先日述べたように、NHK正月時代劇「風雲児たち 蘭学革命編」が大変素晴らしかった。
見逃した方はNHKオンデマンドで絶賛配信中です。
大変素晴らしかったことは大前提として、演出上仕方なかったとはいえ、カットされてしまったいくらかが気になり、また選り抜き版「風雲児たち 蘭学革命編」も人に薦めた手前自分でも買ってみてここで切るのか……と思ったりもしたため、そう言った徒然を綴ることにする。
- 中川淳庵のあれこれ
「風雲児たち 蘭学革命編」は極端に言ってしまえば杉田玄白と前野良沢の、拙速と巧遅の対比の物語であった。その結果、中川淳庵が少々割を食ってしまっている。
真田丸の直江兼続と対照的なコミカル寄りの演技を見せてくれた村田新悟さんに解体新書の朗読をして欲しい、とまではさすがに思わないが、原作では杉田・前野・中川の三人の解体新書、という印象があったので少し寂しい。(杉田・前野の訣別を判り易くするためか、時代劇版では前野宅へ一人中川が完成した解体新書を渡しに行くが、原作では杉田も同行し、三人でひしと抱き合うのである。また、それ以前にも読み分けが進むたびに三人で抱き合う描写がある)
時代劇版は最初と最後に杉田の還暦と前野の古稀を祝う時間軸を描く。そして二人の抱擁で物語は幕を閉じる。中川は、その場にはいない。およそ八年前に病没している。
原作での彼を大槻玄沢が見舞い、その後激昂するシーンは名場面の一つである。
大槻玄沢(杉田玄白と前野良沢からとって改名した一関藩出身の蘭学者。のち解体新書を改訂する)は当時の最先端である長崎から帰国し、病床の中川へツンベリー(スウェーデンの博物学者。出島で医師をしていたこともあった)からの手紙を届ける。中川のオランダ語は外国人と往復書簡をするレベルにまで達していたのである。しかしながら、中川自身はとうとう長崎にはいくことかなわず、またさらにその先の外国にも行くことが出来ず、(この時前述のツンベリーは既に帰国している)鎖国の愚を大槻へ愚痴る。
大槻はその足で杉田を訪ねる。杉田によると、大槻は仙台藩(一関藩からすると本家にあたる)が取り立てようとしているといい、喜ぶ。「長崎でオランダ医学を修めたこと」はブランドなのである。
しかし大槻は憤る。普段温和な男の魂の叫びである。
外国を嫌って鎖国をしているくせに
外国の学問をしている人間をありがたがるんですか
そだらばかなはなしコさあるか~~~っ
なじょして鎖国なんかするべか~~っ
(リイド社刊:「風雲児たち ワイド版 8巻 274ページより)
ほどなく中川は四十六歳で病没する(癌であったという)
「鎖国の愚」は「風雲児たち」において重要なテーマの一つである。幕府や諸藩のどうしようもない自己矛盾に翻弄される叫びが赤裸々に出ており、印象に残る。 また、中川と桂川甫周(時代劇版では女体への異様な執着が印象に残ったが)とツンベリーとの文通は「風雲児たち」における重要な伏線となっているため、中川の扱いが控えめになってしまったのは残念であった。
- 前野良沢と藩主、また宣伝ポスターのあれこれ
終盤、前野は藩主・奥平昌鹿と対面する。時代劇版では藩主は前野が藩の予算で長崎で買った本こそが巷で評判の解体新書であり、その翻訳に尽力したことを見抜き、そのことを告げる。前野は藩主さえ分かっていてくれればと報われる思いとなる。美しい主従。名場面である。
それでも、原作を読んでいるともったいない! と思ってしまうのである。
なぜか。みなもと太郎先生はここで杉田玄白も救っているからである。
原作では藩主が前野が解体新書に大いに貢献したことを推薦文によって知る。小日向さんが演じたあの大通詞が書いた推薦文である。
そこにはこう書かれているという。
杉田玄白氏のいうには
「私ははるかにかたじけなくも
前野先生の教えを受け従いて解し従いて訳し……」
(リイド社刊:「風雲児たち ワイド版 6巻 18ページより)
前野が作中で感激しているように、推薦文まで目を通す人は少ない。
翻って考えれば目をつけられにくい場所で、しっかり杉田は解体新書は前野の功績であると宣言している。杉田は己が解体新書の手柄を独り占めしようとして前野の名を削除したわけではなく、またそのフォローを出来うる限りしようとしていたのだ、ということを読者はここで知ることが出来る。勿論、劇中を追っていれば杉田が目先の手柄に目がくらんでいないことはわかるが、改めて客観的に証明されるということで読者に杉田という人間に対しての安堵を改めて与え、そう描写されることで杉田自身も救われているのである。
ラストシーンの抱擁に繋げるためとは思うが、残念な改変であった。
しかもこのシーン、選り抜き版「蘭学革命編」には掲載されていない。(最後に収録された話の次の話となっている)源内のモノローグという特殊な語り口のせいかもしれないが、杉田が名声だけでなくやっかみもすべて引き受けているなどが描写されてもいるので、せめて蘭化と名乗るところまでは収録してほしかった。
歴史大河ギャグ漫画『風雲児たち』著者・みなもと太郎
— リイド社広報室[公式] (@LEED_PR) 2017年12月25日
2018年NHK正月時代劇にて実写ドラマ化!
特製ポスター全8種一挙大公開!!#風雲児たち #前野良沢 pic.twitter.com/nUxN3uyoBO
もう一つ残念なのは、このポスター。原作、あるいは時代劇版を見た方なら戸惑うに違いない。勿論、信念ではあるが、前野自身が解体新書に名前を載せなかったのはある種のエゴ、名誉――無論そんな簡単な言葉で形容できるものではないが――が複雑に折り重なった葛藤の末であることが痛いほど伝わったはずだからである。もう少しどうにかならなかったものだろうか。
- 司馬江漢の不在
二千五百字近くなったので筆を急がせる。絶妙な存在感のある司馬江漢の存在が抹消されてしまったのは残念。彼の言葉「ふすまも障子も不可欠なものだが、作った人の名前は誰も知らない」は時代劇では平賀源内に引き継がれている。
この人も全くの手探りから日本で銅版画を実現させた人なのだが、その過程(人に頼りまくって砂かけまくり)などから癖が強さが窺い知れる。いきなり七歳年を逆サバしたり、飽き足らず自分が死にましたというハガキを出して隠居したり、余りにも癖が強い。興味がある方は調べて見られるのもよろしいかと。
- 寛政の三奇人
一応述べておくとここでの奇人は「優れた人」の意である。林子平の高木渉、いや、高木渉さんの林子平がハマりすぎている。高嶋さんの高山彦九郎もいい。
この二人はそれぞれ、海防の重要さ、尊王という幕末に大きなテーマとして現れてくる要素の象徴的存在として「風雲児たち」に君臨している。その為今回もサービス的に出てきてくれたものと思うが、そうなるともっと見たくなってしまうのが人情である。
おわりに
つまりは一刻も早く続編が見たい、まずは「さらば源内編」あたりでよろしくお願い申し上げますNHK様、といった次第である。
真田丸キャスト三谷幸喜先生脚本の関ケ原90分スペシャルもずっと待ってます。