カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

非情緒的な死と再生――『100日後に死ぬワニ』雑感

余談

相変わらずコロナウィルスの終息は見えてこず、日々の業務にガッツリ影響が出てきている。ブログを書いたり読んだりしたいのだが、昨日はせっかくの祝日だというのに半日昏々と眠ってしまった。

原稿関係は一回完全にストップさせてもらった。来月くらいに再開できるといいのだが……。融通を利かせて頂いて有り難い限りである。こういったことができるのも妻がしっかり家計を支えてくれているからで、頼もしくもあり情けなくもあり。

来週は本来東京行のはずであったのだが、キャンセルになってしまったので浮いたお金で少しでも経済を回したいと思う。

あと「どうぶつの森」が今回、同じ村で協力プレイができることが分かったのでまた妻とやってみたいな、と思ってもいる。

本題

『100日後に死ぬワニ』と筆者

『100日後に死ぬワニ』を筆者が知ったのは2日目、実際に読み始めたのはそこからもう少し後、M-1の日からであったように記憶している。

2日目の時点ではそもそも「ちゃんと続いた」ことに驚いている人も一定数いたように思う。そのまま、100日間ほぼ定時に更新、完走するという偉業をきくちゆうき先生は成し遂げられた。

筆者も仕事柄、「死」に触れることはある。来週も当たり前にお会いすると思っていた方が、ということも何度かあった。だからこそM-1の日に更新された、自分と同じように漫才番組を満喫しているワニくんの姿と、その下に無情にカウントされる死までのカウントダウンに心を揺さぶられたのを覚えている。

とはいえ「誰かしらがRTしてくれる」という状況に(それほどTL上でも話題になっていた)甘え、能動的に追うというよりは前述したような業務の多忙さもあり、目に入った時にまとめて読む、ということがほとんどだった。

それでもやはり残り10日を切ってからは、その日のうちに確認することが増えた。

この感覚を、筆者は覚えがあった。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 「へうげもの」において古田織部の死への外堀がどんどんと埋められてきていくときのそれと似ていたのである。約束された結末。その「幅」をどう料理するのか――まさしく料理人、漫画家の腕の振るいどころ、山田先生文字通り「乙な仕事」を見せてくださった。

きくち先生はどうであったか。

筆者は、ワニくんの最期をコンビニで看取った。昨日は18時から不要不急の会合があり、終わったのは21時前。家で待ってくれている妻にアイスでも買っていこうかとLINEでシュポポッと尋ねているうちに、ふとそういえばワニくんはどうなったろうか、と検索をかけたのだった。

死という事実の冷たさが桜吹雪の柔らかな暖かさにくるまれながら、しかしそこに鎮座しているように思われた。思われる、と感じさせる描写が絶妙であると思った。

またヒヨコの存在が「アッパレ! 戦国大合戦」で描かれた「多少の時間、ディティールは変わっても避けようのない死」を感じさせつつ、ワニ君の100日間の行動が救ってつないだ命のリレーというのが確かにあったのだ……という風にも思わせてくれてこれもまたよかった。

加えて、ネズミくん――登場人物の中では我々に最も近しかった人物――が死の遠因になってしまったかのような描写もまた心に引っ掛かりをつくる演出であった。

素晴らしい〆方だと思う。気付けば、ワニくんを看取ることが自分の生活の一つの原動力になっていたのかもしれない。

身近な人、具体的には妻がいるということがとても大切で尊いことのように思え、リクエストのアイス以外に金のハンバーグでも買ってこようかと思った時、きくち先生のTwitterが更新されていることが分かった。

もしかして続きが?

「新しいツイートを表示」をクリックすると、現れたのは怒涛のメディアミックスであった。

 

マネタイズが嫌だとかそういうことではなくて

一応最初に述べておくけれども、これまでもこれからもブログに書くことは筆者個人の個人的な意見である。Twitterユーザーがとか、オタクがとか、連載を追っていたファンがとかそういったことではなくてただただ筆者がこう思ったというその記録である。

先ほどのツイートを見た時の率直な感想を正直に言うと「お、おお」であった。

その何とも言えない気持ちのまま帰宅し、妻に「ワニくんは死んだよ」と伝え、(妻は鬼滅の刃のネタバレを防ぐためTwitterトレンドをエジプトに設定し、ワニくんの日々を見ると悲しくなるので関連ワードをミュートしていた)雪見だいふくを食べ、寝た。

起きるとワニ君が結構な炎上となっており、少なくとも彼らの望むコンテンツとしては「死んで」しまったことが見て取れた。

一読して思ったのはネット上の「電通アレルギー」は相当根深いものがあるのだな、というもの。朱に交われば即赤くなるとでもいうように、少しでも関わっていればそのコンテンツは即有罪、断じる我々は正義、という人々がまだいることにはいささか驚かされた。(電通という企業を擁護するわけではありません。念のため)

ステマだった! と激昂している人もいてそういう人は大概「よく知らないけど」が接頭語についているのだった。ステマがスッゴイテキトーナマーケティングだったとしたらあるいはそうかもしれないが、ステルスマーケティングではないのじゃないかな。

最初から仕込みだった! というのも筆者は違うのではないかと思う。色々な人が述べている通り、最初から舞台が整っていたとは言い難く、どちらかというと「いっちょ噛み」なのだろう。商標登録前後でその辺りの話は進んだのかな、とは思うけれど今回のこのバッシングを見るに「スポンサーが付きました」と連載途中で言っていたらそもそも完走できたかどうかも怪しかったのではなかろうか。

筆者が1日ぼんやり考えて思うのは「雑さ」である。筆者は100日間、言い方はよくないかもしれないが楽しませてもらった。香典代わりに単行本も買うだろう。優れたコンテンツはそれに見合った対価を得てほしい。

だからこそ「雑さ」が見えてしまうと嫌なのである。例えば「モナー」のように、例えば「だいしゅきホールド」のように、「誰のものでもないが、あなたのものだと言われるとそれは違うだろう」というものがネット上にはある。もちろんワニくんの物語はきくち先生のものだが、100日間の間に醸成された空気というものが確かにあった。そこに敬意を払っているかのように振舞ってくれていれば、全然違ったのではないかな、と思うのだ。例えば今日の19時に告知するとか。

実際のところ今日のコラボショップは大盛況で、それは昨日のうちに告知したからだ、という意見もあるかもしれないが、朝のニュース等で取り上げられたタイミングでもよかったんじゃなかろうか、きくち先生がお話しされていた「死を思う」というこのコンテンツの大目的について、内輪が水を差してしまった形になってしまったのではなかろうか、と思ってしまうのである。

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みたいな感じに急にぶっこまれてしまうとこっちとしても困惑してしまうのである。喪に服したいなんて勝手なことを言うな、と言われたらその通りなのだが、しかし仮に広告代理店が絡んでいるとするならコンテンツを「雑に」扱ってしまったことで大変になってしまったことはTwitter上だけでも沢山あったろうに、それでもまだやっちゃうんだなあ、と「今回の出来事のせいで芽をつぶされるかもしれないまだ見ぬコンテンツ」のことを勝手に考えてまた筆者はつらくなってしまうのである。

とはいえこれはあくまで筆者のお気持ちであって、それをきくち先生や他の方々に投げる気には到底なれず、石もて追う人々を見るにつけ、昨日ワニくんは死んだことはこの光景を見ずに済んだだけでも良かったのかもしれないと思わずにはいられない。

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ところで今日は弟の誕生日である。おめでとう。