カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

ウッド・フィッシュ・ストーリー

今週のお題「自己紹介」

筆者が大学時代に知遇を得た人の中Kという人がいて、筆者はなれなれしくこっこ君などと読んでいたが、ともあれ素晴らしいブロガーという一面も持っているので紹介させてほしい。

matoyomi.hatenablog.com

スマートな人間をほめる形容詞に「頭の回転が速い」というものがあるが、筆者にとって彼は「頭が自分とは違う方向に高速回転している人」であった。

不思議なもので実際に会わなくなって、ブログを通して彼を知るようになってからの方が彼のことをよくわかるようになった気がする。それはきっと彼はとても聞き上手で筆者はつい話し過ぎてしまい、彼のことを知ろうとしなかったからなのだろう。

彼の本名は切り開くといったような意味の言葉である。筆者は彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になり、そのうちもし筆者自身が子を授かることがあればそのような他者から見てしっくりくるような名前を付けてみたいものだと思う。そうして彼は今後もスマートさに裏打ちされた飄々さで何某かを切り開き、耕し、そこに何かを実らせていくのだろうな、願わくばそれを出来るだけ前列で見ていたいものだ、としみじみ考える。

ところで表題である。そんな彼のエントリの一つにいつにもまして興味をひかれた。

matoyomi.hatenablog.com

木魚って見た目に魚要素ないよな、どちらかというとコーヒー豆の親玉っぽいよなというのは常日頃気にしてはいたが、そもそも何であんなものをぽくぽくしているのだろう、と思ったので調べてみることにした。勿論情報強者御用達Wikipediaである。当然のごとく木魚の項もあったが、引き写しのようであったり、内容が重複したりと筆者の文章注意力を大いに喚起し他山の石とすべき記事であった。

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まあしかしなんでしょうな、いらすとやさんの画像とか使ってみると「オッ 俺もブロガーっぽいぞ」とか思ってしまいますな。

ともあれかいつまんで言ってしまうと木魚は元来そのまま木製の魚だったのだという。目を開けたまま寝る魚を見て昔の人々は昼夜を問わず起き続ける精神性を魚に見出したのだろう。実際は寝ているのだけど。

魚のように寝るのも惜しんで修行に励みなさいといいつつお手本であるところの魚をぼんぼこ叩くというのもいかがなものかと思うが、魚を叩くことによって煩悩が吐き出されるというシステムにもなっていたらしいのでまあいいのだろう。木製の魚を叩くという行動そのものが若干の煩悩みを醸し出しているところがポイントであるのかもしれない。

もしかしたらこっそり魚を干物にしている最中に弟子に見つかった和尚が誤魔化すためにとっさに「いや、これは叩くために干しているのじゃ」みたいなことを言っていたのがルーツなのかもしれない。そろそろ誰かに怒られるかもしれない。

sogei.net

だんだんと魚を叩き続けることに罪悪感を煽られてきたのかはわからないが明代には現代のような木魚が成立したという。前述したまんま魚の「木魚」も現在でも主に禅寺で使われていることがあるようだ。行事を開始するときなどに鳴らされたりするらしい。

で、どうして読経の際にぽくぽく叩くのかというと一つは前述のとおり煩悩を吐き出すため、一つは読経をリズムよくするリズムキープの役割(バックビートである)、そして最後に読経しているものの眠気覚ましである、という。筆者が読経していたらその一定のリズムにますます眠気を誘われてしまいそうであるが……よしんば寝なくても今すぐ寝転がりたいという煩悩がエンドレスに湧き続け、木魚サイドから汲めども尽きぬ煩悩にクレームが入るかもしれない。

木魚叩きロボットが誕生し、木魚が打ち鳴らされたとして、吐き出される煩悩は一体誰のものなのか。制作者なのか。ロボット自身なのか。ロボットに煩悩は宿るのか。なるほど煩悩も心の一つには違いなく、人間の心を考えるのにいい契機になりそうである。あと動画で見たい。絶対面白いと思う。

今月の目標の「今週のお題に毎週答える」初回からギリギリでの達成となってしまった。いや、他者紹介だけでそういえば自分の紹介はまだしていない。平成元年生まれ、既婚、左利きAB型、右投げ左打ちです。今年の一月一日からこのブログをはじめました。現在は地元の雄・西郷どんが大河になったのでその感想を主に書いています。よろしくお願いします。

大河ドラマ「西郷どん」第十三回 「変わらない友」

余談

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先日妻が誕生日であった。年の数だけ薔薇を包ませるような柄でもないが、近隣のフラワーショップごとうさんで花束を作ってもらう。予算を伝えて、「なんかこう、いい感じに」というアバウトな要求で大変豪華な花束を作ってくださった。薔薇を入れてくださりつつも筆者の顔面を考慮し気障過ぎない色合いをセレクトしてくれ、また夫婦ともに好きな風変わりな色のカーネーションも取り入れてくれている。そしてセンターには大輪のダリア……ダリアって花言葉「裏切り」では!? とぎょっとするが「感謝」の意味合いもあるようだ。ダリア、二面性を持ち過ぎでは。

夜は妻のリクエストで「わっか」さんに行った。夫婦とも下戸なので金にならない客なのであるが、いつも快く迎えてくださる。定番の鉄板料理(納豆の磯辺揚げ、串盛り合わせ、月見つくね)のほか、島ラッキョウと自家製酢味噌、カツオの腹皮とマコの炙り焼きが絶品で、お酒が欲しくてたまらなくなってしまう。しかし飲酒して代行屋さんにお金を払うよりはわっかさんにお金を落としたいのである。ぐっと我慢した。

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その後締めのパイピザの後に、お誕生日祝いとしてバニラアイスの抹茶トッピングを出していただいた。ちゃっかり筆者もいただいた。いつもありがとうございます。

月日の流れとは恐ろしいものでいつの間にやら妻の誕生日を(妻になる前を含め)相当数お祝いしたことになるが、祝った誕生日の方が祝っていない誕生日より多くなるように今後も執拗に祝い続けていきたいと思う。

本題

 いや、今回も面白かった。久々に画面の薩摩言葉占有率が高く、身じろぎはしたが。しかし、吉之助と篤姫の史実での関わりというと、やはり輿入れにあたっての奔走であると思うのだが、あっさり一年が経って驚いた。そこで吉之助の成長を見せるんじゃないのかよ!

不犯の誓いの後に月照を出すというなかなか意味深なカット割り(雌雄同体のかたつむりを添えちゃったりなんかして)を挟むそういう心遣いをもっと本筋にですね……。

薩摩に帰ってきてからは地元の友人たちにちょっと冷たかったり(推しが尊過ぎて軽はずみに口にできないガチ恋オタムーブ)斉彬に当意即妙に答えしっかり久光ヘイトを上げたり(地元トップオタVS凱旋トップオタの頂上決戦)しているのだがその過程を見せてくれよこのドラマの主人公って吉之助だよな、という話なのである。

正助が今回とてもよかった、というか非常に感情移入しつつ、このドラマには珍しく長い目で見た伏線も張れていて見事だったし、視聴していて気になっていた部分のフォローもなされていた。

正助は「吉之助は変わってしまった」という。確かに以前の吉之助であれば自らの恩を傘に着るような発言、「自分のおかげで江戸に行けるぞ!」みたいなことは言わなかったであろう、ただ、あの発言を忖度してみるに、自分が様々な事情でがんじがらめになっていたから、正助は自分がすでにセッティングしていたから半ば無理矢理連れていかれたのだ、ということで家族に申し訳が立つようにしようとしていたのではないか……と考えることもできる。(好意的過ぎるだろうか)そう言った意味では相変わらず気の使い方が不器用すぎる吉之助であるといえる。まあ、あの正助が一番腹を立てているのは変われていない、気を使われる自分自身になんだろうけれども。三河武士とはまた別ベクトルの薩摩の男のめんどくささが見事に表れていた。

吉之助は江戸に行ったからこその焦りがあり、正助は薩摩に残ったからこその焦りがある。この構図が後に外国を見て来たから焦る大久保利通と、日本に残り沸騰せんとする士族をなだめ続けたからこそ焦る西郷隆盛の構図として見事逆転する布石になっているのには唸らされた。

もっと言えば、今まで吉之助が斉彬と一緒にうっほほいと取り組んできた近代技術にどハマりしていくのも今回、そのせいでひっ迫する藩の内情を代弁した正助なのであって吉之助はそんな正助を見るに堪えないと苦言を呈するようになるのだからこのあたりまで踏まえているとしたら本当に見事である。(ちなみにその苦言を呈した西郷からの手紙を大久保はどうしたかというと……いやあ西郷どんでこれがどう描かれるか楽しみである)

ちなみに吉之助は今回写真を忌避していたが、本当に大の写真嫌いで、明治天皇からお願いされても写真を撮らなかったというから徹底している。(だもんで、寝ているところを隠し撮りしようかという話まで出たりしている。さすがに天皇陛下にそんな写真をお渡しするのもどうか、ということで実行はされなかった。)ちなみのちなみでいうと現在残っている日本人が撮影した日本人の写真は島津斉彬その人で、このブログにもたびたび登場している仙巌園の横、尚古集成館にて見ることが出来る。またまたちなんでしまうと福沢諭吉は幕末に幕府の船に乗って外国を訪れ、外国の女性とのツーショットを撮ったりしている。船が海に出て他の人が取れなくなってから見せびらかすという徹底ぶり。最後にちなんでしまうともと紙幣つながりの夏目漱石は「写真を撮ると病気が治る」(今回の魂が抜かれるという話と比べるとたかだか五十年かそこらでそこまで変わったのかと面白い。)と知人に勧められた家人が一計を案じて隠し撮りをし、病床の写真が遺っている。残念ながら迷信はしょせん迷信でその後ほどなくして世を去った。ちなみに「夏目漱石の写真」として有名な頬杖をついているあの写真は明治天皇の大喪の時に撮影した写真である、といい具合に明治天皇に話が一周したのでちなみ終わることにしたい。

吉之助と正助、二人の旅はまだ始まったばかりだ! といったところで次回も楽しみに待ちたい。

鳩羽つぐは偏在するのか、遍在するのか

余談

お蔭様で四か月目を迎えた。ソシャゲのログインボーナスもろくにこなせず、PS+のフリープレイも落とし忘れる体たらくですが何とか細々と継続できている。先月は旅行に行ったり余韻に浸ったり年度末だったりとせわしなく、じっくり記事を練られなかったのが残念である。一方でもっと端的に書かなくては、とも思う。

グーグルアナリティクスと連動させてみたところ、先月は大阪エリアからのアクセスが多かったとのことで、京阪旅行がブログにも良い影響をもたらしてくれているようでうれしい。

落第阿房列車その一 - カナタガタリ

ただ読者登録してくださる方はだいぶ落ち着いてきているし、最近は自分でも「お、この記事を書いているやつを追いかけたいぞ」という記事は書けていないなあと思うので精進したいところである。

人気記事も顕著であって、「へうげもの」最終回(最終巻)感想記事、封神演義感想記事がアクセスがいまだに安定して多く、検索流入の力を思い知る。ためしに「へうげもの 最終巻」でGoogleで検索してみたら一ページ目に出てきてこれまた望外の喜びであった。が、それ以上に耳目を集める記事が書けていないということなのでやはり研鑽あるのみである。

kimotokanata.hatenablog.com

 

kimotokanata.hatenablog.com

四月は診療報酬改正について思うことだったり、いい加減懸案の「天才柳沢教授の生活」11巻についてを書くこと、後は文章力をつけたいので週一回くらいお題スロットを使ってそれについて書く、という試みをやってみたい。どうしても週末に更新が集中してしまうのを改善したいところである。ともあれ今月もよろしくお願いいたします。

本題

鳩羽つぐを読者諸賢はご存知であろうか。アンテナの高い諸賢のことであるから先刻ご承知鴨、いやかもしれないが(今のは鳩と鴨をかけた高度なジョークです)恥ずかしながら筆者は四月一日に知った。Twitterリツイートされたファンアートで、それを見た時は名前の語感的に「ああ、初音ミク派生みたいな感じなのかな」程度に考えて気にも留めなかった。

筆者の悪癖に眠れぬ夜に「未解決事件」や「都市伝説」などで検索してますます眠れなくなってしまう、というものがあるのだが、ちょうど昨日は久々にそんな感じであった。そこで、「鳩羽つぐ」と「都市伝説」「未解決事件」をリンクさせる記事があり、そこでようやく筆者は「鳩羽つぐ」の一端を知り、また呑まれてしまったのである。

結論から言ってしまうと「鳩羽つぐ」とは今ナウなヤングの間で話題のバーチャルYoutuber(Vtuber)である。

あああれか、とVtuberを食わず嫌いして回れ右しようとする貴方、きっと貴方にこそ刺さるVtuberなのです。筆者もそうだったのだから。

鳩羽つぐの軌跡


#0 鳩羽つぐです

上記の動画が2018/2/28に投稿されたことから、彼女はそのキャリアをスタートさせる。同時にTwitterも開始している。

モノトーンでどこかノスタルジックな雰囲気の可愛らしいモデルで、見た目通りのたどたどしさが「その年ごろの女の子がユーチューバーデビューしたらこんな感じなのかもなあ」という気分にさせる。

が、動画終盤、雰囲気が変容する。彼女が手をふり、終了を宣する中、カメラは引き続け、ついにはスタジオのような場所で撮影されていたことが明らかになる。そしてそのまま動画は終了する。そこに彼女以外の人物は登場しない。撮影場所はなかなか本格的で、子煩悩な親が子どもを「ユーチューバーごっこ」をちょっとカメラに収めてみました~といった感じではない。モノトーンも相まって、非常に無機質な印象を受ける。

少なくとも、「これからこのかわいい女の子がたくさん動画を投稿しますから皆さん応援よろしくね!」というメッセージは全く感じられない。初めにこれは虚構なんですよ、と念押ししているような、かなたとこなたをしっかり線引きをしたような印象すら受ける。

筆者は椎名林檎女史の「本能」を連想した。


椎名林檎 - 本能

その後、Twitterで鳩羽つぐは2本動画を投稿する。(3/2と3/9)

 

 

どちらも10秒に満たない短い動画で、素人撮影らしく画面がぶれたり、ノイズが入ったりして彼女の声はいたく聞き取りづらいが、初めの動画では動画のチャンネル登録やツイッターのフォローのお礼、次の動画ではお仕事の事情により投稿が余りできなかったことのお詫びが述べられているようである。

 


#03 Morning Routine

そして3/26上記の動画が投稿される。ツイッターでは「宿題で撮りました」とコメント付きで投稿された。ここにおいていよいよ、様々な憶測が飛び交い始め、膨れ上がり、拡散し、筆者のような末端の人間に届くに至ったのである。

鳩羽つぐの不穏

読者諸賢は動画をご覧いただけただろうか。何とも言えない違和感を覚えなかっただろうか。

筆者はそもそも、「朝の準備を淡々と映すってのがなんか不気味」と思っていたのだが、女の子ユーチューバーを鑑賞する界隈(世の中にはいろいろな玄人がいらっしゃるものです)によれば「朝のルーティンは女の子ユーチューバー業界では鉄板、あるあるである」ということらしく、そこについてはおいておく(作者さんの素晴らしい取材力に感嘆するばかりである)として、問題は鏡の前で歯磨きをする30秒前後のシーン。

ポットの取っ手の向きが鏡に映ったものと明らかに違うのである。

他にも利き手など色々とおかしな点があるが、筆者は違和感を覚え、巻き戻して見た時布団をちょっと強めに握りなおすほど恐ろしかった。

ポットの向きが違うということは即ち、彼女が向かっているものは単なる鏡ではなく、マジックミラーのようなもので、この動画はマジックミラーの向こう側から第三者が撮影している可能性がある(しかもパッと見では分からないようにポットなどの配置を似せて)ということである。その人物は何者なのか。目的は何なのか。彼女はそれを承知しているのか。勿論そんな台詞は一切なく、今回も「おわりでーす」と彼女の柔らかな声に動画は締めくくられる。

3Dで鏡の表現が難しいのでミスではないか、という指摘もあるようだが、この作者さんがそんなミスをするだろうか、と思うのである。これはメッセージなのではないか、と。

例えば。鳩羽つぐはジュニアアイドルである。(お仕事)ユーチューバーとしての活動を始めることになった。(#0は事務所のスタジオで撮影した)その後、事務所の管理するマンションで暮らすこととなった。そこで自分の動画を撮るように言われた(宿題)ものが#3である。しかしそこで第三者の監視が感じられるような1シーンを挟み込むことによって、ただのおぼつかない女の子ユーチューバーのシミュレートではない、と言いたいのではないか、とついつい脳みそが不穏に働いてしまうのである。

その不穏さにはネットも敏感なようで、「行方不明の子どもの情報提供を呼びかけるときにTVで流れるホームビデオの様に心をざわつかせる」「誘拐犯が生存のサインとして送ってきているのではないか」「実はもうずっと前に亡くなった子が突如電子上に表れたのではないか」など筆者の貧困な想像力では到底追いつけない。作者さん、もし不穏にするおつもりが一切なかったのなら誠に申し訳ありません。

全体的なモノトーンと相まって、鳩羽つぐは現れたばかりであるのに、何故か我々に過ぎ去ってしまった誰かを、何かを思い起こさせる。本当は忘れてはいけなかった何かを忘れてしまっていたような、思い出さなければいけないような気分にさせる。

筆者はVtuberというものに全く門外漢だが、イメージとして原色きらびやかでサムネから全力投球、ツイッターSNSも有効活用、横のつながりも強く交流が盛ん、というイメージがあったので、鳩羽つぐのようなそのイメージの正しく対極に位置する存在がいると知ることが出来ただけでも収穫だった。本当に、食わず嫌いは良くない。

ただ、彼女及びその周辺はVtuberというより、モキュメンタリー「Vtuber 鳩羽つぐ」のようなパッケージがより正確なのかな、とは思う。

鳩羽つぐはそのはかない曖昧さを持って、YoutubeTwitterという大きなメディアを通して多くの人々のもとへ遍在し、また考察好きをはじめ物語を求める人間たちの心の少し湿った部分により深く、色濃くなって偏在する両義性を持つのである。

大河ドラマ「西郷どん」特別編感想

余談

エイプリルフールにつきたい嘘がないというのは幸せなことなのかもしれないし、エンターをテイメントしようとする気概や器量が足りないのかもしれない。少なくとも企業のあれやこれやは、「これのために年度末でただでさえ忙しいのにガンガン残業したりしてる人とかいるのかな……」とか思うようになってしまって我ながら駄目だなあと思う。楽しむにもエネルギーが必要で、そこに回す余裕がないのかも知れなかった。

個人的には、円谷プロが馬鹿やってた頃が好きです。

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昨日は山間部のさくらまつりに行ってきた。昨年は土砂降りだったそうであるが本年は快晴で、しいて言えばその影響で筆者の鼻水が滝のようにズビズバした程度であった。暖かく、汗ばみさえした。勇壮な太鼓に始まり伝統芸能が我々をもてなしてくれた。

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目当ての一つはジビエ料理である。鹿肉の焼肉と、猪鍋。ジビエというと臭いだったり味だったり固さだったり不安要素は尽きなかったのであるが、いずれも感じなかった。鹿肉の焼肉は赤身肉で「肉を食べている」という満足感を噛み締めるたびにうまみもにじみ出るという素晴らしい構造になっており、猪鍋の猪肉はほろほろと口の中で甘くくずれた。

会場のすぐそばには小学校があり、特認校である。近隣児童が少ないので、市全域から通えるようになっている学校だ。実に半分以上が麓から通ってきているという。それでも全校生徒は三十人に満たない。(彼ら彼女らが伝統芸能の太鼓を披露してくれたのである)定住促進住宅という家賃が割安の子育て世代を受け入れる住宅を新たに建てることでそこまで回復したが、あわや閉校の危機であったという。一方で、麓では保育園難民が発生している。まさしく日本の縮図がこの地でも起こっている。

夜は麓の町での会合にも参加した。「珍しいものがある」と喜々として先輩が持ってきてくださった鹿肉と猪肉を「ジビエを食べたことがない最近の軟弱な若者」を演じて(ほぼそのままなのだが)食べるくらいには社会人になることが出来た。こちらは昼に食べたものよりやや野性味が強かったがそれは塩コショウというシンプルな味付けであったからかもしれない。おいしかった。

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相反する双方の話を聞いて思うのはやはり、隣の芝生は青く見えるということである。今年は雨が少なく暖かい日が続き、山も麓もほぼ同時に桜が咲いた。桜が出来て人間に志を合わせることが出来ぬこともあるまい。先人たちの様々を「よかふうに」してみたいものである。

本日は朝からセンバツ。今年のセンバツは劇的な結末が多い。見る方としては面白いが、やる側としては大変だろうなと思う。明徳義塾が敗れ、航空も敗れ、長崎勢も敗れてしまったのでなんだか応援している学校がことごとく敗れていくのだが、ここでそういえば弟弐号機が東海大の末席にいることを思い出したので、東海大相撲、いやさ東海大相模を応援することとする。その結果は…君自身の目で確かめてくれ!

昼前に髪を切りに市内へ。妻は毎度いい感じにしてもらっているのだが、筆者は美容師さんがどう頑張っても三枚目韓流スターみたいなスタイルにしかならないので美容師さんには本当に申し訳なく思っている。顔でかいからや! 顔でかいからお洒落な髪形が似合わんのや!

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折角妻の髪がいい感じになったこともあり、天文館アフターモールへと向かった。天文館アフターモールは鹿児島のハチ公前ことタカプラが惜しまれつつ閉店したのち、再開発までの間販売スペースとして使おう、という取り組みであり、もともと入っていた店舗の在庫処分という側面もあるのかどの品もやたら安い。上下をそれぞれ一着ずつ買って三千円もしなかった。良いものを安く買えると気分がいい。前回はまだ改装中だった二階にも店舗が入っており、「生きている施設」という感じでシャッターが閉まりっぱなしよりこっちのほうがずっといいな、と嬉しくなる。またちょくちょくのぞいてみたい。

妻が「今日の花丸十三話楽しみだなー」と禁断症状を発症していたのでおよそひと月ぶりにアニメイトに向かう。以前は最も目立つところにディスプレイされていた刀剣乱舞グッズは新しいアニメに取って代わられており、この世界の目まぐるしさを改めて突き付けられる格好となった。妻はついていけるだろうか、続・刀剣乱舞花丸のない世界のスピードに。目当てのラバスト(ラバーストラップ)はなかったようで、歌詠集(キャラクターソング集)の最終巻を購入していた。曲は勿論EDイラスト集が決め手であったらしい。確かにあのED絵の美麗さには舌を巻いた。得点として粟田口ポスターを入手できたようでホクホクしていた。

が、仮にも夫である筆者にはその心の空虚はまだ埋まり切っていないことが分かっていたのでパンドラの匣を開けに行くことにした。マンガ倉庫である。そう…お金さえ出せばこの南の果てでもたくさんのグッズが手に入れられる地……妻は逡巡の後、自分への誕生日プレゼントという錦の御旗を掲げ、推しを「お迎え」していたようであった。筆者は二階のクレーンゲームコーナーで五百円投入して取れなければ取れるまでいくらでもプレイできる、という画期的なクレーンゲームに興じていた。五百円を投入しきってから少しして急激にクレーンの力が底上げされたように感じたが、恐らく筆者の練度が上がったためであろう。

心の空虚が無事埋まるとよい塩梅で胃袋の空虚を埋めるタイミングがやってきた。満を持してマックナゲットを摂取するつもりであったのだが、その手前のアイアイラーメンに我々の車は吸い込まれてしまった。以前も述べたが、とんこつにまだ馴染んでいる途中、ジョジョ三部で言えばまだ十五巻くらいのDIOである妻にとってとんこつ以外の鹿児島ラーメンというのはとても貴重なのである。

ということで妻は梅塩ラーメンを食べ、

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筆者は店舗限定の黒担々麺にチーズをトッピングして食べた。山椒が効いており、ひき肉も沢山入れてくれている。スープは辛いがすするのをやめられない後ひく辛さである。

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アルバイトさんも募集されていた。ラーメンブームです! の力強い断言ぶりにハッとさせられる。まったく、ラーメンブームだというのにラーメン屋で働きもしていないなんて……一体俺は何をしているんだ? という気付きを与えてくれた。

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サーカステントは早めの眠りについていた。サーカスの象にも、筆者にも、正直者にも、嘘つきにも、義なるものの上にも、不義なるものの上にも、静かに、皆に夜は降るのである。f:id:kimotokanata:20180402001432j:plain

本題

余談が、ながくなった。さて、西郷どん特別編である。働き方改革の一環で大河ドラマの話数が削減され、その穴埋めとしての企画であるという。そもそも論として、話数が削減されることでスタッフさんたちが楽になるのか(尺の関係でぎちぎちになる部分があったりするんじゃないのか)と思ったりもするし、話の途中で同じ時間帯に演者が演者として出てしまうのは、着ぐるみからアクターさんが顔を出してしまうようなものではないか、と思ったりもするが、内容はおおむね面白く、興味深いものであった。個人的には、美術をもっと詳しく見たかったな、とも思ったが。

今回衝撃で、一方で納得もしたのは斉彬の「命は一つじゃ、大切にしろ」や「君主キック(ゲージ消費技)」が渡辺謙さん発案だったということ。「西郷どん」の斉彬を成り立たせる上で欠かせない場面であったと思うので、もともと脚本に織り込まれていなかったのは衝撃であったし、やはり斉彬という「未来人のように英明で性急な君主」は「現代人である渡辺謙」の視点を落とし込まれていったからあのようなキャラクターになっているのだな、と合点がいった。より言えば、「独眼竜正宗で勝新太郎にあのような薫陶を受けた渡辺謙だからこそ、吉之助に対する斉彬はあのような感じなのだな」と腑に落ちた、ということになるやも知れぬ。

とにもかくにも、「斉彬ロス」が改めて不安になる特別編であった。

他方希望を見出したのは鈴木亮平さんの西郷どん観。

一直線の部分は魅力ですし持ち続けるんですけど(中略)大局を見て相手の立場になって「もう自分は別に死んでもいい」って思えてる人間はおそらく他の幕末のギラギラした若者たちとは全然違う余裕を持ってた気がするんですよ 。

 ――西郷どんスペシャルより引用。

筆者としてはまさに我が意を得たりという思いであった。そうなったきっかけ、斉彬の死と月照との入水、島流しを是非、鈴木さんの思いを貫いて演じてほしい。

大河ドラマ「西郷どん」第十二回 「運の強き姫君」

余談

なんにも用事がないけれど、良い天気なのでふらふらとドライブをした。

用事が無い訳ではない。妻の所用でセブンイレブンに行く必要があったのだが、どこのセブンイレブンでもよかったので、ちょっと遠くのセブンイレブンを目指した。そこここに桜が咲いている。菜の花も咲いている。無教養な筆者が名を知らぬが可憐な花も咲いている。野に咲く花はいずれも天下の花である。本来であれば図鑑を持って調べてしかるべきであるのだが、例えば写真を撮って送ったら「これはこういう花ですね」みたいに教えてくれるアプリとかあったら面白いな、と思った。もうあるかもしれない。

思い立って、お知り合いの畑にもお邪魔した。またしても筆者は無教養ぶりを発揮し、冬野菜と春野菜の切り替え時期であったために大変ご面倒をかけたが、あたたかく対応してくださった。手に入れた野菜がどのように妻の料理に活かされるか、次回以降の余談で機会があったらご紹介したい。ちなみに今日は新玉ねぎのコンソメスープであった。シンプルな調理が新玉ねぎの甘さを存分に引き出しており、おいしかった。


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広い台地は様々な懊悩を吹き飛ばしてくれそうである。

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ビニールハウスに一つ屹立する菜の花は力強くメッセージ性がある。


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何故かしれっと蘇鉄があるのが南国のすごいところである。


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個人情報保護に関心の深い妻は桜相手であってもその姿勢を崩さなかった。

 


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ちなみに出発前は夫婦で春のセンバツを見た。馬淵監督通算五十勝おめでとうございます。決勝打の二十秒くらい前にお通夜ツイートしてすみませんでした。今回鹿児島は選抜されていないので、明徳義塾を応援しようと思います。

しかし、外に出ると西郷どんまでに三時間は仮眠をとらないといけない体になってしまった。体力をつけたい。

本題

いや、引き続き江戸編面白いですよ。主人公は誰なんだよと言う話にはなるけれど。中園さんの「篤姫は私が書きたかった……」という情念が垣間見えたような気もする。乱暴に言ってしまえば女性が強く、男性が情けない回であった。

「理想を語るにはそれに見合った実力が必要だ」という台詞がかつてあった。今回の吉之助にはその言葉を贈りたい。まあそのセリフの出るアニメは大変なことになっているけど

男性

主人公・吉之助は相変わらずどうにも出来ないことにくちばしを挟み続けている。一方で本来の任務である篤姫のお輿入れ工作はろくに進展しておらず(それ自体が良いことなのかどうか煩悶しているから進まないというのであればもっと早く斉彬に相談してしかるべきである。まあ、藩主キックがまたきそうだけど)、幾島の介入で何とかなった始末。橋本左内の描写によって「吉之助が過大評価されている」ことは製作者側も認識しているのでは……と思っているので、今回の様にたびたび出ている「救いたい人を救いたいときに結局救えない」吉之助像もわざとであり、今後覚醒すると信じているのだが、やはりフラストレーションが溜まる。覚醒イベントである「藤田東湖からの薫陶」がまさかのスルー、藤田東湖が紀行死という全く新しい概念を創出するに至っては、以前触れた「迫田利斉の不在」も併せて、吉之助を導くのは斉彬唯一神のみ、という路線で行くということなのだろうかとも思えるが、しかし幕末の面白さ、様々な派閥・思想・思惑が絡み合う群像劇が垣間見えたのにかき消えてしまったように思えていかにも残念である。(ただ、やはりこの時期に地震で亡くなる人物を出す、ということに対して制作側が配慮したのでは……というTwitterでの意見を拝見して、なるほどとも思った。それでも、せめて本編登場はして欲しかったが)敬天愛人、まさか単純にloveの発展としての思想にならないか不安である。

斉彬はやはり、鬼神であった。が、幾島に言われるまで大奥工作を全く忘れていましたというのはどうなんだ。また、外様大名でお目通りも難しいだろうから仕方がないが、斉彬の人物描写的に家定をろくに見分もせずまた聞きだけで暗愚と決めつけてしまっているのには違和感がある。篤姫はともかく幾島にもひた隠しにするのはどうかと思う。(しかも多分本人はまだ隠せていると思っているし)「不幸になる」じゃねーよ! そこをどうにか幸せに持っていくのが親父の力の見せ所だろ、と思ったりもする。

正助は久光に熱いファンメールとプレゼント(史実)父が帰り、大黒柱としての重責が離れ、出遅れを取り戻す為に必死である。久光がただの無能でない描写が引き続きなされていてうれしい。今大河の収穫として史上最高の久光が見られると信じたい。(寺田屋とか生麦事件とか、どういう風になるのだろうか)

井伊直弼は御台所に指名されて満更でもなさそう(あっBL大河ってそういう……)前大河では井伊家には「私が男であったなら……」と思った御仁がいたが、今大河ではまさか「私が女であったなら……」と思いそうな御仁を出すとは思わなかった。正論を吐くも、封殺。(そんなオーナー企業の縮図みたいなのを日曜夜に見せなくても……)安政の大獄まで、あと三年。

家定は予告での「死なない姫はどれじゃ」からおっと思っていたが、やはりなかなかいい造形をしている。その人生が死に彩られた家定にあって最優先事項であったのだろう。声は抑えられているだけにより悲痛に聞こえた。果たして篤姫と過ごすことでこの家定がどう変化するのか、楽しみである。

女性

完全にここのところ篤姫を軸に話が回っていて、また以前の繰り返しになってしまうがこの難しい役どころを北川景子さんが見事にこなしている。自らの幸せを捨て、故郷を捨て、故郷の言葉を捨て、斉彬の娘としての役どころを演じようとする。しかし地震により本音が垣間見え、吉之助の言葉(というより、それを言ってくれる吉之助の底抜けの人の好さ)に救われて再び気持ちを締めなおす。見事である。どうにか幸せになってほしい。

幾島が有能すぎてもうこいつ一人でいいんじゃないかな感があるが、そんな彼女につきつけられたのは篤姫はお世継ぎを生めない=幾島の出世も限られるということ。もうちょっと早めに言っておくべきだったのでは。春画を焼くシーンがこんなにも物悲しいとは思わなかった。篤姫薙刀の稽古をつけながら、幾島は自分にも言い聞かせているようでもあった。吉之助への「何もでけへんくせに!」は全視聴者が深く頷いたことであろう。

本寿院はまた画面制圧力の高い人が出てきたというインパクトにまずやられそうになるが、その気持ちは公方の生母というよりは、ただただ一人の子の母としての素直な気持ちであった。因みにこの後息子は勿論、吉之助よりも篤姫よりも長生きする(明治十八年没)今後の登場がどのようになるのか期待したい。嫁姑戦争があったりするのだろうか。

見終えて

篤姫主役のドラマとして観ればなかなかに面白かった。他方、吉之助がまるで成長していないことが気になる。次回予告の「吉之助サアが変わった」がどのように変わったかが今後の展開を占うことであろう。

王天君曰く、ゴミみてぇ……あるいは覇穹 封神演義 十話目までの感想

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↑十話目まで視聴した時の筆者(福岡市博物館蔵)

余談、あるいは結論

カットされぶり他にカッとなって電子書籍版の封神演義全23巻を購入した。やはり非常に面白い。カラーが再現されているのも素晴らしい。が、遺憾ながら「断崖絶壁今何処」やカバー袖コメントは収録されていない。「しまったあ! もう3メートルでいいっす!」や新藤崎竜を拝めないのは残念である。

それを差し引いてもやはり傑作である。社会人になって思う。太公望みたいな上司が欲しい……と。

ということで、是非読者諸賢でもし未読の方がいらしたら是非ご一読ください。実は、原作がkindleで20%オフだったので本記事の結びとしてということでレッツ購入! であったのだが、一昨日でセールが終了してしまっていたのであった。十話まで見てから、などと考えなければよかった。最も定価でもきっとご納得いただけるはずである。

代わりに、という訳ではないが、藤崎竜先生が作画されている漫画版銀河英雄伝説も対象のセールを3/25まで行っているようなので読者諸賢におかれては是非ご活用いただきたい。

www.amazon.co.jp

先にクーポンを取得するというひと手間がいるのでご注意されたし。

ちなみに、筆者はkindleセール情報についてはこちらのブログさんを大いに参考にさせていただいている。同世代ということもあって、おっと思う本がシンクロすることが多い。

www.kindlized.com

ともあれ筆者が今回読者諸賢にお伝えしたいのは、漫画版の封神演義、やっぱり素晴らしいですね、の一言であり、以降述べることは本題という名の蛇足であるということを重ねて申し述べる。

本題

早いもので、前回「覇穹 封神演義」の感想を書いてからひと月以上が過ぎた。にもかかわらず、未だに読み継がれているようでありがたい話である。さてその後、ひっくり返す準備をして差し出し続けた掌は基本的に筆者の無念の涙をぬぐうために使われ続け、事ここに至って文豪の台詞を借りてしまえば「あたしゃキレました、プッツンします」といった段階に移行したため、ちょうど前回と同様五話分の感想で区切りもいいため再び感想記事を書かせていただこうと思う。筆者自身としても大変遺憾なことに、批判的な記事になってしまうので、気分を害される恐れがありますので、お気をつけてお読みくださることをお願い申し上げます。

老賢人の幕がギロチンのスピードで降りる

姫昌(変換候補にあった、すごい)――周の文王と諡された、名高い賢君。諡(死後の追贈)であることから分かる通り、生前王位につくことはなかったが、その地盤を固めた。その賢君ぶりを漫画版と今アニメ版で比較してみよう。(太字がアニメで省略された部分)

殷によって追われた姜族を受け入れる→捨て子を拾い、養子にして育てる→酒池肉林を諫める→民の生活を徒歩で視察中、一般人に衝突されるも許す→衝突された相手が処刑されそうになったことを太公望が批判したことを知り、太公望に興味を持つ→太公望に接触、王となることを提案される→武成王と南宮适の諍いを結果的に収める→跡継ぎ・姫発(後の武王)の器を太公望に見極めてもらう→北の脅威(北伯侯の弟は既に死亡した北伯侯が妲己に人質にとられていると考え、殷についていた)を説得し、殷への包囲網をつくる→その死が知れ渡ると、多くの人が自然と喪に服す

アニメの姫昌の描写だけでも賢君であることは伝わるだろう。しかし、漫画版では多くの積み重ねがあり、満を持して見開きでの、

「釣れますか?」

「 大物がかかったようだのう」

集英社藤崎竜先生の封神演義第4巻83Pより引用)

を見た時の気持ちは、アニメでは味わうことが出来なかった。というか、上記の中から採用された数少ないエピソードのほとんども、「釣れますか?」シーンの後に回想として描写されるので、万感迫るも何もあったものではなかったのである。

また、逝去のシーンについても、漫画版ではお疲れ様です……という感じであったが、アニメ版ではあらゆることが投げっぱなしのように見えてしまい、無責任さが先になってしまう。

今回のアニメ版のメインである「仙界大戦」は、劇中でも説明があったように、殷と周との代理戦争という側面を持つ。即ち主人公側のバックボーンである周再度の描写をもう少し掘り下げてしかるべきなのではないか、せめて台詞などだけでも、と考えたが、よくよく考えたら最大の敵・聞仲が殷に忠誠を尽くす理由も走馬燈の様に一瞬描写して終わりであったのである意味釣り合いがとれているともいえる。

しかし筆者の見間違いでなければアニメ版の太公望はナンパにうつつを抜かす以外何もしていない姫発を後継者として認めたことになってしまうのだがそれでいいのだろうか。(象レースはともかく友人が多い、自分の責任を親に転嫁しないなどは描写しようがあったのではないか)こんな姫発に「お前らおかしいよ」と言われても説得力皆無である。

雷震子は泣いていい。(まあ、原作でも典型的な加入前がピークみたいなキャラクターではあるのだけれど……十一話の予告を見るに雲中子は出るようだが、雷震子は今後出るのだろうか)

趙公明の不在、かと思えばちょっといる中途半端さ

 老賢人の幕が恐ろしい速さで降りて後、仙界大戦が開幕した。その間に原作では、スパイが暗躍したり、殷の太子が裏切ったり、私立アンニュイ学園が連載開始したりしたのだが、それらは一切触れられることがなかった。しかし聞仲・妲己と肩を並べる強敵・趙公明とその配下をめぐるエピソードは中盤のハイライトであり、これを切り捨ててしまったことで様々な齟齬が生じてしまった。(確かに趙公明攻略は仙界大戦・殷周易姓革命においては余話であるが……)

・漫画版では十天君に聞仲は一時幽閉される。(その間に趙公明が豪華絢爛なバトルを挑む訳である)団結する太公望(崑崙)サイドとの対比となっていたが、アニメ版では省略されてしまった。趙公明攻略が省略されたことにより聞仲は金鰲島に向かって即十天君を従え、仙界大戦へ突入したことになってしまった。表題に借用した王天君の台詞もなく、完全に聞仲が主導権を握った形になってしまっている。

・鄧蝉玉周りがバッサリカットされているが、何故か化血陣では人形となった姿で出てくる(勝利しても姿が戻ることはない)ファンサービスなのか挑発なのかわからない現象が起こっている。

・黄天化が腹部の傷を受けるエピソードも当然省略されたため、一部ファンは別ルート突入の可能性に歓喜するが、第九話で思い出したように傷があることに言及され、無事封神される。

・当然あの船名の描写もない。

・竜吉公主が仙界大戦に至って突然レオタードで現れる不思議お姉さんと化す。

・唐突に濃すぎる三姉妹が現れ、「お兄様」と書かれた鉢植えを抱えているし、黄家族と行動を共にしているが(しれっと黄天祥はいない)、一切説明がない。(三姉妹は劇中の出来事について丁寧に説明してくれていることがまたシリアスな笑いを生む。説明を受けての武成王の「わけわかんねえ」は全視聴者の魂の叫びであろう)

・四不象が宝具を食べる特性があることもカットされたので次回以降のダニ騒動がどうなることやら。

などなど枚挙にいとまがない。せめてアバンをもう少し有効活用できなかったのだろうか。

本番・仙界大戦

さていよいよ本アニメ版のメインである仙界大戦に突入したわけだが、張天君の手がニンジャスレイヤーアニメめいてスー……っと伸びてきた時点で嫌な予感はしていたが、引き続きよくわからない構成である。結局、楊戩の回想の時系列をアバンを使ったりしていじくった意味もよくわからなかったし、妲己の過去を急に出すのもよくわからないし、王天君と太公望のやり取りに至ってはいい加減にしてくれと言った感じである。こんなに脳が混乱したのはMGS2アーセナルギアに侵入したとき以来であった。化血陣にしてもここまで尺を割かなくてもよいと思うし、ペース配分・構成については疑問符しか湧いてこない。本当に誰のためのアニメ化なのかが分からないのである。

今後について

もしかしたら今違和感を覚える演出全てが伏線である可能性もあるので、引き続き視聴をしたいと思う。掌も万全のコンディションにして置く所存だ。

蛇足・漫画版未読の妻の感想

・悪い膝丸君(王天君のこと)と妲己ちゃんのおねショタ……尊い

木元哉多先生著「閻魔堂沙羅の推理奇譚」を木本仮名太、拝読する。

余談

弟(初號機)が誕生日である。不器用な兄を反面教師として、周囲に気づかいをよくし、順風満帆に人生を送ってくれている。周囲というのは兄である筆者も含まれていて、「兄のおかげで、好きなことが出来たし、出来ている」と言ってくれたことがある。言うまでもないが弟が好きなことが出来たのは弟の精進の賜物であり、父母及び親戚の物心両面の献身の成果であって、そこに筆者の某かが介在する余地はない。筆者が何か弟の人生の岐路について影響を与えたことがあるとすれば、そのまま「好きなことをしなさい」と唆したくらいである。であっても決断したのは弟である。

きょうだいにおいて一番上というのは不公平である、とよく言われる。何かにつけ「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」と理不尽な我慢を強いられる、と。無論筆者においても例外でなかったがしかし弟も筆者の兄に生まれついてしまったばっかりに可視不可視の様々な理不尽をぶつけられてきたはずであるし、我が家の場合は弟とは三歳ほど離れておりその間に双方の家から初孫として寵愛の限りを受けたので多少の理不尽は仕方がなかろう、と思う。弟に至ってはやはり自らが生まれて三年ほどして弟(弐號機)が爆誕しており「弟なんだから」と「お兄ちゃんなんだから」のサンドイッチ状態で単純に考えて筆者の倍苦労しているはずである。それでいて、上記のようなことを言ってくれる弟という人格を獲得せしめたのは、やはり弟自身の功績であろう。

けれども筆者は、「おう、兄はお前のお兄ちゃんなんだからな、当たり前よ」とのみ、弟に言う。そこに内包される「お前のお兄ちゃんにしてくれてありがとうな」という気持ちを忖度してくれる立派な弟である。他人に押し付けられるのではなく、自ら発信する「お兄ちゃんなんだから」のなんと甘美なことであろうか。


竹森マサユキ / ハイホー MEGA★ROCKS 2017 @SENDAI CLUB JUNK BOX

弟のことを考えるとき、いつもカラーボトルさんの「ハイホー」という曲が脳内でBGMとして流れる。「グッと! 地球便」のEDにもなっている曲で、聞くと日曜日が終わるなあ、という気分になる読者諸賢もおられることだろう。行動的な人間で、ある日カンボジアで井戸を掘っていても全く驚かないが(実際勤め始めた企業では海外赴任の可能性もある)、体には気を付けて頑張ってほしいと思う。きばいやんせ。

 

本題

余談が、期せずして二回連続家族の誕生祝とたいへん内輪のものになった。

さて本題である。本日、講談社タイガさんより、木元哉多先生の著する「閻魔堂沙羅の推理奇譚」が発売された。第55回メフィスト賞受賞作品である。このことに関して、友人知人の複数名より、問い合わせが筆者にあった。「この、著者の木元哉多(きもとかなた)さんとは、君のことではないか」と。いずれも筆者が講談社メフィスト賞をこよなく愛すると知っている方々の指摘であり、言外に「受賞おめでとう」といった含みをにじませてくれていた。しかし残念ながら、木元先生と筆者は全くの別人であり、筆者はそもそもメフィスト賞に応募すらしていない、土俵にすら上がっていないのであった。友人知人諸氏には誠に申し訳ない次第である。またかえって僭越であるが、木元先生にも筆名被りという点において深くお詫び申し上げたい。

折角の機会であるので付記しておくと、妖艶な絵を描かれる「きもとかなた」先生も筆者とは全く別人の方である。18歳未満の読者諸賢の検索を固く禁じます。

とはいえ俄然「閻魔堂沙羅の推理奇譚」に興味が湧いたのであった。こよなく愛するといいながらもメフィスト賞は随分とご無沙汰になっており、(というよりミステリ、ひいては読書がここ何年もご無沙汰になってしまっていたのである)「○○○○○○○○殺人事件」以来、およそ三年ぶりに手に取ってみることにした。一刻も早く読みたかったので、地方の悲しさ、本日読めるという確信もなかったこともあり実書店ではなくkindleで予約注文をした。

起床してそのまま読み始め、途中外出で中断しながらも二時間ほどで読み終えた。後には良質な読書体験をした後の満足感が残った。

以下感想。犯人、トリックなどは記述しませんが、簡単なあらすじについては述べつつ感想を書きますのでこれ以上の前情報なしに読みたい! という方はここで読むのをおやめください。

 

 

 

物語はプロローグと、各話ごとに独立した四話からなる。各話の扉でその話で亡くなる人物の氏名、年齢、職業、死因が記載される。プロローグを除き、各話の亡くなる人物が亡くなるまで、閻魔堂沙羅との邂逅、謎の解明、そして……といった構成で話が展開される。この、扉で誰がどのように亡くなるかわかっている、というのが一つ仕掛けとして面白いところで、それぞれの人物が死へと向かっていることを読者である自分だけは知っている、というのはページを繰る手を急がせる。往年の「志村ー、後ろ! 後ろ!」メソッドのミステリへの素晴らしい活かし方であり、今後メディア展開することがあれば(上記のように構成が分かりやすいので、アニメ化などやりやすいのではないかと思われる)、ニコニコ動画Twitterなどで実況が大いに盛り上がることであろう。

ミステリとしては、それぞれの話で推理することになる人は別に探偵でも警察でもない普通の人々であり(それぞれの人物の推理力のバロメーターが、どれだけ過去推理小説を読んだか、という辺りがまたいい)、彼らが与えられたヒントで辿り着けるためにはそこまで謎を複雑化するわけにもいくまいから、ストレートでわかりやすいものになっている。いずれの話も閻魔堂沙羅より「今までの話で真相に辿り着ける」とある(少なくとも閻魔堂沙羅の設定したボーダーラインまでは)ことに偽りはなく、いわゆる新本格を嗜むタイプの読者諸賢であれば、真相を喝破することは難しくないだろう。

つまり、推理パートにおいても当事者でない読者はその分冷静であり、真相に一足早く辿り着くことが多かろうから、懸命に推理する登場人物をいいぞいいぞ、あるいはいや、そうじゃないだろう、と思いながらやはりページを繰る手を加速させてしまうのである。

個人的には第一話の「なぜ彼女に会いに来た彼ぴっぴがエロ本を読んで(見て?)いたのか」という謎の提示とその理由が素晴らしかったのだが、ここの素晴らしさを熱弁すると根幹的なネタバレになってしまうので是非ご一読いただきたい。

閻魔堂沙羅というキャラクター(物語の都合上仕方ないとはいえ、ちょいちょいポンコツであるのがまた可愛らしい。できれば、各扉に各話のファッションの望月けい先生描かれるところの閻魔堂沙羅がいればもっと素晴らしかったのだが……)、十分以内に真相を解けなくては地獄行き、というキャッチーな設定だけで筆者であれば快哉を叫んでしまいそうであるが、そこにそれぞれの人物の人生を活写することで講談社タイガというレーベルに相応しい、それぞれの読者に刺さり、若い読者には一刻も早く読んでほしい作品に仕上がっている。個人的には話としては第三話が一番好きである。

五月には早くも第二弾という噂もあるので、是非続けて購入したいと思う。プロローグのアレはアレするのか気になるところである。

良好な読書を体験できたこと、何より、同じ読みを筆名にした筆者にとって、大変にモチベーションを刺激していただいたこと、勝手ながら木元先生にお礼を申し上げて結びとしたい。

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

 

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)