カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

赤髪はいかにして喜歌を悲歌にしたか――「ONE PIECE FILM RED(ワンピースフィルムレッド)」ネタバレ感想・考察・妄言

ONE PIECE FILM RED (ジャンプジェイブックスDIGITAL)

ONE PIECE FILM RED(ワンピースフィルムレッド)のネタバレがあります

余談

33歳になって1週間が過ぎた。何が変わったわけでもなく、日々は過ぎていき、そんなことより来週にはもう娘は1才1か月になるのか、という感慨の方が大きい。

皆が言うことだが1年の間隔がどんどん短くなっていくな、という恐怖がある。そもそも娘の1才のお祝いだってついさっきしたような気がするのだが。その辺りもさっさとまとめないと9月になってしまう。

あの頃、1週間は長かった。

「ワンピース」の原型「ロマンスドーン」がジャンプに掲載されたとき、筆者はまだ小学生かそこらながらに(父がジャンプを毎週買ってくる恵まれた環境にあった)なんて面白いマンガなんだと思ったし、連載が始まった時は大いに喜んだ。

弟と一緒に布団という大海原に繰り出し、活劇を繰り広げたりオリジナル悪魔の実や能力者を考えたり…「デビデビの実の『悪魔の実人間』(すべての悪魔の実の能力が使える)」、今でもラスボス候補としてワンチャンあるんじゃないかと思ったりするがどうだろうか。

ちびっ子や先生たちにはまだなじみがなかったのか、弟が小学一年生の時「ワンピースが好き」と好きなものに書いた時、先生から「お洋服に興味があるみたいです」というコメントがついていたことを今も覚えている。

筆者の周りの友人たちも続々とコロコロからジャンプへ参入し始め、ちょうどアニメも始まったころで、クラスでワンピースの話題が出ることも多くなっていった。ちりばめられた謎、残りの王下七武海はどんな奴か…語る内容はいくらでもあった。

中学生になり、空島編が始まった。今読み返すと周到な布石と伏線の嵐、余韻と抒情とカタルシスの素晴らしいシリーズではあったがいかんせん毎週読むには辛いものがあった。ちょうど「インターネットで聞きかじりの情報で流行りものを叩くのが通っぽい」と思いがちな痛々しき思春期の始まりでもあり、「ワンピースを如何に叩くか」でセンスが問われるという暗黒時代の様相があったようにも思う。ある種看板漫画の宿命でもあった。それでも恐らく筆者のように、みんな裏ではこそこそ読んだりしていたんじゃないかと思う。

高校生の時に忘れられないのは、筆者がワンピースの素晴らしい魅力の一つだと思っている「合間のめちゃくちゃいろんな要素が詰まっている世界情勢が描かれる話」で明かされたあることが部活の昼練帰りに上級生からサラッとネタバレされてしまったことで、このことは大分尾を引いた。高校生ともなれば通学時にコンビニに立ち寄りジャンプを読むこともあるという考えが物心ついてからこちら「ジャンプは親父が仕事帰りに買ってくるのを読むもの」としてきた筆者には欠落していたのである。

大学生になると慢性金欠でさりとて立ち読みも己の中で許容できず、必然的にジャンプから離れていった。勉学とバイトに精を出していたということもある。勤め先にコミックレンタルがあったので単行本派になっていくが、(実家でもこの頃は細々買い集めていた)頂上戦争編に突入したことでとうとう自らジャンプを毎週買うことになった。ストロングワールドも観た。既に「大メジャー」だと思っていたワンピースが更に1段も2段も上に上がっていくのを感じていた。他方で安易な消費に反発する自分もいた。

社会人になり、ジャンプ+に加入しつつも日々疲弊し、またワンピースも定期的な休載が入るようになり(とてもいい試みである)リズムが崩れ、単行本集めは76巻か何かをダブって買ってしまったことで自分の記憶力に不安を感じ集めるのをやめてしまった。ビッグ・マム編がいよいよ佳境というあたりでたまさか業務が殺人的になり中断し、佳境であるのに読まずにいられる自分に驚きと失望を感じつつ、今年に至っていた。

その間に鬼滅の刃の単行本を揃え、未収録の話を追うためにジャンプ+で過去分をあさったりもしつつしかしワンピースには触れなかった。キャパがいっぱいいっぱいだったのかもしれない。

そんな時に超太っ腹無料解放と、最終章突入を知った。

今こそ読み時なのだろう、「決着(ケリ)をつけようじゃねェかノーランド」と思ったひし形のおっさんよろしく筆者は1話からの再読に取り組み、懐かしさと新鮮さを味わいながら完走し、そのままワノ国編約4年分のジャンプを読み漁って最新話までたどり着いた。

この25年の間に冒頭に述したように筆者は父になった。それ故に以前はふ~んくらいで流していた諸々、特に親子関係が涙腺に来るようになっていたのである。もうドレスローザ編の終盤とか大変なことになっていた。この辺り筆者はつくづく愚者であり経験からしか学ぶことができないのだな…と反省しきりでもある。

そして「ONE PIECE FILM」という大看板がこのタイミングで再びやってきた。しかし平日となれば勤務後、帰りは21時近くなる。子育て真っ最中の筆者にはとても難しい…と諦めていたところに、妻が「映画、見てきたら? 気になってるんでしょ。娘のことで気を遣ってるなら誕生日プレゼントだと思えばいいじゃん!」と明るく送り出してくれた。ちょうど娘が1才になったことで一時預かり保育に預けられ、多少なりとも妻の負担が減り、罪悪感も軽減されたこともあり、そのやさしさに甘えることにした。

第1弾、第2弾の特典配布はとうの昔に終わり、今週末から第3弾配布が予告される平日の夜、いわば隙間を狙うことで感染リスクも減らすつもりでいたのだが、半分以上の客席が埋まる盛況ぶりに驚いていると、劇場の幕が上がった――。

本題

余談が、ながくなった。2,000字超えてしまった。それくらいでこの記事を収めるつもりだったのだがどうにもやはり筆者もワンピースには並々ならぬ思い入れがあったようである。

さてこれからはいよいよ完全ネタバレ忖度なしで映画の感想を書いていきたいのでご了承いただきたい。

端的に言うと赤髪のシャンクスが父親としてダメすぎて辛かった。

Adoさんの楽曲を体感する経験としては素晴らしく、しかしそれ以外の全てがおおむね犠牲になっているような映画であった。

ルフィはそんなこと言わない!…言わなくない?

情報を能動的に仕入れていなかったので、「シャンクスの娘でルフィの幼馴染が歌姫になっている」ということをなんとなく知っているくらいだった。

なので歌姫・ウタがルフィを招待した――のかと思いきや仲間たちが行きたいならまあ行ってみるかあ位の感じっぽいことにまず戸惑った。

冒頭も冒頭、突如ステージに乱入し、ウタとの再会を懐かしみ、シャンクスの娘であることを暴露するルフィ。

ルフィそんなことしなくない???????

いや、「パブリックイメージとしてのルフィ」はそうかもしれない。「人気漫画ワンピースの主人公は麦わら帽子をかぶったルフィという少年で、肉と強いやつが好きで良くも悪くも空気を読まない」みたいなやつ。

一挙無料公開で一気読みした筆者はこの「呪縛」から解放され、意外とルフィはいろいろ考えているやつなんだよなと改めて感じ入ったりもしていたのでいきなりとんでもない解釈違いがぶち込まれて困惑してしまった。

これがまた(本人的には)空気を読んでライブから退散しようとしている描写とかも後に出てくるので混乱してしまう。

脚本上も「ウタを狙う海賊がステージに乱入してそこを助けに来るルフィ、ウタが幼馴染だと気づく」でなんかダメだったのだろうか?

せめて後半出てくる「『UTA』のマークが『自分の描いた麦わら帽子』がもとになっている」ということをこの時点で気づいていて再会の喜びに思わず飛び出すとか、乱入してきた海賊を止めた時に気づいて「おれの描いたシャンクスの麦わら帽子じゃねェか!  やっぱおまえウタかァ!」→シャンクス!!!???とどよめく観客、みたいな流れになるとか…。

「海賊はウタの邪魔をする悪い奴」という風に見える流れにしなくてはいけないという考えからだったのか……。

連動するTVアニメは見ていないが、映画の回想シーンの限りではウタがあまりに「令和のキャラクター」という感じで幼少期ルフィとの他との画面ギャップを結構感じたりもした。そういう「異物感」をあえて出しているのならいいのだが、(トットムジカやルフィたちを追いかける謎メカ、図書館のロボットなどのCGCGしたCGはそういう「異物感」がしっかり出ていてよかったと思う)どうなのだろう。

幼馴染と戦いたくないルフィはそのためか、技名を叫ぶことが無い。

しかしそのウタこそが今までルフィのもとに立ちはだかった誰よりも世界の敵、パブリックエネミーナンバーワンでありかつルフィの物語としての敵である、というのは痛烈な皮肉でかなり食らった。今まで彼は海賊王になるという意志のもと、その道中で困難に立ち向かう人々にもちろん彼の意思の上で助力して、結果として人々を救ってきた。冒険は彼のものでありながらしかし各々の村、街、集落、国家、島において彼は問題を解決する救世主であり、ある種のデウスエクスマキナであった。物語は救われる人々のものだった。

ところが今回の映画ではそれが奇麗に裏返っていて、ルフィの物語の先にウタがおり、それをどうにかしなければ先に進むことができない。今までヒーローと呼ばれることを厭いながら結果なしたことは満場一致でヒーローであった海賊は、海賊であるがゆえに幼馴染と対峙することを余儀なくされたのだった。他ならぬ自分がそのきっかけをつくってしまうことによって。

そういう意味で言えば「塗仏の宴」的であると言えよう。わかりにくく例えてみました。

その結果、彼はその先の道を進むこと、「海賊王になること」を改めて宣言する。

「この海で一番自由な奴が海賊王だ!」というルフィの言葉が筆者はとても好きなのだが、幼馴染との別離を経て宣言される「海賊王におれはなる!」は彼女に代表される民衆を犠牲にした海賊時代の幕を自分が引くという宣誓にも思える。「新時代」でなく「新秩序」を築こうとするようにも思えるその様子は悲痛にも思えるが、しかし一周して「そんな奴があんな空気の読まないことするか????」と思ってしまうのもやっぱり事実ではある。

個人的には、「あと音楽家」という初期にお馴染みだった彼の言葉に急に文脈が生えてきてしまったのは複雑な思いである。

四半世紀の歴史を2時間にぶち込んで生まれた歪み(ディストーション)・ウタ

歌は本当に良かった。映画館で見られてよかった!と断言できる。

ただ、歌声からイメージしていたビジュアルはニコ・ロビン系だったため、(実際尾田先生もAdoさんの似顔絵はその系統で描かれている)ウタのビジュアルから繰り出されるのはそのギャップを狙っていたのかもしれないがなかなか違和感を拭えなかった……というのが正直なところである。

別にエレジアにゴードンと暮らすかつて赤髪海賊団と関わりがあった女の子、というだけでもなんとかなりそうなシナリオなのにルフィの幼馴染という設定まで付加されたのはやっぱりこの物語をルフィ自身の物語にしたかったのかなあ、と思うが、四半世紀続いている漫画の主人公に急に新たに幼馴染がやってきたのだからそんなん2時間でどうにかなるわけがないんである。

連載初期以外にも1回「仕込む」チャンスはあったのに何もなかったということはやっぱりここ3年くらいで生まれてきたキャラクターなのだろうか……。

ただ納得は出来ないままそれが既成事実として話が進んでいくので、筆者としては映画の進行を見守りながら「それじゃああの時も…この時もルフィはウタのことをふと考えたりしていたかもしれないのかあ…」という考えに脳のリソースが割かれたりしていた。月島さんの活躍をチャドが熱弁するときの一護の気持ちをちょっと理解できたようでもあった。

そんな彼女は大海賊時代の犠牲者である民衆の代弁者、救世主として立ち上がるがしかし絶望的に経験値が少ない悲しさ、彼女が行おうとしたのはよく言っても補陀落渡海、言ってしまえば人民院事件のようなシロモノであった。

「理想の世界」ウタワールドが幼い少女がいかにも考えそうな内容であることが悲しい。たった1人の理想郷か……。

その凶行は「実際に事件を解決したという経験を持つ英雄」コビーによって明かされ、観客が恐慌状態に陥る中、なおも強硬に計画を進める彼女は人々を変化させるという強行手段に出る。もはや凶荒となった彼女には誰の声も届かないと思われたが……。

幼馴染と「父」に救われた彼女だが、自らの「新時代」に巻き込んだ人々をもとの世界に戻す――彼ら彼女らがあんなにも忌み嫌った「大海賊時代」へ自らの歌で還らせるという新時代の旗手としての敗北宣言ともいえる行為を行い、その代償として恐らくは命を落とす。

EDでは彼女が生前に遺した曲が今も世界中で愛聴されているシーンが映し出される――つまりここだけ見れば彼女の生死が時代に何の影響も与えていないわけで、彼女の命がけの蜂起はなんだったのかと空しい気持ちにもさせられる。

いや、あの流れで普通に死ぬんだ、というのはちょっとびっくりした。

ウタのキャラクターの下敷きとしていわゆるユーチューバーやらブイチューバー(変換がめんどくさいのでカタカナ)があるのだと思うけれど、そういう前提で子どもが見る映画の結論が「炎上したら死にます」でいいのか!?

見苦しくてもそれでも生きていくんだ! みたいな話にするもんだとばかり……。

というかやり方は滅茶苦茶間違ってはいたけどこの世界の一般人が非常に苦しんでいるということは事実で、ウタが死んでしまうとその辺まで否定してしまっているみたいでなんだかなあ……という気持ちにもなる。

EDの「私が死んでも歌は残る」というシーンには確かにジーンとさせられたけどそれありきで死んでしまったんじゃないかなあというようにも思う。

普通に青空音楽教室ででっけえ絆創膏貼ったウタが助手やっててもよかったじゃないですか……!

足しても1人前になれない2人の父・シャンクスとゴードン

FILM RED、シャンクスの赤っ恥列伝ってことだったのか? と言いたくなるくらい、25年分の株をとことん落としていった男、赤髪のシャンクスである。

トットムジカ」が現存していたことはもしかしたら知らなかったのかもしれないが、ウタウタの実の危険性は十分知っていたはずのシャンクスが最終盤になって駆け付けるのはご都合とはいえいかにも遅すぎる。ルフィは2年間修業していたのでウタが救世主として駆け上がっていることを知らないのは自然なのだが、シャンクスは2年間寝てたのか?

シャーロット・カタクリが共闘しようとしたときに「ビッグ・マムの息子が何の用だ」とか煽ってくるがカタクリは妹の危機を知るや否や駆けつけてくれた訳で家族愛のレベルが違いすぎる。素直に頭を下げてうちの娘を助けてくださいとお願いした方がいい。

そもそもウタをエレジアに置いていくときも嘘が下手というか雑というか、別にウタを庇うにしたって自分が盛大に悪役になることないだろう、架空の海賊でもなんでもでっち上げればよかったのではないか……。というかその悪名が東の海にも轟いていたのならフーシャ村の肝っ玉はでかすぎるしヒグマなんか心臓に毛が生えてるのか? というレベルである。麦わらの一味は船長がそんなやべーやつを信奉していることを心配したりしなかったんだろうか。ていうか本編によればその後ほぼ確定でそんな悲しい記憶のある村にのこのこ帰ってきて実の子どもをもうけているっぽいので更に最悪度が高まる。

エレジアにやってきてからも海軍に啖呵を切る割には娘をみすみす死なせてしまう。死なせたくねェから娘だろうが!!!!

最悪ライブが始まってから駆けつけても覇王色の覇気を即使ってウタが気絶すれば少なくとも最悪の事態は回避でき、ウタ自体も気絶している間に解毒できるし、世界政府や天竜人の目から逃れるために死んだことにするが実はEDで生存が明らかになる……だと何か問題があったのだろうか。

あと、ルフィの「海賊王におれはなる」に呼応してシャンクスにも自分の決意を宣言するシーンが最後に欲しかった。クソでかタイトルを出している場合じゃないんですよ。ウタがあんまりかわいそうじゃないですか。

まさか定期的に表れて意味深なことを言う方が映画で沢山出るよりましだとは思いたくなかった。

ゴードンについてはシャンクスよりかなりマシなのだが父親としてより音楽家としての業がちょくちょく顔を出すのがいただけない。ほとんど絵仏師良秀である。ただ、迫真のウタを思う声には泣かされました。やっぱり津田健次郎さんはすごい。

シャンクスは海賊、ゴードンは音楽家のそれぞれの業、エゴが父親のそれより出てしまっていたのが今回の事態をどんどん大きくし、結果喝采で終わる歌姫の喜歌が絶唱の悲歌に変わってしまったことは残念でならない。

もっと輝いてほしかったコビーとブルック

あんなにだるんだるんだったコビーも宣言通り海軍将校となり、「真の英雄」として観客の前に現れ、ウタの恐るべき計画が明らかになる……が、明らかにあのタイミングじゃなかったと思う。まじめなのはコビーの長所だと思うが、もっと腹芸を覚えるべきだった。

個人的には「新世界」の歌詞にある「僕を信じて」の「僕」はコビーのことだと思っているんだけど、どうだろうか。

それ以上に残念なのはブルックである。一味の音楽家であり、ウタの前に世間を席巻したアーティストでもあり、かつて死を経験したこともある彼。ウタを説得するのにこれ以上ない人材なのにウタウタの音符張り付きの解除方法の解明の他はノルマみたいに与えられた戦闘と下ネタってお前…お前……。

おわりに

例えば「ワンピース改」がはじまってウタが新しく出てくるなら戸惑いつつも受け入れると思うが、地ならしもなしに急にやってこられ、しかも想定できそうな問題がろくに解決できていないとやはり映画の筋よりもその歪みの方に気持ちが向いてしまった。

というか本筋自体がその歪みに合わせているため、展開が、そしてキャラクターが少しずつ歪んでいき、とうとう決壊してしまったような惜しさがあった。

単体映画の最大の惜しさとしては、この映画がワンピースという作品において「フリ」になってしまっていることである。

ワンピースの一般的な展開としては訪れた○○でかつて起きた悲しい事件…!→その原因を現在軸でぶっ飛ばす! であるのだが、今回は「はいウタちゃんが死にましたけど何も変わりませんね。この時代はクソですね」→「(そんな時代をどうにかするために?)海賊王におれはなる!」劇終、であるため、どうにもスッキリしない。

そのモヤモヤをどうにかしてくれ~ルフィ~!! ということで映画公開時のタイミングで始まったジャンプ本誌での最終章を追いかけてくれ! ということなのだろうが、映画単体としてはもう少し何とかしてほしかった。ウタファンの女の子が「あのお兄ちゃんならこの時代を変えてくれるかも……」とか思ったりするだけでも違ったんじゃないか。

百鬼夜行シリーズだと思って憑物落しを楽しみに待ってたら巷説百物語シリーズだった、みたいなモヤっと感がある。ワンピースの世界を広げたという意味では間違いないのだが……。

もしかしたら特典冊子で補足がされているのかもしれないが、映画単体での筆者の感想は以上である。

本当に映画館で見てよかった映画だった。この時間をプレゼントしてくれた妻に改めてお礼を言いたいし、娘には今後成長してどんなにうざがられたとしても直球で愛を伝えていきたいと強く思った次第である。

 

僕がまだ知らぬ朝があり君のまだ知らぬ夜がある

余談

8月も半ばどころか20日を過ぎてしまった。ただいま22:52。

すっかり更新が滞ってしまった理由としては最も大きなものとしてはやはりコロナ禍の益々の拡大によって本業の多忙とそれによる疲弊がある。

今年も両実家共に帰省は見送りになった。幸い今のところ家族みんな元気ではあるが広がりを見るに早いか遅いかの違いになってきたな、という感じはあるし、それなら業務に迷惑がかからない盆休みの間にさっさと罹患しておけばよかったとさえ思ってしまったりもする。

スキマ時間のお供ソシャゲも近ごろ起動すら億劫になってしまいなんとかTwitterでモゴモゴ言っているのがせいぜい、というのがここのところの実情であった。

本題

いつまでも恨みがましくだらだら言っても仕方がない。

明日で33歳になる。

32歳最後の文章として何を書こうかと思った時、娘が浮かんだので、そのようにする。

娘は1才になった。

生まれて約380日。筆者は約12,000日。

ちなみに明明後日は親父の誕生日である。今後ますます陰に隠れがちになりそうな予感があり、気の毒である。(明日は我が身)。

身長・体重共に標準的であり、大きな病気もなくすくすくと育ってくれている。

最近はゆらり…と何もないところで自力で立ち上がることができるようになり、なんだったら一歩二歩歩いたというかこけそうになりヨタヨタ…という動きも見せるようになった。

動きが活発化したことは無意識下でもそうであるようで、ベビーサークル内で寝ている時の寝返りが殊更に激しくなり、防柵代わりに置いてあるぬいぐるみも突破してベビーサークルのフレームに激突、ということが多くなった。

結構な音を立てる割にはそれでも娘当人は熟睡だったりするのだが(もちろん火のように泣くこともある)、隣でうつらうつらしている筆者の心臓に良くないのでベビーサークルを解体、棚と机として再構成した。

当面の間は妻から娘へ受け継がれゆくシルバニアファミリーの拠点となる予定である。

代わりに導入したのがこちらのベビーサークルで、祖父母から娘への誕生日プレゼントである。

名前の通り洗えて畳める、しかも持ち運びが簡単で大当たりであった。

娘の就寝場所遍歴としては一瞬だけ子ども部屋のベビーベッド(筆者は床にゴザを敷いて待機)→居間でマットを敷いて筆者と添い寝→寝室にベビーベッドを移動→ベビーサークルに組み替えして再び居間へ(筆者はマット)となっていたが、このベビーサークルによって日中は居間にこのベビーサークルを展開してそこで遊び、夜は寝室に移動させて親子3人同室で寝る、ということが可能になった。エアコン代の節約になり、筆者としてもおよそ半年ぶりのベッドでの睡眠の日々を得ることができたわけである。

ただ、寝かしつけの難度が跳ね上がってしまった。最近は寝る前に小一時間は抱っこをしてくれないと納得しない。

当然、パソコンを触れるはずもなく、今もまさに左手に娘を抱きながらスマホでちびちび入力しているところである。その間におむつ交換2回、ミルク1回。

あ、3回目のようである。これでは日本育児のステマ記事みたいになってしまって具合が悪いので後で加筆するとして、今日はひとまずここまでにしておこう。

 

ゆくさおじゃいもした、笹貫。あるいは実装までの薩摩審神者の妄言まとめ。

写真は波平行安の短刀(北野天満宮蔵)

 

そろそろ刀剣乱舞に笹貫を出ないかなあ

— 木本 仮名太 (@kimotokanata) 2017年7月22日

↓台風だったけど行きました。このときはおでん君の横で、みんなおでん君は足を止めて見ていたけど笹貫はスルー気味で悔しかったなあ…ただ大典太はまさに大名物という圧倒的存在感だったのは確かでした。

kimotokanata.hatenablog.com

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しかし徒然思うのが薩摩の誇る刀「笹貫」(京都博物館所蔵)を刀剣乱舞に実装してほしいなあという気持ちである。筆者になじみがある地域で鍛刀されたということもありひときわ愛着がある。

kimotokanata.hatenablog.com

また、薩摩の誇る名刀工、波平行安の短刀と出会えたのは嬉しい驚きであった。

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「笹貫が実装されたら本気出す」を口癖に、そういった態度でも懐深く許容してくれる刀剣乱舞に感謝しながら、TLの審神者諸賢の本丸の日々を受動喫煙することで、自分も熱心な審神者であるような錯覚を覚えたりしてしまってもいた。

 

Twitterで、ブログで、折を見て漏れ出す願望……それはいつの間にか千の夜を超え、もはや擦り切れてしまうかのように思えていた。

いや、しかし筆者は学んだはずだ。この曲から大切なことを…。

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とうとう来たなこの時が!

(動画の内容は特に関係ありません)

審神者歴六年、木本仮名太。好きな四字熟語は「確定報酬」。

頼む…そうであってくれ……。

以下、今のうちだから出来る笹貫の予想。

・本人は標準語を話しているつもりだけど「からいも標準語」(鹿児島の若者が話すアクセントが違う話し方)になってしまう笹貫。

・刀鍛冶に捨てられたり献上されたり返されたりしたので微妙にネガティブ思考な笹貫。

・真剣必殺の時コテコテのかごんま弁になる笹貫。

ああ…つぎは島津国宗をよろしくお願いします……。

空想科学なんて信じない、でも…。

今週のお題「SFといえば」

余談

あっという間に月末であり、日曜日の終わりも近づいている。

前回6月も前半少し書いて後半さんざん、という感じであったのだが過去の遺産で意外とPVがあったのに対し、今月は奇麗に更新していなかったことが反映されている感じで、ブログを運営している方としては「じゃあ更新したら伸びるかな?」という気持ちになるのでこちらの方がいくばくかありがたかったりする。

この間に4つの記事が下書き入りし、体重は上下に3キロほど推移しつつも結局月初同等に落ち着いている。毎回、この壁に阻まれているのであるがいよいよ健康診断までひと月を切っているので頑張っていきたい。

 

ということで昨年同様プライムデーではこちらを買ったりもした。味は普通に遜色なくカップヌードルなので驚く。今年はシーフードも買いました。チリトマトもあるらしい。プライムデーの記事もまた、先ほどの下書きの中にある。かつて筆者が「ブログ」というものに二の足を踏んだ原因である「ライフハックブログ」的なブログ群に連なろうとすればせっせと記事を書いていくばくかの収入を得ることを目指すべきだったのかもしれないが、なかなか模範的ブログ民の道は遠い。

本題

余談が、長くなった。

父の本棚

オタク…読書青年であった父の蔵書が祖母宅に残っていたこともあり、SFには早くから親しんでいた。星新一かんべむさし森下一仁小松左京筒井康隆横田順彌アイザック・アシモフスタニスワフ・レムH・G・ウェルズアーサー・C・クラーク……。

「SFベスト集成」シリーズには子ども向けに毒抜きされていない藤子・F・不二雄永井豪手塚治虫諸星大二郎作品もあり、筆者の心の引き出しを作ることに大いに助けになった。

特に思い出深いのは、日本の作品であれば広瀬正の「マイナス・ゼロ」。

今では電子書籍化され、気軽に手に取れることができるが長らく絶版が続き、本屋大賞の復刊希望企画ではトップをとった作品でもある。

恐ろしいことに半世紀前の作品であるのだが、初めから執筆時点での過去を舞台としているのでさながら「夕陽のガンマン」のように既に古いことでそれ以上のチープ化を免れているという意味でも幸福な作品であるといえる。金田一シリーズの田舎者に通じるところがあるかもしれない。

大きな風呂敷の広げ方、畳み方、余韻……。筆者が大学の文芸サークル時代、「時と人」というテーマにとらわれる原因になった一端でもあり(もう一つは北村薫の「スキップ」)、そういった意味でも思い出深い。

海外作品で言えばレイ・ブラッドベリの「火星年代記」。

電子書籍反対派だったはずのブラッドベリの作品のKindle版を貼るのはいささか心苦しいし、表紙も以前の方が好きなのだがご容赦いただきたい。

日本のSFコンベンションに招待されたときに「飛行機が怖いので船で行きたいのですがそれでは間に合わなさそうで困っています」という相談をした愛すべき大作家にして詩人、(結局参加を断念して素晴らしい詩編を提供したという)レイ・ブラッドベリの連作短編集――という言い方はあまりに味気ない、一大叙事詩が本作である。星新一をはじめ多くの作家がその薫陶を受けたこの作品の初出はなんと1950年というから70年以上前の作品ということになる。

火星進出に始まるこの物語は出版時遥か未来であった1999年に始まるが、筆者がこの本を読んだ時すでに時は2001年になっていた。この辺り過去を描くゆえに古びなかった「マイナス・ゼロ」と対照的ではあるが、これまた壮年で突如世を去った広瀬正とは対照的に91歳(2012年没)の長寿を全うしたブラッドベリによって実は1997年に改訂がなされており、その版ではスタートが2030年になっているという。

内容は未来を借りた文明批判であったが出版からおよそ半世紀が経っていた筆者が読んだ当時も、そして現在もそれらの問題は散見され、物語のコアの部分は薄れるどころかむしろ深刻さを増しているというこの事態こそがディストピアSFでなくてなんだろう、と暗澹たる気持ちになったりもするが、SFの吟遊詩人ブラッドベリの語りはその深刻さを我々の脳にすっと染みこませてくれる。

お茶の間の空想科学と、あの日の助手席

他方で筆者はまた、平成を生きる子供としてお茶の間に展開される空想科学世界を摂取して生きてきた。ウルトラマン(よりによってグレートから始まる)、仮面ライダー(あろうことか真からスタート)、戦隊シリーズジェットマンとかいう戦うトレンディドラマ)、メタルヒーローブルースワットとかいう子どもでも察する予算感の番組)、ガンダム(満を持してGガンダム)、勇者シリーズ(誕生!無敵のドデカい守護神)…彼らの設定に心躍らされ、スペックを覚え、それを超えるようなオリジナルヒーローや怪獣、ロボットを考えたりもした。

そんな折、確か秋ごろだったと思うが……。筆者の習い事に父が迎えに来てくれた。いつものルーティンとして、駐車場に備え付けられている自販機でC.Cレモンの缶を買ってもらい、飲む。(まだ100円か110円だったような…)当時は家では炭酸禁止だったため、(まだ歯が生えそろっていない弟たちのための配慮)この親父とのささやかな秘密の共有の時間が毎週の楽しみであった。

飲み終わり、缶を横のごみ箱に入れ、車に乗り込もうとする――と、助手席にカバーのかかった一冊の本が置いてある。

そのままでは座れないので、持ち上げ、そこは既に本の虫であった筆者、何の気なしにパラパラとめくる。

カラカラになったウルトラマンのイラストが目に飛び込んできた。

「見たなあ~!」

ニヤニヤしながら親父が言う。あまりかけることの無いブックカバーがかかっていたのは、そのものズバリ「子どもの夢を壊す本!」というコピーが掲げられたこの本を筆者の目に入れないようにしよう…という配慮だったのかもしれない。

空想科学読本」と筆者との出会いであった。

本部以蔵であれば「ヤロウ……タブー中のタブーに触れやがった」と言うに違いない「空想科学読本」は筆者にとって神聖にして不可侵な「昭和のレジェンド特撮」達に土足で立ち入り引きずり下ろすような衝撃的な作品であり、それだけに面白かった。正直なところ、その理論や計算式がすべて理解できていたとはいいがたいが、素直に受け止めるとなんだかとんでもないことになっている、ということ、それを絶妙に活写した近藤ゆたか先生のイラストや血の通った脚注が最高だった。

この季節になると毎年「読書感想文」がwebを賑わせるが、小学5年生の時に筆者は「空想落語読本!」を自分ででっち上げ(方眼ノートに書いた)、(内容は「寿限無」で名前を言っているうちに夏休みになるなら1文字どれくらいで発音したらいいのかみたいな今書いてて赤面するような内容である)その読書感想文を書く、ということをしでかしたことがある。そういう意味では今、三十路も過ぎて何か見返りがあるでもなく文章を書いているのは「空想科学読本」のせいおかげであるとも言えよう。少なくとも、この文体と「筆者」という一人称は「空想科学読本」の影響が大きいと言わざるを得ない。

その視点だけでなく、間違っていたことへの対応、あとがきからにじみ出る教育者としての姿勢がまた、児童であり生徒であった筆者の心に響いた。柳田理科雄さん、編集者にして空想科学研究所所長の近藤隆史さんが共に鹿児島出身でいらっしゃることもあり、講演が鹿児島で開かれ、参加することもできたし、サインを頂くこともできた。家宝である。

就活時はメディアファクトリーも志望したものの、残念ながら夢は破れ、筆者は一介のサラリーマンとして日々を送っている。けれど、あの時「空想科学読本」が与えてくれた違う角度から作品に光を当てるという姿勢が、筆者の特撮好きとしての寿命を延ばし、引いては今も続くかけがえのない知己を得る助けになったように思う。

小学生の時にSFに出会い、空想科学読本に出会った筆者も来月でもう33歳になる。まさかこの年になって「シン・ウルトラマン」で「空想科学読本2」でも言及された「1,000,000,000,000度の炎」について公式からアンサーが返ってくるとは思わなかった。これだからオタクはやめられない。

空想科学なんてもう信じる年ではないかもしれない。でも、空想科学について真剣に向き合う大人たちの姿勢や、そこから生み出される作品については信じているし、今後も信じ続けたい。

↑現行版の表紙にはないみたいだけれど、空想をかきたてられるモリナガ・ヨウ先生の造形作品と帯を外したところにあるそれに呼応した文がとても好きだった。

そんなふうには取り上げられずにぼくらは死ぬとして

娘が無事11カ月を迎えることができた。

これでとうとう、8月から始まった娘の1周目の月々を巡る旅は全ての月を経験したということになる。とはいえまだひと月分、「初めての〇月〇日」が存在するわけだから、もう30回以上そのサイクルを繰り返してきた人間にとっては不思議だなあ、という気持ちになる。

その日は木曜日で、通常毎週木曜日は自主的にノー残業デーにしているのだが、イレギュラーが重なりいつも以上に帰宅が遅くなってしまった。娘はますます元気であったが、翌日に有給を取得していたので(そのために木曜日の業務が逼迫していた、ということもある)、深夜まで存分に遊んだ。ありがたいことではあるのだが、明日も休みだし多少夜更かししてもブログ記事を書きたい、という野望は粉砕された。

翌日は有給日だが燃えるごみの日でもあるのでいつも通り6時に起き、ごみをまとめ、捨てる。リモートでいくつか業務を処理しておく。娘が起きたのでモーニングルーティン(オムツ替え、保湿、ミルク、食事)をこなしつつ、平日休みの楽しみ「ラヴィット!」を鑑賞する。妻が起きてくるとブランチとして海鮮丼を食べに行った。

「うおきき」さんの韓国風海鮮丼は替えの効かない味である。魚は日替わりだが、この日は「チャイロマルハタ」が特に美味しかった。

娘にはブリカマの塩気が少なさそうな部分をほぐして与えた。ニコニコ食べるので魚好きの妻の血筋を感じた。(筆者も大満足のおいしさのブリカマであったことは言うまでもない)

続けて妻の用事に向かい、娘と車で待機している間に速報が入り、ひそかに楽しみにしていた昼間の情報番組は企画が差し変わった。

それが原因で、という訳でもないのだが、業務での確認事項が発生し、職場へ向かった。帰り道、「スリランカかごしま姶良店」という最後のひと単語を見るまでどこにあるかわからないスリリングなお店でテイクアウトをお願いした。そういえば、スリランカ破産の詳細をまだ確認していない。

店主のアショカさんが手際よく作ってくれたおかげで娘のスイミング教室に間に合った。6カ月から参加できるベビークラスは何回かに分かれており、娘の回は娘だけである。マンツーマンの指導はありがたいが、その手厚さに採算は取れているのだろうか…と心配になってしまう。末永く続いてほしい。

レッスン時間は1時間で、その間だけでも妻がゆっくりできたりしないかという下心もあったのだが、いわゆる「親子スイミング教室」みたいなもので妻もばっちりプールに入り、ばっちり運動する。当人は全身運動ができて満足しているので結果オーライではある。

が、そうなると娘(と妻)の雄姿を誰もカメラに収められない。今回の有給の目的の1つはその様子を筆者が観覧席から撮影したい、ということであった。

コロナウィルス対策で窓が開け放たれた観覧席は立っているだけでじっとりと汗がにじんでくる。

妻子はなかなか更衣室から出てこない。いつもお風呂→その後の着替え•保湿は筆者が担当させてもらっているが、娘のなにも身に纏いたくない欲は凄まじいからさぞや激闘が繰り広げられているのだろうな、と思った。

いくらかのレッスンをこなす中で、プールに浮かんだボールを拾ってはコーチに「どうぞ」する様は成長を感じさせたが、「どうぞ」しても自分にはなにも返ってこないことに気づいたのか最終的に渡すのを渋り出したときは笑ってしまった。猜疑心の成長が速い。

他方、大きなビート板に乗って浮かぶ…というレッスンでは妻から離れた時点で大泣きしてしまっていた。最近甘えん坊の傾向が強まっているように思う。情緒が育っているのだろう。

観覧席側を見てプールの外周を進む…というレッスンでは筆者を父と認識していたのかどうか、こちらをじっと見つめることもあった。

再び更衣室での激闘の後は小児科へ。気をつけていても関節部分の乾燥は続き、毎月初めに受診して保湿の薬を限度分処方してもらっている。体重も順調であった。

再び足を伸ばし、「森三」の「まるごともも」を購入する。取り置きしてもらわないとなかなか手に入らない人気商品だ。人気すぎて実はももは少し前からまるまる一個ではなく半分なのだが美味しさは変わらないので気にしてはいけない。届く人が倍に増えたのだから喜ぶべきである。

娘にも少し桃部分を与えてみると「知ってしまった…この味を…」という神妙な顔つきの後執拗におねだりするようになり、まさしく禁断の果実という趣であった。

再び、速報が流れた。

少し早めの晩御飯にすることにした。先程のテイクアウトだ。

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何度もリピートしているオリジナルピラフが飽きさせないスリランカカレーはもとより、今回初めて頼んだスリランカの屋台料理コットゥロティもボリュームがありとてもうまい。ルーは小麦粉不使用なのでもたれないのもいい。スパイスが体に活力を与えてくれるようであった。

その後は同好の士とTwitterのスペースにおいて交流を深め、充実した気持ちで眠りについた。

明けて土曜日はデッカーが予定通り放送されることに安堵しながらも歯のメンテナンスに向かい、100円ショップでバズっていた商品をゲットしてホクホクしていた。毎年恒例ハンモックを組み立て、娘は妻と共に初ハンモックを堪能していたようである。

16時ごろ娘がお昼寝に移行したのを見届けると、少し横になろうと久々に寝室に向かう。(何度か書いていることであるが普段は居間に娘と共に寝起きしている)ほんの少しのつもりであったが久々のベッドの恐ろしさ、なんと起きたら8時前であった。

妻は既に娘に食事を与え、大人用の食事としてビーフストロガノフの十穀米添えを拵えてくれていた。

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出汁がよく出ていて、宮崎牛の旨味も抜群で2度お代わりをした。

「ジョブチューン」のクイズも途中参加になってしまったがそこからの8問は全問正解だった。相変わらずよくわからないところで運を使っているように思えてならない。

ルーティンのフィットボクシング、筋トレ、娘のお風呂、保湿、寝かしつけを経て昼寝のせいか眠気が訪れず、無料に乗じて再読しているワンピースもアーロンパークからジャヤにまで辿り着いてしまった。今は4時…というかほとんど5時で、朝活をする人などそろそろ起き始める時間だろう。

関係ないが最近、ほぼ必ず5時半に目が覚める。これまたほぼ必ず娘は3時ごろにぐずるのでちょうど大体1時くらいになる筆者としては2時間そこそこで起きることになり、娘の生まれたての時期を思い出して懐かしくもやはりしんどさが拭えない。

ふやけた脳に任せるまま薄暗い光の中で打鍵すると結局意味のない雑文が出来上がってしまった。そろそろ目を閉じたら眠れそうなのでこの辺にしておくことにする。

世の中にどんなことが起ころうとこの3日間は娘が生まれて11ヶ月目から11ヶ月と2日目までの日々であるということは変わらない、それはなにものにも上書きされ得ないということは忘れないでいたい。

(1時間/2870字)

 

水無月、豪雨の日、車中で「sachi」を聴いた。

あと8分で日付が変わる。

6月こぼれ落ちたことの1つの断片を文字に残しておく。

なにも書かないよりはいつか記憶を辿るアンカーになってはくれるだろう。

晴れた日にイヤホンで聴いてくださいと推奨されている曲を土砂降りの日にカーステレオで聴いた。

純文系の新人賞でデビューした作家の2作目のエピローグのような歌詞は筆者の中の存在しない記憶を生み出すような手触りがあり、それが和田彩花さんの声で少しずつ増幅していく。

ワイパーの音がメトロノームのように規則正しく今生まれた記憶を過去に押し込もうと左から右へ動いていく。

こんな曲を晴天のお散歩で聴けだって?

なんて恐ろしい呪いを思いつくのだろう。

煎じ詰めれば千字になるか•疲弊編

出だしが好調だった6月、一転してほぼひと月の時間が流れてしまった。

いつものごとく、その間にも書きたいことは沢山あり、そしてそのいくつかはすでに旬を逃してしまった。

が、意外と先月のPVは悪くなかった。内訳としてはマクドナルド記事、シン•ウルトラマン記事、トイストーリー記事、金田一少年記事が大きく牽引してくれたようである。嬉しいことでもあるが、更新しなくてもこれくらいいくなら別に更新しなくても良いんじゃね? と思ったりもしてしまい、良くないことである。

業務量、気圧、気温、湿度、天気…全てが牙を剥いてきた6月であった。それでも愛する妻子の元に帰るためどうにか家に辿り着いてみると、あっぱれ300日オーバー、ますます元気な娘氏がびっくりするくらい寝ない。寝つきも悪い。気圧、気温、湿度、天気に悩まされるのは何も大人ばかりではないのである。1時前になんとか寝かしつけ、3時に娘の夜泣きで目覚め、5時半に明日への不安諸々で目が覚める、という日々が続き、作業効率が落ち、休憩時間の仮眠でしのぐ…という日々が続いたが娘氏がまず鼻風邪となり、水っぱなを吸引してたことが影響したのかどうか、筆者も無事同様の症状を呈して久々に副反応以外で熱を出して6月

の最終コーナーを走り切ることになった。

自分がブログを書けないのはともかく全く読めていないのがもどかしい。ギリギリTwitterで妄言を吐いたりしているがこれは大体実生活でギリギリの時である。このように語彙も限界である。ギリギリ人の形を保たせてくれる妻子とフォロワーに感謝したい。

梅雨明けともに晴れやかなブログになるような7月は頑張っていきたい。

(15分/700字)

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