カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

Kindaichi can't pack emotionあるいはスーパープレミアム「獄門島」感想

余談

 

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 ということで今年も精矛神社へ初詣に行ってきた。

視聴は変わったが無事お手洗いは完成していた。

幾許かの力添えということで今年も御朱印を頂いた。

昨年はお陰様で楽しい一年であった。その感謝と今年の楽しい一年を祈願した。

本題

さて今まで2回の金田一ドラマの感想を書いてきた。

 

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 特に前者の事は書いて結構経つけれどもいまだにアクセスも多く、書いた人間としては本望である。

この一連の金田一リブートの始まりと言えばやはり2016年放送のスーパープレミアム「獄門島」になるであろう。

金田一ルネッサンスとでも言うべき同作品はまさしく賛否両論を巻き起こした。

正直なところ原作にも思い入れが強かった筆者としては当時は否の方に気持ちが傾いていた。

長谷川博己氏をはじめ豪華なキャスティング。美しい映像。それがあるからこそ今日では映像化不可能と言われ続けて来た「きちがいじゃが仕方がない」のそのままの使用。悍ましくも美しい死体とそれを装飾する明朝体の俳句という過去金田一作品を連想させるカット。

だからこそ。

そのまんまでいいじゃん、と筆者は当時思ったのである。普通の金田一耕助を、原作通りにやってしまえばよいではないかと。変化球はその後でもいいではないかと。どうして上等な料理にハチミツをぶちまけるが如き所業をするのかと。

本日、再放送があった。2年の時を経て長谷川金田一はやはりトリッキーではあったが、吉岡金田一とは異なりながらも間違いなく金田一耕助ではある、と改めて思い至った。

当時は書き散らす場所もなかったが、今はこのブログがある。放送中のツイートをまとめなおしながら改めて感想を記しておきたい。

ということでここからは「獄門島」の様々なネタバレがあります

復員兵としての金田一耕助

かつて映画「悪霊島」にてジョン・レノンの「Let it be」が使われた。それは語り部が去りし事件を振り返るとき、同時代の曲として効果的に使われていた。

今回の「獄門島」にはマリリン・マンソンの「Killing Strangers」が使用されている。獄門島事件は1945年頃、「Killing Strangers」は2015年の曲であるから実に70年の時を経たコラボとなるが、これが不思議とマッチしている。

この曲はベトナム戦争中に秘密部隊に属し、罪のない一般市民を多数殺害した父をもつマリリン・マンソンベトナム帰還兵をモチーフに制作した曲であるという。

マリリン・マンソンは歌う。

We're killin' strangers, so we don't kill the ones that we love

(俺たちは他人を殺したさ、だが愛する人を殺しちゃあいない)

We pack demolition We can't pack emotion

(俺たちは破壊に蓋は出来る。だけど感情にはできないんだ)

Marilyn Manson - Killing Strangersより。拙訳。

ちょっと恣意的な訳になってしまったかもしれないが歌詞を見た時筆者は色々が腑に落ちた。まるで長谷川金田一へのアテ書きのようではないか。

やはり製作陣が書きたかったのはそこなのだ。復員兵・金田一耕助を。地獄からやっと舞い戻ってきたと思ったら再び地獄を見せられる金田一を書きたかったのだと思わざるを得なかった。

戦争。「悪魔が来りて笛を吹く」では戦争から死ぬ気で復員したことが悲劇を生む。「犬神家の一族」では復員の仕方を間違えたことが。「獄門島」では復員できなかったことが。

けれど。

そもそも当たり前すぎるけれど、戦争そのものだってとんでもない悲劇なのだ。70年を経た今、つい普通に受け止めてしまうけれど、金田一耕助が駆け抜けた時代は戦争という地獄からどうにか日常に回帰しようとした時代でもあった。

金田一も、地獄を見た。沢山の人が意味もなく死んでいく。他人を殺し、他人に殺されていく。

だからこそ。長谷川金田一は意味を求める。本当は。本当は、人が人を殺すのは大変なことなんだと。あの場所は地獄だったから異常だっただけなのだと。人は明確な意味を持って人を殺すのだということを確認することによって彼は彼なりに日常に回帰しようとする。

そしてその目論見は失敗する。獄門島もまた、戦場であったからだ。地獄だったからだ。監視社会であり同族が相争っている。ある種金田一が先に体験した戦争よりひどいかもしれない。

そして。

以降は、次項にて述べる。

地獄の番人への一矢

そして獄門島では、少なくとも一連の事件では、人が死ぬということにはやはり理由はなかった。

「お上」というどうしようもない大きなものに動かされ人が駒として扱われ消耗されて他人を殺し殺されていく地獄から這う這うの体で帰還した長谷川金田一を待ち受けていたもの。それは愛すべき隣人であるはずの同じ島民を嘉右衛門というやはりいかんともしがたい権力とその怨念によって見立て殺人の駒として扱って殺す、情念の操り人形となった犯人たちであった。

大きなものに踏みにじられ、腐った魚のように死んでいった戦友の願いはやはり大きなものに踏みにじられてしまった。

長谷川金田一版「獄門島」では了然和尚は「俳句を屏風にしてヒントを与えたが金田一は止められなかった。期待外れだった」と述べる。これに対して長谷川金田一があたしゃキレました、プッツンします、するのが長谷川金田一版のある種最大の見どころであるスーパー無駄無駄論破タイムである。

のだが、この点実は原作とは真反対である。ここで和尚は自分の敗北を認めているのだ。もちろん、全てを完遂したという余裕があったのかもしれないが。

なぜこのような改変をしたのか。原作の罪の告白シーンの章題は「封建的な、あまりに封建的な」となっている。長谷川金田一は戦場と獄門島、2つの個人の意思が尊重されない地獄に押しつぶされつつある。それに立ち向かう金田一を表現するにあたってのことではないかと思う。無責任な軍部と勝手に失望した和尚がオーバーラップし、あそこまで金田一は激昂したのではないだろうか。

因みにお前の目論見全然だめだったもんねーバーカバーカする内容については原作においては金田一が言いたくないんです、といいつつ止める間も与えず全部ベラベラ喋って和尚は結局憤死する。アプローチは違っても人の配慮よりも真実を追い求めずにはいられない辺りが金田一という人間なのである。(ある意味言いたくないな~チラッチラッする辺り本家の方がたちが悪いかもしれない)

毎度のことで恐縮だが漫画版では了然和尚の昇天シーンが最高なので是非漫画版をチェックしていただきたい。

長谷川金田一、吉岡金田一その相違点

最終盤、原作が誘ってたから一応誘っとくか、みたいな雑な感じで長谷川金田一は早苗を島外へ誘う。よりどころがあれば、帰るべき日常があれば……という思いもあったろうが、自分の推理をミスリードしたことで散々罵倒していることもあり当然断られる。

長谷川金田一は日常に戻るため事件を解決し、吉岡金田一は関係者を日常に帰すため事件を解決する……というと乱暴だがそのように感じた。

長谷川金田一も吉岡金田一も真実を追い求めるあまりちょっと人の扱いが雑になりがちなところが正しく金田一である。長谷川金田一は無駄無駄ラッシュで真実をぶち込み、吉岡金田一は真綿で首を締めるようにゆるゆると真実を突きつけるという違いはあるが。どちらもまぎれもなく金田一耕助であると今回再視聴して改めて感じた。

観終えて

やはり和尚との対決シーン、画面が一幅の絵のようでとても美しくてたまらない。(2019年の今見ると「まんぷく」力の高いシーンでもある)キラーシーンである。また死美人のカットは前述したが横溝作品だなあ、と感じる。

この金田一で「百日紅の下にて」をすごく見てみたい。また、「幽霊男」とか遠慮なくぶちのめせる犯人が出てくる作品でまた登板してほしい。

見逃した方は「悪魔が来りて笛を吹く」ともども配信も期間限定でしているので是非見ていただきたい。

www.nhk-ondemand.jp

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KILLING STRANGERS

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