カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

空想科学なんて信じない、でも…。

今週のお題「SFといえば」

余談

あっという間に月末であり、日曜日の終わりも近づいている。

前回6月も前半少し書いて後半さんざん、という感じであったのだが過去の遺産で意外とPVがあったのに対し、今月は奇麗に更新していなかったことが反映されている感じで、ブログを運営している方としては「じゃあ更新したら伸びるかな?」という気持ちになるのでこちらの方がいくばくかありがたかったりする。

この間に4つの記事が下書き入りし、体重は上下に3キロほど推移しつつも結局月初同等に落ち着いている。毎回、この壁に阻まれているのであるがいよいよ健康診断までひと月を切っているので頑張っていきたい。

 

ということで昨年同様プライムデーではこちらを買ったりもした。味は普通に遜色なくカップヌードルなので驚く。今年はシーフードも買いました。チリトマトもあるらしい。プライムデーの記事もまた、先ほどの下書きの中にある。かつて筆者が「ブログ」というものに二の足を踏んだ原因である「ライフハックブログ」的なブログ群に連なろうとすればせっせと記事を書いていくばくかの収入を得ることを目指すべきだったのかもしれないが、なかなか模範的ブログ民の道は遠い。

本題

余談が、長くなった。

父の本棚

オタク…読書青年であった父の蔵書が祖母宅に残っていたこともあり、SFには早くから親しんでいた。星新一かんべむさし森下一仁小松左京筒井康隆横田順彌アイザック・アシモフスタニスワフ・レムH・G・ウェルズアーサー・C・クラーク……。

「SFベスト集成」シリーズには子ども向けに毒抜きされていない藤子・F・不二雄永井豪手塚治虫諸星大二郎作品もあり、筆者の心の引き出しを作ることに大いに助けになった。

特に思い出深いのは、日本の作品であれば広瀬正の「マイナス・ゼロ」。

今では電子書籍化され、気軽に手に取れることができるが長らく絶版が続き、本屋大賞の復刊希望企画ではトップをとった作品でもある。

恐ろしいことに半世紀前の作品であるのだが、初めから執筆時点での過去を舞台としているのでさながら「夕陽のガンマン」のように既に古いことでそれ以上のチープ化を免れているという意味でも幸福な作品であるといえる。金田一シリーズの田舎者に通じるところがあるかもしれない。

大きな風呂敷の広げ方、畳み方、余韻……。筆者が大学の文芸サークル時代、「時と人」というテーマにとらわれる原因になった一端でもあり(もう一つは北村薫の「スキップ」)、そういった意味でも思い出深い。

海外作品で言えばレイ・ブラッドベリの「火星年代記」。

電子書籍反対派だったはずのブラッドベリの作品のKindle版を貼るのはいささか心苦しいし、表紙も以前の方が好きなのだがご容赦いただきたい。

日本のSFコンベンションに招待されたときに「飛行機が怖いので船で行きたいのですがそれでは間に合わなさそうで困っています」という相談をした愛すべき大作家にして詩人、(結局参加を断念して素晴らしい詩編を提供したという)レイ・ブラッドベリの連作短編集――という言い方はあまりに味気ない、一大叙事詩が本作である。星新一をはじめ多くの作家がその薫陶を受けたこの作品の初出はなんと1950年というから70年以上前の作品ということになる。

火星進出に始まるこの物語は出版時遥か未来であった1999年に始まるが、筆者がこの本を読んだ時すでに時は2001年になっていた。この辺り過去を描くゆえに古びなかった「マイナス・ゼロ」と対照的ではあるが、これまた壮年で突如世を去った広瀬正とは対照的に91歳(2012年没)の長寿を全うしたブラッドベリによって実は1997年に改訂がなされており、その版ではスタートが2030年になっているという。

内容は未来を借りた文明批判であったが出版からおよそ半世紀が経っていた筆者が読んだ当時も、そして現在もそれらの問題は散見され、物語のコアの部分は薄れるどころかむしろ深刻さを増しているというこの事態こそがディストピアSFでなくてなんだろう、と暗澹たる気持ちになったりもするが、SFの吟遊詩人ブラッドベリの語りはその深刻さを我々の脳にすっと染みこませてくれる。

お茶の間の空想科学と、あの日の助手席

他方で筆者はまた、平成を生きる子供としてお茶の間に展開される空想科学世界を摂取して生きてきた。ウルトラマン(よりによってグレートから始まる)、仮面ライダー(あろうことか真からスタート)、戦隊シリーズジェットマンとかいう戦うトレンディドラマ)、メタルヒーローブルースワットとかいう子どもでも察する予算感の番組)、ガンダム(満を持してGガンダム)、勇者シリーズ(誕生!無敵のドデカい守護神)…彼らの設定に心躍らされ、スペックを覚え、それを超えるようなオリジナルヒーローや怪獣、ロボットを考えたりもした。

そんな折、確か秋ごろだったと思うが……。筆者の習い事に父が迎えに来てくれた。いつものルーティンとして、駐車場に備え付けられている自販機でC.Cレモンの缶を買ってもらい、飲む。(まだ100円か110円だったような…)当時は家では炭酸禁止だったため、(まだ歯が生えそろっていない弟たちのための配慮)この親父とのささやかな秘密の共有の時間が毎週の楽しみであった。

飲み終わり、缶を横のごみ箱に入れ、車に乗り込もうとする――と、助手席にカバーのかかった一冊の本が置いてある。

そのままでは座れないので、持ち上げ、そこは既に本の虫であった筆者、何の気なしにパラパラとめくる。

カラカラになったウルトラマンのイラストが目に飛び込んできた。

「見たなあ~!」

ニヤニヤしながら親父が言う。あまりかけることの無いブックカバーがかかっていたのは、そのものズバリ「子どもの夢を壊す本!」というコピーが掲げられたこの本を筆者の目に入れないようにしよう…という配慮だったのかもしれない。

空想科学読本」と筆者との出会いであった。

本部以蔵であれば「ヤロウ……タブー中のタブーに触れやがった」と言うに違いない「空想科学読本」は筆者にとって神聖にして不可侵な「昭和のレジェンド特撮」達に土足で立ち入り引きずり下ろすような衝撃的な作品であり、それだけに面白かった。正直なところ、その理論や計算式がすべて理解できていたとはいいがたいが、素直に受け止めるとなんだかとんでもないことになっている、ということ、それを絶妙に活写した近藤ゆたか先生のイラストや血の通った脚注が最高だった。

この季節になると毎年「読書感想文」がwebを賑わせるが、小学5年生の時に筆者は「空想落語読本!」を自分ででっち上げ(方眼ノートに書いた)、(内容は「寿限無」で名前を言っているうちに夏休みになるなら1文字どれくらいで発音したらいいのかみたいな今書いてて赤面するような内容である)その読書感想文を書く、ということをしでかしたことがある。そういう意味では今、三十路も過ぎて何か見返りがあるでもなく文章を書いているのは「空想科学読本」のせいおかげであるとも言えよう。少なくとも、この文体と「筆者」という一人称は「空想科学読本」の影響が大きいと言わざるを得ない。

その視点だけでなく、間違っていたことへの対応、あとがきからにじみ出る教育者としての姿勢がまた、児童であり生徒であった筆者の心に響いた。柳田理科雄さん、編集者にして空想科学研究所所長の近藤隆史さんが共に鹿児島出身でいらっしゃることもあり、講演が鹿児島で開かれ、参加することもできたし、サインを頂くこともできた。家宝である。

就活時はメディアファクトリーも志望したものの、残念ながら夢は破れ、筆者は一介のサラリーマンとして日々を送っている。けれど、あの時「空想科学読本」が与えてくれた違う角度から作品に光を当てるという姿勢が、筆者の特撮好きとしての寿命を延ばし、引いては今も続くかけがえのない知己を得る助けになったように思う。

小学生の時にSFに出会い、空想科学読本に出会った筆者も来月でもう33歳になる。まさかこの年になって「シン・ウルトラマン」で「空想科学読本2」でも言及された「1,000,000,000,000度の炎」について公式からアンサーが返ってくるとは思わなかった。これだからオタクはやめられない。

空想科学なんてもう信じる年ではないかもしれない。でも、空想科学について真剣に向き合う大人たちの姿勢や、そこから生み出される作品については信じているし、今後も信じ続けたい。

↑現行版の表紙にはないみたいだけれど、空想をかきたてられるモリナガ・ヨウ先生の造形作品と帯を外したところにあるそれに呼応した文がとても好きだった。