カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

死候時も猶御側ニ在之候思在之候―「舞台『刀剣乱舞』維伝 朧の志士たち」観劇感想とか考察とか


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※刀ステのネタバレをバンバン行います

余談

当時多くの人に読んでいただき、未だに一日あたりのPVの最高記録を記録した記事からちょうど一年が経とうとしている。

 

kimotokanata.hatenablog.com

鑑賞したそのままのテンションで打鍵したため内容が荒くお恥ずかしいのだが、その分気持ちをストレートに乗せることができたためか、Twitterでの告知ツイートも多くのfavやRTを頂き、いわゆる「クソリプ」もなく、審神者諸賢のやさしさに思わず拝んだものであった。

 お読みいただいた多くの先達の審神者諸賢から「刀ステはいいぞ…いい…」というお言葉を頂戴した。「舞台『刀剣乱舞』」通称「刀ステ」。「映画『刀剣乱舞』」の祖なるもの。そこで育まれたものが銀幕に炸裂することによって、筆者は得難い幸福を得ることができた。

上記感想記事で抱いた疑問点のいくつかも過去の「刀ステ」を参照すれば解決するということでさっそく筆者は衝動のままに当時DMMで購入できた過去作を購入し、しかし業務繁忙期に突入し、ようやく落ち着いてみようと思ったら衝動の愚かさ、過去作配信はレンタル限定であったので既に再購入が必要な状態となっていた。その愚かさを戒めるため、しばしの間筆者はDL購入禁止を己に課したのであった。

そうした間にも時は流れゆき、新たな元号へ移ろうとしていた時、特命調査の知らせが我が本丸にももたらされた。

その場所は、「文久土佐藩」。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 その五文字から励起される感情をやはり深夜にぶつけたものが上記の記事である。そう、筆者の初期刀は陸奥守吉行であった。

 

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 陸奥守吉行は何かと情緒不安定な幕末組の中で割とどっかりと安心できるメンタルの持ち主……と思いきや銃と刀の二つ使いというそのスタイルが物語るように他人との間合いを二重に持っているような複雑さ、わかりやすい快男児の奥底に潜む人口に膾炙するほど有名な人物の愛刀でありその臨終に居合わせながらついに守ることができなかった刀という事実に由来する「刀である自分を否定したいほどの自分への怒り」が見え隠れするという入り口は広いのに奥が沼っていうか泥炭地みたいになっているところが魅力だと勝手に思っているのだが、それがわずか三十分足らずの尺で結実されている「活撃刀剣乱舞」第九話がとにかく最高なのでぜひ未見の諸賢はこの話だけでも見てみてほしい。

急に早口になってしまったがとにかくそういった特別な感情のある陸奥守吉行がメインということで特命調査の開始までを指折り数えて待ち、始まってからは四年分貯めていましたといわんばかりの土佐組エピソードの数々に急激な血刀値(血中刀剣乱舞値の略)の上昇に悶えながらも肥前忠広、南海太郎朝尊を本丸に迎えに行くことに成功した。

 

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 その後やはり深夜の勢いで……お前一回でいいからちゃんと日中に試行錯誤して推敲した記事を書けや! ともあれ上記の考察記事のような感想記事のようなものを書いてしまったのである。

そしてこれもまた多くの人に読んでいただき、Googleで「文久土佐藩」で検索するとありがたいことに個人ブログでは最初に紹介していただいているようだ。

大塚英志先生の受け売りでこれまでもたびたび引用しているが、筆者の執筆人生のサビなのでもう一度書かせていただくと、速度。大切なのは速度なのだ。速度に乗せなければ届かない言葉というのは必ずある。だから筆者は今後もこういう深夜の勢い記事を書き続けていくことになるのだろうと思う。言葉を選び推敲し地固めをしていく中で失われていく熱というのは絶対にあるから。もちろん、それを言い訳にはせず精度は上げていかなくてはならないが……。

逆に時期を見ようとして結局展示の最終日に投稿してしまった下記記事などはもっとやりようがあったのではないかと悔やんでいたりもする。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 とはいえ「文久土佐藩」イベントによって供給してもらったあれやこれやであと四年は戦えると筆者は意気軒高であった。

 そこにこのどでかい知らせが飛び込んできた。聞けば、慈伝が聚楽第を下敷きにしていたから賢明にして怜悧なる審神者諸賢においては予測に上がっていたというが、こちとら前元号のイベントをまだ咀嚼して終わってないのにぶち込んでくるのやめてもらいます!? まだ筆者が「文久土佐藩(ゲーム版)」食べてるでしょうが!!

ながらもやはり気になってしまうのが人情であり、ゲーム内にて応募ができるということで軽率に応募してしまった。

当選した。同伴者として妻も一緒である。「夢を買っていると思おう」くらいの気持ちで応募したので物欲センサーが発動しなかったのかもしれない。

ローチケからチケットが届くに至り筆者は気持ちと頬が高揚していくのを感じた。満を持して過去作を予習することを決意した。とはいえ内容もボリュームも特盛の作品揃い。結局年末年始のまとまった休みでようやく鑑賞することができた。

なるほど「映画『刀剣乱舞』」で筆者が感じた諸々が腑に落ちた。不動行光の森蘭丸を見る瞳、黒田官兵衛の不在……そして「悲伝」に至り、「刀ステ」は筆者の頭髪に複数の白髪を顕現させたのであった。

画面越しでこれであるならば、生で観劇したのならば一体どうなってしまうのか?

辞世の句をしたためるかどうかを逡巡しつつ、日ごろ絶対に無理な四時半起床を達成して我々は福岡サンパレスホールに向かったのであった。

本題

1 大綱。国家の大本。「維綱/綱維」

2 つな。糸すじ。「維管束/繊維・地維・天維」

3 つなぎとめる。「維持」

4 すみ。「四維」

5 文のリズムを整え強める助字。これ。「維新」

――小学館大辞泉」より。

感想:ゲームイベント・セリフの舞台への落とし込みの見事さに感服

心あらば刀ステ見よや桜島 その尊さに灰左様なら

―木本仮名太辞世

 

逡巡したがしたためておいてよかった。開始五分でもう駄目だった。

刀剣男士が堀川国広しか出ていない段階でもう泣いてしまった。

史実の文久土佐藩、そのキーポイント。

一つ、吉田東洋の暗殺。

二つ、岡田以蔵武市半平太の投獄と惨死。

三つ――。

いや、まずは二点から話を進めたい。

開始から怒涛の勢いで日本を愛する若者たちによる土佐勤皇党の勃興、繁栄、転落が描かれる。しかしそれは演じる役者諸賢の脅威の熱量によってその行間が分厚く補填され、武市の無念さと矜持(史実通りの三文字の切腹!)、以蔵の寂寥、龍馬の慟哭が見事に表現されており、世にいうクソデカ感情をまともに涙腺に受けて左目はモイスチャーであった。

吉田東洋と以蔵の殺陣もすごいし、その後のもともとの刺客(那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵)に手柄を譲るところの切なさもよい。(ちなみに筆者は「お~い!竜馬」で以蔵が拷問で吉田東洋の下手人は竜馬ではないかと聞かれたときに「竜馬だったらあんなことはせずに昼間の往来で堂々と斬ったろうよ」と答えるシーンがめちゃくちゃ好きである)

その史実が展開されたのち、入電。そう、ゲームのあの演出である!

刀剣男士たちは土佐勤皇党が恐怖政治を敷いている「放棄された世界」へ特命調査へ向かう。そこでは上記のキーポイント二つがなかったかのように進行している。

この奇妙な緊張とワクワクはなかなか言葉にしがたい。かつて自分がタップし、クリックして進めていったイベントがものすごいクォリティで眼前に再現されていくのである。

これは本当に不思議なのだが、ゲームの声優さんと声も違うのに舞台で見るとまさしく「そのもの」であるのは役者さんたちのすさまじさで、世代的には「マジで刀剣の付喪神をO.S(オーバーソウル)しているのでは?」と思ってしまうほどであった。

坂本龍馬陸奥守吉行、武市半平太の南海太郎朝尊、岡田以蔵肥前忠広の揃い踏み。

南海太郎朝尊はちゃめちゃ罠紀行。

そして異形の土佐。

 

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かつて筆者は「宴奏会」でそのキャッチコピー通り「あなたの本丸が、今ここに」という感慨を味わいつつも、当時は未踏破のステージもあったため申し訳なさがあったが、今回はイベントを予習していたためまさしくシンクロ率120パーセントの状態で舞台を楽しめる嬉しさがあった。

ゲームには登場しなかった歴史上の人物――坂本龍馬岡田以蔵武市半平太吉田東洋、(後藤象二郎、乾退助)――彼らがより物語に躍動感を与えてくれていた。

坂本龍馬はまさしく筆者のイメージする龍馬で、筆者が観劇していた三階席をいじっていたことをもあってますます感情移入してしまった。

岡田以蔵のそれこそ小動物さながらのイノセンスゆえの危うさとその敏捷性には終始目と感情が忙しかった。

武市半平太の間違いなく日本を考えるが故の動脈硬化と判断の融通の利かなさにやきもきさせられながらもその「アギ」らしさの説得力のすばらしさ。

そして吉田東洋。今回の主要歴史上の登場人物の中で最も狭義の「武士」である男。その威厳、御恩と奉公の精神を体現する姿には圧倒させられたし、それが殺陣にも堂々と現れていた。個人的に感動したのは演者が唐橋充さんであったこと。特撮作品において筆者の思春期の情動をぐちゃぐちゃにしてくれた作品、仮面ライダー555ファイズ)。そこで海藤直也/ スネークオルフェノクを演じられていたのが唐橋充さんだった。彼に焦点があてられるエピソード「夢の守り人」は今なお特撮ファンの間で語り継がれる名編だ。

「夢ってのは呪いと同じなんだよ。 呪いを解くには、夢を叶えなきゃいけない。 ……でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだ。」

そのセリフはこの舞台においてもリフレインすることに何ともいえぬ感情を筆者は抱かざるを得ないのであった。

あっという間に一幕が終わり、思わず歴史上の登場人物セットを追いブロ(マイド)してしまう筆者であった。

ただ。

ワクワクに比例して、緊張も大きくなっていく。「破綻」が見え、筆者は握りしめた拳に汗がにじんでいるのを感じる。

そのタイミングで明かされる岡田以蔵の異形。

そう、ゲームには登場しなかった、といったがすまんありゃウソだった。

ゲームで特殊名として現れ議論を呼んだ幻影人斬り隊の隊長「脇差_郷士」。まさしくそれを思わせる姿に岡田以蔵は豹変する。

ここで原作イベントを予習済みの審神者諸賢は武市半平太吉田東洋も同様であると予想したことであろう。果たしてその通りであった。彼らもまた異形へと変貌していく。

そんな彼らを涙ながらに説得する龍馬。

しかしその説得の内容は「文久土佐を生きる龍馬」には知りようのないもの……。

筆者は胸がズクンと痛むのを感じる。

シリーズ物のミステリーの王道として、あるパターンがある。

「身内が犯人」である。探偵はそんなはずはないと徹底的に調べるが調べれば調べるほどその疑いが確固たるものになっていき……。

冒頭、語られた史実の最後で龍馬の前に出てきた時間遡行軍。

権力者側の武市を死なせないと強く決意し、行動するさま。

そして知るはずのない未来の情報という「秘密の暴露」……。

文久土佐藩の三つのキーポイント。その最後の一つ。

三つ、坂本龍馬の脱藩。

ゲームイベントでもそうであったように、この舞台においてもその部分は巧妙にぼかされていた。その真相は「犯人」自身の口から語られることになる。

実際の歴史で脱藩後、武市と以蔵の死を知った彼は脱藩さえしなければと悔い、自分が脱藩しなかった(してもすぐに戻ってきた)歴史を生み出してしまったのである。

この文久土佐藩の改変を目論んだ黒幕は坂本龍馬その人であった。

いや、それは正確でない。ゲームでは「幻影」と呼称された彼らは「刀ステ」では「朧の志士」と名乗った。なんにせよ彼らは「偽物」であり、我々の知る歴史上の人物本人ではないようである。

このことについての考察は別項に譲るが、「朧」であっても彼らの苦悩は本物のそれと同じ、いやある部分ではそれ以上であるといってもよいかもしれない。

なぜって「黒幕」である「朧の龍馬」がしっかりと脱藩しない限り日本は前には進まないのである。

維。その意味の第一。大綱。国家の大本。そう、維伝が坂本龍馬の「日本を考える」ことからスタートしたのは偶然ではないのだろう。佐幕か尊王か。開国か攘夷か。それは揺籃たる淀んだ文久土佐藩の中では永遠に出ない答えだ。国家、日本を考えるもの、志士が私情に囚われたことで生まれた世界では「維」を「伝」えることは決してできない。なんと残酷な構図であろうか。

「朧の歴史上の登場人物」たちは「朧の龍馬」が励起したためか、「国家の大本」について特にこだわっているところもまた地獄めいている。

その登場人物たちにアプローチするのがそれぞれの佩刀というのがまた…王道ではあるが…王道はやはり人の心を動かすのに効果的だから王道なのだなと再確認した。

人を斬りたくない、人を斬らなければ生きていけない岡田以蔵。彼にとって「刀の延長線上に人がいる」時、その人は全て斬って捨てねばならない者達であった。修羅さながらに人を斬り、弑したとき、岡田以蔵は既に刀そのものに成り果てていた。そんな元の主を軽蔑した様子であった肥前忠広はしかし文字通り鎬を削る壮絶な剣戟の中で「わかって」しまう。それは岡田以蔵も同様に。

「斬りたいわけじゃねえんだ……斬りたいわけじゃねえんだよ……。誰も信じてくれねぇだろうが……」

 人斬りの刀と嘯いていた肥前忠広。そうではない。そうではないのだ。なかったのだ。彼はわかったのだ。

自分はそんじょそこらの人斬りの刀ではない。

人斬り以蔵の刀なのだと。

この、哀しい男の佩刀なのだと。だから奥底に眠ったこの感情はこの男と自分は一緒なのだと、理解した。叫ばずにはいられなかった。ゲームでは放置していると絞り出すかのように言うこのセリフが福岡サンパレスホールに魂の絶叫としてこだました時、筆者の瞼から水分が堰を切ったようにあふれた。

誰も信じてくれないと思っていた。でもわかるのだ。自分の気持ちを岡田以蔵がわかってくれていることを。わかってしまったのだ。同じ気持ちを岡田以蔵が持っていることを。

そして岡田以蔵も同様に肥前忠広にシンパシーを感じ、「斬らなければ倒される、ならば倒されればもう斬らなくてよい」という悲しい結論に至ってしまう……。

絶対そこで死んだかと思ったら死んでいなかったのはちょっと拍子抜けしたが(布団に安静にさせられているさまはちょっとシュール)、その後、史実での勝海舟護衛を想起させるかのような刀剣男士たちの護衛につくあたりは岡田以蔵が一番「均しの世」に近いのではないかと思わせてくれたし、この世界線での「肥前忠広が佩刀となる瞬間」を肥前忠広が見届けるシーンはジーンと(韻を踏むな)させられた。

 

維。その意味の第二。 つな。糸すじ。何もかも靄にかかったかのようにはっきりしないこの文久土佐藩という迷宮にアリアドネの糸をよこしたのが南海太郎朝尊である。(まあ一人では帰れないんですけど)新たに顕現した彼によって事態は収束に向かっていく。いわば出来立てほやほやな彼は「刀であること」「人でないこと」に自覚的で、「朧の武市半平太」もいつものように飄々と研究対象として対するかに思われたが……。

やっぱり、彼もわかってしまう。刀剣研究家の刀工の逸話からなる要素が多いと自己分析していた彼でさえも、武市半平太と剣を合わせ、鍔を迫り合えば、彼が実直でしかし頑固、土佐の若者という糸を縒り集めて土佐勤皇党という綱とし、それでもって日本を変えようとしていた熱い志士であったことが。そして自分自身が間違いなくその男の愛刀であり、そこからあふれ出る気持ちの揺らぎに自分が翻弄されていることも。南海太郎朝尊というキャラクターの見方をその数分で大きく変えられてしまう印象深いシーンであった。

維。その意味の第三。つなぎとめる。坂本龍馬という稀代の風雲児は文字通りの維新回天の立役者、時代を、日本を先に動かした人物であった。それが、友情に、私情に、妄執に囚われ「文久土佐藩」という歪な世界を生み出してしまう。時は前にしか進まない。それをつなぎとめようとしたときグロテスクな歪みが生まれてしまうのは避けられないことであった。

それに自身も耐え切れなかったのか、解き明かされるまで自分自身も黒幕という自覚がなかったようでもある。真相が明かされ動揺しながらもそれまでも気の合っていた陸奥守吉行が史実さながらの理解の速さで「我が家の重宝の刀剣男士となった姿」だと察したとき彼は喜び、そしてシームレスに首を取らせようとする。その潔さ。

「死候時も猶御側ニ在之候思在之候」―以前の記事でも引用した龍馬が寺田屋事件を経て兄・権平に陸奥守吉行をねだった時のこの一文。「死に瀕した時もこの刀がそばにあれば安心していられそうなのです」その刀に自分の死を委ねる。しんどい。しんどすぎるではないか。劇中も端々に「陸奥守吉行」への憧れを語る龍馬のその行動は重過ぎる。

その龍馬にしかし、陸奥守吉行は真っ向勝負を挑む。その心意気を称賛する龍馬。元の主譲りだという陸奥守吉行。

龍馬! お前だぞ!お前がなるんだ!主に!

その筆者の心の声は届くことなくシンクロが美しいスピーディーな攻防が展開され、そして……陸奥守吉行は、刀を否定し続けてきた彼は銃に手傷を負わされながらも「刀」としての本分を果たすのであった。

そして彼が自らは刀である、と宣言して舞台の幕は下りる。

会場は当然のスタンディングオベーションであり、筆者はBlu-rayの予約の準備に取り掛かるのであった……。

ゲームの展開を丁寧に落とし込みつつ、筆者がゲームイベント時や活撃鑑賞時に感じていた「肥前忠広が龍馬に愛用されていた可能性」「陸奥守吉行が佩刀となったタイミング」「南海太郎朝尊の人間味のなさ」などが狙い撃ちされたかのようにフォローされ、「刀剣乱舞五周年」の演出のように「解釈一致大感謝」が墨痕鮮やかに一字ずつ脳内で揮毫されていくのを感じるのだった。

福岡の場合は終演後のグッズ販売はなかったのだが、あったら宿泊費までつぎ込んで野宿になってしまっていたであろうから運営諸賢の英断に感謝である。

考察:朧月夜はいつ昇る?

感想に引き続いて考察を述べていきたい。例によって考察というよりは妄想というのが相応しいのかもしれないが……。

パンフレットを購入した筆者は宿泊先で閲覧し、動揺した。

序伝から維伝に至るまでの物語の間には未だ語られざる四つの物語があるというのだ。

そして刀剣男士の危機を救った「山姥国広然とした時間遡行軍(打刀)」……。

かつて吉田東洋が折ったという刀剣男士たち。

更には「朧の志士」と「放棄された世界」。

その世界の奥深さは凄いを通り越してもはや怖い。

「刀ステ」の物語で重要な要素と言えばループ(円環)である。今回鳥の二振りたちから三日月宗近の円環の世界もまた放棄されたらしいと言及があった。

逆説的に言えば、「放棄された世界」というのは単に歴史が変わってしまっただけではなく、「円環が繰り返されてしまう世界」なのではないかと筆者は思うのである。今回の「文久土佐藩」の世界も文字通り文久年間をループし続けているのではないだろうかと。その中で最も歴史と違う展開になる吉田東洋は繰り返すことでますます意識が「朧」になってしまったのではないかと。(あの世界の人々が坂本龍馬が励起した人たちであるのなら、吉田東洋は武市や以蔵と比べて龍馬の思いが少ないので意識がはっきりしないというのもあるのかもしれない)

それを生み出すには坂本龍馬という超有名偉人の「物語の強さ」が必要だったのではなかろうかと。

先ほどのパンフレットによれば、「序伝」と「虚伝」、「慈伝」と「維伝」の間に未だ語られぬ物語が存在する。筆者は、この二つの「語られざる物語」こそが新たなる円環の起点と終点であり、その結の目は「山姥切国広」なのではないかと考えている。

敗北へと向かう物語、序伝で山姥切国広が折れてしまっていたとしたら? 折れてしまうことで時間遡行軍になってしまったとしたら? 「維伝」の前に山姥切国広極にまつわる物語があるとしたら?

そもそも「虚」とはなんであるのか。既にそれ自体が、我々が今まで見てきたもの自体が本来の物語、いうなれば「実伝」のifストーリーだったのではないか?

維。その意味の第四。すみ。その名の通り、パンフレットによれば今のところ維伝は一番隅である。その後更に後方にストーリーが展開するかはわからないが(してほしい)今ここで提示するということは、維伝はひとつのルートの終わりを示唆しているのではないか。翻って、本来の物語―それが山姥切国広なのか三日月宗近なのかそれ以外の誰かが主軸となるのかはわからないが――はまた違う円環を持っているのではないかと筆者は考えるのである。

冒頭で暗殺される吉田東洋。彼はその日、主君に歴史の講義をした帰りだった。なんの講義か。本能寺の変である。これが果たして偶然だろうか? 筆者は「虚伝に連なる物語は維伝で一つの収束を見る」ことの示唆に思えてならないのである。

朧。月と龍。龍は当然坂本龍馬であろう。そして終盤、二振りの鳥が見上げる三日月。もしかしたら我々の知らない形で今回も「彼」は我々に寄り添ってくれているのかもしれない。筆者は今回の審神者の采配は結構非情であるのでもしかして審神者が代替わりしていたりとか、あるいは審神者その人が三日月宗近だったりしないよね、とちょっと思ったりしている。

いずれにせよ朧月夜が昇るときは近いのかもしれない。

蛇足:「銃男士」?偽坂本龍馬はいつ「顕現」したのか

重箱の隅なのだが、少し気になったこと記しておく。「志士」坂本龍馬を倒した後、その場には壊れた銃が残された。このことから偽坂本龍馬坂本龍馬の銃が顕現したのではないかという推測があり、なるほど唸らされた。

(筆者は「壊れた銃」は史実龍馬の物語が潰えたことの象徴と考えている)

史実の坂本龍馬が銃を手にしたのは薩長同盟が結ばれる少し前、高杉晋作から譲ってもらっており、寺田屋事件にて活躍した。(つまりメタな話をしてしまうと言動の矛盾を突くまでもなく、坂本龍馬が銃を持っていればそれは文久年間の坂本龍馬ではありえないのである) 一方で武市が切腹させられたのはそれより半年以上前。同じころ亀山社中が結成されているのが全く歴史ってやつは…という感じであるが、そうなると親友の死を知るのが半年以上ラグがあったのか、という話になる。昔のことだからそういうこともあるかもしれないが、「亀山社中マジ最高!」みたいな手紙をその間姉・乙女に送っており、であれば史実ではその前には知っていたのではないか、と筆者は思う。

あの「朧の志士・坂本龍馬」が銃から顕現したのであれば、武市と以蔵の死を知った直後からわだかまっていた気持ちが銃を手にし、その有用性が寺田屋事件で示されたことによって龍馬の中で「銃があれば友人たちは死ななかったかもしれない」という気持ちから励起されてあの世界が生まれたと考えると、そして史実では(口実、言いがかりに近いものではあるが)寺田屋事件で銃殺したことが龍馬暗殺の遠因になったことを合わせると、信頼と安心のしんどさを味わってしまわざるを得ないのである。

「一歩引いて……バン!」

その言葉が背負うものは、思った以上に重いのである。

そしてこの気持ちを励起させることを手助けした時間遡行軍がかつての山姥切国広であるとすれば――彼のいう物語の収集は果たして何を意味するのだろうか。やはり序伝を除けば現状時間軸の最初と最後の飾るのが歴史上でもとみに著名で深い物語を持つ織田信長坂本龍馬をめぐる物語であることに筆者は何らかの糸、いや意図を感じずにはいられないのである。

維。その意味の第五。文の意味を整え強める助字。残念ながらその文字を借りても一万字を超えてしまい、がったがたの文章となってしまったことをご容赦願いたい。

舞台刀剣乱舞、その意気、維れ新なり。ますますの発展を願う。

先達はおっしゃっていた。「刀ステはいいぞ…いいぞ…」と。

今ならわかる。「刀ステは(しんど)いいぞ…(しんど)いいぞ…」ということであったのだと。

しばし考察の海に潜りたいと思う。↓なにかございましたらお気軽に。

odaibako.net

 

今日現在を最高値で通過していこう―お題「二十歳」からの思考ドミノ

今週のお題「二十歳」

二十歳、戦争、二人の作家。

 このツイートをした時筆者は二十六歳だった。そしてある資料によると『アデン・アラビア』を著したときのニザンも二十六歳であったという。が、筆者がこの言葉を知ったのは大塚英志先生の著作であって、そこにはすでに三十歳を超えていたと書いていたように思う。他の資料によれば原著は1936年とあるからそれであればその時点で1905年生まれのニザンは三十歳を超えているので確かに計算は合う。作品が上梓されたのと単行本としてまとめられたことにズレがあってそのためにこのようなことが起こっているのかもしれないが、ともあれいずれにせよ筆者は既に『アデン・アラビア』を著したニザンの年齢を超えたか、あるいは超えつつあるということであるらしい。

ポール・ニザンという人を筆者はこの『アデン・アラビア』でしか知らず、それに触れたのは前述の大塚先生の引用によって知った十五歳の時であったから恐ろしいことに倍の年月が経っており、詳細は曖昧模糊としているが、ただその性急さは感じたように思う。そして怒っていた。『アデン・アラビア』は独白の小説で、恐らくニザンが今の世に生まれていたら難解な文章の中に時折洗いざらしの白いシャツのような上記のような文章を織り込んでくるちょっと毒吐き気味のブロガーとして名を馳せていたかもしれない。

ただ、彼の生まれた時代は2020年ではなく1905年だった。そして1940年、三十五歳で戦死する。映画にもなった「ダンケルクの戦い」に配属されようとしていた時だったということで、どうあっても戦争という暗い大きな影の中で死に絡めとられようとしていたような空気を感じてしまう。

ただ、彼の命を奪ったのも戦争ではあるが彼をパリから脱出させ、アデン・アラビアへ向かわせしめたものまた戦争の空気を感じての焦燥だったと考えると何とも複雑な気持ちにさせられる。

今一人このことについて考えた時、筆者が思い浮かべる作家さんがいる。茨木のり子さんである。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

 

茨木のり子さん著「わたしが一番きれいだったとき」より引用

 

 この詩を知った時、筆者は中学二年生で、教科書に載っていた。教科書の最後の著者一覧には詩からイメージされる凛とした美しさの女性の顔が映っており納得した覚えがある。当時は存命でいらしたが、2006年に鬼籍に入られた。これは当時ニュースで見たことを覚えている。独居の中での自然死であったが既に遺書をしたためていらっしゃったという。高校の教科書でも「自分の感受性くらい」が掲載されていたはずだ。

茨木のり子さんは1926年生まれ。調べてちょっと驚いたが筆者の祖母と同じ年の生まれであった。「戦争に負けた」時は十九歳となるはずで、もう一年ずれていれば「二十歳がいちばん美しい年齢と誰にも言わせ」ないニザンと「一番きれいだった」茨木のり子さんと対立してしまうところであったが矛盾を乗り越えているあたりに筆者は静かな感動を覚え、そしてそこに始まる二人の作家の対称性についてしみじみ感じ入ることとなった。

本人はどう考えていたかは知らず、戦争という大きなターニングポイントにおいて生き急いだように見えてしまうニザンと、出来るだけ長く生きることを決め、実際に八十歳まで生きられた茨木のり子さん。それぞれの生き方は美しく、相反するように見えて二十歳の向こう側に対して肯定的である点が共通しているように思えるから不思議だ。

ちなみに茨木のり子さんが詩の最後で触れているのはニザンと同じフランス出身の画家・ジョルジュ・ルオーだが、現在『アデン・アラビア』に触れるにあたってアクセスしやすい書物である池澤夏樹編集世界文学全集ではルオー作の『名誉の戦場』が合わせて収録されている。こちらの『ルオー』氏はジャン・ルオーという人でこれまたフランスの人であるが、こんな番外の偶然を楽しめるからこそ読書というのは楽しいのだよな、と思ったりもした。

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

アイドルと二十歳

今年の成人式対象は1999年4月2日~2000年4月1日生まれの諸賢ということで各地で開かれる成人式ではまさしく日本の未来がwowwow wowwowすることと思うが、よく考えると来年の成人式は20世紀生まれと21世紀生まれが同時に存在するってことか…ちょっとワクワクするな……そういういじりその世代散々されてきたんだろうな……どうでもいいが筆者は2000年代だけど新世紀じゃない2000年生まれの諸賢に平成生まれだけど1990年代じゃない年の生まれとして勝手にシンパシーを覚えてしまう。

さて今回このお題に臨むにあたって筆者は自分のツイートを「二十歳」で検索してみた。

 

 

 

 オ…オギャーッこいつアイドルの去就しか気にしてねえ!

ともあれいわゆる「普通の幸せ」と「アイドルとしての成功」を天秤にかけた時訪れる大きく2つの決断のタイミングはやはり現状においては「十八歳」と「二十歳」になるのではないだろうかと思う。上記ツイートを見ても半分が二十歳を機に卒業または引退の発表をしたことによるリアクションである。

ことに48Gにおいては二十歳になり成人式を迎えるメンバーは神田明神でお披露目されるのが近年の恒例であり、推しの振り袖姿を見るのをモチベーションとしている諸賢もおられることだろう。

去年の模様はこちら。

www.oricon.co.jp

ここでも二十歳を機に卒業を控えているメンバーが複数いることがわかる。現在はここからさらに欠けてしまった・しようとしているメンバーがいるのがさみしい。

これより4日前。48Gファンは、いやアイドルファンは衝撃を受けた。山口真帆さんの涙の訴えがNHKニュースとなり、後追いでその事実を認めるような報道がなされたからである。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 ちょうど一年前の記事がこちらになる。

筆者の期待は残念ながら裏切られ、NGTにはまだ春はやってきていない。その最初の失望が成人式センターを務めた方が騒動に触れず、総選挙への執着ともいえるようなコメントを残したことだった。同じくNGTの成人式参加メンバーにはその後謹慎、研究生降格となったメンバーもいた。

www.tokyo-sports.co.jp

その後裁判も開廷したが内容はお粗末極まりなく、まだまだNGTの冬は長そうだとただただ悲しくなってしまう。本当に楽曲はグループ随一だと思うのだが……。

 この忌まわしい一周年を払拭するかのように照準を合わせてドラマ出演を実現させた研音はさすが名門事務所、と感心させられることしきりである。

そう事務所。アイドルがいかに輝けるかはYouTubeほかの普及によって風向きはだいぶ変わってはきたけれども、やはりまだまだ事務所に左右されることが大きい。

それが最悪の形で作用したグループがいた。

X1である。

親の因果が子に報いとはまさにこのこと、本人たちに過失のないことでとうとう解散に追い込まれてしまった。

筆者はPRODUCE X 101も全話視聴し、何度か記事化を試みたが結局のところ果たせずじまいであった。

理由はいくつかある。箇条書きにしてしまうと

・ますます露骨なPDpickをはじめとした番組作りの「雑さ」が気になってしまうこと

・活動期間5年と長期のためか全体的に年齢層が若く、必然的に練習生期間も浅く、初期状態ではパフォーマンスに難のあるように感じてしまう候補者が多かった

・やはり字幕ありといえど全編完全に韓国語だと内容がなかなか入ってこない

・何度視聴しても一推しがイ・ドンウク国民代表プロデューサーになってしまう

そして一番の理由は、

・X1がカムバックしたときに合わせて上梓したい

であった。そしてそれは、果たされることがなくなってしまった。

おかしいではないか。まずやるべきは事務所役員の更迭ではないか。

もう本当にずっと怒っていて、悲しくて、昨日は慣れない酒を飲み、檸檬堂のおいしさに気付いたりもしつつ、しかし心は晴れなかった。

候補生たちの若さを反映して、X1も若いグループだ。ああ、だった、とせねばならないことが辛くて仕方がない。未成年のメンバーがほとんどである。

ちなみに筆者は候補生たちの年若さを逆手に取ったデビュー評価局「少年美」がとても好きである。


[ENG sub] PRODUCE X 101 [단독/최종회] 소년미(少年美) 최종 데뷔 평가 무대 190719 EP.12

彼らの成人を、二十歳をしかも韓国と日本ではカウント方法が違うから(韓国では数え年)場合によっては2回もファンが祝福する機会は少なくともX1としては永遠に失われてしまった。

大輪の花火を咲かせるはずだったグループは線香花火のようにはかなく、閃光のように散っていったのである。

筆者も再結成を諦めたわけではないが事務所たちに事の大きさを思い知ってもらうためあえて強い言葉を使ったことをご容赦願いたい。

二十歳から連想されることを思いのままに書き散らしていったら4000字を超えてしまった。二十歳のころ考えていた三十歳はもうちょっと論理的な文章を書ける人間だったのだが。

総括するとしたら、ただ一言、「人生は生きられるときに生きろ」である。

 

新春鑑賞はじめ―特別展「三國志」感想

余談

昨夏、念願かなって九州国立博物館を訪問することが出来た。

九州国立博物館様の試み「ぶろぐるぽ」によって当ブログ記事を九州国立博物館様のHPでご紹介いただいただけでも大変有り難かったのだが、抽選が当たり次回特別展の招待券もいただいた。

東京開催時点で既にフォロワーさんが鑑賞されており、我々夫婦もそれぞれ三國志を愛好していることからもともと鑑賞予定であったのでまさしく渡りに船、さっそく鑑賞と思ったものの年末の業務に忙殺され、気付けば年が明けていた。

元日、夜。筆者は思い悩んでいた。どうにか鑑賞したいがしかしここから5日まではどのタイミングであっても混雑するであろうと。妻と話し合い、明日起きられたら行ってみようということになった。天の配剤に任せたのである。

当日朝。6時に起床できた。蒼天既に死す。特別展当に行くべしという天の啓示である。我々は粛々と準備をし、車のフロントガラスが凍っていることに慄き、なんだかんだで8時ごろ出発した。この時点でカーナビは11時過ぎの到着を示していた。

道中、高速道は思ったほど混雑していなかった。霧、逆光など自然が我々に襲い掛かるものの基本的に流れはスムーズである。鳥栖JCT付近で事故車を発見し、そのベッコリぶりにやはり自動車税は高くとも普通車に乗ったままでいよう……と思ったりもした。ゴーンはうちのキューブの自動車税を払ってほしい。

筑紫野ICで降り、コンビニで軽く腹に入れ、お手洗いを済ます。道中スムーズに運転できたため、11時より少し前に着きそうだ、とカーナビは告げていた。およそ2キロ。展示への期待が夫婦間で高まっていた。

が、そこからが地獄であった。九州国立博物館太宰府天満宮のほど近く。そしてその周りは一本道。

見事に初詣渋滞に巻き込まれてしまったのである。次々と徒歩の人々が我々を追い越していく。所々で膀胱が限界に達したであろう人が車から一時離脱していく荒涼とした風景。カーナビからは駅伝の実況が流れており、そのストイックさを取り入れることでどうにか乗り切ろうと懸命であった。マジンガーZは渋滞のストレスから生まれたというがなるほどな、と感じた。

ようやく九州国立博物館の一部分が見えた時の我々の喜びときたら、「翼よ、あれが巴里の灯だ」という気持ちもかくやであった。

九州国立博物館よ!我々は帰ってきた!

とはいえなんと時刻は13時を回ってしまっていたのでまずは腹ごしらえである。またもバーガー類は売り切れであった。いつか食べてみたい。

妻は桃ソースの杏仁豆腐をチョイス。

妻「桃園の誓いだからね…ウフフ…」

筆者は前回食べて絶品であったミックスベリーパフェを選んだ。ぎっしり中身が詰まっておりコーンフレークも含有されていないのでミルクボーイも動くことはなく安心である。

いつ見ても高い天井に向けて伸びるエスカレーターに乗り、三国志展へと我々は臨むのだった……。

本題

「リアル三國志」の世界へ

ありがたいことに今回も「ぶろぐるぽ」に参加させていただくことになり、九州国立博物館さんから画像を提供していただいた。そして今回の特別展がありがたいのはすべての展示物が撮影OK(映像はNG)ということで、なんと夫婦合わせて500枚近くバシャバシャ撮ってしまった。その大盤振る舞いぶりに感謝しつつ、画像を交えて感想を述べたいと思う。

まず入り口には記述を再現した張飛の蛇矛。こんなん持った大男と目が合ったらそれだけで藁のように死にそうである。

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入場した我々を迎えるのはデカアァァい説明不要な関羽像。その大きさは三国志演義の記述とほぼ一致しているというからなるほど大丈夫(だいじょうふ)である。人の世は曹操を残し、劉備は物語となり、孫権は長命を得るなか、関羽は神になる。その神格化が進むのは三国志演義が巷間に流布してからということで、その直前に作られたと思われるこの像はひげなどもまだ控えめで実像に近い像であるらしい。

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そういったいまや伝説となっている三国志の人物のルーツをたどることから始まる本展示、特に筆者が目に留まったのは劉備が後裔を自称した中山靖王・劉勝の墳墓に彼と共に埋葬されたという玉装剣である。前2世紀というから2千年以上前のものが目の前にあるという事実にまず静かな感動を覚えてしまう。

そのフォルムは思わず「あっ! 無双で一般兵が持っているのとおんなじだ!」と思ってしまうが鞘尻についていた玉は今なお美しく、隣の輝き続ける壺と合わせて持ち主の栄華を今に伝えてくれる。

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三國志の時代は即ち戦乱の時代。そしてそのターニングポイントが「赤壁の戦い」であるが、百万の矢を空間を贅沢に用いて行った再現は必見である。矢ぶすまの「圧」を感じられる貴重な経験であった。

そのそばに澄まして鎮座してある「弩」は特に古参の無双プレイヤーであれば様々な思いが去来すること必至である。

この辺りも見覚えのあるフォルムで、プレイヤー諸賢は親近感を覚えることであろう。

三國志の登場人物」が実在したことをかみしめる展示

親近感と言えば、三國志の時代はおよそ1800年前。当然、同じ人気のある時代と言っても日本の戦国時代や幕末時代のように多く資料が残っているわけではない。

その中でも貴重な三国志の登場人物たちの息吹が感じられる展示も見ることが出来た。

こちらは乱世の奸雄・曹操が建安20年(西暦215年)に陽平関にて五斗米道教祖・張魯を破った後、漢中に軍を駐屯させていた曹操が河の流れの滔々とした様子に感じ入り、岩肌に揮毫したと言われているものの拓本であるという。

同年には後年の作品においても著名な「合肥の戦い」が呉との間で繰り広げられていたこともあり、同行した司馬懿らはそのまま劉備のいる蜀を攻めることを進言したが曹操はそれを却下した。あるいはここで侵攻していれば、後年(建安24年/西暦219年)の定軍山の戦いは起こらず、夏侯淵もその命を散らすことはなかったかもしれない。

改めて揮毫(の拓本)を見てみると「滾(揮毫にはさんずいなし)」のまさしく瀑布が跳ね上がるような自由闊達な感じと比べて「雪」の深々としたかっちりとした感じの対比が面白く、しかし不思議に調和をなしていて見事である。

本来は「滾雪」が正しいのだが、それを部下に指摘された曹操は「この河が『サンズイ』ってことサ……」と傍らの河を指さしたという。口調がそうであったかは定かではない。ちなみに当時曹操自身が立碑の禁を定めており、いたずらな誇示行為を禁じているのだが、「揮毫だからセーフ」ということでこの「滾雪」はスルーされている。忖度案件では?と思わなくもないが、このあたりの立ち回りがいかにも「曹操」を感じさせて微笑んでしまう。多分楊脩がやってたらぶっ殺されてたと思う。指摘したKY部下が楊脩だったように思えてならない。

 今一つ三國志の登場人物の息吹を感じさせてくれる展示がある。魏晋時代に流行した縦長の書体で刻まれた字は「曹休」。曹休、字は文烈。曹操から「我が家の千里の駒」と褒め称えられ、甥でありながら我が子同然に遇されたという彼の印章である。

真・三国無双8ではついにプレイアブル化した。筆者は発売日当日に購入したが3人クリアしたところでアップデートに期待して放置してしまっていて、実は出会えていない。モブ武将時代から「石亭の戦い」での彼と周鮑の死に至るいちゃいちゃはフィーチャーされており、シリーズの愛好者には思い出深い武将であることであろう。アラサーの多くは彼から髻(もとどり)を学んだといっても過言ではない。

そんな彼の墓が2009年に発見され、出てきたのがこの印章である。三国志に登場する人物のうち確実である唯一の印章であるとか。曹操曹丕曹叡と魏三代に仕えた彼が生前どれだけの書類にこの印象を捺印したのか、思いをはせてみるのもよいかもしれない。

三国、それぞれの色

 いよいよ三国それぞれの文化に触れていくわけだが、受験知識として我が身に眠っていた「親魏倭王」や「三角縁神獣鏡」といったワードが励起され、懐かしい気持ちになる。一口に鏡といってもその種類は多種多様であり、そこに古代の無限のつながりとロマンを感じる。

僕ら(日本)が巫女の託宣とか聴いてるずっとずっと前にはもう漢王朝貨幣経済をしていたっていうわけだが、魏もその貨幣「五銖銭」を続けて用いた。魏の領土は広く、混乱を防ぐためであったのだと考えられる。

劉備は蜀を得た折、財政難に苦しみ、1枚で五銖銭100枚分に相当する貨幣「直百五銖」を発行した。

孫権「うちも財政難や……そや!」

ということで呉において孫権は「大泉当千銭」という貨幣を発行した。文字通り1枚で五銖銭1000枚分に値するというスーパー貨幣である!凄まじい悪評で間もなく発行は打ち切られたという。コントか。加減しろ馬鹿!という感想しか出てこない。たまたま展示品がそうであるだけかもしれないが、「大泉当千銭」が一番粗悪に見えるというのがまた皮肉が効いている。

五銖銭は三国時代の後も長らく中国経済において使用されたという。信用が一番だねということを学ばせてくれるエピソードである。とはいえ、当時は布などの物々交換がまだまだ重きをなしていたらしいことも付記しておく。

特に個性の出る各国の墓

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今回の展示の目玉の1つは再現された曹操高陵であろう。その中に立ち入り、発掘された諸品々を眺めるというのは何とも不思議な気分であった。ややオーパーツめいた新時代の陶器が埋葬されていたというのが進取の気風をもつ曹操らしいではないか……としみじみ思わされる。

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墓の中には「曹操様が愛用していた虎だってぶちのめしちまう大矛だぜ!」という石牌があり、曹操の墓だと断定する根拠の一つになったらしい。統治者のイメージが強いが曹操という人はつくづくもののふであったということなのであろう。

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曹操の墓は厳命した通り薄葬であったというが、一部に壁画があったことが確認されている。その内容は残された部分から想像するしかないが、「曹操の墓」「壁画」というと筆者としてはやはり曹丕于禁への嫌がらせが思い出され、その場面は本当にあったのだろうかと気になってしまう。

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厳粛な魏の墓と比較すると、蜀の墓は入り口からしてなんだかフレンドリーな感じがしてそれぞれの色が濃く出ているなあと感じる。

特筆すべきは「俑」の違いであろう。秦の始皇帝兵馬俑で著名なように、有力者の墓に一緒に埋葬される人形のことを「俑」という。

例えば曹操の墓に副葬されていたのがこちらになる。曹操ほどの有力者に副葬されていたものとしては、型からはみ出した粘土がそのままであるなど粗雑さが目立ち、薄葬のコンセプトの下、手間もあまりかけないようにしていたのだろうかと思わされる。あるいは何度も盗掘の被害にあっているため出来のいいものは奪われてしまったのかもしれないが……。

呉の場合はこちら。細かく役割が分かれており、帽子など細かいところにも違いがみられる。製作過程が違うのか風合いも異なり、南国の気風が感じられる。

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そして蜀の俑がこちらである。おかしいだろ。なんだこの躍動感は。当時のいわゆるコメディアンを模しているといわれ、その屈託のなさに思わずこちらも笑みがこぼれてしまう。ちなみに曹操の息子・曹植はその物まねがうまかったとか。ほかの国々が自分を守る兵士だとか、祈りをささげる人々たちを「俑」として副葬する中、コメディアンを選ぶ蜀、連載初期の人手不足なのに音楽家を優先的に仲間に入れようとするワンピースのルフィを感じさせる。その陽気さと裏付ける土地の豊かさこそが、蜀が圧倒的に国力に勝る魏相手に長らく持ちこたえたことの秘密の1つであるのかもしれない。

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呉は棺を置くための台が虎を模しており、やはりゲーム脳の筆者としては「こいつ回転して火を噴きそうだな」と思ってしまうがフォルムがなかなかチャーミングでありながら、神聖さを讃えており見事な造形である。江東の虎の面目躍如というところだろうか。

呉の文化でインパクトがあったのはこちら。ダービーにポーカーで負けた人の成れの果てではなく、瓦である。墓から邪を払う目的があったのかと推測されているが、そのユニークさは他の追随を許さない。

三国時代の終焉と飛躍、拡散。

「晋平呉天下泰平」―「晋が呉を平らげ天下は泰平となった」と刻まれたこの煉瓦は同時代の豪族の墓に用いられたもので、世界一短い三國志とも言われている。戦乱の果て最後に残ったのは魏でも呉でも蜀でもなく、晋であったというフィクションであればNoを突きつけられそうなオチであった。

しかし英傑たちの物語はそれにとどまらず、庶民の間で脚色を受けつつ流行となっていく。そして日本でも横山光輝先生の「三國志」や「人形劇三國志」、そして筆者も入り口となった「真・三国無双」シリーズなど、様々に拡散、飛躍して現在に至っているのである。

 

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もうすっかり音声ガイドがあったら申し込むようになっているが、今回は夫婦とも無双とのコラボ音声ガイドをお願いした。初っ端から曹操関羽…すちだ…であり、夏侯惇は他の武将たちがリスナーを労う最後の場面においても1人だけ「俺はもっと孟徳の話をしたいのだが?」という感じで関羽はことあるごとに義の刃をもとうとし、曹丕は皮肉がちであった。すなわち平常運転であった。ご当地ネタにもボーナストラックで踏み込んでくれ、サービスが行き届いていた。やはり声が聞き取りやすく、またゲームの名場面を思い浮かべることもできてよい選択であったと思う。

あえて言うなら武将のうち3人が220年前後に死に、曹丕も割と早逝するので後半部を補える武将を呉や晋からチョイスしてもよかったのではないか、と思うが……。

ともあれ古代中国から今に至るまで、三国志の世界をリアルに感じることが出来る素晴らしい展示であった。

図録もトートバッグとセットで妻が購入してくれたが、大ボリュームでコラムもついており読みやすい。通販もできるのでお勧めである。

その他グッズも充実しておりいくらお金があっても足りない。別々に買い物をした我々夫婦であったが司馬懿クリアファイルをはじめ何点かかぶっており、その感性の近さを確認できたという点でも意義深い展示であった。

2020年の挑戦

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刀剣乱舞もますます楽しませてくれそうでうれしい。

今週のお題「2020年の抱負」

あけましておめでとうございます。

2018年元旦に始めた当ブログもおかげさまで丸2年。

今後も精進いたしますのでよろしくお願いいたします。

さて今年の抱負ということであるが、まずはその前に昨年の抱負がどうであったか検証していきたい。

 

kimotokanata.hatenablog.com

今年の抱負は実生活においては業務の成果を給与に反映させること。

ブログにおいては月最低4回の更新と購読しているブログをちゃんと読むこと。

もっと色んな人へボールが届くよう、今年も頑張って投げていきたいと思う。

 給与においては過分の評価を頂いて前年より昇給させていただくことが出来た。

ブログにおいては昨年の記事は65記事と月で割ればそれ以上なのだが、1記事のみの月もあり、平均的にこなしていきたいところだ。

 他の方のブログの購読はやはりタイミングによって逃しがちであるが、一期一会と誤魔化さずしっかりチェックさせていただきたいと思う。自ら購読を選んだ方々のブログだけあって読むといつも学びを与えて頂いている。

色んな人へのボールについては年明け早々から「映画刀剣乱舞」により体感させていただき、その後も何度かあった。大変ありがたく、まさしくブログの醍醐味であった。

今年においては前年に引き続き定期的な更新を目標とし、その一環として今回のように「今週のお題」に積極的に参加してブログのマンネリ化も防いでいきたい。

記事はできるだけため込まず、巧遅よりも拙速を心掛けたい。ブログの良いところは加筆修正ができる点であると私淑する方も述べておられた。

まずは発信して、それがどこかのたたき台になれば幸いである。

またアドセンス君になんとか媚びて承認してもらいたいところでもある。

実生活においては引っ越しを控えているのでそこに合わせて諸々の整理を進めていきたいと思う。

 今年果たしてどれだけのブログ諸賢が表題をつけられたかはわからないけれど、そういった「かぶり」を恐れず、しかしなにかしら当ブログ「らしさ」みたいなものが見つけられる年になればよいと思う。

ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

 

今日という日は残されたテン年代の最後の1日

あっまだ年越しそば食べてない。

年の瀬、読者諸賢はいかがお過ごしですか。紅白ですか。ガキ使ですか。ももクロですか。その他ですか。

筆者は「舞台 刀剣乱舞 虚伝」を見ていました。打ちのめされました。

Twitterで「屍人荘の殺人」のネタバレを踏みました。悔しいので2020年初読書はkindleで予約注文までしたのに積んでいる原作本にしようと思います。

晩御飯はキムチ鍋にしました。〆は「サリ麺」が最近のマイブームです。

3年位前にようやく自分の中で「ゼロ年代」を消化できたと思ったらもうテン年代が終わるということでいささかびっくりしておりますが、しかしテン年代というのは今や欠かせない妻と出会ってから一緒に暮らすまでがすべて入っていると思うとちょっとお得な感じであります。

テン年代総括は3年後くらいに任せてとりあえず今年のブログに書ききれなかったこと、つまりはネタ供養だったり今後のネタの種まきをして今年のブログを〆たいと思います。

今年は妻が個人事業者になったこともあって週末がある程度自由がきくようになり、外出の増えた年でもありました。主要なものは記事にもしましたが、その旬を失ってしまったものもちらほら。(10月以降だけでもこんなに)

ひとつ下書き中のものはもう少ししたらお目にかけれるのではないかと思います。

 

刀剣

桑名江実装に際してのツイートが全く意図せずバズり、勝手に責任感を覚えて初めて玉集めを最上の報酬まで走り切った。その他副産物で3振が極に。その後の特命調査も無事2振とも迎えることが出来た。松井江はタイミングが合わなかったが山鳥毛はもともと愛着のある刀なのでぜひ迎えたい…が今回やたら敵が固く思えてならない。前途多難である。

漫画

鬼滅の刃の単行本派用ネタバレ記事を書いている途中で新刊が出てしまうという致命的なミス。

鹿児島の片田舎でも、いやだからこそなのかあらゆるグッズが品薄で本当に人気なのだなあと思う。

ゴールデンカムイも19巻の展開に衝撃を受けているうちに20巻が出てしまった。

三月のライオンの記事も仕上げられていないうちに15巻が……って本当にこんなのばっかだな。

生活

やたら自らの手を汚さず(言い方)素敵なものが手に入る1年であった。スマートスピーカー2つ、マグカップ、コーヒーメーカーなど。これらもまだ使い方を把握できていないので記事にもできていないのが悔やまれるところである。

今年はとにかく新規購入を厳しくしたので漫画本を除けば電子では15冊、紙では20冊程度の増殖で済んだ。多分本棚から生えてきている。

個人的には「つけびの村」がベストだったのだがこれもBSプレミアム八つ墓村と絡めて記事にしようとして難航中。

ゲーム

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」の記事を3,000文字超えたところで中断中。

デトロイトを進めたいのだが濃密すぎてなかなか進められていない。

仁王は最初のボスが倒せない。老い……。

元旦からPSVITAを買いに行き、1つ記事を企んでいる。

総評

記事は書けるときに書け。

よいお年を。また明日。

今見ているこの映画いつか懐かしくなるだろう―私的テン年代映画ベストテン

余談

本来はこの企画に参加させて頂く予定であった。

washburn1975.hatenablog.com

が、豪快に締切日を間違えてしまった。わが人生の縮図である。

とはいえリストアップ自体はしたのでどこかで日の目を見せてあげたいというのが親心というものである。

本題

ということで2010年から2019年までに筆者の眼前を通り過ぎていた映画のうち、特に印象に残っている10作を挙げていきたい。

ベストテンと銘打ってみたものの、そこに優劣があるわけではないので時系列順に紹介することにする。どちらかというとクロニクルというのが正確であるのかもしれない。

 

 1.ゴールデンスランバー(2010年1月30日公開)

 

ゴールデンスランバー [Blu-ray]
 

 

Twitterやこのブログでも何度か言及しているが筆者は大学のころ文芸サークルに所属していて、小説を書いたり読んだりしていた。

当時特に傾倒していたのが伊坂幸太郎先生の作品だった。今読むと、自分の書いた作品のいくつかはその影響が強すぎて赤面してしまうレベルである。「SOSの猿」以降少し毛色が変わった感じがしまた就活もあって距離を置いてしまったけれども、高校三年生の春「重力ピエロ」に図書室で出会った時の衝撃、帯の文句通りの「小説、まだまだいけるじゃん!」という気持ちにまんまとさせられたことは今も鮮明に覚えている。

大学の入学式。「文芸サークル」が存在することを知った筆者はそのサークルが出している小冊子を手に入れた。巻末の部員紹介には好きな作家・作品を挙げる欄があり、そこにもやはり伊坂幸太郎先生の諸作品を挙げている部員の方が多くいた。

その門戸を叩き、新歓に参加することになった。必然、好きな本・作家の話になり、筆者も薩摩訛りで「伊坂幸太郎先生が好きだ」という話をした。

ゴールデンスランバーはもう読んだ?」

当時の最新刊を先輩は挙げた。とはいえ貧乏学生。当時は文庫本が中心であり、単行本はまだチェックできていなかった。そのことを伝えると、先輩は実家に帰った時に持ってきて貸してあげるよ、と言ってくださった。

それが筆者の大学生生活を大いに充実させてくださったS先輩との初邂逅であった。

S先輩は日本文学を専攻されていることもあって古今東西様々な小説を読破されていたがとりわけミステリ、わけても伊坂幸太郎先生の作品についてはもはや大家といってもいいほどであり、人の形をした伊坂幸太郎Wikiなのではなかろうかと思ったことも一度や二度ではなかった。伊坂幸太郎先生を好きなどと筆者風情が言ってしまってすみません、と思ったこともままあった。

新歓以降、学部もキャンパスも違うのに筆者はすっかりS先輩になつき、しばしば夜を徹してほかの先輩も交えて作品談義をしたり、鑑賞をしたり、無双のレア武器を取得したりした。先輩は拠点を残らずつぶすタイプのプレイスタイルであった。学生街には破格の安さのカラオケがあり、徹カラもしばしば行われた。先輩は普段は朴訥としていらしたがその言動にはそれこそ伊坂節めいたユーモアが常ににじんでおり、歌声は非常に涼やかで音域が広く、特にフジファブリックスピッツが絶品であった。

こうまでよくできた人にどうして女性の影がちらつかないのかと筆者は当時不思議で仕方がなかったのだが、今になって考えるとどう考えても謎の後輩が四六時中出入りしていたせいである。本当にすみませんでした。

それは表で蛙たちがゲコゲコとうるさい時分であったか、いつものように先輩宅のリビングに我がもの顔でくつろぎながら、筆者は本を読んでいた。それもまた先輩からお借りした本であった――というか先輩宅に遊びに来たら本棚から取り出してちょこちょこ読み進めていた本であった。ああ、打鍵しながらあの、先輩の本棚に新しい書影が追加されるたびに交わしていたなんのことはないやり取りが思い出されてなつかしい。

その本を読了し、良い本を読んだとき特有の茫然半ば朦朧とする心地よい喪失感を味わっていた。その呆けた顔に気が付いたのか先輩が声をかけた。

「それ、映画化してるんだよ」

その先輩の言葉に筆者はぼえっと今まであまり出したことのないタイプの声を出した。絶対に映像化不可能だと思ったからだ。恐らくは黒歴史になっているに違いない――。先輩が悪いことを考えているときの笑顔を見ながら筆者はそう思った。

その本の名前は、「アヒルと鴨のコインロッカー」と言った。

翌週。筆者は滂沱の涙と共にその映像化の素晴らしさに敬服した。仮に劇場で鑑賞していてインタビューされてしまったら「アヒ鴨サイコー!」みたいなペラッペラの感想を吐いてしまっていた可能性がある。

監督・中村義洋、原作・伊坂幸太郎という黄金コンビが筆者の脳裏に深く刻み込まれたのだった。

2009年にこの黄金コンビは再び邂逅を果たす。そしてS先輩と筆者の凸凹コンビは今度は映画館でその映画に臨むことになるのである。

鑑賞した映画館は今は亡きシネツイン。ミニシアターの理想形のような映画館であった。

「フィッシュストーリー」は伊坂幸太郎先生の小説「終末のフール」と「フィッシュストーリー」を絶妙にマッシュアップしたようなこれまた大傑作映画で、プロデューサーの設定が改悪された以外は爽快感あふれる万人に勧められる映画だと思う。多部未華子さんにほれ込んだのはこの作品による。

アヒルと鴨のコインロッカー」においてボブ・ディランの「風に吹かれて」が重要なキーを握っていたように、「フィッシュストーリー」はそのまま「フィッシュストーリー」という楽曲がそのストーリーの軸となる。その曲を含めた劇中の音楽を担当したのが斉藤和義さんであり、ここに黄金コンビは黄金トリオへと進化を遂げたのである。

購入したレコード盤を模した洒落たパンフレットにはそのトリオが翌年、「ゴールデンスランバー」に挑むことが記されていた……。

ということでようやっと「ゴールデンスランバー」の話に入る。原作を筆者は大学一年時の冬休みに読んだ。夢中になるあまり背中が電気ストーブにより危うく焦げかけたのも懐かしい。泣いた。忘れがたい会話、ページをめくる手ももどかしいストーリー展開、収斂する伏線……。ゼロ年代ミステリーの一つの到達点であったろう。

果たして映画の方は……予告編ですでに一度泣いた。斉藤和義さんの「ゴールデンスランバー」、堺雅人さんの確かに思わず助けたくなってしまいそうなその人柄(同じ中村監督の「ジェネラルルージュの凱旋」との変わりようときたら!)、香川照之さんの権力の擬人化……。すでに名作保証のランプがきらめいていた。

そして年が明け、2010年、テン年代の幕が上がり、その最初の映画として「ゴールデンスランバー」を我々は鑑賞することになったのだった。

ゴールデンスランバー」は「フィッシュストーリー」とある意味で好対照な、大山鳴動してしかしその時鼠はどのように振舞ったかという物語である。筆者はこの映画化に大いにカタルシスを感じたが、しかし巨悪をバッシと打ちのめしてくれるような展開を期待している人にとっては期待外れだったという意見も聞いた。

ただ筆者個人としては冒頭から惜しげもなく流れる斉藤和義さんの歌声、ロック岩西の「どうせお前じゃねえんだろ?」というぶっきらぼうな信頼、伊東四朗さん演じる父の確信、そして花火と最後の一幕で十分に満足のいく映画であった。

作中、青柳たちはしばしば大学時代を懐かしく回想する。鑑賞した大学時代はそんなものだろうなと受け止めていたが、今、この記事を書くにあたり当時の腐れ大学生生活を回想するとやはり、そこにはどうしようもないが確かな愛おしさがあったようにも思う。震災前の仙台の風景を残しているという意味でも貴重な作品になった。時を経るということはこうして良くも悪くも映画に付加価値をもたらしていくものなのだろう。

2.ソラニン(2010年4月3日公開)

ソラニン

ソラニン

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

既に3,000文字を超えてしまったのでこれからは映画1本につき原稿用紙1枚分くらいを目標に書いていきたい。

2009年、クリスマスの朝。腐れ大学生の特権、10時ごろにもそもそ起きた時に筆者は志村正彦さんの訃報を知った。前日、ワンピースの巨弾映画「ストロングワールド」を鑑賞して大満足してからのその知らせであったから、感情が迷子になってしまった記憶がある。

オタクがやりがちムーブのタイトルに歌詞引用を用いてmixi日記であまりに突然すぎて感傷的にはなり切れない心境を書いたはずである。

筆者がフジファブリックを知ったのはやはりS先輩の影響であって、「桜の季節」におけるシャウトにもうメロメロだったものである。別の先輩の作品にもモチーフとして使われていて、なおさら印象に残っていた。そのあたりは過去記事に詳しい。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 そのフジファブリックが「ソラニン」映画化を記念したソングブックに参加するという。いわばコンピレーションアルバムであって、収録曲「赤黄色の金木犀」はすでに何度も何度も聞いた曲であったけれども、他にも沢山、好きな曲、つまりは聞いたことのある曲が収録されていたけれども、筆者は思わず購入してしまった。Amazonで調べたら発売日が映画の公開日より後になっていたけれど、もっと前のうちに聞いていたような覚えがあり、この辺りよくわからない。

歌詞カードにはそれぞれのアーティストの紹介が記されていて、フジファブリックの欄には「フジフジ富士Qを開催予定」とさらっと書かれていて、それでようやく筆者はああ、志村さんは死んでしまったんだなあとしみじみ悲しくなったものだった。志村さんが生きていた時、フジフジ富士Qはどんなイベントになったのだろう。実際のイベントは志村さんが生きた証を様々なアーティストが教えてくれる素晴らしいものだったけれど、あの六畳一間でその一文を見た記憶を思い出すにつけ、そう考えずにはいられないのである。

ソラニン」もまた、あるバンドマンの生きざまを周囲が証明していくという物語だ。原作を「おやすみプンプン」の延長線上で読んで、ぐわ、となった。これも大学生というモラトリアムをちくちく刺す作品であったからだ。

この映画はバイト先の後輩君と見た。やっぱりシネツイン。後輩君はバンドマンであり、アジアンカンフージェネレーションのファンであった。むろん筆者もファンであった。「ソラニン」のCDも購入していた。今考えると眼鏡も後藤正文さんに寄せていた気がする。andymori毛皮のマリーズ…数々の良いアーティストを彼から教えられた。

劇中では「フィッシュストーリー」でも名ボーカルを見せた高良健吾さんと宮崎あおいさんがこの曲を披露する。「ソラニン」の曲の完成度の高さに、ボーカルのいい意味でのアマチュアっぽさがあいまってどちらもいい味を出している。

映画館を出た我々がいの一番に吐いた感想は「宮崎あおいと同棲したい……」であった。

基本的には忠実な映画化であって、特に文句を言うところがなかった。桐谷健太さんのビリーにはほろほろと泣かされたものである。

3.劇場版 銀魂 新訳紅桜篇(2010年4月24日公開)

劇場版 銀魂 新訳紅桜篇【完全生産限定版】 [DVD]

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普通に1,000字超えてしまった。今度こそサクサクと書いていきたい。バイト仲間6人くらいで見に行った映画で、言ってしまえば銀魂好きなある人と仲良くなりたいかの人が筆者を含むバイト仲間を巻き込んで映画デートを目論むという計画に加担した結果の鑑賞であった。当たり前だが自腹である。

「ストロングワールド」以降タガが外れた入場者特典を筆者も手に入れたはずであるがどうしたか記憶にないので、銀魂好きの人にその場であげてしまったのかもしれない。

広島は鹿児島に比べてきっと沢山深夜アニメとかやっているんだろうなあと思っていたが実はそんなことはなくて、ただ鹿児島と広島のはっきりした違いは「銀魂のアニメがやっている」ということであった。(当時/今はわからない)といっても筆者は大学生生活の間、家にテレビがなかったので「我が家で銀魂を見る」ということはなかったが、しかし地上波で放送されていることによる認知度の高さというものを改めて実感したように思う。

紅桜篇自体の話が良く出来ているし、アクションシーンも動きが良く、「バクチダンサー」もはまっていていい映画だったが、噂に聞く銀魂スタイルの突っ込みを劇場でするお姉さま方がいらっしゃり、なかなか集中できなかったこともまた思い出である。かの人の計画がどうなったかは記憶になく、つまりそういうことだったのだろう。合掌。

筆者個人としては、前述の「ソラニンソングブック」に収録されていたYUKIさんの「ハミングバード」という曲と、(「バクチダンサー」のDOESさんの曲も収録されている)この出来事から着想して「それじゃあねハミングバード」という掌編を書き、ページ数が少ないおかげで翌年の入学式に配布される部誌の試し読み作品に抜擢してもらったのでそういった意味でもありがたい体験であった。

4.トイ・ストーリー3(2010年7月10日公開)

トイ・ストーリー3(吹替版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

ナランチャが「トリッシュは俺なんだ」と気付いた時のように、「100日後に死ぬワニ」の何気ない日常が自分にシンクロした時のように、 人というものは何かに同一性を見出した時、激しく揺さぶられるところがあるように思う。

kimotokanata.hatenablog.com

 以前書いたように、帰省の折、母と親友と見たこの映画で筆者は「アンディは俺なんだ」とほとんど叫びそうであった。しかし同時に自分はアンディほどおもちゃを大事にしてこれなかったことを知っていた。

だからこそ「あばよ相棒」は赦しであった。きっと彼らもそんな風に筆者の元から去っていてくれていったろうという思わせてくれるような。

別れはどんなモノにも人にもいつか必ず訪れる。その中でおもちゃとの別れは人が経験する中でも比較的早い。でも準備ができる類の別れである。

いつか子どもを授かることが会ったら、その時が来るまでに一緒に見たい映画である。

5.仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ(2010年8月7日公開)

 

S先輩は、特撮にも造詣が深かった。遊びに伺った時、いつの間にか寝落ちしてしまい、もぞもぞと起きだすとすでに先輩は起床されており、じっとテレビを見つめているということがしばしばあった。

スーパーヒーロータイム、世にいうニチアサである。

筆者も特撮は好きであったが、朝が弱く、リアルタイムで追いかけていたのは響鬼が最後であった。少年の目と批評家の目を同居させてニチアサを鑑賞するS先輩の姿は神聖にして不可侵であり、筆者は畏敬の念をもって見つめていた。

そうした中で先輩が仮面ライダーWの映画を見に行きたい、ということで筆者も同行することにした。たまさかラーメンズの片桐さんが出ていた回を見ていたくらいでほぼ未履修の状態で臨んだこの映画は、素晴らしかった。

秀逸な伏線とプロット、魅力的な悪役。そして「風都の仮面ライダー」という設定の活かし方……。

今でも仮面ライダーの危機に人々が祈り、そしてテーマ曲とともに風が吹いて形勢逆転するシーンは涙なしに見ることはできない。

TSUTAYAの会員向け冊子で伊坂幸太郎先生も絶賛されていたのもむべなるかなという作品である。

そしてこののち筆者は就活の合間を縫って秋葉原で特撮玩具を漁る沼へと落ちてしまうのだった……。

6.仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX(2011年12月10日公開)

 

急に1年以上時間が飛んだが、これはS先輩の卒業、そして自身の就活が始まり時間も費用も掛かる贅沢な趣味である映画館での映画鑑賞をあきらめざるを得なかったせいである。どうにか就活を終え、期末テストも終わったところのこの映画に筆者は飛びついた。この時同伴してくれたのはサークルの後輩Y君である。彼もまた特撮を含めた様々なことに造詣が深く、近所に住んでいたこともあって快く不肖の先輩に付き合ってくれたのである。

坂本監督の足…いやアクションの撮り方はますます素晴らしく、冒頭から栄光の7人ライダーは出てくるし劇場限定ライダーも沢山出てくるしMEGA盛にもほどがある展開である。

各ライダーが主題歌に乗せて戦っているのを大画面で見ることの幸福感ときたらない。心の中でスタンディングオベーションである。その上で前述のAtoZ含めた映画でのやり取りをすくいあげるような脚本は痒い所に手が届くといった感じでただただ絶賛するしかない。惜しむらくはシャーマンキング15巻の表紙並みにゴージャス過ぎて筆者の中で仮面ライダー映画がここで一度完結してしまい、以降なかなか(この地では一緒に鑑賞してくれる友人もいないので)仮面ライダー映画を見られていないということくらいだろうか。

7.風立ちぬ(2013年7月20日公開)

風立ちぬ [Blu-ray]

風立ちぬ [Blu-ray]

 

 

今のところ人生で2回劇場で見た映画というのは「風立ちぬ」だけである。絵コンテ集も買った。Blu-rayも買ったが好きすぎてまだ開封できていないくらいである。

初めに母と、弟(2号機)と見た。打ちのめされ、しかしまた見たいと思った。

続いて広島・八丁座で恋人と見た。のちの妻である。もちろん筆者は主人公・堀越二郎のように天才ではないが、しかし1人の人と一緒に歩んでいきたいという気持ちはあり、そして広島から鹿児島という果ての地に連れ去ろうともしている身勝手な人間でもあった。

劇中、堀越二郎の上司が彼に言う。「それは君のエゴイズムではないのか」その言葉が澱のように心に沈んでいった。だけれどやはり筆者としては堀越二郎のように日々を一生懸命生きていきますと答えるしかないのだった。

そういう意味でこの映画を一緒に見るということは筆者にとってほとんどプロポーズのようなものであったが、実際に籍を入れるまではここからおよそ3年を要するのであった。

筆者も妻も創作者であり、そういった意味でも触れることが出来てよかった作品である。

8.清須会議(2013年11月9日公開)

清須会議

清須会議

  • 発売日: 2014/05/14
  • メディア: Prime Video
 

 

真田丸前夜の三谷幸喜先生の戦国時代劇である。相変わらずキャストの妙が凄まじく、これ以外のキャストは考えられない……と思いながらも「真田丸」では今作で豊臣秀吉を演じた大泉洋さんを苦労人・真田信之に差配などするから心憎いのである。

原作を読んだ時点では正直なところ絵も浮かばず、語りもユーモアがあったものの展開は平板でありどうしたものか、と思っていたが映像になると途端に面白みが増すから不思議である。

これは両親と妻(まだ恋人)と見に行った。我々の数少ない共通点は歴史好きであるところで、そういった意味で気楽にみられる歴史ものとしてうってつけであった。両親とも我々実子が3兄弟であったこともあり、妻への愛情はものすごく、それ故に妻を胸焼けさせてしまって今は少し実家とは距離を取らせてもらっているが、この間の「戦国武将総選挙」を見ていた母からこの時のことについて懐かしむ連絡があり、両親にとって大切な思い出になってくれているのだなと思った。

未だに剛力彩芽さんをもっとも正しく起用・活用した作品であると筆者は考えている。

9.ワンダーウーマン(2017年8月25日公開)

ワンダーウーマン(字幕版)

ワンダーウーマン(字幕版)

  • 発売日: 2017/10/27
  • メディア: Prime Video
 

 

誕生日祝いに4DXのペア鑑賞券を頂き、夫婦で4DX初挑戦となった映画。4DXならなんでもいい、ということでそれまでのDCユニバースを未見で選んだ本作であったが、全編気持ちよく見させてもらったし、ヒロインのワンダーウーマンは非常に魅力的であった。

島を出たときはてっきり「戦争の神なんてわかりやすい『悪』はいない……人の心こそが最も恐ろしいもの……」みたいな展開になると思ったら普通にわかりやすく具体的に戦争の神がいたのはちょっとびっくりしたが。その神がつぶらな瞳で2度びっくりであった。

4DXの体験としてもバラエティに富んでいて初挑戦にふさわしい内容であったと思う。

10.映画 刀剣乱舞(2019年1月18日公開)

映画刀剣乱舞-継承-

映画刀剣乱舞-継承-

  • 発売日: 2019/06/10
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当ブログにとっても契機となった映画である。

kimotokanata.hatenablog.com

 はてなブログトップ、多くのコメントやブックマークや言及を頂き、それまで一年間のPV数とほぼ同等の数字を1日にして叩き出すという貴重な体験をさせていただいた。

内容・感想については上記記事をご参照いただきたいが、一言で言うならば歴史SFミステリとして白眉の作品であった。

番外.Eyes On Me: The Movie(2019年11月15日公開予定/現在中止)

 

本日15時のCJの会見によってIZ*ONE、そしてX1の活動再開が決定したことは誠に喜ばしい。しかしここに至るまでに失ったものもまた多い。CJには貸していたのだよ…多くの人が…貸していたのだ……。

その一つがIZ*ONEのコンサートフィルムであった本作である。地方である筆者の最寄りの映画館でも上映がされると分かった時どんなにうれしかったか。PD拘束で暗雲が垂れ込める中、しかしこの映画をヒットさせれば光明になるのではと考えていたのに公開中止になった時どんなにくやしかったか。

どうか何らかの形で公開してほしい。

 

おわりに

筆者の生活の中にはいつも映画があった、とはとても言えない10年間であった。

しかしこうして振り返ってみると、節目節目に現れては、コミュニケーション能力かけた筆者と誰かの橋渡しをしてくれていたようで感謝することしきりである。

次の10年は誰とどんな風に映画を見て、どのように感じるだろうか。

それを記録するツールとしてこのブログが今後も機能してくれたらと願う。

 

 

お庄屋(の尊厳)殺し――土曜プレミアム・悪魔の手毬唄~金田一耕助、ふたたび~感想

余談

気が付けば前回の加藤シゲアキさんの金田一耕助から一年が経過していた。

 

kimotokanata.hatenablog.com

 配役の妙もありなかなか面白く見させていただいた前回に続き、クリスマス・シーズンに「悪魔の手毬唄」を新作として披露してくれるというまさしく悪魔めいた企みに筆者は大いに喜び、視聴した。

前回以上に興味深い脚本で、原作を知ったうえでも最後まで飽きずに見させていただいた。

以下、原作と比較しつつ感想を述べたいと思う。

注意:以下、「悪魔の手毬唄」のネタバレががっつりあります

本題

原作の小説は1957年に執筆された。

金田一耕助といえば複雑な家系図と田舎のしがらみというイメージが根強いが、実はこの後に書かれた長編でそういったものにカテゴライズできる事件は最後の長編となった「悪霊島」くらいで、これは1979年の執筆であるから実に22年もの間「田舎もの」の長編は書かれなかったということになる。

そしてこの「悪霊島」はいわゆる金田一ブームによってサービス精神あふれる横溝正史先生が新たに上梓した物語であり、いわばイレギュラーな存在でもある。(中絶した長編「仮面舞踏会」から次の長編「病院坂の首括りの家」までは12年、間があいている。当時の角川書店社長・角川春樹氏が遺族に文庫化の許可をもらいに行くつもりで尋ねたらご本人が出てこられたというのは有名な逸話である)

と考えると執筆当時、横溝先生はこの「悪魔の手毬唄」を「田舎もの」の集大成として書こうとされていたのではないかと推察することが出来る。

「顔のない死体」、「見立て殺人」、「怪人の出現」……その道具立てはまさに絢爛豪華である。映像化で期待したいシーンが目白押しだ。

原作との登場人物の相違―リカをめぐる男たちを中心として

長大な作品を約二時間に圧縮するにあたって、登場人物や展開の省略はやはりいかんともしがたいものがあった。とはいえ最終盤に至るまでは違和感も少なく見ることが出来た。

大きく改変されたのは多々羅放庵、恩田幾三、青池歌名雄、そして磯川警部である。

多々羅放庵:飄々たるご隠居は助平な黒幕に

もっとも割を食ったのは庄屋の末裔・多々羅放庵であろう。原作では金田一と仲良くなり、手紙を代筆してもらったりもする。ドラマと同じくリカの秘密を知りながら、しかし強請ったりはしていなかっただろうと登場人物からかばわれるなど、放蕩づくめの困った人ではあるが周囲からは愛されている様子が伝わる好人物となっている。

これが本ドラマにおいては現在の村の権力者たちに一矢報いるために「恩田幾三」を黙認し、そしてその秘密に気付いたリカが過ちを犯すのを止めもせず黙ってみていたばかりか、更に一段闇へと踏み込ませ、それどころか関係を持ってしまう。自分のために他人を利用する殺されても仕方がないある意味今回の事件の黒幕ともいえる存在になってしまった。連続殺人事件の発端ですらあるのである。その死体は沼に沈められており、これは原作の真犯人の最期と通じるのは演出の妙と唸らされた。原作では共同墓地に埋葬されている。

恩田幾三:令和最初にして最悪の恩田

恩田幾三もまた、元からろくでもない人間ではあるのだが更なる「下げ」を食らっている。そもそも原作ではもともと本心から村の窮状を救おうという気持ちでやってきて、村の連中の余りの態度の違いに次第に復讐心が鎌首をもたげ……という感じであったのが、本ドラマでは絶対故郷に血反吐吐かせたるマンと化している。

また原作では大空ゆかりの母・別所春江だけは本気で愛してしまい、一緒に満州へ逃げようとしているが本ドラマではすべてが金づる、巻き上げたので一人でズラかるのでお前たちは勝手にしろ、といういっそ清々しいクズに成り下がってしまっている。多々羅放庵の離れでクズのサンドイッチ状態になってしまったリカにはさすがに同情してしまう。

青池歌名雄:マイクを鍬に持ち替えて

もっとも運命に翻弄されたであろう青池歌名雄もまた、後半大きな変更を受けている。原作では終盤、村を挙げての作戦で犯人をいぶりだすことになる。それに窮した犯人はあるいは身を投げたかのように、沼へ落ち死亡する。

歌名雄は自らの恋人や妹の命を奪ったにっくき犯人の顔を一番先に見てやろうとその死体を引き上げ、泥をぬぐい――それが実の母・青池リカであると知ってしまうのである。あまりにむごい。

本ドラマにおいては沼に落ちていた死体」は放庵であり、犯人ではなかったことを悔しがる。そこに真犯人を間接的に伝えられ大いに取り乱す。しかもそのあと母には自殺されてしまう。これまたむごいことである。その後は磯川元警部と田舎で農業をやるようである。原作では大空ゆかりのマネージャーが彼の美声に目をつけデビューを画策する、という展開があったがかなわないようで残念である。(これ自体が原作では大空ゆかりと父親が同じという伏線としても機能していたのだが……)ジャニーズ事務所とかとても似合っていると思うのだが。

青年団のリーダー的存在であるところが山狩り決起を煽るシーンくらいしかなくて、家格が低い亀の湯の倅でありながらその人柄でもって周囲から一目置かれている感じがわかりにくかったのは残念。

磯川警部:古谷一行さんの金田一世界からの花道

悪魔の手毬唄」というのは磯川警部の、いや磯川常次郎の物語である。すなわち彼がどのように扱われるかというのがその物語全体に大きく影響してくる。

今回磯川警部は、リカを見逃した。原作ではなすすべなく半ば自殺のようにして死んだリカに、選択肢を与えた。もちろん警察官としてあるまじき行為で、責任を取って辞職してしまう。そしてリカも、恐らくは警部の予想通りに、死を選ぶ。

でも本当は警部はリカに生きていてほしかったんじゃないかと思う。彼のリカに対しての気遣いはすべてが裏目に出る。金田一を文筆家と紹介したことが殺人へ至るドミノ倒しのはじめとも言えなくもないし、執念の捜査資料がリカを追い詰めるし、最後には死へ導いてしまう。その「きっかけ」となる様はまさしく金田一の哀愁で古谷磯川の脚本との呼応が見事である。

原作では「またあなたと仕事をしたい」といって金田一と別れる磯川警部をこのような描写にしたのはメタ的な意味で磯川警部役の古谷一行さんを「金田一世界」から解放しようとしたのではないか、と考えている。原作と世界線をずらすことで安穏たる田舎暮らしを送る磯川常次郎を生み出そうとしたのではないだろうか。

映像として―不気味な老婆・見立て死体の再現度を踏まえると終盤がやや残念

個人的なビジュアル的な悪魔の手毬唄の印象というと「鬼首村に向かう不気味な老婆」「一見してぎょっとする見立てが施された死体」「終盤の大捕り物」だと考えていたので、終盤はやや残念であった。炎上するゆかり御殿、駆け抜ける犯人、引き揚げた後の衝撃の展開……どれも映像的にとても映えるものになったであろうからだ。

また、原作では「犯人死後にブレインストーミング的に意見を出して真相を構築していく」という推理小説的に非常に興味深い展開がなされるのでそれもぜひ映像で見てみたかった。

配役について―前回に続き素晴らしい。それだけに省略された部分が残念。

主人公・金田一耕助役の加藤シゲアキさんは相変わらず格好良すぎるきらいはあるが「何よりも謎とその解決に興味が集中している」という筆者の考える金田一耕助像に一致する演技で今回も満足である。死体を見つけたときより恩田がハーレムを築いていた時の方が驚いているように見えるあたりも解釈一致である。冒頭、籠にススキを放り込むチャーミングさがたまらないし、老婆と対峙する夕日のシーンはキラーショットだ。映画館のシーンも光が印象的である。

始めと終わりのシーンは「マレビト」としての金田一耕助が鬼首村へやってきて、そして去っていくさまが象徴的でポストカードにしてほしいほどである。

名相棒?立原役の生瀬勝久さんはふとした時にやはり矢部を感じてしまうが一服の清涼剤として、よく機能してくれていたと思う。ちょっと賑やかすぎたかもしれないが。今後も往年の加藤武氏ポジションであってほしい。

歌名雄役の小瀧望さんの愛する人の遺体に駆け寄るシーンは思わず息をのむ迫力があった。鬼気迫るとはああいうことを言うのだろうと思う。もっといろんな芝居を見てみたい。

里子役の大野いとさんも難しい役柄を見事にこなした。六道の辻のシーンはわかっていても胸がぐっと苦しくなる。不安と祈りが見事に表現された表情は素晴らしいものがあった。しかし新聞記事に掲載された頭巾を外したキメ顔は誰がいつ撮ったんだろうか。

由良敦子役の斉藤由貴さんはますます美しくなっており恩田への殺意が沸き上がるのを感じる。原作では泰子の死に際して仁礼嘉平に静かに詰問するところが女棟梁の何とも言えない凄みと母の怒りを感じたものだったが、本ドラマでは葬式の席でヒステリックに怒鳴り散らす感じになってしまったのは残念。ぜひ見てみたかった。

多々羅放庵役の石橋蓮司さんはまさしく怪演といったところ。落ちぶれても隠然と村を陰で支配していた凄味を感じさせてくれた。ただ原作の愛嬌あふれるところも石橋さんに演じて頂きたかった……。

圧巻は青池リカ役の寺島しのぶさんであろう。彼岸に行ってしまった人物をこうまで説得力を持って見せつけてくれるとは。里子を自らの手で殺めたと知った時の表情、その後大空ゆかりへ迫るときの濁った眼……「凄味」を感じた。

原作にはない四番目の歌も、そのあとの展開も寺島さんがリカを演じることであたかも最初からそうであったような説得力を纏っていたように思う。

磯川警部役の古谷一行さんは言わずと知れた人間・金田一耕助役の代名詞的存在で、おかま帽をかぶって懐かしいなあなんて言われると涙が出そうである。岡山弁がその口から飛び出てくるのが不思議な気分である。リカと同様、この磯川警部が決断したのなら仕方ないだろう、と納得させる、理屈が後からついてくるような演技は恐れ入った。

おわりに

全体的に満足であったがそれだけに初めて見る人のためにもスタンダードに原作準拠の脚本が見たかったな、とも思う。これは昨今の金田一リメイクで毎回言っているような気もするが……。

大空ゆかり(別所千恵子)が歌名雄にかける言葉が「女である私にできたのだから男である兄さんにできないはずはありません」といった感じの原作から「私にできたのだから兄さんにできないはずはありません」という激励になっているのは令和の金田一という感じでとてもよかったと思う。強く輝く黄金の意思に男女は関係ないのだ(そのような状況でゆかりがした苦労が小さくなってしまうというきらいもあるかもしれないが、筆者はこのセリフを支持したい)

前回のフジ版金田一をなぞるのであれば「獄門島」、そして「女王蜂」と続くやもしれず、期待したいが、個人的には次回はなにか短編をやってみてほしいな、と思う。「雌蛭」とかどうだろうか。アロハで変装する加藤シゲアキ金田一が見たい。

また地上波では規制で重大部分の改変を受けそうであるし、今作で解放されたと思う古谷磯川警部を再登板させての「獄門島」は筆者はちょっと消極的である。「百日紅の下にて」は是非見てみたい。復員服の加藤シゲアキ金田一……。

原作も半世紀以上前の小説とはとても思えないので未読の方は是非ご一読されたし。いつもいっているがJET氏の漫画版もおすすめです。

金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄 (角川文庫)

 

金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄 (角川文庫)

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