カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

快刀乱麻を断てず――黎明館開館40周年記念企画特別展「南北朝の動乱と南九州の武士たち」鑑賞

余談

7月頃だったろうか、最寄りのスーパーでポスターを見かけた。鹿児島城(鶴丸城)跡地に屹立する鹿児島県歴史・美術センター黎明館。そこで「南北朝の動乱と南九州の武士たち」という企画展が開始され、筆者の生まれ在所の由来ともなった「笹貫」も期間限定で展示されるという。

笹貫には筆者は特別思い入れがあり、台風接近の中福岡まで遠征したこともあり、刀剣乱舞で実装された際は左手に娘を抱き、右手にスマホを持ってゲーミング貝殻を集めて回ったものである。

また、8月同じく黎明館で開催された「ジブリアニメージュ展」を鑑賞した際にも次回開催の予告があり、いよいよとの思いを強くした。チラシも持ち帰った。

天候不安で地域の運動会が中止となり、ぽっかりと時間が空いた。国体のための交通規制が本格化する前に鑑賞してみることにした。

国体の警護に向かうのだろう機動隊の名前が入った厳つい車両を横目に、我々は黎明館へ向かうのだった。

展示会場は2階であるが、階段側にフォトスポットが設けてあり早速撮影する。

最近「はいチーズ」するとポーズをとることもある娘だが、この日はスン…としており、かえって笹貫のすらっとした刀身の真似のようで良かった。

階段を上り、受付でチケットを買う。図録も妻の助言により購入し、我々は混沌の具現である南北朝の動乱に足を踏み入れたのである。

本題

前夜

南北朝の動乱――あるいはそれは焼肉の肉を焼くと言っているかのような表題で、いわゆる南北朝時代と言う60年はそのまま動乱の時代であった。

火種は既に鎌倉時代末期、元寇の時代に撒かれていた。

誰もが教科書で見たことがあるであろう蒙古襲来絵詞――蒙古軍が騎馬武者に矢を射かけ、てつはうが炸裂しているあれ――の展示の周りには実際の「てつはう」があり、元寇からの防衛(異国警固番役)に任じられた書状、実際どこを守っていたか、いかに頑張ったか、その頑張りに報いる褒賞などが文書・図版、絵巻物などで紹介されている。

が、そのうち褒賞についての文章を見るとなんと元寇から四半世紀近く経っていて、これは御家人じゃなくとも幕府に不信感を持つのは仕方がないだろう。

外から敵は来るし、頑張っても幕府はろくに褒美もくれない。読者諸賢も昔学んだであろう「鎌倉幕府の滅んだ遠因」は南九州の地に領地を持っていた関東御家人にとって特に深刻であった。じゃあ自分で守らなきゃ、自分の土地を、ということで続々とお国入りを果たしていく。

面白くないのは国人衆である。地元住民である彼らは今まで実質的にその地を支配してきた。株式会社鎌倉の傘下には入るけれど月々いくらのインセンティブを払えば後は自分の裁量で経営が出来る雇われ店長のようなものであった。

ところが、元寇を機に株式会社鎌倉から出向してきたやつが地元のことはよく知らないのに偉そうなことを言う。当然面白くない。南九州各地で国人衆と関東御家人の対立は深まっていく。

中央で鎌倉幕府の凋落が始まると薩摩国守護・島津貞久のもとにも足利高氏から「合力」を求める書状が届く。後の室町幕府初代将軍、足利尊氏となる男の話に乗った島津氏は九州三人衆と謳われた大友氏、少弐氏と共に幕府の九州の拠点、鎮西探題を攻め落とし、この年鎌倉幕府は滅亡する。

が、その後行われた建武の新政後醍醐天皇による身内びいきの政治であった。先の元寇による領地の混乱からようやく解放されるかと思った武家は落胆し、尊氏の支持が高まる。これを危惧した後醍醐天皇は足利氏を討つために島津氏を出陣させるが、既に尊氏と貞久は志を共にしていた。

一度は敗れた尊氏は九州にて再起。多々良浜の戦いによって九州の勢力図を書き換え、その勢いをかって湊川の戦い楠木正成たちを撃破。後醍醐天皇と和睦するも、後醍醐天皇はその際渡した皇位継承の証である三種の神器は偽物であると主張。天皇が並び立つという歴史上類を見ない奇妙な時代――南北朝時代が幕を開けた。

「貴種」の下向と強かなる南九州の武士たち

勢力が分かれた時、地方にとって重要なのは「どちらについていくか」ということである。大河ドラマ真田丸』をご覧の諸賢はご存じの通り、大勢力の間を回遊していくことが乱世を生き残る秘訣である。

当初鹿児島においては島津氏は前述の通り尊氏と志を共にしていた(以下武家方という)ここに、後醍醐天皇の息子、懐良親王の側近が地ならしし、またなんと本人が下向することで、反島津勢力――多くは元寇時代からくすぶっている地元勢力――はその旗のもとに集まり、組織的な反抗を行うようになる。すなわち後醍醐天皇方(以下宮方という)はその勢力を増しつつ、地元勢力としては「もともと俺たちの土地なのに面白くねえなあ」という感情に大義名分が与えられたわけである。

これにより鹿児島での争いは激化するが、中央ではその間に尊氏とその身内の間にいざこざが生じ、今度は足利直冬が九州へ下向する。彼の書状は宮方に苦戦する武家方にとて都合のいいものであり、ここに九州地方でも尊氏方、直冬方、宮方の三つ巴へと勢力図が変わっていく。

多くの武家方が直冬方となる中、尊氏方のままであった(分家は直冬方につくなど保険を残している)島津氏は尊氏の意志により宮方と和睦する。中央では早々に破られる和睦であったが、島津氏はその後も「懐良親王のためだぞ」という書状でもって国人衆を動員して直冬方を攻めるなど、自身の勢力拡大に活用した資料が残っている。この辺りは文字通りの「錦の御旗」を得たと思っていた国人衆がまんまとそれを相手に利用されてしまった訳で、島津氏が一枚上手だな、という感じである。

その後も島津氏は状況に応じて勢力を回遊するが、その巧みさゆえに所領に関して関東から忠告を受けることもあった。だが、御年94歳という大長老となっていた島津貞久は反論し、既に島津氏は独立国の様相を呈し出していた風でもある。最南端にある勢力が、いつのまにやら勢力のキャスティングボードを握っていったように見え、痛快ですらある。

今川了俊の憂鬱

紆余曲折を経て、九州は宮方が征西府を設置して事実上統一した形にあった。この状況に埒を開けるために送り込まれたのが武家方のエリート、今川了俊である。九州に到達するまでの道のりを紀行記とした粋人は10年の間大宰府を支配していた宮方を敗走させるなど、前評判通り武人としても一流であった。

ところが、宮方との決戦を目した陣中であろうことか了俊は島津貞久の跡を継いだ氏久が説得して連れてきた少弐冬資を討ってしまうのである。(水島の変)氏久の面目は丸つぶれであり、陣を引き払った氏久は了俊の説得も聞き入れず、とうとう宮方に寝返ってしまう。

了俊はこの状況を打開すべく、一族を鹿児島に送り込み、自身も書状を送るなどして反島津勢力の糾合を目論んだ。そう、以前と武家方・宮方が逆転した島津氏と国人衆の代理戦争が再び巻き起ころうとしていたのである。ここに地方のまず生きることが大事であり、代紋はそのお題目よりも即物利益が大事なんじゃいという仁義なき戦いぶりが浮き彫りになっている。

結局これは島津氏の(形式的な)降伏によってうやむやとなる。実に了俊と島津氏は永和の和平、永徳の和平、明徳の和平と三度和平を結んでおり、「禁煙なんて簡単だ、私は何度も禁煙している」というジョークを思い出すような展開になる。

当然面白くないのは国人衆である。「氏久の首を獲るか、それ以外か」というローランドみたいな煽りをしてくる了俊に従っては「えー、天下のために、えー、私を将軍の分身と思って、えー、ご納得いただきたいのであります」という苦しい弁明で氏久その人と再び手を結んだことの言い訳を聞かされる。

いわばコンサルの理想論に付き合わされる中小企業経営者みたいなもので、このままでは敷地に除草剤を撒く羽目になると思ったのかどうか、国人衆は一揆衆として自分たちで団結をはじめ、結果として了俊は島津氏に加えて一揆衆という厄介者を自らの手で生み出してしまった。

そんな了俊だが本来の役目である九州での南北朝内乱を関東より3年早く終息させるなど、間違いなく有能ではあった。

しかし、島津氏の暴れっぷりに加え、反対側、中国地方の有力守護大内氏、豊後守護大友氏の不興も買ってしまい、実質的に九州探題を解任されてしまう。

ひとところは「優秀すぎて足利義満に疎んじられてしまった悲劇の名将」という世評の高かった今川了俊であるが、上記の大友氏のいざこざにおいても義満は了俊を支援しているし、京に戻った後あろうことか反乱に参加しても義満は命を取らなかった。この時、了俊75歳。同時代の人にはその様を「恥辱」と酷評された。

でありながら義満への不満溢れる「難太平記」をその後著すのだからそのプライドの高さというかなんというかはホンモノである。了俊の没年はわかっていない。

本展には了俊が上洛――実際は九州からの「敗走」であると指摘されている――時に島津家から大友家へ送られた書状が紹介されている。

「ヒャッハー! 了俊の野郎京都に送り返されやがったぜ~ あの野郎おれらとマブダチっていいながら少弐っちを討ちやがってよォ~マジでスカッとしたぜ~」

稀代の知勇兼備の武将、今川了俊が敗北した理由はたった一つ、シンプルなもの。

「てめーは島津氏を怒らせた」であることが伺える史料である。

刀剣鑑賞・太刀 銘 波平行安 号 笹貫

bunka.nii.ac.jp

さて、そんな今川了俊が官位を推薦した書状が残っている島津家一門樺山家の音久の佩刀と伝わっているのがこの笹貫である。

前述したとおり、筆者はこの刀を鑑賞することを目的に島津氏久よろしく太宰府まで攻め上った――いやさ九州国立博物館までお邪魔したことがある。

kimotokanata.hatenablog.com

当時は刀剣男士として顕現しておらず、既に顕現済みの刀剣との人だかりの差に(なにしろ隣は大名物・天下五剣・大典太であった)おれはわかってるぜ……笹貫の素晴らしさを……という感じであったが、今回凱旋にあたり老若男女様々な人々がその美しさを今回特注されたというショーケースごしに堪能しているのを見て後方彼氏面気分であったがそもそも筆者以外の数多の人々が素晴らしいと思っていたから重要文化財なのである。

娘を抱きながら、笹貫の前に進み出る。青々とした直刃とは4年ぶりの再会である。ぐるりとまわり、そのどの角度から見ても鋭い美しさに息を呑む。

「きれいねー」

娘が、4年前、侍展で笹貫と筆者が対面した時にはこの世にいなかった2歳の娘が、ぽつりと言った。ショーケースを撫でようとしたので慌てて距離を取りながら、ああ、娘もまた笹貫に出会ったのだ、と思った。

コロナに加えインフルエンザも流行しており、今回の県内の車移動でもぐずることがある娘を他県の刀剣鑑賞に付き合わせるのはまだ抵抗がある。

黎明館で展示をしてくれたことで、娘に今まで彼女の世界になかった新しい美に触れさせることが出来た。

妻と娘当番を交代し、久々に単眼鏡を目に当てる。峰の部分の切欠けが確認できた。

音久は了俊に官位を推薦されたわずか3年後にその了俊が差し向けた軍によって居城に侵攻され、これを撃退している。その時に笹貫はもしかしたら佩刀されており、まさかして音久は抜刀し、この傷が生まれたかもしれないと思うと、この令和の世と南北朝時代が一直線につながったように思え、ここに「在る」ことの真骨頂であった。

因みに鑑賞中、偶然にも母からLINEが来ていた。南日本新聞の一面に「笹貫」が出ていたよ、という。南日本新聞は県内トップシェアの新聞であるからなによりの宣伝であるなと思った。刀匠のご子孫のインタビューもあり、力が入っていた。

s1.373news.com

↑全文は有料だがインターネットでも記事は読むことが出来る。

news.yahoo.co.jp

↑ニュース動画もある

今回、この笹貫の展示のPR方法などに関してネット上で苦言も見られたようであるが、例えば筆者が鑑賞した中では「室町将軍展」での大般若長光とのコラボはまさにテーマの中心であったと言えるが、

kimotokanata.hatenablog.com

かごしま国体に多くのリソースが注がれる中、本来のテーマのいわば脇道の要素を拾って里帰りにこぎつけ、フォトスポットまで設けてくださった特別展関係者の皆様には心から感謝を申し述べたく、これ以上のことを強いることは筆者にはできない。

欲を言うなら、九州国立博物館の「ぶろぐるぽ」のような機会を頂けたら今後是非参加させていただきたい……というところである。

娘と笹貫を出会わせてくれて、ありがとうございました。

刀剣鑑賞・太刀 銘 國宗

鹿児島県唯一の国宝がこの國宗である。相州鍛冶の先駆者のひとりである國宗が鍛えたこの刀は笹貫と同様樺山家の重宝であり、島津本家に献上されたが、こちらは帰ることなく島津家に伝来し続けた。その後、照国神社に奉納され、進駐軍の手に渡り、アメリカのコレクターから発見、無償で日本に帰国した際に国宝に指定され、東京国立博物館に渡り、丁度30年前に鹿児島県に里帰りを果たし、現在は黎明館が管理している。

丁度、4年前に公開されたときも筆者は鑑賞していたが、当時は残念ながら写真撮影不可であった。

今回撮影可能にしてくださったことに心から感謝したい。自分のスマホに国宝がある喜び……。

もう少しよく撮れた写真もあったのだが、怪奇三十路おじさんが映り込んでいるものが多かったためご勘弁願いたい。鎌倉刀らしい腰反り高く威風堂々とした佇まいと鈍色の乱刃、黄金の島津家家紋が刻まれたはばきがアクセントとなって見飽きない刀である。出口近くに展示されていることもあってか、チケット購入前の方がついふらふらと見に行くということが鑑賞中にあり、それだけの魅力がある刀だと感じた。

鑑賞を終えて

今川了俊という室町幕府の快刀をもってしても複雑怪奇な南九州の武士たちという乱麻を断つことはできず、かえって混乱を深めさせてしまった。その火種は半世紀以上前の元寇から燻っており、その時代を生きる中で島津氏は後に通じる独立国めいた薩摩の気風を確立していったのだ……ということを筆者は感じた。どこか痛快さを感じるのは筆者が地元育ちの人間だからだろうか。

それにしても大筋のみを捉えたつもりでもここまで入り組んでおり、6,000字超えてしまうとは思わなかった。これはあくまで浅学な筆者の理解であるので、読者諸賢としては是非(現状予約となるようであるが)黎明館が出されている本展の図録購入をお勧めしたい。このゴルディオスの結び目もかくやという状況を有識者の先生方が分かりやすく解説くださっており、笹貫や國宗も大きい図版で紹介されている。

はや、笹貫特別展示の最終日となってしまった。お時間のある方は是非鑑賞をお勧めしたい。また、明日以降、笹貫がなくとも知的好奇心も刀剣鑑賞欲も十分満たされる特別展であることは主張しておきたい。國宗の刀剣乱舞実装、笹貫と並んでの展示を祈念してこの項を閉じたい。