※刀ステのネタバレをバンバン行います
余談
当時多くの人に読んでいただき、未だに一日あたりのPVの最高記録を記録した記事からちょうど一年が経とうとしている。
鑑賞したそのままのテンションで打鍵したため内容が荒くお恥ずかしいのだが、その分気持ちをストレートに乗せることができたためか、Twitterでの告知ツイートも多くのfavやRTを頂き、いわゆる「クソリプ」もなく、審神者諸賢のやさしさに思わず拝んだものであった。
お読みいただいた多くの先達の審神者諸賢から「刀ステはいいぞ…いい…」というお言葉を頂戴した。「舞台『刀剣乱舞』」通称「刀ステ」。「映画『刀剣乱舞』」の祖なるもの。そこで育まれたものが銀幕に炸裂することによって、筆者は得難い幸福を得ることができた。
上記感想記事で抱いた疑問点のいくつかも過去の「刀ステ」を参照すれば解決するということでさっそく筆者は衝動のままに当時DMMで購入できた過去作を購入し、しかし業務繁忙期に突入し、ようやく落ち着いてみようと思ったら衝動の愚かさ、過去作配信はレンタル限定であったので既に再購入が必要な状態となっていた。その愚かさを戒めるため、しばしの間筆者はDL購入禁止を己に課したのであった。
そうした間にも時は流れゆき、新たな元号へ移ろうとしていた時、特命調査の知らせが我が本丸にももたらされた。
その五文字から励起される感情をやはり深夜にぶつけたものが上記の記事である。そう、筆者の初期刀は陸奥守吉行であった。
陸奥守吉行は何かと情緒不安定な幕末組の中で割とどっかりと安心できるメンタルの持ち主……と思いきや銃と刀の二つ使いというそのスタイルが物語るように他人との間合いを二重に持っているような複雑さ、わかりやすい快男児の奥底に潜む人口に膾炙するほど有名な人物の愛刀でありその臨終に居合わせながらついに守ることができなかった刀という事実に由来する「刀である自分を否定したいほどの自分への怒り」が見え隠れするという入り口は広いのに奥が沼っていうか泥炭地みたいになっているところが魅力だと勝手に思っているのだが、それがわずか三十分足らずの尺で結実されている「活撃刀剣乱舞」第九話がとにかく最高なのでぜひ未見の諸賢はこの話だけでも見てみてほしい。
急に早口になってしまったがとにかくそういった特別な感情のある陸奥守吉行がメインということで特命調査の開始までを指折り数えて待ち、始まってからは四年分貯めていましたといわんばかりの土佐組エピソードの数々に急激な血刀値(血中刀剣乱舞値の略)の上昇に悶えながらも肥前忠広、南海太郎朝尊を本丸に迎えに行くことに成功した。
その後やはり深夜の勢いで……お前一回でいいからちゃんと日中に試行錯誤して推敲した記事を書けや! ともあれ上記の考察記事のような感想記事のようなものを書いてしまったのである。
そしてこれもまた多くの人に読んでいただき、Googleで「文久土佐藩」で検索するとありがたいことに個人ブログでは最初に紹介していただいているようだ。
大塚英志先生の受け売りでこれまでもたびたび引用しているが、筆者の執筆人生のサビなのでもう一度書かせていただくと、速度。大切なのは速度なのだ。速度に乗せなければ届かない言葉というのは必ずある。だから筆者は今後もこういう深夜の勢い記事を書き続けていくことになるのだろうと思う。言葉を選び推敲し地固めをしていく中で失われていく熱というのは絶対にあるから。もちろん、それを言い訳にはせず精度は上げていかなくてはならないが……。
逆に時期を見ようとして結局展示の最終日に投稿してしまった下記記事などはもっとやりようがあったのではないかと悔やんでいたりもする。
とはいえ「文久土佐藩」イベントによって供給してもらったあれやこれやであと四年は戦えると筆者は意気軒高であった。
舞台『刀剣乱舞』2019年新作公演のPVを公開しました!キャスト情報も解禁しております。
— 舞台『刀剣乱舞』公式 (@stage_touken) 2019年8月4日
公式サイトにてご確認ください。https://t.co/9EdPM3niyz
公演日程、劇場、チケット情報等は後日発表いたします。
続報をお待ちください♪ #刀ステ pic.twitter.com/y8VTqvIlvC
そこにこのどでかい知らせが飛び込んできた。聞けば、慈伝が聚楽第を下敷きにしていたから賢明にして怜悧なる審神者諸賢においては予測に上がっていたというが、こちとら前元号のイベントをまだ咀嚼して終わってないのにぶち込んでくるのやめてもらいます!? まだ筆者が「文久土佐藩(ゲーム版)」食べてるでしょうが!!
ながらもやはり気になってしまうのが人情であり、ゲーム内にて応募ができるということで軽率に応募してしまった。
当選した。同伴者として妻も一緒である。「夢を買っていると思おう」くらいの気持ちで応募したので物欲センサーが発動しなかったのかもしれない。
ローチケからチケットが届くに至り筆者は気持ちと頬が高揚していくのを感じた。満を持して過去作を予習することを決意した。とはいえ内容もボリュームも特盛の作品揃い。結局年末年始のまとまった休みでようやく鑑賞することができた。
なるほど「映画『刀剣乱舞』」で筆者が感じた諸々が腑に落ちた。不動行光の森蘭丸を見る瞳、黒田官兵衛の不在……そして「悲伝」に至り、「刀ステ」は筆者の頭髪に複数の白髪を顕現させたのであった。
画面越しでこれであるならば、生で観劇したのならば一体どうなってしまうのか?
辞世の句をしたためるかどうかを逡巡しつつ、日ごろ絶対に無理な四時半起床を達成して我々は福岡サンパレスホールに向かったのであった。
本題
維
1 大綱。国家の大本。「維綱/綱維」
2 つな。糸すじ。「維管束/繊維・地維・天維」
3 つなぎとめる。「維持」
4 すみ。「四維」
5 文のリズムを整え強める助字。これ。「維新」
感想:ゲームイベント・セリフの舞台への落とし込みの見事さに感服
心あらば刀ステ見よや桜島 その尊さに灰左様なら
―木本仮名太辞世
逡巡したがしたためておいてよかった。開始五分でもう駄目だった。
刀剣男士が堀川国広しか出ていない段階でもう泣いてしまった。
一つ、吉田東洋の暗殺。
三つ――。
いや、まずは二点から話を進めたい。
開始から怒涛の勢いで日本を愛する若者たちによる土佐勤皇党の勃興、繁栄、転落が描かれる。しかしそれは演じる役者諸賢の脅威の熱量によってその行間が分厚く補填され、武市の無念さと矜持(史実通りの三文字の切腹!)、以蔵の寂寥、龍馬の慟哭が見事に表現されており、世にいうクソデカ感情をまともに涙腺に受けて左目はモイスチャーであった。
吉田東洋と以蔵の殺陣もすごいし、その後のもともとの刺客(那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵)に手柄を譲るところの切なさもよい。(ちなみに筆者は「お~い!竜馬」で以蔵が拷問で吉田東洋の下手人は竜馬ではないかと聞かれたときに「竜馬だったらあんなことはせずに昼間の往来で堂々と斬ったろうよ」と答えるシーンがめちゃくちゃ好きである)
その史実が展開されたのち、入電。そう、ゲームのあの演出である!
刀剣男士たちは土佐勤皇党が恐怖政治を敷いている「放棄された世界」へ特命調査へ向かう。そこでは上記のキーポイント二つがなかったかのように進行している。
この奇妙な緊張とワクワクはなかなか言葉にしがたい。かつて自分がタップし、クリックして進めていったイベントがものすごいクォリティで眼前に再現されていくのである。
これは本当に不思議なのだが、ゲームの声優さんと声も違うのに舞台で見るとまさしく「そのもの」であるのは役者さんたちのすさまじさで、世代的には「マジで刀剣の付喪神をO.S(オーバーソウル)しているのでは?」と思ってしまうほどであった。
坂本龍馬の陸奥守吉行、武市半平太の南海太郎朝尊、岡田以蔵の肥前忠広の揃い踏み。
南海太郎朝尊はちゃめちゃ罠紀行。
そして異形の土佐。
かつて筆者は「宴奏会」でそのキャッチコピー通り「あなたの本丸が、今ここに」という感慨を味わいつつも、当時は未踏破のステージもあったため申し訳なさがあったが、今回はイベントを予習していたためまさしくシンクロ率120パーセントの状態で舞台を楽しめる嬉しさがあった。
ゲームには登場しなかった歴史上の人物――坂本龍馬、岡田以蔵、武市半平太、吉田東洋、(後藤象二郎、乾退助)――彼らがより物語に躍動感を与えてくれていた。
坂本龍馬はまさしく筆者のイメージする龍馬で、筆者が観劇していた三階席をいじっていたことをもあってますます感情移入してしまった。
岡田以蔵のそれこそ小動物さながらのイノセンスゆえの危うさとその敏捷性には終始目と感情が忙しかった。
武市半平太の間違いなく日本を考えるが故の動脈硬化と判断の融通の利かなさにやきもきさせられながらもその「アギ」らしさの説得力のすばらしさ。
そして吉田東洋。今回の主要歴史上の登場人物の中で最も狭義の「武士」である男。その威厳、御恩と奉公の精神を体現する姿には圧倒させられたし、それが殺陣にも堂々と現れていた。個人的に感動したのは演者が唐橋充さんであったこと。特撮作品において筆者の思春期の情動をぐちゃぐちゃにしてくれた作品、仮面ライダー555(ファイズ)。そこで海藤直也/ スネークオルフェノクを演じられていたのが唐橋充さんだった。彼に焦点があてられるエピソード「夢の守り人」は今なお特撮ファンの間で語り継がれる名編だ。
「夢ってのは呪いと同じなんだよ。 呪いを解くには、夢を叶えなきゃいけない。 ……でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだ。」
そのセリフはこの舞台においてもリフレインすることに何ともいえぬ感情を筆者は抱かざるを得ないのであった。
あっという間に一幕が終わり、思わず歴史上の登場人物セットを追いブロ(マイド)してしまう筆者であった。
ただ。
ワクワクに比例して、緊張も大きくなっていく。「破綻」が見え、筆者は握りしめた拳に汗がにじんでいるのを感じる。
そのタイミングで明かされる岡田以蔵の異形。
そう、ゲームには登場しなかった、といったがすまんありゃウソだった。
ゲームで特殊名として現れ議論を呼んだ幻影人斬り隊の隊長「脇差_郷士」。まさしくそれを思わせる姿に岡田以蔵は豹変する。
ここで原作イベントを予習済みの審神者諸賢は武市半平太、吉田東洋も同様であると予想したことであろう。果たしてその通りであった。彼らもまた異形へと変貌していく。
そんな彼らを涙ながらに説得する龍馬。
しかしその説得の内容は「文久土佐を生きる龍馬」には知りようのないもの……。
筆者は胸がズクンと痛むのを感じる。
シリーズ物のミステリーの王道として、あるパターンがある。
「身内が犯人」である。探偵はそんなはずはないと徹底的に調べるが調べれば調べるほどその疑いが確固たるものになっていき……。
冒頭、語られた史実の最後で龍馬の前に出てきた時間遡行軍。
権力者側の武市を死なせないと強く決意し、行動するさま。
そして知るはずのない未来の情報という「秘密の暴露」……。
三つ、坂本龍馬の脱藩。
ゲームイベントでもそうであったように、この舞台においてもその部分は巧妙にぼかされていた。その真相は「犯人」自身の口から語られることになる。
実際の歴史で脱藩後、武市と以蔵の死を知った彼は脱藩さえしなければと悔い、自分が脱藩しなかった(してもすぐに戻ってきた)歴史を生み出してしまったのである。
この文久土佐藩の改変を目論んだ黒幕は坂本龍馬その人であった。
いや、それは正確でない。ゲームでは「幻影」と呼称された彼らは「刀ステ」では「朧の志士」と名乗った。なんにせよ彼らは「偽物」であり、我々の知る歴史上の人物本人ではないようである。
このことについての考察は別項に譲るが、「朧」であっても彼らの苦悩は本物のそれと同じ、いやある部分ではそれ以上であるといってもよいかもしれない。
なぜって「黒幕」である「朧の龍馬」がしっかりと脱藩しない限り日本は前には進まないのである。
維。その意味の第一。大綱。国家の大本。そう、維伝が坂本龍馬の「日本を考える」ことからスタートしたのは偶然ではないのだろう。佐幕か尊王か。開国か攘夷か。それは揺籃たる淀んだ文久土佐藩の中では永遠に出ない答えだ。国家、日本を考えるもの、志士が私情に囚われたことで生まれた世界では「維」を「伝」えることは決してできない。なんと残酷な構図であろうか。
「朧の歴史上の登場人物」たちは「朧の龍馬」が励起したためか、「国家の大本」について特にこだわっているところもまた地獄めいている。
その登場人物たちにアプローチするのがそれぞれの佩刀というのがまた…王道ではあるが…王道はやはり人の心を動かすのに効果的だから王道なのだなと再確認した。
人を斬りたくない、人を斬らなければ生きていけない岡田以蔵。彼にとって「刀の延長線上に人がいる」時、その人は全て斬って捨てねばならない者達であった。修羅さながらに人を斬り、弑したとき、岡田以蔵は既に刀そのものに成り果てていた。そんな元の主を軽蔑した様子であった肥前忠広はしかし文字通り鎬を削る壮絶な剣戟の中で「わかって」しまう。それは岡田以蔵も同様に。
「斬りたいわけじゃねえんだ……斬りたいわけじゃねえんだよ……。誰も信じてくれねぇだろうが……」
人斬りの刀と嘯いていた肥前忠広。そうではない。そうではないのだ。なかったのだ。彼はわかったのだ。
自分はそんじょそこらの人斬りの刀ではない。
人斬り以蔵の刀なのだと。
この、哀しい男の佩刀なのだと。だから奥底に眠ったこの感情はこの男と自分は一緒なのだと、理解した。叫ばずにはいられなかった。ゲームでは放置していると絞り出すかのように言うこのセリフが福岡サンパレスホールに魂の絶叫としてこだました時、筆者の瞼から水分が堰を切ったようにあふれた。
誰も信じてくれないと思っていた。でもわかるのだ。自分の気持ちを岡田以蔵がわかってくれていることを。わかってしまったのだ。同じ気持ちを岡田以蔵が持っていることを。
そして岡田以蔵も同様に肥前忠広にシンパシーを感じ、「斬らなければ倒される、ならば倒されればもう斬らなくてよい」という悲しい結論に至ってしまう……。
絶対そこで死んだかと思ったら死んでいなかったのはちょっと拍子抜けしたが(布団に安静にさせられているさまはちょっとシュール)、その後、史実での勝海舟護衛を想起させるかのような刀剣男士たちの護衛につくあたりは岡田以蔵が一番「均しの世」に近いのではないかと思わせてくれたし、この世界線での「肥前忠広が佩刀となる瞬間」を肥前忠広が見届けるシーンはジーンと(韻を踏むな)させられた。
維。その意味の第二。 つな。糸すじ。何もかも靄にかかったかのようにはっきりしないこの文久土佐藩という迷宮にアリアドネの糸をよこしたのが南海太郎朝尊である。(まあ一人では帰れないんですけど)新たに顕現した彼によって事態は収束に向かっていく。いわば出来立てほやほやな彼は「刀であること」「人でないこと」に自覚的で、「朧の武市半平太」もいつものように飄々と研究対象として対するかに思われたが……。
やっぱり、彼もわかってしまう。刀剣研究家の刀工の逸話からなる要素が多いと自己分析していた彼でさえも、武市半平太と剣を合わせ、鍔を迫り合えば、彼が実直でしかし頑固、土佐の若者という糸を縒り集めて土佐勤皇党という綱とし、それでもって日本を変えようとしていた熱い志士であったことが。そして自分自身が間違いなくその男の愛刀であり、そこからあふれ出る気持ちの揺らぎに自分が翻弄されていることも。南海太郎朝尊というキャラクターの見方をその数分で大きく変えられてしまう印象深いシーンであった。
維。その意味の第三。つなぎとめる。坂本龍馬という稀代の風雲児は文字通りの維新回天の立役者、時代を、日本を先に動かした人物であった。それが、友情に、私情に、妄執に囚われ「文久土佐藩」という歪な世界を生み出してしまう。時は前にしか進まない。それをつなぎとめようとしたときグロテスクな歪みが生まれてしまうのは避けられないことであった。
それに自身も耐え切れなかったのか、解き明かされるまで自分自身も黒幕という自覚がなかったようでもある。真相が明かされ動揺しながらもそれまでも気の合っていた陸奥守吉行が史実さながらの理解の速さで「我が家の重宝の刀剣男士となった姿」だと察したとき彼は喜び、そしてシームレスに首を取らせようとする。その潔さ。
「死候時も猶御側ニ在之候思在之候」―以前の記事でも引用した龍馬が寺田屋事件を経て兄・権平に陸奥守吉行をねだった時のこの一文。「死に瀕した時もこの刀がそばにあれば安心していられそうなのです」その刀に自分の死を委ねる。しんどい。しんどすぎるではないか。劇中も端々に「陸奥守吉行」への憧れを語る龍馬のその行動は重過ぎる。
その龍馬にしかし、陸奥守吉行は真っ向勝負を挑む。その心意気を称賛する龍馬。元の主譲りだという陸奥守吉行。
龍馬! お前だぞ!お前がなるんだ!主に!
その筆者の心の声は届くことなくシンクロが美しいスピーディーな攻防が展開され、そして……陸奥守吉行は、刀を否定し続けてきた彼は銃に手傷を負わされながらも「刀」としての本分を果たすのであった。
そして彼が自らは刀である、と宣言して舞台の幕は下りる。
会場は当然のスタンディングオベーションであり、筆者はBlu-rayの予約の準備に取り掛かるのであった……。
ゲームの展開を丁寧に落とし込みつつ、筆者がゲームイベント時や活撃鑑賞時に感じていた「肥前忠広が龍馬に愛用されていた可能性」「陸奥守吉行が佩刀となったタイミング」「南海太郎朝尊の人間味のなさ」などが狙い撃ちされたかのようにフォローされ、「刀剣乱舞五周年」の演出のように「解釈一致大感謝」が墨痕鮮やかに一字ずつ脳内で揮毫されていくのを感じるのだった。
福岡の場合は終演後のグッズ販売はなかったのだが、あったら宿泊費までつぎ込んで野宿になってしまっていたであろうから運営諸賢の英断に感謝である。
考察:朧月夜はいつ昇る?
感想に引き続いて考察を述べていきたい。例によって考察というよりは妄想というのが相応しいのかもしれないが……。
パンフレットを購入した筆者は宿泊先で閲覧し、動揺した。
序伝から維伝に至るまでの物語の間には未だ語られざる四つの物語があるというのだ。
そして刀剣男士の危機を救った「山姥国広然とした時間遡行軍(打刀)」……。
かつて吉田東洋が折ったという刀剣男士たち。
更には「朧の志士」と「放棄された世界」。
その世界の奥深さは凄いを通り越してもはや怖い。
「刀ステ」の物語で重要な要素と言えばループ(円環)である。今回鳥の二振りたちから三日月宗近の円環の世界もまた放棄されたらしいと言及があった。
逆説的に言えば、「放棄された世界」というのは単に歴史が変わってしまっただけではなく、「円環が繰り返されてしまう世界」なのではないかと筆者は思うのである。今回の「文久土佐藩」の世界も文字通り文久年間をループし続けているのではないだろうかと。その中で最も歴史と違う展開になる吉田東洋は繰り返すことでますます意識が「朧」になってしまったのではないかと。(あの世界の人々が坂本龍馬が励起した人たちであるのなら、吉田東洋は武市や以蔵と比べて龍馬の思いが少ないので意識がはっきりしないというのもあるのかもしれない)
それを生み出すには坂本龍馬という超有名偉人の「物語の強さ」が必要だったのではなかろうかと。
先ほどのパンフレットによれば、「序伝」と「虚伝」、「慈伝」と「維伝」の間に未だ語られぬ物語が存在する。筆者は、この二つの「語られざる物語」こそが新たなる円環の起点と終点であり、その結の目は「山姥切国広」なのではないかと考えている。
敗北へと向かう物語、序伝で山姥切国広が折れてしまっていたとしたら? 折れてしまうことで時間遡行軍になってしまったとしたら? 「維伝」の前に山姥切国広極にまつわる物語があるとしたら?
そもそも「虚」とはなんであるのか。既にそれ自体が、我々が今まで見てきたもの自体が本来の物語、いうなれば「実伝」のifストーリーだったのではないか?
維。その意味の第四。すみ。その名の通り、パンフレットによれば今のところ維伝は一番隅である。その後更に後方にストーリーが展開するかはわからないが(してほしい)今ここで提示するということは、維伝はひとつのルートの終わりを示唆しているのではないか。翻って、本来の物語―それが山姥切国広なのか三日月宗近なのかそれ以外の誰かが主軸となるのかはわからないが――はまた違う円環を持っているのではないかと筆者は考えるのである。
冒頭で暗殺される吉田東洋。彼はその日、主君に歴史の講義をした帰りだった。なんの講義か。本能寺の変である。これが果たして偶然だろうか? 筆者は「虚伝に連なる物語は維伝で一つの収束を見る」ことの示唆に思えてならないのである。
朧。月と龍。龍は当然坂本龍馬であろう。そして終盤、二振りの鳥が見上げる三日月。もしかしたら我々の知らない形で今回も「彼」は我々に寄り添ってくれているのかもしれない。筆者は今回の審神者の采配は結構非情であるのでもしかして審神者が代替わりしていたりとか、あるいは審神者その人が三日月宗近だったりしないよね、とちょっと思ったりしている。
いずれにせよ朧月夜が昇るときは近いのかもしれない。
蛇足:「銃男士」?偽坂本龍馬はいつ「顕現」したのか
重箱の隅なのだが、少し気になったこと記しておく。「志士」坂本龍馬を倒した後、その場には壊れた銃が残された。このことから偽坂本龍馬は坂本龍馬の銃が顕現したのではないかという推測があり、なるほど唸らされた。
(筆者は「壊れた銃」は史実龍馬の物語が潰えたことの象徴と考えている)
史実の坂本龍馬が銃を手にしたのは薩長同盟が結ばれる少し前、高杉晋作から譲ってもらっており、寺田屋事件にて活躍した。(つまりメタな話をしてしまうと言動の矛盾を突くまでもなく、坂本龍馬が銃を持っていればそれは文久年間の坂本龍馬ではありえないのである) 一方で武市が切腹させられたのはそれより半年以上前。同じころ亀山社中が結成されているのが全く歴史ってやつは…という感じであるが、そうなると親友の死を知るのが半年以上ラグがあったのか、という話になる。昔のことだからそういうこともあるかもしれないが、「亀山社中マジ最高!」みたいな手紙をその間姉・乙女に送っており、であれば史実ではその前には知っていたのではないか、と筆者は思う。
あの「朧の志士・坂本龍馬」が銃から顕現したのであれば、武市と以蔵の死を知った直後からわだかまっていた気持ちが銃を手にし、その有用性が寺田屋事件で示されたことによって龍馬の中で「銃があれば友人たちは死ななかったかもしれない」という気持ちから励起されてあの世界が生まれたと考えると、そして史実では(口実、言いがかりに近いものではあるが)寺田屋事件で銃殺したことが龍馬暗殺の遠因になったことを合わせると、信頼と安心のしんどさを味わってしまわざるを得ないのである。
「一歩引いて……バン!」
その言葉が背負うものは、思った以上に重いのである。
そしてこの気持ちを励起させることを手助けした時間遡行軍がかつての山姥切国広であるとすれば――彼のいう物語の収集は果たして何を意味するのだろうか。やはり序伝を除けば現状時間軸の最初と最後の飾るのが歴史上でもとみに著名で深い物語を持つ織田信長と坂本龍馬をめぐる物語であることに筆者は何らかの糸、いや意図を感じずにはいられないのである。
維。その意味の第五。文の意味を整え強める助字。残念ながらその文字を借りても一万字を超えてしまい、がったがたの文章となってしまったことをご容赦願いたい。
舞台刀剣乱舞、その意気、維れ新なり。ますますの発展を願う。
先達はおっしゃっていた。「刀ステはいいぞ…いいぞ…」と。
今ならわかる。「刀ステは(しんど)いいぞ…(しんど)いいぞ…」ということであったのだと。
しばし考察の海に潜りたいと思う。↓なにかございましたらお気軽に。