはもしかして二人の心中ではなかったのか? そもそもストラットが上記のリスクヘッジを見逃すだろうか? 推論に推論を重ねてしまうけど、あの時点でのストラットはグレースが本当はヘイルメアリー号に登場したいと考えていて、二人の心中を見抜いてはいたけど席が空くから見過ごしたのでは……? というのはさすがに陰謀論過ぎるだろうか。
ロッキー、流石に可愛すぎる。もっと渋い声でもよかったかなあ。(動きとギャップが出て)最後のシーンがどれくらい経っているのかよくわからないけど、エリドまでの旅の間も二人は相当話をしたろうし、いまだにカタコトっぽくなっていたのはちょっと解釈違いだった。
コミカライズも予定されているようで、楽しみである。10,000字超えてしまった。誰かに届けばいいなと願い、インターネット宇宙にこの文章を投げたいと思う。Hail Mary!