カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

【復刻】さても早すぎた埋葬

余談

3月は筆者のことを一瞥もせず去ってしまった。

何かを書きたいという気持ちはあるが、気圧と花粉がタッグを組み打鍵を阻む。

そんな折、27歳の頃に書いた文章が出てきたので、再掲してお茶を濁したいと思う。

ご笑覧のほどを。

本題

MRIを撮ってもらった。

土日は混んでいるということで平日に半休を申請して行く。

予約をしているので受付はスムーズである。目の前にMRI室があるベンチでしばし待たされる。

MRI室の扉には文章、記号、イラストとありとあらゆる視覚へのアプローチで危険性がアピールされている。

ガウスがすごいらしい、ということが痛いほど伝わった。

中田カウスについては特に触れられていない。

要するにすごい磁石でなんかすごいことになる訳である。当然金属を身に着けていてはすごいことになってしまうので取り立ててすごくはないしかし必要最低限のスタイリッシュさで用の美を感じさせる一畳ほどの更衣室で眼鏡・ベルト・時計を外す。

久しぶりに裸眼で巷を徘徊するのは何とも心細く、その気持ちも手伝ってか、

「チャックは大丈夫ですか」

と思わず係の方にお尋ねした。

「ホックやファスナーは大丈夫です」

係の方はすぐに答えてくれた。

ホックやファスナーだって十人十色なのだから細かく確認をしなくて大丈夫なのだろうか――万が一の場合股間で圧迫祭が開催されどころか断裂祭に派生する可能性を思い描き不安を覚えるがプロを信頼することにした。

もし確実な確認をする場合は股間に磁石を当てられたりするのだろうか。勢いよく引っ付いたりするとそれはなんとも恥ずかしいように思えた。

「体内にボルトなどは入れていらっしゃいませんか」

そんなことよりこっちだよという風に聞こえるのは常に社会に負い目をもって生きているからに違いないがとにかく体内に異物がないかを係の方に問われた。

「ないと思います」

ないはずである。最後に飛行機に乗ったのはちょうど一年前で、その際金属探知機は反応しなかった。

しかしその後何者かに拉致され、金属片を埋め込まれた可能性は否定できない。検査中に金属が検知され、エラー音が鳴り響くとき、自分は検査のエラーと自分が関知していない金属片が体内にあることとどちらにリアクションを取るべきか逡巡するうちに、係の方はてきぱきと私をMRI室へ誘導した。

想像通りの重そうな音を立て扉が開く。

MRIは思いのほかコンパクトだった。

「ごめんな、このMRI一人乗りなんだ」

使いどころのない台詞を一人心中で反芻した。

指示通り耳栓を入れてぴったりとした窪みに足から入る。うつぶせに寝転がった格好になり、腕も動かせない。蚊に刺されていなくてよかったと思う。頭に剣道の面のようなものを被せられ、私の乗った小さい筒は大きい筒の中へ唸りをあげながら進まされていく。三十分ほどだという。

目はつぶってもつぶらなくてもよいが、どちらかを貫いてもらったほうがきれいに撮影ができるというのでつぶったままにした。

前日の睡眠が少なかったのでさてここで少しでも、と一瞬でも思ったのが間違いで、耳栓をしていてもなおゼロ距離で工事をしているような音が響き渡るのだから堪らない。

撮影がぶれるということで身じろぎもできない。冷房を強めにしているということだがじんわりと暑い。

工事音が少し弱まり、唸るような音が続く。じりじりとするそれは、何十年後か、もしかしたら明日かもしれない火葬場での出来事の予行演習のようである。直火で焼かれているかのようである。

そう考えると先ほどの工事音は、土葬された直後に横で工事が始まってしまった疑似体験をさせてもらったとも言えるのかも知れない。火葬土葬どちらの埋葬法がいいのか探るシミュレータとしてMRIを導入したら流行ったりしないだろうか。後はいよいよ明日は羽化だと思ったら地面がアスファルトでガンガンに固められていることを知って絶望する蝉ごっこにも使えるかもしれない。

火葬・土葬が五回ほど繰り返されて筒が再び動き、光が差した。随分と眩しく感じる。

ご明察の通りチャックは大丈夫でしたよ、という報告はかえって失礼かも知れないと思い、係の方には一礼するにとどめた。耳栓はちょっと欲しかったのだが返却せねばならなかった。

診察の結果は重大な疾患はないということで安心して帰路につくこととした。きれいに撮れていましたか、くらい聞いてもよかったかもしれない。

会計待ちの間ガウスは決闘で死んだのではなかったかと検索をして、それはガロアだったことがわかった。いつの間にかガロアよりも七歳も長生きしてしまっていて、そんなガロアに私が言えることが何かあるとすれば、二十七歳で死ぬのにもありったけの勇気がいるだろうし恐らくそれは二十八歳で死ぬのであってもそうだろうということくらいである。

一方で生き過ぎたという思いがないこともないが、さりとて来週のジャンプが気になる自分も並列に存在している。老後は盆栽を育てたいという自分もいる。

何より今回の件で強く感じたのは自分が棺に入るときにしっかり死亡確認をしてくれる人がいると大変ありがたかろうということである。何もない長方形にただのんべんだらりと寝転がっていてその癖実はそう静かでもないというのはなかなかしんどいものとわかったのは収穫だった。

そういったことで明日婚姻することとした。大安だし。