それは末弟が生まれた年のことであった。我々一家は一軒家に引っ越し、筆者は「子ども部屋」を得るに至った。
それを祝ってかは知らないがプレイステーションが我が家にやってきた。
それは誠に革命的な出来事で、弟(初号機)と共にドラえもんやボンバーマン、クラッシュバンディクーで遊ぶ日々が続いた。
ある日、帰宅すると学習机に一つのソフトが置かれていた。
今までのソフトとは違う厚み。白地にロゴのみというシンプルかつインパクト抜群のデザイン。後年、遅ればせながら「ブギーポップは笑わない」に触れた筆者はこの時と似た衝撃を味わったのを覚えている。
半ドンだった親父が風呂から上がり、子ども部屋にビール片手にやってきた。
お帰り、と言いながら父は、おお、FFの新しいやつだぞ、と言った。
なんとディスクが三枚もあるそのゲームの名は、「ファイナルファンタジー7」というものだった。
そうか、ファイナルファンタジーって新作が出るのか、というのがその時の筆者の素直な気持ちだった。
ファイナルファンタジーやドラクエというのは筆者にとって親父がクリアした後のデータでプレイし、イベントが終わった後の街をめぐって住民の話からどんなことが起こったのかを推測するゲームであり、「スーパーマリオRPG」や「ポケットモンスター」といった自分が体験するゲームとはジャンルが違うと考えていた節があった。
自分が最初からファイナルファンタジーをプレイする。
その新鮮さに高揚している自分に気付いたが、まずは親父のプレイをいつものように後ろから見ることにした。「先の展開を見ると面白くないぞ」と親父は言うが、マシン語を使って機械とタメ口で話しながらゲームをしていたギークの走りのような親父のプレイは手馴れていて、筆者にとっては絵本の読み聞かせでページを繰ってもらうような心地よさがあった。
首尾よく進み、セーブしようとする親父。が……。
なんということでしょう、筆者と弟によってメモリーカードはクラッシュバンディクーのセーブデータで埋め尽くされていたのだった。
およそ一時間を無駄にした父から目玉を食らい、結局その日はプレイせずじまいであった。
さて自分でプレイし始めた。名前が四文字縛りではないので本名をフルネームで入れてしまう小学二年生であった。何かあるたび「木本仮名太!」とフルネームで呼ばれ続ける受難のツンツン頭。そんなところ一つとってもやはり小学二年生にはなかなか難しい。しかし筆者には秘策があった。
週刊少年ジャンプである。
今ウィキペディアを見るとFF7は一月末の発売だというから果たしていつ頃のジャンプだったか定かではないが、とにかく我が家のバックナンバーではFF7攻略記事が展開されていた。これがなければ筆者は列車墓場辺りで投げ出していたように思う。本誌から攻略記事だけ切り抜いてテープでベッタベタにまとめた(こち亀百周年の特集記事が「切り取って保存しよう!」というものであり、それ以来筆者はジャンプで気に入ったものはしばしば切り抜いて保存していた。ドラクエモンスターズの配合表などはそれを所持しているということによってしばらくの間クラスカーストの上位に降臨できたものである)あの筆者だけの攻略本は果たしてどこに行ってしまったのだろう。
ともあれそれで神羅ビルまでは楽に突破することができたが、ここから「この先はキミの手で確かめてくれ!」状態となり、(実際はチョコボ&モーグリの入手法やユフィ、ヴィンセントの仲間に誘う方法なども掲載されていたと思う)参ってしまった。あんなに広く広大に感じたミッドガルから脱出してみると恐ろしいほどのフィールドが広がっており、まさしく途方に暮れてしまった。
またカームの回想が長い。疾風怒濤の展開から急に凪のような展開となり、もちろん最後に故郷が大変なことになってはしまうのだが一回目の「ダレ」がここできた。その後のコンドルフォートもガキの筆者には難しい代物だった。それでも筆者は頑張った。なぜなら格好いい飛空艇を「ジュノン」で見つけたから。操作方法は説明書に書いてあったから知っている。早く動かしたい!
――DISC2以降でないと乗れないことを知る余地もない筆者はバグを疑い、飛空艇を入手しないままストーリーが進むことに不安を感じながら大海原を渡った。多分この辺りで三年生になっていたはずである。
難関はゴールドソーサーであった。敵はDISCである。やんちゃ盛りのガキどもが丁重に扱うはずもなく、その傷のせいかゴールドソーサーに突入するムービーが何度やっても途中で止まってしまうのだ。親父は諦め、以降ドラクエは11に至るまでプレイし続けているものの、FFはこれが最後のプレイ作品となってしまった。
息子を哀れんだのか、ゲームに否定的なお袋であったけれども生協の共同購入カタログに載っていたDISCの傷を修復するツールを授けてくれ、その日とうとう我が家はゴールドソーサーへ突入したのだった。
そうして辿り着いた故郷。神羅屋敷はトラウマ。ダイヤルの回し方がわからず、ヴィンセントを放置することとなる。かつて回想で巡ったニブル山を超えることに感慨深くなりながらも、しかし出られず筆者は困惑した。何度もぐるぐる回っても出口がない。参った。ちょうど他のゲームもプレイしていることもあり、そこで一度中断してしまった。
Y君という親友がいて、どれくらい親友かというとレッド13(環境依存文字に配慮した表記)は彼の名前、ケット・シーは彼の愛犬の名前にするくらいの仲だった。筆者よりずっと賢く、のち旧帝大に進み現在研究職に就いているはずである。
そんな彼が泊まりに来た折、なぜだかFF7の話になり、久々にプレイすることになった。ここで詰まっている、といい、彼にコントローラーを委ねた。
暫くして、突如戦闘が始まり我々は驚いた。
Y君は壁に沿ってボタンを連打しており、そして出口に待ち伏せているボスに話しかけることでイベントが進んだのである。
ランドセルほどのサイズの小さな画面でプレイしていた筆者はそのボスに気付かず無駄にうろちょろしていたわけである。
いざ戦闘が始まるとひと夏をひたすら戦い続けていたパーティーは鬱憤を晴らすかのように活躍し、特に苦戦もせずついにロケットポートエリアに至るのだった。
その後も規定レベル以上に鍛えていたこともあり、また友人が泊まりに来てくれたことによる勢いもあってその日のうちに「クックック……黒マテリア」までたどり着いた覚えがある。初めてそこまで長い間ゲームをした。
しかしその後、Y君が帰るとその反動か大熱を出してしまい、ゲーム禁止令が言い渡され、回復してからも「ボンバーマンファンタジーレース」や「みんなのGOLF」などにも傾倒していき、再び停滞期が訪れるのだった。
筆者は五年生になり、休日に電車で習い事に通うついでに今は亡き金海堂という書店を訪れるのが楽しみの一つであった。
そこで「解体新書」に出会った。
実は少し前に再開しようと思っていた筆者は、時間を空けたために話の筋がわからなくなって断念していた。そこにキャラクターの心情がつづられる「解体新書」はうってつけであった。
ヴィンセント、ユフィも仲間にし、エアリスが生き返らないことを知って落ち込んだりもしたが、少しずつ物語を進めていった。
友人が話していて絶対嘘ワザだと思っていたチョコボックルが実在して驚いた。
時が流れ、PS2を手に入れてからもそれは同様であった。
中学生になり、ついに海チョコボを、そしてナイツオブラウンドを手にした。プレイ時間はとうにカンストしていた。いよいよラスボス、既に「タシロ!」として有名になっていたあの曲を背に挑んだ筆者はしかし、普通に敗北した。
高校受験の波がいよいよ高潮となって筆者を飲み込み、再び停滞の時が訪れた……。
そうしてずいぶんと時が流れた。その間にコンピレーションとして様々な形でFF7の世界は描かれることとなった。弟が初めて手に入れたガラケーにはダージュオブケルベロスのアプリ版が入っていたし、筆者はバイト先でアドベントチルドレンを売りさばいていた。
デオデオでディシディアが780円だったのでかっとなって買ってもうた。合わせて16Gのメモステも購入。こないだ持って帰るメモステ間違えて弟とモンハン出来なかったからな…これにデータを統合するのだ
— 木本 仮名太 (@kimotokanata) 2011年8月29日
震災不況の中どうにか内定を得た筆者はついにゲームを解放し、再びクラウドに触れるのだった。十五年近い歳月が流れていた。
きもとは FF6-9を てにいれた! 2,850JPYを しはらった!
— 木本 仮名太 (@kimotokanata) 2013年1月5日
社会人一年目はあっという間に過ぎ去り、その年末年始休みにFFシリーズのアーカイブズが半額になるという大盤振る舞いが起きた。思わず筆者は購入してしまった。
FF7のアーカイブズはインターナショナルである。大変お世話になった解体新書(K君のお兄さんに貸してから返ってきてないぞ)は改訂版で、自分のバージョンにはない追加要素に大いに胸躍らされたものだった。
特にDISC4はとても魅力的で、そのためだけに購入を検討したほどだった。
実際購入してみると、PSP、すなわち携帯機でFF7ができる感動とDISC4の期待にたがわぬデジタル辞典ぶりは大いに満喫したものの、さすがにロード他が十五年前をシビアに感じさせ、ミッドガルを脱出することもなく積んでしまうのだった。
そのままFF7という作品は筆者の思い出の中でじっとし続ける予定であった。
つづく。(DISCを交換してください)