カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

少女たちよ、夜明け前が一番暗い。あるいはPRODUCE48最新話までの感想と最終デビューメンバー12人のガチ予想

余談

ミーハーであるので「PRODUCE48」夫婦で韓国料理をちょこちょこ食べている。いや、以前から食べてはいるのだが。(妻は時々チヂミを作ってくれたりする)明らかに頻度は増した。

特に「嗚呼、おっぱちゃん」(店名)さんのカムジャタン(上記写真)がとてもおいしい。〆はポックムパムがおすすめである。冬には牡蠣を用いた鍋もあるということで今から楽しみ。日置市にもおいしい韓国料理屋さんがあるということで是非行ってみたいと思う。

本題


[ENG sub] PRODUCE48 [최초공개] 프로듀스48_내꺼야(PICK ME) Performance 180615 EP.0

「PRODUCE48」が始まって早くも二か月が過ぎた。厳しいレッスン、容赦ない順位格差、思うようにならない選曲、意外な伏兵、埋もれていた才能の発揮、国境を越えた友情……彩り豊かな群像劇を経て上記の96名の少女たちは今、30名にまで減り、そして来週は20名に、今月末には最終の12名が決まる。

ということで、最終12名を考えてみた。作成はProduce 48 Rankerを利用させていただいた。君も自分だけの最強デビューメンバーをつくろう!

 

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※王冠マークがついているメンバーは前回中間発表でデビュー圏内(12位以内であったメンバー)

1位予想:チャン・ウォニョンさん


PRODUCE48 [48스페셜] 스타쉽 - 장원영 l 당신의 소녀에게 투표하세요 180810 EP.9

 

筆者が予想する最終1位はチャン・ウォニョンさん。2004年生まれというから14歳のジャイアントベイビー(番組談)である。番組最年少。14歳というのは韓国は数え年で年齢を数えるからであって、実際は誕生日をまだ迎えていないから13歳ともいう。恐ろしい話である。最初期から注目されており、常に高い順位をキープ。中間発表では見事1位の座を獲得した。即ち筆者はウォニョンさんの「逃げ切り」を予想していることになる。ここがリアルタイム・サバイバルレースの残酷かつ面白いところでもあるのだが、前回の中間1位直後、ウォニョンさんの順位は急落しており、現在は首位陥落している。追うものの方が追われるものより強い、の典型を受けているといえよう。

 


[ENG sub] PRODUCE48 [4회] ′이런 게 바로 상큼′ 믹스주스ㅣI.O.I ♬너무너무너무_1조 @그룹 배틀 180706 EP.4

年若く、練習生期間も1年2か月と短い彼女だが、筆者としては上記「very very very」にて完全に撃ち抜かれてしまった。目線の使い方、体の動かし方、完全に「カワイイの天才」である。このグループ自体がある種アベンジャーズ的なドリームチームであり(30/96に全員残っていることからもその凄さがうかがえよう)それらを従えながら彼女以外にセンターはつとまるまい、と誰もを納得させたであろう素晴らしいパフォーマンスであった。


PRODUCE48 [풀버전] In to youㅣAriana Grande ♬Side To Side @포지션 평가 180727 EP.7

カワイさの極致を演出したと思えば次はセクシー路線でも遜色ない動きを見せるというそのいい意味での振れ幅の大きさも大きな魅力である。他の演者がパフォーマンス中など、結構そのマネをしていたりしてそれもまたカワイイである。

PRODUCEシリーズのコンセプトとしてはやはり頂点には他の色のついていない練習生が立ってほしい、という思いも込めて、彼女を1位に予想する。面白いのは、最終話は生放送の予定なのだが、彼女が年若いので法律に抵触するため、放送時間の変更が検討されている件である。番組編成を変えさせるほどの人気という訳だ。

他デビューメンバー予想

正直な話、1位予想以外は「このメンバーは入るだろう……」という予想が精一杯で、上図の順位はそれほど根拠はない。ただ、大体の雰囲気としてあれくらいの配置になるのではないか、とは思っている。特に2位の矢吹奈子さんに関しては、ほぼそうなるだろう、と考えている。少なくとも日本勢では彼女が一番ではないか。


[ENG sub] PRODUCE48 [단독/3회] '귀요미 어벤져스' 자이언트 베이비ㅣ여자친구 ♬귀를 기울이면_2조 @그룹 배틀 180629 EP.3

クラス選抜で始め最下位のFクラスに(ところで彼女のクラス評価動画は見当たらないのだけどやはりとなりのバナナはNGだったのだろうか)なりながら、その後の映像評価でAクラスへとのし上がった彼女はその勢いのままにグループバトルで超高音の伸びのある歌声を堂々と披露して圧勝、中間発表でも1位争いを繰り広げるなどその存在感は大きい。このままいけば上位入賞は間違いないと思うが、HKTのこれからの要である彼女をある意味この企画に縛り付けてしまう=HKT及び48グループとしての活動が制限されてしまうことを投票する国民プロデューサー諸賢がどのように考えるか? ということが意外と分水嶺となるかもしれない。海外にもファンが多いという指原莉乃さんの薫陶を受けた彼女に対して「指原ファン票」が与えられるのか? というのも注目であろう。

 竹内美宥さん、イ・ガウンさん、クォン・ウンビさん、宮崎美穂さんは全員5年以上のキャリアがあり、パフォーマンスが安定していることから選んだ。アイドルの投票ごとにおいてランクインするための一つの指標は身もふたもないことを言ってしまえば「かわいそう」かどうかである。「報われてほしい」という思いでもある。日本ではしばしば判官びいきともいわれるあの感情が、ことアイドルに関してはとても強く作用するというのはブラックビスケッツVSポケットビスケッツの昔から明らかである。

竹内さんはAKB黄金期に第9期として加入した。同期にはAKBの「顔」の一人として知られた卒業生の島崎遥香さんや、SKE48へ移籍、今年の総選挙では自身最高の8位にランクインした大場美奈さん、現総監督の横山由依さんなどがいる。昇格時は当時の正規メンバーの最年少で、奇しくもウォニョンさんと同い年の時であった。華々しい同期に比べ、彼女のアイドル人生は順風満帆であったとは言い難い。第2回から参加している総選挙はすべて圏外。劇場公演もスタメンでない時期もあった。大学進学後は露出も減り、花道を歩く同期や後輩と比べられたり、ネガティヴな発言をまとめサイトに悪意ある取り上げ方をされたりとつらい日々が続いた。もしかしたら今回の参加で「まだ卒業してなかったのか」と思ったアイドルファンもいたかもしれない。PRODUCE48でようやく彼女は「見つかった」。その歌唱力と、キャリアを重ねていたものだからこそできる粘り強さで。彼女は前述の所謂「干され」期間の間何もしなかったのか?――そうではなかった。彼女は4年前からこつこつと、自分のチャンネルで「歌ってみた」動画をアップロードしていたのだった。PRODUCE48は筆者がさっきからべたべた貼りつけているように公式で動画をどんどん上げる。「この歌が上手い彼女は誰?」そう思って国民プロデューサー諸賢が検索すると、過去の素晴らしい歌唱がぞくぞくと出てきて、ますますその歌声のとりこになってしまうという訳だ。それはアリとキリギリスのような鮮やかな逆転劇だった。かつて彼女が師事していた、高橋みなみさんの「努力は必ず報われる」を身をもって証明したと言える。筆者は考える。彼女がグループバトルで歌った「ハイテンション」は同期・島崎遥香さんの卒業曲である。彼女はその選抜には選ばれていない。異国の地でそれをディーバよろしく歌い上げた時彼女は何を思ったのだろう。そんな彼女も第2回中間発表ではギリギリの30位。しかし最新放送では4位まで大躍進した。前述した「かわいそう」票が火を噴いたわけである。(我が家ではこういった現象を「かわいそうベネフィット」と呼ぶ)しかしこれによって他陣営が火がつくわけで、このままは難しいかもしれないがデビュー圏内はキープするだろう……というのが筆者の見方である。

イ・ガウンさんは筆者でも知っている韓国のグループ「アフタースクール」の元(?)メンバー。アイドルの華ともいえる10代後半~20代前半を飼い殺しにされてしまったというド級のストーリー、「かわいそう」と勿論抜群のルックスとパフォーマンス、日本語会話も含めたコミュニケーション能力を引っ提げて参戦し、初回の中間発表では第1位となった。ここでさらに家庭環境が複雑ということでストーリーが分厚さを増した。勿論、パフォーマンスも頭一つ抜けていた。ところが第2回のウォニョンさんがそうであったように、やはり追う者たちに追い上げを食らい順位を落としている。ファンたちの油断もあったのかもしれない。しかし竹内さんの歌声がそうであるように、ガウンさんの存在は誕生するであるグループには必ずいてほしい重要なものだ。国民プロデューサー諸賢がその気持ちと自分の推しへの気持ちをどう調整するか、という問題になって来るであろう。

クォン・ウンビさんもかつて別名義でデビューしたものの挫折した経歴を持ついわばサバイバーである。当初から同じ事務所のメンバーの精神的支柱となっており、投票でも常に上位をキープしている。その後もたびたび自分よりチームを優先する姿勢が出ており、前提としての高いレベルでバランスの取れた実力があることからも「報われてほしい」「チームを支えてほしい」という票が彼女をデビューまで守り続けてくれるのではないだろうか。

宮崎美穂さんについては正しく黄金期の「次世代エース」。しかし、その「黄金期」にうまく乗り切れず、次々と現れる新たなる次世代エースの背中を追うことが多かったように思う。かつては篠田麻里子さんをはじめとするメンバーに歯に衣着せぬ物言いで噛みついて場を盛り上げていた、そんな末っ子狂犬キャラも月日の経つのは恐ろしく、今回は最年長での参戦である。キャリアも一番あるのではないだろうか。彼女もまた継続の人であった。韓国が大好きなのである。アイドルファン、特にネット上での声が大きい人々は外国への偏見がある人々も少なくなく、そういった層に何度も叩かれても彼女はその「好き」をぶれさせなかった。その結果韓国側練習生と日本側練習生とのコミュニケーションの柱になったり、韓国語の楽曲の歌唱でも持ち前の歌声を損なわずアピールが出来た。その結果か、韓国国内でしか投票できないこの投票において最新順位では3位を叩きだした。まさに「好きを仕事にした」のである。多国籍グループになるとき、コミュニケーションは何より大切である。また、第2回中間発表の直前まで練習していたチームは彼女以外全員脱落した。編集がとやかく言われるこの番組であるが、みんなでワイワイとしていたのにすっと消えて宮崎さん一人レッスンルームに取り残される構図は多くの「かわいそうベネフィット」を獲得したに違いない。未見の読者諸賢にわかるように国民的漫画ワンピースで例えて言えばブルックのビンクスの酒のシーンのごときギャップであった。また、同チームのメンバーのファンたちが援護してくれる可能性もある。これらによってデビュー圏内に入ると信じたい。

なんと4,500字を超えてしまったので打鍵を急ぐ。アン・ユジンさんについてはやはり高いところで全ての能力が安定していること、既に固定ファンがついていることから余程しくじらなければデビューできるだろう、と考える。性質も被らないし、ラッパーとして安定しているメンバーが必要であろう。が、こういった「正統派」がなぎ倒されるのがこういった投票の面白さであり恐ろしさであるのだが……。他のメンバーと比べると国民プロデューサーに訴える「ストーリー」がやや弱いか。

宮脇咲良さんについても同郷であるしファンであるので応援しているが、やはり現状はそれまでに築き上げた地位がかえって足を引っ張ってしまっている。「追われる側」「ジャイアントキリング(される側)」になってしまっているので不利は否めない。番組自体、そして本人はこの番組を彼女の成長ストーリーとしたいというのは伝わってくるが、そういった「メインストーリー」に反発したくなるのがオタク根性というものなのである。デビューは出来るであろうが、高い順位は難しいかもしれない。

戻って本田仁美さんはチーム8出身のダンスメン。その振りの学習の早さはダンスに定評のある韓国練習生やトレーナーの先生方も驚嘆させた。AKBグループの次世代の潮流として、日本もカワイイだけでなくしっかり技術も伴っているんだぞという証明として、是非ランクインして頂きたい。今年の総選挙で初ランクインしたことが追い風になるといいと思う。

カン・ヘウォンさんは円が灰色=今回予想メンバー唯一のFランク出身。目を引くルックスからお出しされる残念な歌声(と、ダンス)は第1回を鑑賞した我々に「韓国人練習生だからって皆パーフェクトなわけではないんだな」と感じさせてくれた。が、中間発表を経て現在も高順位をマークしている。何故か。それは勿論そのルックスと、もう一つこういった投票ものでランクインするためのポテンシャルを彼女が秘めているからである。それは「俺(私)が見守ってあげなくちゃ……」という気持ちにさせるキャラクターであること、言ってしまえばポンコツであること。そしてやるときはやるギャップを秘めていること。


[ENG sub] PRODUCE48 [4회] ′희망이 보이는 것 같아요′ SNACKㅣ블랙핑크 ♬붐바야_2조 @그룹 배틀 180706 EP.4

彼女をはじめポンコツキャラクターがそろった「ボンバイヤ」2組は実力では完敗している1組に投票で勝利した。「応援したくなる」のは2組であったからであろう。「俺(私)がいなくても大丈夫だな……」と思わせてしまうのはアイドルとしての敗北に等しい。そうした意味で、ヘウォンさんは勝ち続けている。その度に技術や、国を超えた友情を獲得してどんどんとレベルアップしながら。このままいけば上位に食い込めることであろう。

チェ・イェナさんについてはムードメーカーであり、他メンバーにはない一種独特の愛嬌とパフォーマンスのギャップが筆者をひきつけてやまない。日本の歌番組とかでその愛嬌を存分に発揮してもらいたいな……というかそういうのに対応できるキャラクターって貴重だよな……と思ってデビューメンバーに入れた。是非残ってほしい。

ワン・イーレンさんに至ってはもう絶対に落としてはダメだろこのビジュアル……と思っているのだがどうも順位が振るわない(確かに手持ちの武器は少ないように感じるが……)が国民プロデューサー諸賢の良心を信じてデビューメンバーに入れた。全然知らない層が知るきっかけ、入り口となるポテンシャルがあるルックスであると思う。

果たして結果がどうなるか。そもそも今回選出した12人は20人への選抜を全員乗り越えられるのか。導火線に火をつけた気持ちで待ちたい。

散りぬべき時知りてこそ、あるいは歌仙兼定鑑賞目的で行った熊本県立美術館が最高だった話

夫婦で「刀剣乱舞」ファンをやっていていいことというのは色々あるのだけれど、その一つに「遠出をするきっかけになる」というのがある。

我々二人はどちらとも基本的にはインドア派である。あんまり出歩くのは好きではないのである。ましてや、酷暑。余程のことがないと出たくないのである。

刀剣乱舞ファンには結構、余程のことが起こったりするのである。

今回の「余程」は熊本県立美術館さんの企画展「細川ガラシャ」であった。こちらに刀剣乱舞に出演していることでお馴染み「歌仙兼定」がやってくるのだという。

この情報を我々は、4月ごろに入手した。折しも京都国立博物館にて「歌仙兼定」を含む刀剣乱舞に登場する様々な刀剣の展示が秋に行われることが判明したこともあり、その時点では我々は「京都の方で見ればいいか……」といった程度のテンションであった。3月の京都体験が余りにも素晴らしく何かしら行く口実が欲しかったというのもあろう。

が、来週どこかへぶらり行こうと思っていたがETC休日割引が週末対象外になることを知り、また今回の企画展では「歌仙兼定」の撮影が可能であるということ、熊本県立美術館は熊本城にほど近い場所であることがわかるにつれ、2日前にほとんど行き当たりばったりで行くことを決意した。秋の京都はあまりにも魅力的に過ぎて破産が懸念されるということもある。

平日のモダモダはどこへやら、我々は6時に示し合わせたかのように目覚め、淡々と準備をし、7時には出発していた。外は28℃。これですら「ちょっと涼しい」と感じるほど我々は異常気象に飼いならされてしまった。高速はそこまで混んでおらず、開館前に到着する可能性すらあったので宮原SAで休憩を取った。ここのベーカリーのちくわパンが絶品なのである。また、赤鶏のからあげも大変おいしかった。

熊本の中心街につき、いやがおうにも熊本城の痛々しい姿が目に飛び込んできた。しかしそれは確実に復興へ進んでいることの証でもある。視線でエールを送りながら、その周囲をなぞるようにして二の丸駐車場へ車を停めた。開館から15分が過ぎたあたりで熊本県立美術館へ到着した。

当初は企画展「細川ガラシャ」それも言うなれば「歌仙兼定」に狙いを定めて見るつもりであったのだが、セットで別棟の企画展示「二の丸小さきもの倶楽部」もお得に見られるということでセット券を購入することにした。モダンな階段を粛々と上がり、いざ展示室へ。

 

平成14年に上梓された内田青虹氏のガラシャモチーフの最新の歴史画「往く道に光明を!」が出迎える。リアリティのある質感のヴェール、優しく美しいがどこか浮世離れした風貌など現代の我々がイメージする「キリシタン細川ガラシャ」の姿が見事に活写されている。

(「往く道に光明を!」は残念ながら見ることが出来ないが内田先生のHPでは何点かの作品を鑑賞することが出来る。)

誰もがそうであるようにガラシャも様々な側面を持つ。

前半生謎多き再来年大河ドラマ主役の武将・明智光秀の娘であり、

勇猛かつ利休七哲に数えられる文化人でもあった細川忠興の妻であり、

宣教師がこぞって本国に報告するほど注目されたキリシタンでもあった。

本企画展はそれぞれの要素がどのように構成されていったかを多面的な資料・解説で以て時系列に沿って判り易く説明してくれている。時代の空気も感じ取ることが出来る。

途中、先だってニュースにもなった新発見の明智光秀の空白時代を埋める書簡や、同じく少し前に「本能寺の変四国の処遇が原因説」の論拠の一つとして話題となった長曾我部元親の斎藤利三宛の書状など学説の更新を促すような最新の資料を見ることも出来た。歴史上の人物が書いた手紙が時を超えて自分の前にあるという事実が改めてすごいことだと思わされる。

また、「へうげもの」ファンとしては利休が作ったといわれる絶対に許されなさそうな角度を垣間見せるユーモラスな茶杓「ゆがみ」、忠興とっておきのドデカ魔改造高麗茶碗「大高麗」、関ケ原の褒賞、即ち考え方によってはガラシャと引き換えに手に入れたともいえる利休が北野大茶湯で使ったといわれる茶入れ「尻ふくら」などの名品が直に拝めるのも素晴らしい。特に「尻ふくら」など掌中に転がしたい愛らしいフォルムと色であった。

にわか刀剣好きとしては徳川秀忠から賜ったとされる「彫貫盛光」の透かし彫りに圧倒された。元は神社の宝刀、それが木村重成の父に渡り、豊臣秀吉に渡り、秀忠に至ったという来歴も華々しい刀であり、細川家のお宝刀剣部門では筆頭に挙げられたという。もしかしたら今後刀剣乱舞でも実装されるかもしれない。他にもガラシャの守り刀や将軍・足利義昭から拝領したと伝わる槍なども見ごたえがある。

そしていよいよ歌仙兼定とのご対面となった。

いや、男士としての彼は入り口で既にご対面しているのであるが。

 

三十六人斬ったかどうかはともかくとして、恐らくは人の命を絶ったことはあるであろう得物が、目の前にある。

その刀にしかし、陰惨さや血生臭さは全く感じられない。

この角度から撮ると反りが深いことがよくわかる。

銘もくっきりと確認できる。

解説にある「のたれ」とは矢印部分のこと。以降は実直な中直刃なのでギャップがよい。

さてその中直刃が魅力の切っ先は…撮影失敗! この先は読者諸賢自身の目でお確かめいただきたい。妻情報によると歌仙兼定は撮るのが難しい刀、ということで、そういうことかもしれない。(不思議に妻も切っ先に関してはぶれが出ていた)

列は落ち着いており、都合三回ほど鑑賞することが出来た。二回目でもうやめよう、と思ったのだが後ろ髪引かれてついつい見てしまう、スルメ的魅力をもつ刀剣であった。

最後は入り口と対照的にキリシタンとしてのガラシャを描いた最初期(大正12年)の絵画と言われる橋本明治氏の「ガラシャ婦人像」(今回展覧会のキービジュアルともなっている)に見送られ観覧を終了した。

敬虔なキリスト教徒のイメージが強いガラシャであるが、実は教会に行ったのはたったの一度であるということを筆者は今回初めて知った。それは九州征伐に夫・忠興が出征した隙を突いてのことであったというから、ある種島津が暴れなければ彼女の生涯はここまで劇的にならなかったのではないか、という風に考えてみるのも面白い。

しかし閉口したのは、メディアの信用できなさである。現在では宣教師が本国へ伝えた内容が逆輸入された形をベースにガラシャの最期は伝わっているが、当時は子ども二人を自ら手にかけていたり、織田信長トップオタでお馴染み信長公記の作者太田牛一なんかは「死ぬときに南無阿弥陀仏と言っていた」と書いちゃったりするなど情報が錯綜していたとはいえ余りにも出鱈目が多い。(後者においてはガラシャが少なくとも「現役の」キリシタンであることは余り知られていなかった証左でもある。)

時代が下ると「貞淑な妻かくあるべし」というプロパガンダに利用されたりもする。キリスト教布教の紙芝居にも使われたりもする。死してなお、意に添わぬ切り取り方で消費されるガラシャには同情を禁じ得ないが、今展示のおかげで、例えば素朴な歌であったり、ガラシャが自ら作ったといわれる忠興のための雨具などを見るにつけ、そういった様々な付加された要素をすべて取り払った、一人の女性としてガラシャがどのような人物であったか、またその付加要素を構成する人・モノ・時代背景がどのように移り変わっていったかを非常に多層的に丁寧に読み解くことが出来る興味深い展示であった。

すっかり満足した筆者(注意力5)であったが妻(注意力30000)は浜田知明氏追悼展示を見逃さなかった。先だって亡くなられた浜田氏はここに常設の展示室があり、無料で鑑賞が出来るのであった。版画のA4あるかないかといったサイズにある時は緻密に、ある時は大胆に描かれるのは戦争への嫌悪であろうか。何かしらのすさまじいエネルギーがその小さな空間にみっしりと内蔵されているようであった。少なくとも筆者は連作を見た時、その迫力に圧倒されすさまじい厭戦気分に陥った。

流れるように図録と限定お菓子を購入し続いて別棟展示である。外に出た瞬間、蒸し暑さが襲う。歌仙兼定は雨刀だというが、公開初日である前日は良く晴れる火の国祭りVSよく雨を降らす歌仙兼定という好カードで、結果は夜に大雨だったそうである。ドローか。その雨の影響もこのじめじめした暑さはあるのかもしれなかった。

さてどことなくおじゃる丸を思い出させる「二の丸小さきもの倶楽部」であるが、子ども向けの展示と侮っていたらとんでもない。早速同田貫がお出迎えしてくれるし、刀を細かく分解(刀を構成する小さき物たちの紹介)したイラストをはじめ、とても判り易く、またそのものに興味を持つようにできている。

展示品自体もその細かさに職人の技の確かさ、おままごと用の数々が本物の横にちょこんとすましているいじらしさがたまらないし、クイズもあり飽きさせない。

特に熊本へ向かう車中、おもむろにシルバニアファミリーガチ勢を信仰告白した妻などは雛調度に卒倒しかかっていた。

鑑賞中何回か「歌仙兼定は……」「あっちの本館です(手慣れたご様子)」「ありがとうございます(脱兎)」というやり取りを見たが、その度いやいや! 刀がお好きなら絶対こちらも見た方がいいですよ! と呼び止めたくなるほどであった。今から観賞予定の読者諸賢は是非セット券の購入をお勧めする。

そのようにして熊本県立美術館を堪能した我々は(山本二三展は鹿児島で既に鑑賞していたので)あか牛ダイニング yoka-yokaさんで赤牛を堪能し、「黒牛もいいけど赤牛もね。でも黒いクマはいつかたおす」という気持ちを(筆者のみ)改めて確認して帰路に着くのであった。

蛇足・いつかたおす黒いあいつ

シビリアンコントロールからくまモンコントロール

kumamon watch you

くまモンスクエアのそばを通ったのですが入り口がよくわからず入れずに残念でした。

青春は自分と夢の間に流れる川、あるいは「バーナード嬢曰く。」4巻までの感想

余談

書きたいことはたくさんあるのだが、どうにも疲弊してしまっている。

一つはこの異常気象で、幸い妻の料理のおかげもあり夏バテには至っていないがそれにしたってこの暑さはどうしようもない。仕事中、別棟に移るその間だけで体力をがりがりに削られる。

もう一つは東京医大の女子一律減点問題とそれを生んだ女性雇用に関する構造的問題である。東京医大のことでスーパー門外漢の筆者が疲弊するなんて繊細すぎる……と読者諸賢は思われるかもしれないし自分でもちょっと引いているのだが、鹿児島というどう取り繕ってもやはりいまだに男尊女卑がはびこる地方で、そこに男性として生まれ落ちてしまった以上、残念ながら「無条件にある部分では優遇される」といういわば原罪を背負っている人間ということもあるのかも知れないがひどくショックを受けた。自分のどうしようもないところでしかし確実に自分のせいで他人が害されている、というのは少なくとも筆者にとってとてつもなく精神にくるものがあって、勝手に東京医大の女性諸賢は勿論のこと、男性諸賢もその苦しみいかなるものか……とすっかり市民権を得た言葉で言えば忖度したりもした。

また自分の過去を鑑みて、二十一世紀であってもやはり「女子だから県外には出さない」ということで筆者より何倍も賢いのに県内で進路を決めざるを得なかった彼女らのことを思い出し、また男女問わずそういったしがらみから抜け出す蜘蛛の糸の一つが大学試験であったという厳然たる事実も踏まえるとそこが公平でないということには慟哭せざるを得なかった。冗談でなく足元が揺らいだ気分にもなった。

筆者は後期試験での入学で、試験内容には小論文があった。間違ったことは書いていないと思ったし、だからこそ合格通知をもらって喜びもしたのだが、それすらもしかしたら「男性だから」「現役だから」という「下駄」を履かせてもらったからだと言われたら「そんなことはない」と否定できないのが情けないし、恐ろしい。

少なくとも今までは一笑に付していた「俺が○○に落ちたのは○○の陰謀!」みたいな発言に「もしかしたら……」と思わせてしまうようになっただけでもとても罪深い事件だと思う。

本題

本が好きである。高校生くらいまでは、自分は読書家だと思っていたし、実際毎日なにがしかの活字本は読んでいた。大学に進学し、筆者は「これからはますます本の虫となるのだろうな」と考えていた。実際、当時は四時間かかった実家から大学までの道のりの移動期間のほとんどを本を読んで過ごした。

ところが本格的な一人暮らしが始まると、可処分時間のほとんどは読書ではなくインターネットや、ゲーム(主に狩猟やアイドルプロデュース)、創作に費やされ、読書の時間は高校時代に比べ著しく減少した。

なるほど、と筆者は当時自分で納得していた。「大人に怒られない暇つぶし、いってしまえばサボりが読書であったから自分は読書を嗜んでいただけで、咎められない状況で同じような時間があれば、それよりもインターネットやゲームに勤しんでしまうのだな、自分という人間は」と。勿論決して本が嫌いという訳ではなく、好きであるし、今でもちょこちょこ本は読むけれど、その時筆者は読書家ルートを断念したのだった。その後別に一流の狩人にもアイドルマスターにもなれた訳でもないのだけれど。

だから「バーナード嬢曰く。」の登場人物が筆者にはまぶしい。そういうマンガだからそりゃそうだろ、と言われてしまえばそれまでなのだが彼らはそれぞれのスタンスでしっかり本に対して向き合っている。

そういえば高校の時にあんまり友人と本の話をしたことがないかもしれない。もしかしたらしていたかもしれないが、そんなことより週刊少年漫画の話が主だったのである。昼休みに友人と自主練習をしていたら五時限目の体育の授業で体育館にやってきた三年生にワンピースのネタバレを食らった(友人同士でまさか○○の父親が○○だったなんてという話をしていた)あの時の恨みはすさまじく、今も時々夢に見る。我々と同世代だったはずのあひるの空はそろそろ完結したのだろうか。こういったところからも少なくとも高校時代の筆者にとっての読書は一人遊び、目遊びの範疇であってそこに共有という概念はあまりなかったことが伺える。ますます筆者の中で登場人物たちの輝きが増していく。

4巻の中で特に印象に残ったのはとある特殊な場所での読書のエピソードである。既刊でも「特別な時に読んだ本は特別な本になる」というエピソードがあったが、きっとこの本も特別な本になったことであろう。

あれは卒業式の日(もしかしたら離任式)だったと思うのだが、友人たちと名残惜しむのも一段落し、一人、また一人と家路に着いたり恐らくはファミレスなどで更なるの名残惜しみへ向かう中、筆者はなんとはなしに体育館に向かった。既に昨年卒業したワンピースのネタバレをした三年生を呼び出して決闘をするとかそういったことではなくて、本当になんとはなしであった。なんとなくもう一度コートに行って、シュートを打ちたいなと思った。筆者は囲碁将棋オセロ部にいそうな風貌ランキングが校内で催されたとしたら恐らくは上位が狙える可能性があったが実際には中学から基本的にどこかしらを怪我しているバスケ部であった。といっても実力は風貌通りで(全国の囲碁将棋オセロ部の皆様ごめんなさい)全くもって無能な部員であったけれどあのボールをドリブルするダムダムという音を聞けば今でも高揚するくらいにはバスケットマンでもあったのである。

自分がバスケット適性がないことは上記のように重々承知していたので大学ではバスケに関わるつもりはなかった。体育館に行くこと自体なくなるであろう。よって言うなれば「バスケ修め」をしておきたいという気持ちがあった。いや、正確には「シュート修め」か。天才ではないけれどシュートの練習は楽しかった。自分のエネルギーが外へ正しく射出され、ゆっくり弧を描いて、スパッというかバツッというか、そうした音を立ててゴールに吸い込まれるたびに自分がもう少しバスケ部でいられるような気が現役時代はしていた。困ったことにあんまりそういうことがなかったので基本的にはバスケ部員でいいのかどうか自問自答する日々であったりもした。

意外なことに体育館には誰もいなかった。丁度凪のような時間帯だったのかもしれない。制服のまま、倉庫からバスケットボールを引っ張り出してシュートを打つ。半年かそこらで著しく筋力は落ちており、もともとたいしてあった訳でもないシュート勘は惨憺たるものになっていた。よりにもよって派手にミスしてぐわんぐわんとゴールが揺れる中、一人の来客があった。

彼女がなんで来たのか、どういった話をしたのか、まるで覚えていない。それが大切な思い出だから記憶の奥底に厳重に閉まっていてそのくせカギをなくしてしまったからなのか、ただ単に十年前のことで加齢による健忘なのか、それさえもわからない。

ただ、合格祝いで何かを買ってもらったか、という話をしたことは覚えている。彼女はデジカメを買ってもらったという。筆者はPSPを買った(半額助成)ことを告げた。

「ぷれい、すてーしょん、ぽーたぶる」

当時のCMの発音に寄せた発声をする彼女がなんだかシュールで笑ってしまった。持っててよかったPSP。

それから義理チョコのお返しにホワイトデーにあげた伊坂幸太郎先生の「チルドレン」の話になったような気もする。「重力ピエロ」を貸したような気もする。(卒業というハレの日に自分が墓場まで持っていきたい本とはいえ強姦魔が出てくる本を女子高生に押し付けるのが童貞の童貞たる所以である)その後彼女の友人が来たので筆者はそそくさと退散したようにも思える。一切は昔であり、もしかしたら彼女も今は苗字が変わっているかもしれない。しかしその時の彼女のPSPへの反応が忘れがたく、それが無意識に狩猟をはじめとするPSPのゲームの比重が読書を上回る伏線だったと考えると重要性が増してくるのではないか……とまで書いたところでこれは「特別な状況での読書」エピソードではないことに気が付いた。

1~4巻において恐らくド嬢以下4名は進学等はしていないと思われるが、積み重ねでの関係性が順調に厚みを増している。特にド嬢と神林のそれは友情と片付けていいものか……とまで思ってしまうのは筆者が毒されているからだろうか。それに呼応するように4巻では長谷川さんの掘り下げも進む。ファン必見であるし、またファンになる方も多かろうと思われる。

4巻の冒頭では読書の意味について語られる。筆者は一度、「今まで読んできた本がたまたまめっちゃ面白かっただけで今後読む本はずーっとつまらなかったらどうしよう」という変な強迫観念に襲われ読書が怖くなった時期があったのだが、そんな時ド嬢や神林がいたら不安を解消してくれたのかもしれないな、と思った。

しかしキャラが立ち過ぎて(筆者も大好きである)しばしば未見の諸賢から「この子がバーナード嬢?」としばしば勘違いされる神林しおり嬢がとうとう表紙を飾ってしまったので勘違いが加速するのではないかとちょっとワクワクしている。狙っていたりして。

ちなみに巻末には……この先は君自身の目で確かめてくれ!

 

 

 

大河ドラマ「西郷どん」第二十三回「寺田屋騒動」第二十四回「地の果てにて」第二十五回「生かされた命」感想

余談

妻が実家に帰った。別になにかしらがあった訳ではなくお盆は混雑するためにその前の早めの帰省である。筆者も同行したかったが金銭的事情と仕事の関係もあり見送った。筆者がいるとどうしても妻は「妻」となってしまうため、「娘」としてリフレッシュしてきてほしい、親御さんに甘えてきてほしい、という気持ちもあった。同様に義理の両親も大変良い方であるが筆者がいては気を遣うであろう、とも。

JR九州会員の早割で切符を取ったので、今回の帰省は豪雨よりずっと前に決まっていたことでもあった。幸い妻の実家そばは被害をさほど受けなかったが、折り込みのチラシにさえ影響がありありと見て取れた。一方で相変わらずやっぱりカープがナンバーワンであり、安心したりもした。「筆者が絶対好きそうなものを食べた。うまい」と「階杉」さんのたんたん混ぜそばの写真を妻が送りつけてきたので、単純なもので自分も麺類が食べたくなって「一軒目」さんに行くことにした。先週妻と一緒に行こうと思っていたが、豪雨の影響か一帯が停電しており(イオンさえも!)、営業されていなかったのである。


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開店五分後についたが既に何人かが並んでいた。鹿児島では希少な「おいしい塩ラーメン」が食べられるうえに、他のメニューも外れがないという誠に毎回何を食べるか悩まされるお店であるので待ち時間があるのはかえってありがたい。(食券制なので空いているときに迷っていると後ろから人が来たときに迷惑になってしまう)

ますます迷わせるのは期間限定の麺をしばしば出すためで、出発時に「きょうは魚介混ぜそば!」と心に決めていても揺らがせてくるくらい魅力的なメニューが毎回筆者の心を袈裟切りにしてくるのである。昨夏はこの枠に担々麺があり、実は若干それを期待して行ったりもしたのだが、今回は「よだれ鶏ピリ辛冷麺」であった。中華料理を大胆に野心的なスタイルがいかにも「一軒目」さんらしく、頼んでみることにした。

 
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美しい……涼を感じる皿とのコントラストがまた素晴らしい。よく混ぜてくださいね、とのことだったがそれを躊躇するほどである。意を決して食べ始めると、程よい辛さのスープ、よだれ鶏のうまみ、野菜が麺に絶妙に絡まって合わさり箸が止まらないおいしさであった。

帰り際、店員さんに「今日はお一人なんですね」とお声をかけていただいた。夫婦でよく来る人、という認知をもらっていたことに若干の気恥ずかしさと嬉しさを覚えながら、間違いなくおいしく満腹でありながら、いつもここに来た時のような満足感を得ていないことにも筆者は気づかされた。妻と一緒に食べる、別メニューを注文してちょっと分け合うということまで含めていつからか休日の筆者の外食というものは成り立っているようになったらしかった。

テレビを見ていてもゲームを見ていてもそんな感じの時間が続いた。一人の気楽さというものが勿論ありながらも根っこの部分でそこから楽しめないというか、サランラップ一枚隔てて世界と接しているような違和感が常にあった。思っている以上に助けられているのだな、としみじみ思った。

恩返しというのも変な話だがしかし、何かしらもっと妻に還元していかねばならない、ひとまずは明日は祝日だけど燃えるゴミの日でゴミ収集車は来るから、忘れずにゴミを出そう、と一時間弱駐車していただけで灼熱の車に乗り込みながら考えた。

 

本題

本日からいよいよ革命編が始まった訳であり、視聴もしたわけであるが、随分と遅くなってしまったが島編完結までの感想をまとめておきたい。

島編が本土編のネガとしてまた機能したなというのは初めて理論だった形で吉之助の信望者が出てきたことで伺える。今までバンドワゴン的に、あるいは雪だるま式に虚像として膨らんでいた西郷吉之助像が島ではかえって等身大であるというのはおもしろい。とつぜんのおっさんとのチッスもあってサービスシーン的にもまったくもんだいありませんね。

一方で本土では有馬新七があっという間にその生涯を駆け抜けてしまったわけであって、その悲劇ぶりがまたしても錦戸亮はじめの熱演で彩られるわけであるが、だから幼少期からその辺の思い出を丁寧にやっとけよって話なのである。思い付きでうなぎをとるなと。

真田丸のあれやこれやで歴史的事件も主人公が当事者でなければスルーという演出にはなれたつもりだったがまさか生麦事件と薩英戦争が一週で終わるとは思わなかった。

史実の薩英戦争がどこか戦争でありながら明るさがありなんか夕焼けの中薩摩とイギリスが野原に寝転がってなかなかやるじゃん……おめえもな……みたいな空気を醸し出しているのは幕末期薩摩のおもしろさのひとつであると思うのだが、その理由のひとつと筆者が勝手に思っている「スイカ売り決死隊」が僅かでも触れられていたのは評価したい。実際は錦戸亮くん、信吾(村上ではなく西郷)はそのメンバーではないのだが自分のことのように語る様はこのドラマの信吾像にフィットしていてよい。

いや、ほんとに好きなんですよスイカ売り決死隊。普通生きるか死ぬかの時にそうだスイカを売ろうってなりますか? そいつの頭スイカ詰まってんじゃないのか? でも極限状態の薩摩びとのある種滑稽な、いっそ真骨頂な感じがとてもらしいと思うのである。

そうして呼び戻される吉之助は船で愛加那と再会する。こうした創作らしい部分が史実なのが吉之助という人のファンタジーさを補強している気がする。因みに島でおっさんのお陰でナポレオンに開眼したというのはドラマの都合で実際は吉之助は自分でナポレオンの自伝を島に持ち込んでいる。

あのおっさん、その後西郷の家に住み込む訳でおいおいおっさんズラブかと言った感じであるが(ブレーン的な感じだったのだろうか)それでも借金はまだ返さない吉之助の心地いいほどの鈍感さを今後このドラマが出してくれるだろうか。

 

 

もうすぐ消えるはずの平成(せかい)で

余談

オウム真理教を知っているかって? もちろん。

あの地下鉄サリン事件の時、筆者は幼稚園生だった。それまで親父の読み終わった「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年マガジン」を読んでいたけれど、ついに「自分の漫画雑誌」として「月刊コロコロコミック」を買ってもらうようになったのが95年のことだった。早速、「間違えて別冊コロコロコミックを買ってしまう」というありがちなミスを犯してしまったりもした。

どういうニュースかは覚えていないが、「麻原彰晃こと松本智津夫」が頻繁にテレビに出ていたことは覚えている。明確な「悪」として。麻原彰晃なのか松本智津夫なのかどっちなのだ、と混乱したことも覚えている。同じ人間が名前を二つ持っているということが理解できなかったのだ。

八十年代の終わり、平成の始まりに生まれた筆者にとって、オウム真理教とは物心ついた時には既に「テロ集団」としての代名詞であったし、「宗教とは胡散臭いものだ」という偏見を強力に育てることにもなった。

もう少し大きくなって、自分がモラトリアムに突入する辺りで、結局のところオウム真理教というのはかつての日本赤軍であり、今の極度に日本を愛しすぎたり逆に為政者を憎みすぎたりする人々のように、「果てのない夏休み」を生き続ける人たちなのかもしれない、というように思えて来た。

恐らく普通に生きてきたら少年少女は大人を憎んだり、嫌ったりするフェーズがあるはずである。例えば反抗期のように。人間にとって成長するということは、大人を憎み、そしてやがて生存本能として次世代に憎まれているという感性を鈍麻させながら憎まれていた大人になっていく、と言い換えられると言っていいかもしれない。

そのどこかでエラーがあったとき、人は大人になり切らず、ただ敵を作り続け自らは夏休みのゆりかごの中で永遠に揺られていたいと思ってしまう。相手にのみ責任を追及し、それは先鋭化していく。相対的に自分たちを特別だと思ったりもする。

そのパターンとあの時代の持つ終末的な雰囲気が最悪の融合を果たしてしまったのがオウム真理教という組織だったのではないか、と思う。そういえばMMRとかでもノストラダムスの予言を散々見たような覚えがある。

まあしかし、あれだけ仰々しく自分らを肩書で涙ぐましいまでに飾り付けていた連中が、「山田らの集団」みたいな身もふたもない呼称で扱われているのはなんだか笑ってしまう。こういう人たちの怖さは「神秘性」にあると思うのでどんどんダサくしてほしい。目覚めよと言い続ける彼らが長い眠りから覚めるように。9月1日に進むために。

本題

昨日松本智津夫を含む7名の死刑が執行された。オウム真理教関連の13人(この数字がまた、意味ありげに見えてしまって嫌になる)のうち凡そ半分である。関連死刑囚は同日に執行するのが慣例であって、ただし諸々の負担を考慮して7人に留めたらしい。

死刑囚というのは死刑そのものが刑罰であるから、基本的に労役が存在しない。いつ執行されるかわからないという状態も罰の一つであるのかもしれない。かつては執行前日に伝えられていたが、当日に自殺したことにより伝えられることはなくなったという。

筆者も物の本の知識のみで語っているので実際の所は違うかもしれないが、執行は朝行われ、刑務官の靴音の違いで察してしまう死刑囚は察するという。通常の房にオウム関連の死刑囚も入れられているのなら、分散したとはいえ大体各刑務所に2人くらいずついるオウム関連死刑囚は、他方は突然の死を告げられ、他方はかつての「お仲間」が死へ向かう所を察したはずである。

突然の理不尽な死をもたらした連中に同情する気など一片たりともないが、同事件の同刑罰を受けた人間に対して、この違いはいささかムズっとする。平等性が保たれていない気がするからである。

以下、引き続き執行されなかった他方は相方が執行されたことを知った状況と仮定して話を進めるが、なんだかんだ牢の中で二十年ほど暮らしてきて、(凶悪犯には適用されないが)恩赦もちょっと期待したり、井上に至ってはおまじないめいた再審請求(刑事訴訟法第442条では、再審請求が刑の執行を停止する効果を有しないことが明示されているが、事実として再審請求中は執行されにくい傾向にある。もっとも、昨年18年ぶりに再審請求中の死刑囚が執行されたのだが。井上のように)をしたりしている中、朝突然死を告げられ文字通り真っ逆さまに死に落ちていく恐怖と、それを知り、改めて自分の確実な死を思い出し、またそれが恐らく近々であることを噛みしめながら生かされる恐怖というのは少し毛色の違う恐怖であり、繰り返しになるが同事件の同刑罰を受けた人間に対する平等性という観点から言えばなんだか腑に落ちないのである。後者の方が、現在で少なくとも二日長生きしている点も含めて。

法律というのは基本的に玉虫色の解釈をしやすくしているのだろうが、死刑は判決決定後○○日以内とか明文化すると、色々と省ける手間があるんじゃないだろうか。前述のように、いつ執行が訪れるかわからない不安を刑罰の一部とする解釈であったり、またもちろんあってはならないことであるが冤罪の可能性を考えてしまうと難しいかもしれないが、前者においては○○日「以内」とすることである程度その性質は残せるのではないだろうか。

しかしこれだけの規模、事前に段取りが決められており今更動かしようがなかったのだとは思うが、この未曽有の天変地異の中、大規模執行というのはもうちょっと何とかならなかったのだろうかとは思う。恐らく蜂起を警戒して各地の関連施設にも人員を割いていたりしたのだろう。この1大ニュースになんとか出社したり支持を出したりしなければならなかった人もいたのだろう。それらの人々は災害は大丈夫だったのだろうか。

そうして厳戒態勢で張り込んでいた人々が居合わせた災害で被災者を救助しましたといたニュースが、語られないとしてもそういった出来事が、どこかで起きていれば少しは救われるのにな、と思う。

末尾ながらオウム真理教関連事件にて犠牲になられた方に心よりお悔やみ申し上げますとともに、特別警報に関連する災害による被害の1日も早い復興を願い、犠牲になられた方にお悔やみを申し上げ、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。

 

柳に風、桂に歌。あるいは定額音楽サービスで落語を聞くという選択

いずれ人は死ぬ

関さんがおいらに言った最初の言葉さ

存在がでけえとついつい忘れちまうことだがな

――講談社刊・王欣太先生著「蒼天航路」より 

余談

人が生き物として人生を送るとき、「赤ちゃん」として生まれ、「こども」になり、「若者」になり、「おっさん(おばさん)」になり、「おじいさん(おばあさん)」になっていく。0歳と20歳と40歳は明確に違うが、60歳と80歳と100歳はみんな「おじいちゃん(おばあちゃん)」なんだなと考えると、「おじいちゃん(おばあちゃん)」の守備範囲ってそれまでと違ってだだっ広くそして終わりがないんだなと思う。当たり前のことなんだけど、なんだか本日しみじみそう思った。「おじいちゃん」まで生きられるかな、と思ったりとかして。

ひかりTVを休会した。スカパーと被りまくりだからである。ひかりTVの偉いところはネットで簡単に契約の0円塩漬けが出来るところである。電話は全然つながらなくて引越ししたての家具のない部屋で昼休み中ずっとだんだんとでかくなる保留音と熱を際限なく持ち出すスマホを思い出しちょっと暗澹たる気持ちにもなるがそれはそれとして食券制だから松屋大好き(頼むから早く鹿児島に進出して)という筆者にとって大変ありがたかった。

一方で困ったのがひかりTV休会とともに問答無用でひかりミュージックも塩漬けになってしまったことだ。「かってに改造してもいいぜ」があったり坂道シリーズの配信が速かったりとなかなか筆者の好みにフィットしていてすっかり音楽を購入しなくなって久しかったので一気に音楽から遠ざかり、通勤中はyoutubeを音声のみで聞いたりし、たちまち容量が圧迫されたりした。っていうかいつの間にかパケット繰り越しが出来なくなっている気がする。

二年ほど前に引っ越してから勤務先まで車で十分程度になってしまい、朝は大体ニュースを聞くし、遠出の時はDJ妻に任せるので、余り自分の娯楽としての音楽を意識しなくなったかのように思ったが、やはり選択肢が減ってしまうととたんに息苦しさを感じるようになってしまった。意識しなくなったのは必要性が薄れたからという訳ではなく、空気のように必要不可欠だったかららしい。

仕方がないのでGoogleplaymusicのお試しに入ってみた。前も入っていて、ひかりミュージックと駄々被りなので解約した記憶がある。こういうことばかりやっているのである。spotifyはpremium三か月無料の間にライフイズストレンジの楽曲をひたすら聞いていたのだがいつの間にか「keystone」がなくなっていたので解約してしまった。Amazonprimemusicは既に利用しているが、やはりこれだけでは痒いところに手が届かない感じがある。かといってアンリミテッドまでするかというと……Googleplaymusicとちがってlifelog(Xperiaのアプリ)との連携が弱いのもつらい。audibleはさすがに月四桁は高すぎたので司馬遼太郎先生の短編をざっと聞いて解約した。でも銀河万丈淀殿を熱演するのは多分audibleだけ!

本題

落語に興味があるけど敷居が高くてなかなか、という人は多いのではないか。実は上記の定額音楽サービスには全て落語が収録されているのである。

落語というのは勿論演者の所作も重要であるのだが、音声を聴くだけでも存外楽しめる。音声のみであるから想像がより広がり、かえって落語を身近に感じることもあるかもしれない。

既に上記サービスを利用されており、かつ落語に興味のある方は是非ご一聴をお勧めしたい。検索に「落語」と入れると思いのほか出てくる。

悩ましいのはあっちにあるけどこっちにない、というものが多いところ。

初めてでも聞きやすい「井戸の茶碗

「井戸」で「茶碗」というとすわ番町皿屋敷のようなホラーものと思われるかもしれないがさにあらず、ここでいう井戸の茶碗とは高麗茶碗ともいわれる名物のことである。この話のいいところは、

・悪人が登場せず、ハッピーエンドで終わる(優しい世界)

・三十分前後で終わり、落語の中では比較的短く聞きやすい

・登場人物が少なく、展開が追いやすい

というところで、筆者も大好きな噺である。大定番ということで、演者こそ違うがどの配信サービスにも収録されているようだ…と思ったがprimemusiにはなかった。(アンリミテッドにはある)

特に筆者は古今亭志ん生師匠の「井戸の茶碗」が最高なのだが、ひかりミュージック以外では筆者が好きなバージョンは配信されていないようである(Googleplaymusicでは以前配信されていたのだが……もしかしたらひかりミュージックでも配信停止されているかもしれない)audibleでは別バージョンが配信されているようだ。その噺し方は強烈に「江戸」を感じさせ、とはいえ横文字だって使うしちょっと話を端折ったりもする。飛ばしたりもする。その空気感自体がなんだか大師匠にこんなことを言うのも失礼な話だが、可愛らしくて面白いのである。それがこの井戸の茶碗という優しい話に何ともマッチしていてよい。

桂歌丸師匠の「井戸の茶碗」も聞けるが、歌丸師匠の演目でおすすめは「宿屋の富」

Googleplaymusic、audible、spotifyには桂歌丸師匠の「井戸の茶碗」も収録されている。ちょっと硬い声質が武士のプライドを表しているようでまた違った味わいがある。

ちなみに桂歌丸師匠の演目の中で定額サービスで聞けるものでは「宿屋の富」が筆者としてはおすすめである。ちょっと高飛車な感じが圓楽師匠をあしらったりあしらわれたりの在りし日の師匠をいい具合に思い出させてくれる。

先代圓楽師匠の演目も収録されていて、同じく筆者のおすすめは「あわびのし」ボケとツッコミの温度差が面白い。「大山詣り」もいい。 

定額で物足りなくなったなら

ここを訪れるような読者諸賢においては新作落語も是非お勧めしたい。筆者のおすすめは何といっても立川志の輔師匠。ぜひ「ディアファミリー」を映像でご堪能いただきたい。落語は古臭いものではなく、現代に通じるエンターテイメントであることがきっとわかっていただけるはずである。

 

現在配信されている落語の音源は、筆者どころか筆者の父すら生まれていないときに収録されたものもある。師匠たちの噺にあわせて、多くの笑い声がかぶさる。老若男女がいることがわかる。その声の主の多くは今は生きてはいまい。けれど彼ら彼女らのその日その時の声は、欠かせないスパイスとして今後も生き続ける。無論主役としての師匠たちの噺も。

人はいずれ死ぬ。それまでに何をどれだけどのように遺せたかが人というものの一つの指標となるのならば師匠方のそれは最高の一言に尽きるのであろう。

繋がれた箱の中の愛の撃ち殺し方、あるいは封神演義外伝および覇穹 封神演義最終話までの感想

封神演義全般に対する致命的なネタバレがあります。

封神演義外伝感想

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封神演義外伝」最終話読了後の筆者(イメージ)

こ…これだよ読者が求めていたモノは! といった感じであって、外伝ものに期待するお祭り要素が生かされていた。こんな華やかな場には当然、趙公明がいてしかるべきであるし、太公望は策士であるし、妲己もそれ以上の策士だったりする……というあまりに本編と地続きなまるで連載終了後半年のような違和感ない連続性には改めて驚かされた。太公望が過去の仲間たちに告げた久々の再会へのお礼は、読者たちがそのままキャラクターたちに抱いた気持であったことだろう。

ちなみにゆるキャラっぽい見た目の「羽翼仙」は原典では蓬莱島の仙人。申公豹に唆され、太公望にクレームをつけ、哪吒に煽られ、元始天尊にディフェンスされ、燃燈道人に弟子にされる、というなかなか濃いキャラクターである。その後、原典でも孔宣と対峙し、敗れはするものの孔宣の正体が鳥であることを見抜く、というキーパーソンとなっている。これが藤崎先生のアレンジが加わると怪獣総進撃となるのだからさすがである。

孔宣との別れ際、太公望は悠久の時を生きる彼相手にも再会の約束をする。思えば太公望もまた最初の人としてある種無限の孤独を味わい続けて来た立場であるから、その言葉は重く、またそこに偽りはないことを孔宣も感じ取る。これが主人公であるな、としみじみ感じた。本編において、太公望太上老君にはるか未来、騒乱の果てに何もなくなってしまうことを示唆されるが、もしかしたらあれも孔宣のうっかりだった可能性もあり、今回のことを踏まえ、あの歴史も変わっているかもしれない。断言はできないけれど。導はなくなったのだから。

最初の人残り二人(と、そのスーパー宝具)がしっかりとした描写なく終わってしまったのは残念。神農がほぼほぼ話を進行させる装置であり、意味ありげな表情もセリフも意味ありげなままで終わってしまったのもやや肩透かしであった。ちょっと打ち切り漫画が最後に駆け込みで考えていた設定を詰め込む、みたいに見えてしまったのも重ねて残念。そのあたりまで含めたギャグであり、また今後のさらなる続編への種まきだと思いたいのだが……。またライフワーク的に外伝をやって欲しいものである。

ちなみに最初の人残り二人(燧人・祝融)は伏羲、女媧、神農と同じく古代中国の神であるが、一般的には前漢司馬遷史記」にのっとって伏羲、女媧、神農が所謂「三皇」とされるところを、後漢の班固「白虎通」では伏羲・神農・祝融に、応劭「風俗通」では伏羲・神農・燧人 になっていることを考えると、そこからこの五人を同等の存在として「最初の人」の元ネタとして引っ張ってきたのかなと考えられて面白い。そうなると、西晋の皇甫謐「帝王世紀」では伏羲・神農・黄帝 となっているので、もしまた続編があるとしたら、「もう一人いた危険思想の最初の人」としてラスボスで「黄帝」が出てきても面白そうだなあと思う。

まずは単行本、そして断崖絶壁今何処の復活を切に楽しみにしたい。

 

覇穹 封神演義感想

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覇穹 封神演義最終話視聴後の筆者(イメージ)

覇穹 封神演義の良かったところ

・楽曲がいい(特にOP一期は歌詞まで含め最高。MVフルで見ると途中クレイジーに磨きがかかるのもご愛敬)


Fear, and Loathing in Las Vegas - Keep the Heat and Fire Yourself Up

・背景美術(中国の烈々たる風景、神仙世界がよく表されていた)

・地裂陣の戦闘が詳細に

・声優さんの演技

覇穹 封神演義の悪かったところ

・大体上記以外のすべて

何故目の前の正解を打ち捨ててしまうのか

ぼくは、せつなかったけど、あいつらには、こういった。「いやあ、こりごりだよ……」

 

あのときの王子くん(LE PETIT PRINCE
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、大久保 ゆう氏 訳より引用

あれはもうどれくらい前になるか……封神演義が再アニメ化すると知ったとき、その嬉しさを忘れられない。その時の筆者には素晴らしい原作に沿った丁寧なアニメ化、Twitterトレンド入りするいわし占い、ハンバーグによる初見勢の阿鼻叫喚、趙公明編での突然のアバンでの私立アンニュイ学園、BD特典で私立アンニュイ学園30分アニメ化でざわつくTL、そして2クール(趙公明編終了くらいまで)完走後、続編製作決定に再び湧きたつ古のオタクたち……までが一瞬のうちに幻視されたのだが、残念ながら叶うことはなかった。

覇穹 封神演義は完結した。完結後、筆者は自分の部屋に行き、2時間眠った……ことはその30分後にPRODUCE48が控えていたのでなかったが、うつろな精神が夢に向かって頑張るアイドルたちを見ることでいくばくか回復し、暫くして、沢山のことが失われてしまったことを思い出し、沈痛な気持ちになった。

ごっつあん主人公・太公望

策もなしに王宮に突入し、同族を失い、フィーリングで武王を見出し、楊戩に信頼という名のやりがい搾取を働き、戦いの最中に敵の参謀とよくわからない部屋でいちゃつき、やけに作画の良いゴマ団子にしてやられ、父を救おうと必死な黄天化に何か代替案を示すでもなく静かに首を振り、皆がボコった聞仲をおいしく退治した後、なんかすごそうなやつは妲己ちゃんになんかいい感じにしてもらって、バックレた上になんかコスプレをしました。おわり。

なんだこの主人公……。

殷の父(絶賛ネグレクト中)・聞仲

まあなんか殷とは昔から色々あってわしがいないとダメなんだよね。武成王もいれば最高なんだよね。えっ武成王裏切るの…? 周つぶすわ……肩入れしている崑崙ごとつぶすわ……えっ四聖が封神されたの? 舐めプしてたら結構なダメージ食らったし武成王も封神されちゃったけどペガサス編の海馬みたいな感じでかっこよく決めるわ……我々がお空で不毛な戦いを繰り広げている間に地上の大勢は決して殷王朝はもうぼこぼこで紂王は何したかわからんけど何かした副作用によって一気に老いさらばえたけどまあ敬意を表して一礼したからセーフでしょ……朱氏も褒めてくれたし……最後はなんか武成王…飛虎も温かく迎えてくれたし…張奎? 知らない名前ですね……。

なんだこのライバル……。

 

続・何故目の前の正解を打ち捨ててしまうのか

素直に時系列に従ってアニメ化をするという正解が転がっていたのにどうしてこんなことに……。仮に2クールまでという期間ありきだったとしても、その範囲で原作を忠実にアニメ化していれば、きっと多くの支持が集まり、続けての製作が期待できたはずである。それを原作の要である仙界大戦に絞り、でありながらあちこちつまみ食いしたことによって、だれも望まないキメラが出来上がってしまった。というか、時系列シャッフルだとばかり思っていた部分が実は同時進行だったということで、特に聞仲の駄目太師ぶりは言語に絶することになってしまった。

原作では聞仲が封神される(この時点では紂王は妲己も離れている(蓬莱島に行っている)ため有能な君主に戻り殷は安定を取り戻しつつある。その状態の紂王へ聞仲は一礼する)→妲己帰還。抑えに残していた四聖は改造された紂王により封神される→殷再び荒れる→殷周の雌雄を決する牧野の戦い。殷は敗北する→力を失った紂王は一人朝歌へ……この国にもう、王などどこにもいない……。

ということで聞仲封神によっていよいよもってタガが外れ、殷は崩壊へと向かう――考え方によっては聞仲が「我が子・殷のため全力を尽くしていた」ことによってギリギリまで踏みとどまっていたものが決壊してしまうということがよくわかる構図となっているのだが、アニメでは最終話、ボロボロになった紂王と聞仲が対峙することによってこの流れが一切崩壊してしまい、モンスターペアレンツ気味であった原作とは正しく対照的にひたすら殷を放置していたネグレクト野郎と化してしまった。

歴史の道標、というか最初の人関係についてもあーもうめちゃくちゃだよとしか言いようのない状況で、アバンで既に女媧について散々言及しておきながら元始天尊が本編で原作通り「歴史の道標……(キリリィ…オモワセブリィ…)!」するのは完全にもしかしてギャグでやっているのか!? 案件である。最後に「これより封神計画をはじめる……!」とか言われても終わったよ……もう何もかも……っていうか終わらせられていたよ気づいた時には……と空しい思いしかこみあげて来ないのである。最終決戦の説明は一切何もなく、妲己ちゃんのグレートマザーの説明すらなく、よくわからんけど何とかなったんだなということしかわからない。歴史の改変はいけない、歴史の道標を外れ人が自立しなくてはいけない……ということが原作の本筋であったように思うが、このアニメを視聴して生まれるのはもう一度ぶっ壊してやり直したい…という主人公によって否定されたラスボスの思想である。まあそれもアニメでは主人公が否定すらしてくれていないんですけどね。というか仙道達については仙界が消滅して人界に降りてきたところで終わっているからそもそも建前の「仙人のいない人間界」を達成できていないのである。

青い髪の人々への製作者の過剰な思い入れがなければ尺としてももうちょっと何とかなったと思うし、総集編をやらなければさらになんとかなっただろう。思い出したように雷震子ほかを出す意味不明さにはもはや清々しさすら覚える。

夏目漱石は死後、検死解剖された。(ということで東大には今も夏目漱石の脳みそが標本として残っている)この時、弟子代表の小宮豊隆漱石神社の神主の異名を持つ)は何度も卒倒しながらも最後まで見届けたという。筆者がアニメ版を視聴している間、同じような心持であった。今はただ喪に服したい。黄天化のファン諸賢においては課金しないと喪にも服せないというのはさすがにひどすぎると思う。24話。12時間あったら、色々できたな……。

蛇足・原作未読の妻の感想の推移

序盤

妲己ちゃんがかわいい! 原作は結構飛ばされてる? 気になるな~完走したら原作もチェックしよ!

中盤

えっ先週飛ばして無いよね? 混乱してきた…原作読もうかな…意味が分からなくなってきた……。

終盤

暫く封神演義って単語を見たくない……。 騙されたと思って原作を読んで? もう騙されたくない……。(切実)

 

原作は本当に面白いんです!!!!!