カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

神無月、夜明け前、Open moveで「ナガイヨルla longue nuit」を聴く。

慢性的に忙しい、というか自分の業務パフォーマンスが落ちているという実感があり、切ない。疲れがミスを生みミスが疲れを生むループだ。

そうして1日分の、(あるいは数日分を前借りして)元々ない社会性を使い果たして帰宅すると娘がリビングから玄関に駆け出してきて、抱き上げて2人でリビングに戻ると妻がつくってくれた美味しい料理が待っている。1日の残り4時間ほどで、ようやく自分が人間になったような心持ちになる。

食卓を囲み、何か映像を見て感想を言い合い、食後の運動をして、娘を風呂に入れ、入浴後のケアをし、寝かしつけたらそろいのティーカップに紅茶を淹れてお茶菓子をいただきながら妻と互いの1日を労い合う……。

妻の協力で得られる大切な時間だが、ここ1週間は寝かしつけの段階で自分もつられて深夜に起きる、ということが続き、これまたそのせいで日々がリセットしきれず消化不良になってしまっている一因かもしれない。

今日もやってしまった。

明日は休み、少しくらい夜更かししても構わない数少ない夜を無為にしてしまった無念さを抱えてiPhoneを点灯させると時刻は4:14分で、iOSは16.3になっていた。とりあえず写真を開いて娘を「幽体離脱」させてみて、ベビーサークルで寝息を立てている娘のオムツを替える。

後始末をした後ハッとしてソーシャルゲームを開いてみると案の定連続ログインが途切れていてまたしょんぼりする。1日2分程度、タップしてログインボーナスを受け取るくらいのことができない。

そのままTwitterを開いてタイムラインを遡ってみるとこれまた明日が土曜日ということもあり遅くまで盛り上がっていた様子が窺えてぢぐしょ〜となるが、日が替わるあたりまで遡って特に言及されている話題に気がつく。

和田彩花さんが新曲をリリースされたのだった。眠気が自分から揮発していくのを感じた。

時刻は4:42分、せっかくなので4:44分になるまでiPhoneとにらめっこしてみて、観念してリビングにエアーマットを敷いて寝転がる。

寝室から娘と妻の寝息のデュエットが聴こえてきそうな静かな夜だ。

最近よく使っている骨伝導イヤホンの電源を入れて、「ナガイヨルla longue nuit」を聴き始めた。

前回「sachi」を拝聴したときは想定される状態と全く違う聴き方で、(だからこそなんとか受け止められたくらいの鋭い抉り方を笑顔でしてくるような作品で)それに比べると今回はかなり理想の「ナガイヨルla longue nuit」初聴き体験だったんではないか、と今振り返って自賛したくなる。おお、私的礼賛。

すぐにボーカルが入って、3分ないことも多くて、という最近のトレンドをゆったりと受け流すこの曲は10分近い大作だ。それでも内包された密度、眠れぬ長い夜をパッケージングするのであれば少なくともこれくらいの時間は必要だったのだろうな、ということを聴くうちに納得するでもなく五体に染み入って感得させられる。

個人的には「マジで眠れない夜」とそうでもない時で区間リピートを使い分けたい部分があったりもし、つまりは長編小説のふりをした短編集のようなお得で豊かな曲のようにも思えた。カバーアートも相まって暗い水中でポコポコやっていたら最終的には…というひとつの夜の高まりとその行く末を追う叙事詩のようでもある。

和田彩花さんは歌う、唄う、詠う。最近の和田さんの声は「アンジュルムのTOKYO散歩」のナレーションとして馴染んでいるのでなんだか不思議な気持ちだ。

できればゆっくりぐっすり眠りたい

だけどいつもなんか忘れられないでいる

まるで自分の心を見透かされたようで狼狽えてしまった。ここからのviolinとのせめぎあいが時に好きなパートである。

聴き終わってしばらくぽぅっとしているとシャッフル再生は小沢健二さんの「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を流し始めた。

きっと魔法のトンネルの先

君と僕の心を愛す人がいる

汚れた川は再生の海へ届く

まるで答え合わせのようでシャッフル再生、侮れない、と唸らされる。

先ほども言及したカバーアート、自転車が打ち捨てられるような水辺はまさに「汚れた川」のようだったからだ。

ナガイヨルというトンネルを抜けた先、自分を待ってくれている人がいるという幸せが何度でも筆者を再生させてくれる。

夜が明けた。

世も明けるだろう、そのうち。

今日も妻と子とこの世界を生きていこう。