カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

大河ドラマ「西郷どん」第十一回 「斉彬暗殺」、第十回「篤姫はどこへ」、第九回「江戸のヒー様」感想

余談

祖母の誕生日であった。満九十二歳になる。大正、昭和、平成、そして新元号を駆け抜ける予定のモダンガールであり、未だに杖もつかず自分の足でもって歩く。「ばあちゃんは、もう長くない……」と筆者に言いはじめてから気が付けば四半世紀が経ったので、もう半世紀くらい頑張ってほしい。

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「こんぴら丸」さんでお祝いを行った。ボリューミーかつおいしく、リーズナブルである。大河とコラボした「せご丼」もあったのであるが、丼ものはご飯がお替りできない(定食はお替わり無料!)ので定食にした。

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予約出来る部屋にはそれぞれ鹿児島の島々の名が冠されていたが、VIPルームだけはそのままVIPであった。画竜点睛を欠いていないか、とも思ったが、下手に一つの島名をVIPルームに冠してしまうと色々ともめるのかもしれない。お手洗いも同様であろう。

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そのまま、桜の名所慈眼寺公園へ向かった。まさに見ごろであった。BBQの良い匂いが辺りに満ちていた。

この川は筆者が幼少のころ水遊びしたのだが、こんなに浅かったのかと驚く。

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ブラタモリ的視点で見ると面白そうな石があったりした。

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桜をあと何回見られるだろうか、と考える余裕が今年はあったので、まだまだ見られるだろうとポジティブに考えることにする。

本題

有難いことにここ二週間ばかり忙しく、感想がおろそかになってしまっていた。今回から再び放送日の感想投稿を目指していきたい。

第九回「江戸のヒー様」

最初のスタッフロールで既に「一橋慶喜 松田翔太」とクレジットされるのでヒー様……一体何橋慶喜なのだ……となってしまうのはご愛敬であるが(ジョン万次郎は謎の漂流者表記だったのになあ)なかなかはまり役であると思う。個人的に松田さんの演技で一番好きなのは「名探偵の掟」なのだが、この後の描かれようによっては超えそうだと感じる。船で逃げるというのはなかなか暗示的である。

江戸に行けばすべてが変わる、何もかもがうまくいく……とまで思っていたかは分からないが、結局は足踏みしてしまうもどかしさ、先に出発した友人の堕落、(殿さまにはろくに会えていないという鬱憤)、また薩摩に残った正助の焦り……若いエネルギーが鬱屈しているさなか、天下の水戸家に対してすら斉彬愛が溢れるあまり書状を破られて「ころすぞ」みたいな目で見つつも誤解と分かる…ということがあったりしつつ、お庭方を拝命する吉之助。(翔ぶが如くより三話遅れ)斉彬、ついに吉之助をかつての少年と同定する。今までしてなかったのか。(じゃあ単にこいつほんと俺のこと好きだな……くらいの感じだったのか。それはそれですごい)何がすごいってここの鈴木亮平さんの泣き顔がほんとに小吉役の渡邉蒼さんのそれとオーバーラップするところ。あの小吉が成長したらこういう風に泣くな、という感じ。この配役の妙は素晴らしい。そしてあの相撲の感じだとどうしてもそうは感じられないがやはり腱を痛めていたのでお役に立てないというコンプレックスを斉彬自らに払拭してもらえる吉之助。よかったね。吉之助に口止めは一切できないし忖度もしないのでヒー様におかれましてはお父さんの前でキャバクラ通い暴露されたみたいな感じになったけどまあ些細なことですよね。

井伊直弼がわかりやすーい嫌な奴という感じなのはちょっと残念。彼なりに国のことを考えているのだ、という描写があればいいが、橋本左内が主人公サイドだしどうなるかなあ、といったところ。その井伊家を絡めて水戸徳川家に紀尾井坂の話をさせる、なんとも痺れる脚本である。無論視聴者には明治十一年が脳裏に浮かんだことであろう。

第十回「篤姫はどこへ」

篤姫の前に身分概念や間諜の心構えがどこかへ行ってしまっているのだが、もうそれは今更なので突っ込まないでおく。橋本左内瀉血はスッと解決していくが、瀉血はあんまり意味のない治療法だとこの頃はもうわかっているんじゃなかったろうか……というのが引っかかる。視聴者への説明もあり吉之助のことを大いに買いかぶってがっつり秘密を教えてしまうのは一見コメディパートであるが、今まで主人公特権で特に理由もなく持ち上げられていた吉之助が「買い被りだった」と評価されるという脚本は今までの描写はちゃんと「よくわからんけど評価されてます」ということだという自覚を製作者側も持っていますよ、という意思表示に感じられて嬉しい(買い被りだろうか)

斉藤由貴さんから南野陽子さんという製作者がどうしてもスケバン刑事でいきたいという強い意志が感じられる幾島のキャラもなかなか強烈である。もう少し放送が早かったら受験生たちはさぞかし胃が痛んだであろう。しかし、墨跡鮮やかに方言が半紙に書かれていると結構シュールで面白い。

傍流の娘、宗家の養子、そして御台所候補と立場はめまぐるしく変わり、それに対応しようともがくが内面はそれに悲鳴を上げていて……という複雑な役回りを北川景子さんも見事に演じている。しかし実父を亡くしともに悲しんだのに家族の思い出を楽しげに語る吉之助はサイコパスか何かなのか。

ピース又吉さん演じる家定がまだ熟れない柿を絵の中で熟させて描くのは果たしてどういった意味を持つのか。自らが熟れきらぬことを柿に重ねているのか。(それゆえ落ちた時あれほど取り乱したのか)この家定もまだまだ奥行きがありそうである。

第十一回「斉彬暗殺」

セキュリティがどこかしこガバガバ過ぎるのは今に始まったことではないが今回はあまりにもひどくはないか。もう突っ込まないけど。

斉彬公を救うために色々やってみた吉之助、渾身の藩主キック(ゲージ一本消費)を叩き込まれる。俺の命なんかどうでもいいんだよこの国をどうするかだろ! という斉彬のそれは人のそれではない、鬼、いや神、いやさ鬼神である。嫡男を失っても、自分が暗殺されかかっても、篤姫が不幸になっても、一橋慶喜が将軍になりたがっていなくても、それは些事なのである。

吉之助は斉彬教の信者である。薩摩であるとか、島津家ではなくていまや斉彬を現人神として崇拝しているのは今回、下屋敷へ突撃したことからも明らかである(なんで生きてるんだよこいつ)。しかしその鬼神のご託宣に吉之助は即答できない。その発想に追いつけないからである。君のためなら死ねる状態なのにその君から「俺の屍を超えていけ」と言われたらまあ混乱もするであろう。その思想を教えこむという意味でも、斉彬には時がない。斉彬の死まで、あと四年。

井伊直弼一橋慶喜という、主人公サイドからしたらどちらかというと悪役の人間がばっちり正論をいうのが薩摩編の無条件肯定されていた頃に比べるとだいぶ健全な感じである。

あとは、お由羅の仕業と決めつける吉之助以下藩士たちが滑稽に見えてしまうが、そうなるのも仕方ないくらいお由羅騒動(高崎崩れ)がどれほど藩士たちにとってトラウマものであったかということを納得させるためにやはりそこに一話くらい割いてしかるべきではなかったか、と思う。相変わらずお由羅の画面制圧力がすごい。あれは多分抱えている動物が本体のタイプのボスである。

見終えて

いや、江戸に入ってから「西郷どん」面白い。もちろん首をかしげることも多々あるのだが、ようやく吉之助が多面的な見方をされ、「西郷どん」への覚醒の片鱗が見えてきたようでうれしい。また、今まで以上に今後の伏線が張られて長期的な展望が見えてきたのも一話で起承転結が多かった以前に比べて「大河ドラマ」を上手に使うぞという意思が感じられる。是非このままでいってほしい。