カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

鏡は横にひび割れぬ―刀剣乱舞イベント「文久土佐藩」を迎えるにあたって

余談

相変わらず刀剣乱舞をちまちまとやっている。球集めは相性が良くなくて振わないのだが、今回の江戸城は先年初めて真剣に取り組み、どうにか南泉一文字くんを迎えられた思い出深いイベントであり、移動だったり宝箱開封である程度プレイヤーの裁量が効いてゲームらしい挙動が出来るのでお気に入りだったりする。

そして次に控えているイベントは特命調査。こちらも前回、聚楽第に潜入し、優評価を頂戴した筆者にとって思い入れのあるイベントである。筆者の初期刀が陸奥守吉行であることは既に何度か述べたが、それだけに今回の「文久土佐藩」の特命調査においてはワクワクが止まらない。もうずっと妄想している。妻に話すのもそろそろ気の毒になって来たので、ここらで一度ネットの海に放流し、デトックスしておきたい。

筆者が考える程度のことは皆々様が既に考えていらっしゃったので、説として目新しいものは特にないが、幕末歴史好きかつ陸奥守吉行が初期刀である人間にとって、「文久土佐藩」という五文字だけでどれだけ妄想がはかどるかという一つの記録にはなろう。

 

ということで以下、妄想が繰り広げられています。

本題

文武並用、成長久之計。

文久――わずか三年足らずのこの時代は即ち土佐勤王党の興亡の歴史である。

読者諸賢――特に少しでも多くの情報を取り入れようとウィキペディア他webの荒野を「文久」の文字列でもって駆け抜けた方々には今更ブッダトークショーであるかもしれないが、筆者としてはここに書き記すことで前後の時代の把握を行いたいのでお許し願いたい。

文久の前、万延元年はわずか一年に過ぎなかった。万でも延でもないわけだが、それは改元当初から約束されていたことであった。

何故か。翌年、即ち文久元年はしきたりにより改元することが決定しているからである。

十干十二支を組み合わせて年を表現することは昔はよくあった。例えば壬申の乱乙巳の変文久の近くで言えば戊午の密勅であったり。現代も丙午生まれの女性は……といいう迷信が細々と生きていたりする(ちなみに筆者の母は丙午生まれ)。

そして辛酉の年は改元するしきたりがあったのである。何故ならこの年はみんなの心が冷たくなりがちで革命とか起こされたら怖いからである。ポエット!

ともあれそういったことで改元の日が決まっていたのにわざわざその一年前に改元してしまったのである。現代であればエンジニア諸賢が爆発四散していたところであり、当時も「どうしてあと一年待ってくれないのか」といった空気はあったようであるが、孝明天皇のたっての希望により改元された、という。仕方がない。安政は余りにもいろいろなことが起こり過ぎた。ここらでいっちょ改元というのが雅ムーヴである。

そうして万延の年が始まり、あっという間に終わって文久となった。

因みに文久の後の元治もまた、一年で終わる。やっぱりしきたりで革命を防ぐ為である。明治維新という革命の足音はそのようなことをしても三年後に靴音を響かせて近づいてきていたわけであるが、旧来の陋習にくるまれた人々には届かなかったのかもしれない。

本題に入ってからの方が脱線が長くなってしまった。以下、文久各年の土佐藩に起こった主要な出来事と、そこから連想される「新刀剣男士」やその背景を予想してみたい。

文久一年:土佐勤王党の結成

武市半平太という、早すぎたのか遅すぎたのかわからぬ勤王家によって結成された土佐勤王党は若者の鬱屈したエネルギーの受け皿となっていく。血判した名簿に記されただけでも二百名近くとなる。

それほどの組織の首魁たりえた武市という人は、剣術の達人であり、また多くの名士と交わった人物でもあった。そんな彼が剣術修行の名目で各地を巡っていたときの話に、「この時に彼の物入れにあったのは「霊能真柱」(国学者平田篤胤の著作。この作品自体は所謂復古神道に連なる本であるが、ほかの著作である「出定笑語」は王政復古の原動力の一つとも言える話であり、勤王家の間では人気があった)と新刀「南海太郎朝尊」だけであった――という下りがある。

南海太郎朝尊は土佐の評判の刀鍛冶で、武市が求めたのもごく納得のいく話である。固有の名前ではないが、そうではない刀剣男士諸賢は既に大勢いるので大きな問題ではなかろう。と、いうことで筆者の考える刀剣男子第一候補は「南海太郎朝尊」である。朝尊は親王のご落胤の子孫という説があり、また持ち主である半平太が勤王家という点から新刀だけど麿麿した感じの見た目だと面白いかもしれない。現代的な陸奥守吉行と対にもなろう。

文久二年:龍馬脱藩・吉田東洋暗殺

明けて文久二年。土佐勤王党の勢力はいよいよ拡大し、藩論への意見もするようになっていた。武市の論とは一藩勤王。しかしそれを良しとしないのが土佐藩の重要人物・吉田東洋であった。龍馬伝での田中眠氏の怪演も印象的であった吉田は、しかし暗殺される。暗殺されたその日は藩主に本能寺の下りを抗議していたというのは歴史の皮肉である。土佐藩士の頂点と言っていい参政の職にあった吉田は、刺客と二、三合斬り結んだもののついに果て、その首は郷士の古ふんどしに包まれて運ばれた後、河原にて晒された。土佐勤王党の手によって。それを機に一層土佐勤王党の影響力は拡大していくのである。院政を敷いていた山内容堂にとってはまさに懐刀、のち土佐藩より唯一明治政府の中核に食い込む後藤象二郎にとっては叔父である吉田の暗殺はそれぞれに深い衝撃を与え、失脚してからの土佐勤王党への弾圧が容赦ないものになったことにも影響していることであろう。

それよりも少し前、龍馬は脱藩している。またも脱線してしまうが、この時にともに脱藩し、龍馬と最も苦楽を共にしたであろう沢村惣之丞という人物がつまらぬ小競り合いがもとで維新直後にあっさり割腹してしまうことに歴史の無常を感じる。

国を捨てる。

一大決心である。龍馬はそれを成し遂げたものの、それによって寺田屋事件をはじめとする数々の苦難を引き寄せることにもなってしまう。死の遠因ともなっているといってしまってよいだろう。それでもなお彼は藩という小さな国を捨て、日本という国を救うことを選んだ――というのは後世的な見方であって、実際のところはわからないが。

龍馬が捨てた国、土佐。その土佐一国に相当すると言われた刀がある。一国兼光である。現在は高知城歴史博物館に所蔵されているというチラシのワードとも符合するこの刀は山内家の重宝である。土佐を飛び出した陸奥守吉行と言ってしまえば土佐そのものである一国兼光。これまた対になっており、顕現すれば興味深いやり取りが見られそうだ。

文久三年:八月十八日の政変土佐勤王党の衰退

土佐勤王党はその名の通り尊王派である。そして明治維新とは尊王の結果によるものである。ならばなぜ、土佐勤王党は歴史の敗北者(取り消せよ…今の言葉…!)にならなくてはならなかったのか。その大きな要因が八月十八日の政変である。土佐勤王党尊王派であった。しかし悲しいかな、その後ろには攘夷がぶら下がっていた。前述した政変は複雑なものであるが、乱暴に言ってしまうと鎖国派と開国派の対立、尊王派と公武合体派の対立であった。公武合体派としては異国のやばさを感じているのではっきりとは言えないが積極的に攘夷はしたくない。そして公武合体派が勝利し、以降尊王攘夷派は風下に立たされることになる。因みにこの一連の流れで新撰組が誕生している。

土佐はジョン万次郎という当代の日本人で誰よりも外国に精通した人物を擁しながら、この争いに関してイニシアチブを握れず、以降幕末までその半歩遅れを引きずってしまうことになる。既に増長しつつあった土佐勤王党(この前にも容堂に僭越であると説教を食らった挙句切腹に追い込まれたりしている)はいよいよ立場が危うくなり、武市は投獄される。土佐勤王党の断末魔の叫びであった。

さてその八月十八日の政変の引き金の一つが朔平門外の変とも言われる姉小路公知暗殺事件である。彼の殺害犯は幕末四大人斬りの一人・田中新兵衛と言われる。武市の義兄弟でもあるこの人物は、この容疑による収監時に自害している。

今一人、この事件に関わる幕末四大人斬りがいる。読者諸賢ご承知の通り岡田以蔵である。彼は死亡前、姉小路の護衛を一時期行っている。Twitterなどを見ても今回の本命では? と思われる肥前忠広は彼の佩刀とされる(というよりより正確に言えば岡田以蔵の佩刀が今回の刀剣男士であると予想されている、だろうか)。

筆者も文久土佐藩と聞いた時まずしたことはGoogleで「岡田以蔵 刀」で検索することであった。調べてみると有名な勝海舟護衛エピソードで以蔵は勝からピストル(リボルバー)をもらっており、この時の佩刀も肥前忠広と考えれば陸奥守吉行が守り刀としての座をピストルに明け渡したのと対照的に守り刀として機能することでピストルを得たという刀が顕現するのはなかなかエモい。生涯ただ一人も切り倒さなかったという刀と天誅の名のもとに日夜血で染まっていた刀というのもあまりにも彼岸である。また、坂本家の刀であったということを踏まえると龍馬の刀として後世も(焼けはしたけれども)大事にされている刀と持ち主が身を持ち崩し、手から離れ、現在行方不明の刀ということであまりにも真逆……どうしてこんなことに……祝福される道が忠広にもあったのか……という気持ちになり、めっちゃ回想が見たくてならなくなってしまう。

俺なんかどうせ……系の刀剣男士はだいぶ渋滞しており競争率が高そうなので、ピカレスクロマンあふれる感じの造形であればいいなと思う。「戦で褒められてこその刀じゃき!(ガハハ!)」ぐらいやってほしい。

埋忠明寿も同じように「日の目を見なかった坂本家の刀」として興味深いが、少し独自のエピソードが弱いかもしれない。

果たして何が「改変」されているのか

さてつらつらと書いてきたが、そもそも文久土佐藩、何が「改変」されているのだろうか。筆者としては「龍馬脱藩」か「吉田東洋暗殺」、即ち文久二年の出来事が改変されているのだろうと考える。例えば龍馬が脱藩せず、吉田東洋の暗殺犯になるとか。逆に吉田東洋が暗殺されず、龍馬が投獄され獄死してしまうとか。

歴史に「if」はないと人は言うが、実際のところその一瞬一瞬が「if」に満ちていると筆者は思う。この三年とは思えない密度であれば、どこが改変されていても大変なことになるに違いなく、またなるほどそうきたか……と思わせてくれることであろう。

はりまや橋がめちゃくちゃ豪華になっているとかそういう方向で改変されていたらどうしよう。かんざしでも買うか。もしかしたら特別アイテム枠で出るかもしれない、かんざし。

ともあれ平成最後のイベントの主役が陸奥守吉行であること、運営に深くお礼を申し上げてこの項を閉じたい。

蛇足・その頃の薩摩

・開国した方がいいと思うな~

・過激な思想はメッだよ!(寺田屋事件

・でも無礼な外国人は斬るね……。(生麦事件

・なんか一国と戦争することになったわ(薩英戦争)

・イギリス強いわ、攘夷とか無理言うなよ(八月十八日の政変

なんだこいつ……。