余談
大勲位こと中曽根康弘氏が満百歳のお誕生日であるらしい。江田島平八の学生時代の友人であるというからすごい。この間、キン肉マンを読んだら故・大平首相が出ていた。どの漫画にどの首相が出ているか、というのを一度調べてみると面白いかもしれない。ぱっと思いつくのは脳噛ネウロに結構(パロディだけど)出ていた気がする。あとは刃牙とか。こっちは大統領が多いか。長期連載だとこういうところ大変だなあと思う。そいうえば空条承太郎の好きな力士は千代の富士だったが、彼がエジプトから帰還するときにはすでに引退していたという話を聞いた覚えがある。その千代の富士も今や鬼籍に入ってしまった。
話を中曽根氏に戻して、「戦後政治の総決算」を掲げ首相となった氏がそれを果たせたかどうかは筆者のような若輩では到底計り知れないが、しかしその存命によって未だ「あの時代」が厳然たる歴史ではなく政治経済の文脈で以て主だって語ることになっている、というのはあるのだろうな、と考える。そういう意味で間違いなく主に政治史の分野にて「戦後」の大部分を一人で引き受けられている訳で、恐ろしい方である。回顧録の出版からすら既に三十年近くたつということで、是非回顧録第二弾を出していただきたいものである。
中曽根氏が満百歳になりつつ、先週は西城秀樹さん、朝丘雪路さんなど名だたる方が鬼籍に入られた、または既にそうなられていたことがわかった、という憂鬱な週でもあった。ジャンルは違うが元TOKIOの山口達也さんの報道の時も感じたことであるが、暗いニュースに際し明るい「それ以前」の映像資料を延々と垂れ流すことが、一度はいいとして、連日もあると、かえってその頃と現実との高低差に知らず疲れてしまうのだな、ということを思い知った週でもあった。
いつか、それは明日であるかもしれないが、そんな風には取り上げられずに筆者は死ぬとして、それまでに「このブログもう更新されないんだな、ちょっとさみしいな」という読者諸賢を少しでも生み出したい、増やしたいと思いながら、生活は続く。日常は続く。
本題
本記事がブログ記事50記事目ということで、長らく追いやってしまっていた天才柳沢教授についての記事を書きたい。本来は土曜日のうちに書いてしまうはずだったのだが、疲れからか、黒塗りの乗用車にはぶつからなかったものの、あ、これこの間も書いたな、ともあれなんだかもへへんとしてしまっていたので、二週連続で西郷どんの感想は月曜以降となってしまいますがご容赦ください。
何故「11巻」なのか
さて「天才柳沢教授の生活 11巻」についてこれから話をさせていただくのだが、読者諸賢は何故もちろん始まりでなければ最新刊でもない、キリの良い10巻などでもない11巻なのか、と思われているかもしれない。
それには三点ほど理由があって、
- 「天才柳沢教授の生活」は基本的に一話完結であるのでどの巻から読んでも面白い
- 11巻は柳沢教授を多方向から切り取ったエピソードがあり、入門に最適
- 「オーロラ姫の眠り」という珠玉のエピソードを是非多くの人に読んでほしい
といったものである。実際筆者は漫画版はこの11巻から読み始め、全く支障が無かったので実績と自信をもってお勧めできる。
11巻収録エピソード紹介
なるべく先入観を持っていただきたくないので、エピソード紹介はごく端的に留め、引用も核心を突かない部分を心掛けた。本当はさらにキラーフレーズがあるのにご紹介できないもどかしさ。是非後々感想を語り合いましょう。
・あなたを知りたい
父親としての柳沢教授が描写されている。メインは娘の大学生活、ごく初期。筆者は大学時代はスタートで完全に躓いてしまって、六月ごろから何とかもろもろの軌道修正を果たせたタイプであるのだが、この話を読むと何かが始まっているが自分がその波に乗り切れていない、あのむずむずを思い出してしまう。また、聞き役に徹することも多いのだが、読者諸賢にそういったタイプの方がいらっしゃるのであれば、筆者がそうであったようにきっと救われるはずである。
悩みは根本的な理由を明らかにしなければ解決できません
――柳沢教授
・オーロラ姫の眠り
祖父としての柳沢教授が描写されている。ここ最近余談で述べたように生死について漠然と考える機会が多く、改めて再読したがやはり素晴らしいエピソードであった。幼子の駄々に対してどのように向き合うか。オーロラ姫の眠りと鬼籍に入るということはどう違うのか。それらが一組の夫妻に仮託され、語られる。
筆者が初めて葬儀に参列したのは小学三年生の頃であったと思う。生前面識がなく、その方が亡くなって悲しいというよりは周りの雰囲気に感応して泣いてしまった覚えがある。何を感じたが今となっては曖昧だが、その日の日記はいつもよりずっと長かったことは覚えている。多分その頃から、脳や胸に生じたもやもやは文章にして出力するタイプの人間であったのだろう。
幸運にも分不相応な伴侶を得て、後はいかに出し抜いて、例えば僅か一日でもいい、妻より先に自分が墓に入ってみせる、という段階であるが、その時自分の枕頭に妻は何か供えてくれるだろうか、ということを考え、ちょっと悲しくなった。
華子がもう少し大きくなったらそのことについて考えましょう
その時は私も一緒に考えます
・女王の帰還
同級生としての柳沢教授が描写されている。オーロラ姫の眠りの後、続けてこのような傑作エピソードをものしてしまうのが山下先生の恐ろしいところである。扉絵で予め顛末が語られる豪徳寺一族。その家の子である頼子と幼き日の柳沢教授の回想が語られ、再び時計の針を現代に戻したとき……読者諸賢は最も理想的な形でのタイトルのリフレインを味わえるはずである。
(大原君に豪徳寺家の敷地に俺の家が1千万個入りそうだといわれ)
「『豪徳寺家は5千坪』と大人がいってました
大原君の家が5坪だとしても1千個しか入りません
・ソネット83番
教育者としての柳沢教授が描写されている。大学の良さの一つに学びのペースがそれ以前より自由度が高い、ということが挙げられると思う。 その学びが及第点に到達しているかどうか判定してくれる相手が単位ごとに違う、というのも面白い仕組みだ。劇中で語られる大学の存在意義、最高学府としての立ち位置と就職予備校としての位置づけに対する齟齬などは20年以上たった現在でも色あせず、どころかますます深刻になっているように思う。
過疎授業を受け持つ偏屈教授、その授業の唯一の受講生である男子学生は柳沢教授の授業にも出席しているが、柳沢教授から見ても決して理解の早い学生とは思えない。しかしある一件で教授は彼を自分の学部へ編入したいと思い始め……。
学びの本質的な部分が語られ、読むたび自分の大学時代に舞い戻って学びなおしたくなる一編である。
(研究者にとって必要な資質を問われ)
1つめは好奇心
2つめは洞察力です
・夫婦の音色
夫としての柳沢教授が描写されている。柳沢教授は自分に厳格であるが、他人にも厳格であり、それは妻に対しても例外でない、良くも悪くも、ということがひしひしと伝わる。夏目漱石がそうであったように、夫がきっちりしている場合は妻がある程度おおらかに「変化」していくことで何とかなっているケースが多い。たいていのことは女性が上手なのである。
年齢と趣味とは基本的に無関係なはずです
年齢を理由に趣味の追及をやめるのは理にかないません
このセリフは、この巻のあるエピソードを踏まえ教授の考えが変化したこともわかり、そう言った意味でも味わいがある。
・夏の思い出
マレビトとしての柳沢教授が描写されている。柳沢教授は現在こそ目がどこにあるかわからない顔をしているが、若かりし頃は文字通り眉目秀麗のハンサムである。故にモテる。都会の風と、あれやこれやを持ち込んだハンサムボーイがとある旅館に果たして何をもたらしたか……という話である。この回は特に、絵による要所要所の余韻が素晴らしい。漫画の真骨頂である。
故人の意思を尊重するなど無意味なことです
・遠きロマンス
観察対象としての柳沢教授が描写されている。今回の狂言回しは教授の大学の図書館司書。冷静に第三者目線で語られる柳沢教授や、他登場人物は新鮮で面白い。読者諸賢においては活字中毒者、本の虫を兼業されている方も多いと思うが、その思想あるいは思考についてシンクロするところがあるかもしれない。
(どんな本も面白そうに読むことを指摘されて)
ええ
しかし生身の人間にはなかなかかないません
以上7話、どれを切り取っても 素晴らしいエピソードであると思う。再度になるが、是非ご一読のほどを。良質な読書体験はあなたを続けて他の既刊へと誘うことになるのではないだろうか。
それにしても、読み返すたび大学で学びなおしたくなる。