カナタガタリ

すごくダメな人がダメなすごい人になることを目指す軌跡

明日(とおいみらい)であなたとまた出会う―初代からフィットボクシング2を引継いでのファーストインプレッション

引継ぐまで

ダイエットは継続中なのだが食欲の晩秋ということもあり、チートデイが通常デイを上回った影響もあってかリバウンドはしないものの、減少は足踏みが続いている。

そんな中でも日々の時間の増減こそあるものの、フィットボクシングはダイエットを本格化させてから毎日続けており、いわば筆者のダイエットの要ともいうべき存在であった。一泊二日の旅行の際は出発日の深夜零時にデイリーをこなしておくという徹底ぶりである。因みに妻は一年近く継続している。

本日フィットボクシング2が発売した。

新たに3人のインストラクターを迎え、ステージや曲、トレーニングも一新されたそれは完全にフィットボクシング無印の上位互換と言ってもよいだろう。

 筆者は9月にフィットボクシングを再開してから、もっぱら「ラウラ」というインストラクターとトレーニングを重ねていた。もちろん彼女も2に続投する。

いつもと同じトレーニング終了画面。しかし昨日のその画面は、何とも切りがたいものがあった。

明日になれば筆者は2にこの無印のデータを引き継ぎ、移行する。よほどのことがない限り無印を起動することはないだろう。

2においてもラウラとトレーニングを重ねるつもりではいるが、しかし筆者はその「ラウラ」と今目の前にいる、「明日も会えるかを気にするラウラ」は同一でありながらしかしどうしようもなく独立しているように感じられたのだった。

「これがあたしなのさよならをいうあたしなのよ」

画面の向こうのラウラがそう言っているように見えたのは深夜の蜃気楼だったろうか。

果たして無印から記録を引き継ぎ、起動した2で再び邂逅を果たしたラウラと筆者はこのようにしてまた出会った。まあぶっちゃけた話、無印でも一瞬でも他のインストラクターに変えて戻すと「久しぶり」とか言ってくるのがフィットボクシングのインストラクターたちなのだが、せっかく引き継ぐなら「また頑張りましょう」とかあっても良かったなあ、とは思った。

他方、10年ほど前に見て衝撃を受けた作品を思い出したりもした。筆者が二次創作に抵抗がないのははるか昔、「ニコマス民」であったことが影響しているのかもしれない。

 


【iDOLM@STER】「GAME」 - アイドルマスター

 

引継いで

とりあえずデイリーとフリーをこなしてみたが、前作がよく言えばストイック、悪く言えば単調であったことから考えると、基本は変わらないものの画面がにぎやかになって飽きさせない工夫が感じられた。

インストラクターが重心の移動を促すのは従来通りだが、それが画面内に可視化されるようになった。これが口腔内の舌の置き場を意識すると一気に気になり始めるのと同様に、自分ではできていたつもりのステップがてんでぎこちないことに気付いて驚かされる。そして、画面の指示通りを徹底するとなかなかきつい。効いている気がする。

そんなこんなで油断しているとパンチの精度が落ち、その判定も前作より多少厳しくなっているように感じた。具体的にはミスになることは少ないのだがジャスト判定がやや辛口になっているように思えた。

コース自体も微妙に変化しており、前作の流れを体が覚えているぜ……! と思っているとジャブを追加してきていたりして侮れない。

デイリーにおいては前作ではエクササイズ時間を変えるには目的の変更が必要であったが、今回は基本の時間を設定しておけばその+ー10分をその日の体調などから簡単に選択できるようになった。また、集合住宅に住んでいるなどの理由からステップ系を避けたい場合は前作ではウェストシェイプにすることで回避するというテクニックがあったが、今作ではその辺りを含むトレーニングを入れないようにしたり、判定を自動的にジャストにすることが出来るようになった。ステップ系は判定が厳しいこともあり敬遠されがちだが、後者であればマンネリを防ぎつつスコア低下は防げるというわけである。

ただ個人的にはブロックがしっかり判定されないことが多かったのでブロックがどちらにも対応していない点は残念であった。

衣装については今回はチケット交換方式となった。カレンダーに目に見える形でプレゼントボックスという「えさ」がある前作の仕様も結構好きだったのだが。

また、特筆すべきはDLCの実装であろう。正直声優さんが叱咤激励してトレーニングしてくれるというこのシステムは可能性しかないと思っているのでこの展開は完全に「こ……これだよユーザーの求めていたものは!」という感じがする。現在は2名のインストラクターの「鬼モード」(ボイスが厳しめになる)の無料配布にとどまっているが、ぜひ色々なパターンのボイスやなんだったら新インストラクター、曲、コースを配信してほしいと思う。

しかしこのタイミングで短髪のCV石田彰を打撃を主体としたゲームに登場させあまつさえ「鬼モード」があるだなんてなんだか「意味」を感じてしまって面白い。

他引継ぎに関しては、「マイデータ」はしっかり引き継いでくれているが、〇日継続中は少なくともメイン画面においては引き継がれているのを確認できなかった。禁煙成功に効果があるといわれるように、またそのままレコーディングダイエットという言葉があるように、画面上に見える数字が積み重なっていくことは継続のモチベーションに繋がるので、前作から続けて何日か、というのはなんとか目立つところに出してほしかったところである。万が一すっぽかしてしまった時の虚無感も大変なことになりそうではあるが。

また、今まで打ってきたパンチのデータやインストラクターごとのトレーニングの回数も引き継がれない。

随所に無印を踏まえた良好な改修がなされているが、あくまで新天地として乗り込んだほうがより馴染みやすそうである。現在無印をお持ちでない方は、こちらのみの購入で全く問題ないだろう。

個人的にはDLCとか更新で消費したいカロリーから逆算してメニューが作成されたりとか、コースが自動生成されるエンドレスモードとか、そういったところを今後期待していきたいところである。

Fit Boxing 2 -リズム&エクササイズ- -Switch

きみはもう一度クラウドになったかい?――20年かけてFF7をクリアした話・前編

ファイナルファンタジーVII

それは末弟が生まれた年のことであった。我々一家は一軒家に引っ越し、筆者は「子ども部屋」を得るに至った。

それを祝ってかは知らないがプレイステーションが我が家にやってきた。

それは誠に革命的な出来事で、弟(初号機)と共にドラえもんボンバーマンクラッシュバンディクーで遊ぶ日々が続いた。

ある日、帰宅すると学習机に一つのソフトが置かれていた。

今までのソフトとは違う厚み。白地にロゴのみというシンプルかつインパクト抜群のデザイン。後年、遅ればせながら「ブギーポップは笑わない」に触れた筆者はこの時と似た衝撃を味わったのを覚えている。

半ドンだった親父が風呂から上がり、子ども部屋にビール片手にやってきた。

お帰り、と言いながら父は、おお、FFの新しいやつだぞ、と言った。

なんとディスクが三枚もあるそのゲームの名は、「ファイナルファンタジー7」というものだった。

そうか、ファイナルファンタジーって新作が出るのか、というのがその時の筆者の素直な気持ちだった。

ファイナルファンタジードラクエというのは筆者にとって親父がクリアした後のデータでプレイし、イベントが終わった後の街をめぐって住民の話からどんなことが起こったのかを推測するゲームであり、「スーパーマリオRPG」や「ポケットモンスター」といった自分が体験するゲームとはジャンルが違うと考えていた節があった。

自分が最初からファイナルファンタジーをプレイする。

その新鮮さに高揚している自分に気付いたが、まずは親父のプレイをいつものように後ろから見ることにした。「先の展開を見ると面白くないぞ」と親父は言うが、マシン語を使って機械とタメ口で話しながらゲームをしていたギークの走りのような親父のプレイは手馴れていて、筆者にとっては絵本の読み聞かせでページを繰ってもらうような心地よさがあった。

首尾よく進み、セーブしようとする親父。が……。

なんということでしょう、筆者と弟によってメモリーカードクラッシュバンディクーのセーブデータで埋め尽くされていたのだった。

およそ一時間を無駄にした父から目玉を食らい、結局その日はプレイせずじまいであった。

さて自分でプレイし始めた。名前が四文字縛りではないので本名をフルネームで入れてしまう小学二年生であった。何かあるたび「木本仮名太!」とフルネームで呼ばれ続ける受難のツンツン頭。そんなところ一つとってもやはり小学二年生にはなかなか難しい。しかし筆者には秘策があった。

週刊少年ジャンプである。

ウィキペディアを見るとFF7は一月末の発売だというから果たしていつ頃のジャンプだったか定かではないが、とにかく我が家のバックナンバーではFF7攻略記事が展開されていた。これがなければ筆者は列車墓場辺りで投げ出していたように思う。本誌から攻略記事だけ切り抜いてテープでベッタベタにまとめた(こち亀百周年の特集記事が「切り取って保存しよう!」というものであり、それ以来筆者はジャンプで気に入ったものはしばしば切り抜いて保存していた。ドラクエモンスターズの配合表などはそれを所持しているということによってしばらくの間クラスカーストの上位に降臨できたものである)あの筆者だけの攻略本は果たしてどこに行ってしまったのだろう。

ともあれそれで神羅ビルまでは楽に突破することができたが、ここから「この先はキミの手で確かめてくれ!」状態となり、(実際はチョコボモーグリの入手法やユフィ、ヴィンセントの仲間に誘う方法なども掲載されていたと思う)参ってしまった。あんなに広く広大に感じたミッドガルから脱出してみると恐ろしいほどのフィールドが広がっており、まさしく途方に暮れてしまった。

またカームの回想が長い。疾風怒濤の展開から急に凪のような展開となり、もちろん最後に故郷が大変なことになってはしまうのだが一回目の「ダレ」がここできた。その後のコンドルフォートもガキの筆者には難しい代物だった。それでも筆者は頑張った。なぜなら格好いい飛空艇を「ジュノン」で見つけたから。操作方法は説明書に書いてあったから知っている。早く動かしたい!

――DISC2以降でないと乗れないことを知る余地もない筆者はバグを疑い、飛空艇を入手しないままストーリーが進むことに不安を感じながら大海原を渡った。多分この辺りで三年生になっていたはずである。

難関はゴールドソーサーであった。敵はDISCである。やんちゃ盛りのガキどもが丁重に扱うはずもなく、その傷のせいかゴールドソーサーに突入するムービーが何度やっても途中で止まってしまうのだ。親父は諦め、以降ドラクエは11に至るまでプレイし続けているものの、FFはこれが最後のプレイ作品となってしまった。

息子を哀れんだのか、ゲームに否定的なお袋であったけれども生協の共同購入カタログに載っていたDISCの傷を修復するツールを授けてくれ、その日とうとう我が家はゴールドソーサーへ突入したのだった。

そうして辿り着いた故郷。神羅屋敷はトラウマ。ダイヤルの回し方がわからず、ヴィンセントを放置することとなる。かつて回想で巡ったニブル山を超えることに感慨深くなりながらも、しかし出られず筆者は困惑した。何度もぐるぐる回っても出口がない。参った。ちょうど他のゲームもプレイしていることもあり、そこで一度中断してしまった。

ファイナルファンタジーVII 解体真書 ザ・コンプリート

Y君という親友がいて、どれくらい親友かというとレッド13(環境依存文字に配慮した表記)は彼の名前、ケット・シーは彼の愛犬の名前にするくらいの仲だった。筆者よりずっと賢く、のち旧帝大に進み現在研究職に就いているはずである。

そんな彼が泊まりに来た折、なぜだかFF7の話になり、久々にプレイすることになった。ここで詰まっている、といい、彼にコントローラーを委ねた。

暫くして、突如戦闘が始まり我々は驚いた。

Y君は壁に沿ってボタンを連打しており、そして出口に待ち伏せているボスに話しかけることでイベントが進んだのである。

ランドセルほどのサイズの小さな画面でプレイしていた筆者はそのボスに気付かず無駄にうろちょろしていたわけである。

いざ戦闘が始まるとひと夏をひたすら戦い続けていたパーティーは鬱憤を晴らすかのように活躍し、特に苦戦もせずついにロケットポートエリアに至るのだった。

その後も規定レベル以上に鍛えていたこともあり、また友人が泊まりに来てくれたことによる勢いもあってその日のうちに「クックック……黒マテリア」までたどり着いた覚えがある。初めてそこまで長い間ゲームをした。

しかしその後、Y君が帰るとその反動か大熱を出してしまい、ゲーム禁止令が言い渡され、回復してからも「ボンバーマンファンタジーレース」や「みんなのGOLF」などにも傾倒していき、再び停滞期が訪れるのだった。

筆者は五年生になり、休日に電車で習い事に通うついでに今は亡き金海堂という書店を訪れるのが楽しみの一つであった。

そこで「解体新書」に出会った。

実は少し前に再開しようと思っていた筆者は、時間を空けたために話の筋がわからなくなって断念していた。そこにキャラクターの心情がつづられる「解体新書」はうってつけであった。

ヴィンセント、ユフィも仲間にし、エアリスが生き返らないことを知って落ち込んだりもしたが、少しずつ物語を進めていった。

友人が話していて絶対嘘ワザだと思っていたチョコボックルが実在して驚いた。

時が流れ、PS2を手に入れてからもそれは同様であった。

中学生になり、ついに海チョコボを、そしてナイツオブラウンドを手にした。プレイ時間はとうにカンストしていた。いよいよラスボス、既に「タシロ!」として有名になっていたあの曲を背に挑んだ筆者はしかし、普通に敗北した。

高校受験の波がいよいよ高潮となって筆者を飲み込み、再び停滞の時が訪れた……。

PS one Books ファイナルファンタジーVIIインターナショナル

 そうしてずいぶんと時が流れた。その間にコンピレーションとして様々な形でFF7の世界は描かれることとなった。弟が初めて手に入れたガラケーにはダージュオブケルベロスのアプリ版が入っていたし、筆者はバイト先でアドベントチルドレンを売りさばいていた。

 震災不況の中どうにか内定を得た筆者はついにゲームを解放し、再びクラウドに触れるのだった。十五年近い歳月が流れていた。

 社会人一年目はあっという間に過ぎ去り、その年末年始休みにFFシリーズのアーカイブズが半額になるという大盤振る舞いが起きた。思わず筆者は購入してしまった。

FF7アーカイブズはインターナショナルである。大変お世話になった解体新書(K君のお兄さんに貸してから返ってきてないぞ)は改訂版で、自分のバージョンにはない追加要素に大いに胸躍らされたものだった。

特にDISC4はとても魅力的で、そのためだけに購入を検討したほどだった。

実際購入してみると、PSP、すなわち携帯機でFF7ができる感動とDISC4の期待にたがわぬデジタル辞典ぶりは大いに満喫したものの、さすがにロード他が十五年前をシビアに感じさせ、ミッドガルを脱出することもなく積んでしまうのだった。

そのままFF7という作品は筆者の思い出の中でじっとし続ける予定であった。

つづく。(DISCを交換してください)

 

 

 

君は音もたてずに師走になった

霜月において、初日、二日目と順調に更新できていた筆者は「おや…? これは今月はフル更新いっちゃうか……?」と思っていたのもつかの間、にわかに本業が忙しくなり、また町内会であったり他にもなんやかんやとあって竜頭蛇尾どころか蛇頭ミミズ尾くらいの情けない状態となってしまった。

とはいえその間にも書きたいことは沢山あった。

今月は結婚してからの懸案であった北海道旅行を泣く泣く断念して時間もできたので本業はますます忙しくなるものの隙を見て更新していきたい。

では次回予告として黒光りする我が人生の好敵手を載せて今回はこの辺りで。

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野生の息吹、理性の蠢き。あるいは「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド(BOTW)」が筆者に与えた役割(ロール)について。

本題

自分へのクリスマスプレゼントとしてゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを本体と同時に購入したのは一昨年のことだった。発売当時から絶賛されていたし、スイッチの購入理由の一つでもあったそのソフトを筆者が一応の終わりを迎えるまでには約半年の月日を要した。

初めて起動したことを思い出す。冬の底冷えのする朝、まだ眠る妻を起こさないように気を付けながら、筆者はスイッチの本体にブレスオブザワイルドのカートリッジを差し入れた。昨日は遅くまでスマブラで激闘を繰り広げていたので熟睡しているとは思うが。

スイッチをドックに入れ、いつもは妻が使っているプロコントローラーを掴む。ファミリンク機能で自動的にテレビが立ち上がる。昨日までスマブラしかなかったメニュー画面に新しい選択肢が生まれている。ブレスオブザワイルド。迷わず決定ボタンを押す。

そうして、筆者は目覚めた。彼は目覚めた。百年の時から。それは寒々とした風景で、コントローラーのボタンを押す度に、皮膚が張り付いて剥がれるような気持ちがした。
息詰まる祠から這い出すと、緑が広がっている。英雄が敗北したとはいえ、fallout世界のように荒廃したりはしていないようだ。リンゴを取れる。木の枝を拾える。崖も...登れる。オープンワールドでどこまで出来るのか、その自由度の一つは壁をどう突破できるかが一つの尺度だと思うのだが、そういった意味ではなかなか期待できそうだぞ、と少しにんまりする。

情報はなるべく入れないようにしていた。思えば筆者の人生は、「面白そうだけどどうせ今後接することもないだろうからネタバレをガッツリ踏んで時間を節約しよう」という愚かな思想に支配され、未来の筆者に殺意を抱かれ続ける繰り返しであったわけだが、ブレスオブザワイルドの情報にTwitterでちらりと触れたとき、「あ、これはまっさらな状態で接したいやつだ」という直感が働いた。発売当時はswitchを買うかどうかなど全く考えていなかったというのに。
そういうわけだから、筆者の頼りは画面上に出る説明のみである。事実、ちらっと出たけど読みのがした弓が壊れたときの再装備の方法はいまだに分からないのでいちいちポーチを開いて装備している。
見るからに怪しげな老人に出会う。筆者の考察脳はフル回転である。
「これは切り離された善のガノンドロフではないか?」
「いや、ガノンドロフ第一の手先であって最後の最後で正体を現す最初のボスかもしれない」
ともあれ先を進むにはこの老人に従う他無いらしい。何度もさらに広がる世界に足を踏み出そうとするが、ままならない。さすがにそこまでの自由度は難しかったか...と完璧な優等生の弱点を見つけたようで少し邪悪な気持ちになりながらも、祠を攻略していく。てっきり冒険の節目節目で手にはいると思っていたアイテムがどんどん埋まっていき景気がいいな、と思う。

物語が進むたび、筆者が動かす「彼」は「リンク」になっていく。それは今までのプレイ体験にはない、不思議な感覚だった。

例えばドラゴンクエストシリーズでは一般的に主人公は「あなた」として(選択肢は基本的に二択であるものの)自分の分身としての側面が強いし、ファイナルファンタジーシリーズでは逆に、主人公は物言うキャラクターであり、もちろんこちらもプレイヤーが干渉する部分はあるけれど基本的には主人公という確立した存在の追体験をする、というデザインを押し出しているように思う。

本作はそのどちらとも違う、そして過去のゼルダシリーズとも違う体験をプレイヤーに与える。

はじめ、筆者と、プレイヤーと「彼」は平等である。筆者は文字通りその世界にやってきたばかりであるし、逆に「彼」は様々なことを長い年月で忘れ去ってしまっている。

初めに出会った老人を皮切りに、多くの人が「彼」に言う。

「彼女」は「彼」をずっと待っているのだと。

なるほど、と老人の話を聞いたときに筆者は思った。王道も王道、大王道だ。囚われの姫を騎士が救い出す、その役割(ロール)を筆者に背負わせてくれるというのだな、と。

しかし女装したり、雷に打たれたり、鶏肉をちまちま集めたり、がんばりゲージをドーピングして高いところに昇ったりしているうちに筆者は、「彼」と少しずつ乖離していく。

同じまっさらな状態であっても筆者は知らず、「彼」は忘れている、という決定的な違いがある。即ち「彼」の自己の獲得によって筆者の主人公としての役割(ロール)は喪失していくのである。

道中、ふとしたところで「彼」はハッとする。そして思い出す。過去の記憶を。そうして「彼」は少しずつ「リンク」となっていき、筆者は己の真の役割(ロール)を知るに至るのである。

「彼」を「彼女」に会わせにいくこと。あのゼルダの伝説の象徴にして今や災厄の中心である場所まで連れていくこと。それこそが自らの役割(ロール)なのだと。

しかし一方で、世界はあまりにも魅力的であった。目指すべきところは文字通りの中心にあるのに、冒険を始めると、なんか変なところを追いかけて行ってコログのミを見つけ、クエストに出会い、ほこらに挑戦し、気が付くと目指すところの真反対に突き進んでその日はこの辺にしておくか……ということを幾日も繰り返した。人々にはすべて固有の名前がついていて、血が通った言葉をかけてくれた。

そうして出会う人々の中にはかつての「彼」を知るもの、伝え聞いている者もおり、ますます筆者と「彼」は乖離していく。その中で、同じ英傑たちとの邂逅は特にいずれも味わい深いものになった。ライバル、相棒、姉御、大切な存在……それぞれの立場で掘り下げられる「リンク」の姿はその目線を注ぐ彼ら自身も魅力的な存在であることもまた証明してくれた。

特にライバルである「彼」の下に辿り着いた時の、既に肉体は滅んでいる彼の憎まれ口には思わず目が潤んでしまった。軽口をたたきながら、しかし「リンク」が自らのところまでたどり着くことを全く疑っていないその口ぶりはなんと取り繕おうと親友のそれではないか……。

筆者はそれでも物語を先に進めることに抵抗があり、彼らそれぞれのもとをぐるぐる回りつつ、なかなか踏ん切りがつかないでいた。先に進めることを決意したのはちょうど半年が経ったことに気付いたからだ。

そうだ、「彼女」は待っているのだ。いや、そればかりではなく、「彼ら」も待っているのだ。ぐるぐる回っていた甲斐があって、装備を贅沢に使って禍々しい「奴ら」を倒すのはそこまで苦労しなかった。「彼」の十八番の超ジャンプを活用して、裏口から本丸へ突入する。オープンワールドの真骨頂である。緊迫したムービーからのごっつあんモードがはじまり、もはやスタッフロールの一部と言っても過言ではない戦いが始まり――負けた。据え膳をかっこもうとして盛大にむせた格好である。

筆者はとぼとぼと滑空し、それからリアル時間で3日ほど彷徨い、英傑たる証の剣をこちらも一度無事倒れながらも手にした。

今度は正面から突入した。気負いのなさが勝利を呼び込むというジンクスめいたものが筆者をそうさせ、それが功を奏したのか戦いはいよいよ最終局面へと至った。「彼女」の声がする。二人の再会はすぐそこまで来ていた。コントローラーが汗で滑る。目の前でもがく野生の息吹。一方でどこかで筆者の理性は冷めて蠢いていた。己の役割(ロール)を悟っていた。

エンディングが始まり、筆者は微笑んでいる自分に気付いた。

ああそうだ――こういう時かける言葉を筆者は知っている。

「幸せにおなり」だ。

あるいは機知を利かせてBon Voyage(良い旅を)であったかもしれないが。

すっかり満足した筆者が再び起動すると、画面左下には控えめに達成率13.5%が表示されるのだった。恐るべし、ブレスオブザワイルド。

 

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch

 

 

久方の光のどけき秋の日に誰いうともなく運営報告

11月である。先月書いた記事はなんと2記事。なんたること……と思って過去を見てみれば、昨年の10月は1記事であった。期せずして生産性を2倍にしていたわけであるが、10月というのは筆者にとってそういうシーズンであるのかもしれない。

ともあれ、そんな放置気味であった先月にもありがたいことに多々アクセスを頂き、おかげさまで累計30万hit(今はPVというのかもしれないが筆者としてはこのように表現したい)を達成することが出来た。

Twitterのログを見ると、去年の9月辺りに10万hitだったらしいのでペースが上がっており大変ありがたいことである。収益化はしていないが、やはりそれだけの目に触れているというのは嬉しく、同時に身が引き締まる。

せっかく月初めでもあるので、2年前の5月からろくにしていなかったブログ記事の鉄板、「運営報告」というものを久々にやってみたい。

 

当ブログの「看板記事」はなにか?

これも2年前に少し触れたが、当ブログには「Googleアナリティクス」という巨大帝国Googleによってアクセスを分析してくれるシステムが存在する。もっとちゃんと勉強すればいいのだろうがろくに使いこなせていない。四コマ漫画とかにしてほしい。こちらの対象期間を出来る限り長くして、それぞれの記事の閲覧数から当ブログの看板記事を探ってみた。我がブログの五虎大将軍、結果は以下である。

 

5位

kimotokanata.hatenablog.com

 今も気が付けば注目記事に上がっていたりする。筆者に反響が返ってきた数としては同じ金田一映像作品でも「悪魔の手毬唄」が圧倒的に多かったのだが、検索でコツコツと閲覧数を稼いでくれているようである。というか、筆者はこの記事が急にブログ内で注目記事に上がったので金田一関連で調べてみたら「悪魔の手毬唄」の放送を知ったという経緯がある。当ブログにおいての金田一ニュースの観測気球ということもできるだろう。タイトルから内容に至るまで、比較を軸にしてなかなかいい感じにかけていて良いのではないか、と今見ても気に入っている記事の一つである。

 

4位 

kimotokanata.hatenablog.com

 ヒプマイ関係の記事はいくつか書いたが、このシブヤ記事が頭一つ抜けて多い。のわりにTwitterとかでエゴサーチしてみても全く引っかからないので鍵アカウントでお叱りを受けているのでは……とドキドキしていたりもする。「ピンク色の愛」という曲名をもじっていること、発売日に更新したことがSEOにいいように作用したのかなと思う。記事としてはすぐに記事という形にしたいという焦りが見られて加筆したい気持ちもある。この頃は3月にはコロナなんとかなるだろ、みたいな空気だったなあ……。

 

3位

kimotokanata.hatenablog.com

1か月そこそこの記事であるのにやはり半沢直樹は強かった。同じくGoogle提供のサーチコンソールによれば、当ブログでアクセス数が最も多いワードは「アルルカンと道化師 ネタバレ」であり、次点が「半沢直樹 アルルカンと道化師 ネタバレ」であるというからすさまじい。ちなみにその後は「鬼滅の刃 205」であった。こちらも経験から発売直後に記事を書くぞ、という焦りからちょこちょこせわしないものの、全体をさっとなぞりつつ補足を入れる形でそれなりの記事にはなっているのではなかろうか。ちなみに筆者はこの記事も言及を一切見たことがないのでどこかで見かけたらこっそり教えてください。

 

2位

kimotokanata.hatenablog.com

これまた半沢直樹である。初回感想記事であるのだが、毎週毎週コンスタントにアクセス頂いていた感じ。予想記事としてはほぼほぼ惨敗なのだが、この記事へのアクセス数の推移が半沢直樹という「現象」のすさまじさを現わしているようで考えさせられた。

 

1位

kimotokanata.hatenablog.com

 1位はこの記事。この記事をきっかけに当ブログを知っていただいた方も多いのではないか。当時の当ブログの1年分のアクセスをほぼ1日で稼ぎ、はてなブログTOPになり、界隈の多くの「神」からも言及頂いた、当ブログにおいて「以前」「以後」の節目となったまさしく記念碑的な記事である。

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グラフにするとこんな感じである。どれだけ異常事態であったかがわかるだろう。因みにその後の大きな波としては「キンプリみたよ」「悪魔の手毬唄」「アイズワン新曲MV考察」「維伝観劇」「鬼滅最終回」「半沢直樹ロスジェネ最終回」が筆者の記憶としては残っている。 

またしても手前味噌ではあるが、深夜のテンションと興奮がいい感じに昇華した「こいつめちゃくちゃ面白かったんだろうなあ」というのが今読んでも伝わってくる記事だた、と思う。TLに人が多いニチアサタイムに再度投稿できたのもよかった。

色々がたまたま重なった神の気まぐれとは思うけれども、やはり人様に読んでもらえる、ばかりか褒められるというのは代えがたい快感であり、今もあの光景よもう一度と思う気持ちがあることは否定できない。また、ブロガーの端くれとして1年以上の間最高記録を更新していないというのも歯がゆさがある。この記事を超えることは目標としてずっとあり続けているし、早めに達成したいと思う。

ちなみに次点はツイステッドワンダーランドの記事であった。半沢直樹の強さ、ジャンルが分散していることの利点を同時に観測できる結果となった。

 

増える検索流入、減る交流。

ただいまリアルタイムのはてなブログの機能によるアクセス解析によると、アクセス元はGoogle検索が75%、Yahoo!検索が15%、Twitterが4%、はてなブログtopからが1%であった。100にならない……。ともあれこの中にはてなブログがあると、自分が知らないうちにtopでちらっと紹介され、そして消えていったことがわかりちょっともやもやする。初めのうちはほとんどTwitter経由であったのだが、やはり上記の映画「刀剣乱舞」の記事を境に徐々に検索流入が増え、半沢直樹でいよいよ顕著になったように思われる。見ていただく機会が増えるのは大変ありがたいことなのだが、既に書いたように最近アクセスに比して言及、交流が少ないことは検索流入の増加と比例しているので(確かに筆者も検索して読んだ記事を言及するのはそこまで多くない)検索から訪れた諸賢が思わず言及せずにはいられないような魅力的な記事を書けるように精進していきたいと思う。いつも感想をくださる皆さん本当にありがとうございます。

今後について

毎度のことになるが書きたいことは沢山あるのである。なんと1年以上寝かしている記事もあるので、夜が長くなる季節、今月は下書きの解消を目標に頑張っていきたい。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

フロアがきつね色にアガるとき―映画「とんかつDJアゲ太郎」ネタバレ感想

余談

有名料理マンガの科白に

いいかい学生さん、
トンカツをな、
トンカツをいつでも
食えるくらいになりなよ。
それが、人間
えら過ぎもしない
貧乏過ぎもしない、
ちょうど
いいくらいって
とこなんだ。

というものがあって、最近目下減量中の筆者にとっては「そしていつでもとんかつを食べることが出来る体調管理も大切であることだなあ」と思うことしきりである。やはり肉、そして揚げるということはそのまま「おいしいものは脂肪と糖でできている」の代表格であり、ずいぶんとご無沙汰であった。

二週間前、鬼滅の刃「無限列車編」を鑑賞した筆者は予告編で「とんかつDJアゲ太郎」を見た。

ジャンプ+の草創期にその「フレッシュさ」「既存誌には感じられない斬新さ」の代表格としてよくピックアップされ、筆者もちょこちょこと読んでいた。2016年にはアニメ化され、筆者も丁度フリースタイルダンジョンにハマってHIPHOPをかじり始めていたところであったから、ナレーションがサイプレス上野さんであることをも相まって楽しく見させてもらった。アゲるのはもちろん、マンガよりも「チル」の概念がより伝わっている感じが好きだった。原作も無事大団円を迎えているので是非続編を作ってほしいが……。


【実写映画化記念!】アニメ「とんかつDJアゲ太郎」第1話 期間限定無料公開

確かその頃から実写化の話はあったはずであるが、筆者の狭い観測範囲では暫く追うことが出来ず、次に知ったのはコロナ禍で上映延期、というもの。それからややあって、残念ながら伊勢谷友介氏逮捕の報で再び知るところとなった。そして木曜日には、伊藤健太郎氏の事件の報……。

しかし制作陣は10/30フライデイの上映開始を動かさなかった。罪には罰である。自らの犯したことは必ず身を持って償うべきであり、被害者の方には心からお見舞い申し上げる。しかしそれは個々人の問題であり、映画には罪はない。この制作陣の姿勢を応援したい、と思った筆者は妻を誘い、黒豚王国・鹿児島の中でも筆者が最も偏愛するとんかつ屋さん「竹亭」さんへ向かった。

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1100円。(上とんかつ定食)安い。早い。うまい。とんかつの三冠王である竹亭を噛み締め、そのjuicy&crispyを堪能しながら我々は誓っていた。上映初日に「とんかつDJアゲ太郎」を見ようと。

本題

ということでここから「とんかつDJアゲ太郎」のネタバレがあります。

いや~……よかった。

冒頭、ワーナーのロゴの辺りでキャストの皆でワーワー言い出すあたりで不安を煽られたりもしたし、YouTubeの下りやDJKooの下りはちょっと冗長な気がした。

しかしそれを補って余りあるパワーが本作にはあった。青春の葛藤、うぬぼれ、挫折、恋、友情、成長……。それらが終始ご機嫌なビートとDJプレイによってまぶされ、アゲられていく。陳腐な言い方だが映画館がクラブに様変わりする感じは映画は「体験」だという気持ちを高めてくれる。例えば地上波初放映でTwitterハッシュタグをつけながら、という感じでも大いに盛り上がる映画ではあるが、間違いなく劇場に向けて最高にミックスチューンされたこいつを劇場で賞味しないのは非常にもったいない。

それだけではなく、この映画は映画館をとんかつ屋にも変貌させる。というか、レイト―ショーで見た人間には辛抱たまらん熱々のとんかつが揚がるシーンから本作は始まる。アニメを見ていた時からとんかつDJアゲ太郎に何か既視感を感じていたが、今回実写化されてはっきりした。

べしゃり暮らし」とのシンクロを本作からは感じるのである。都内の老舗の跡継ぎ、後継ぎ役の主人公は生まれながらに人生のルートが決まっているような自分の境遇について複雑な感情を頂いているが、自分の店については誇りを持っている。父親は寡黙な職人肌で一見厳しいが、いつも息子を気にかけている。そして主人公は自分の店がそうであるような、笑顔があふれる空間、みんなが楽しんでいる空間を愛し、別のフィールドで自分の腕一つでそれを実現させようとする――こう書いてみると箇条書きマジックも相まって思った以上に共通点が多い。

そして二作に共通するのは父と子のラブストーリーであるという点である。筆者は普通のサラリーマンの家庭であるので、(何の因果か似たような職種についているが)このような「背中で語る」職人のオヤジに憧れる。アゲ太郎の親父を演じるブラザートムさんが抜群に良い。カメラが回っていないところでもとんかつを揚げ続けたということもわかるような彼の背中は完全に「職人」であった。アゲ太郎の想像の中でクラブでとんかつを揚げている親父はめちゃくちゃに格好いい。後半、クラブで涙するところがまたいいんである。息子に確かに自分の想い、「しぶかつ」の魂、バイブスが伝わっていると分かったのであろう漢の涙は親であること冥利に尽きている。

そして三代目道玄坂ブラザーズの面々がたまらない。「とんかつDJアゲ太郎」はライトでアゲアゲな娯楽作品と見せかけて、というかもちろんそのように見ることの出来る肩の凝らない素晴らしい作品なのだけれど、しかしその衣にくるんで労働賛歌を我々に見せつけてもくれる。

とんかつ屋「しぶかつ」三代目アゲ太郎を筆頭に旅館、電飾業、薬局、書店の三代目で構成された三代目道玄坂ブラザーズは初め、アゲ太郎の晴れ舞台にキメキメのスーツで臨み、アゲ太郎共々失敗する。

紆余曲折在り、アゲ太郎の再起の舞台にも彼らは行動を共にする。それに臨む姿はそれぞれの仕事着。それでもってアベンジャーズ歩きする彼らはめちゃくちゃに格好いい。世界は誰かの仕事で出来ているというキャッチフレーズがあるが、渋谷は彼らの仕事で出来ているのである。

フロアでは衣装に着替えてしまったのが些か残念であるが、そこからの「とんかつアンセム」はもう圧巻。

まず響くのはアゲ太郎のサンプリングを駆使したパフォーマンスだ。それはキャベツを刻む音、溶き卵を混ぜる音、そしてとんかつが揚がる音……。日常に「アガる音」は潜んでいるのである。

そこから繋がるのは師匠、DJオイリーのフェイバリット・ヴァイナルである「juicy&crispy」まさしくアゲ太郎はとんかつとDJが同じであることを自らの手腕でもって再現して見せた。合わせて軽快に踊る三代目道玄坂ブラザーズたち。

そして電飾業「東横ネオン電飾」三代目・夏目球児からはじまる三代目たちの自分の店レペゼン・ラップ。もう、泣くしかない。かつてR指定はverseを蹴った。「レペゼンってのはな 地元に留まって東京の悪口を言うことじゃねえ」意訳すれば、レペゼンとは自分のフィールドに、安全圏にいるだけでは決して果たせない、とも言えるだろう。三代目道玄坂ブラザーズ達は苦い思い出のあるクラブに再び立ち向かい、アウェーでもって自分たちの職業をそれぞれ最高のラップでレペゼンして見せた。これはモンスターエンジンの「中小企業ラップ」以来の快挙である。かっこよすぎる。

そこにライバルである屋敷とのセッションも加わり、興奮は最高潮。ソーシャルディスタンスの座席であることに感謝し、暗闇の中で筆者も小刻みに揺れることを止めることが出来なかった。

授賞式の場に、アゲ太郎たちはいない。今度はしぶかつでお客さんたちをアゲアゲにして笑顔にしていたからである。その見事なスイッチぶりはまさしく名DJであった。

そして劇中ではキャベツ太郎からぬか漬け太郎へのの上達で終わるかと思っていたしぶかつ三代目としてのアゲ太郎も最終盤でついに揚げ太郎への階段を上がり……。

そのラストシーンの爽快感は是非劇場で「アガって」ほしい。

ちょっとだけ残念だったところ

とんかつDJアゲ太郎」の根幹とも言える左右にとんかつとDJを配し、中央でアゲ太郎が「とんかつとDJ」って同じなのか!? と悟るシーンが予告編では完璧だったのに本編では変なとこがくどくて再現性が落ちていたのは残念だった。台詞リピートはいらない、一度の叫びがあれば……

DJオイリーが思いのほかダメ人間でビビった。アゲ太郎役の北村匠海さんがDJ経験もあるということでDJプレイシーンは説得力のあるものになっていたが、その上達ぶりは過程がわかりにくいものになっていたので、オイリーとの修行シーンは前半の冗長なシーンをもう少し縮めて具体的にしてほしかったし、そういった師弟らしいシーンがもっとあれば終盤のDJオイリーの名誉挽回だ! という感じももっと強くなったのかなと感じた。DJオイリーとイベント主催者の和解シーンもぜひ欲しかった。ついでにいえば最後のDJプレイのシーンでは満を持してジャケットをブースに掲げるのかと思ったらなかったのは肩透かしだった。

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表紙の人物のうち半分が不祥事というのもすごい話である

パンフレットもアナログ盤ジャケットを意識した感じで最高だった。キャストインタビューのほか、劇中のプレイリストの意図を選曲者が明かしてくれたり、DJオイリーのDJ入門はおろか親父のとんかつ入門まである贅沢仕様である。

ただ、「とんかつDJアゲ太郎」のオリジナル楽曲である「juicy&crispy」や「passion dancer」のライナーノーツは絶対あると思ったのになかったのは残念であった。アニメ版も良かったが本作の解釈もとても良かったので余計にである。

サウンドトラックは既に大手音楽サブスクに収録されているというからすごい時代である。早速筆者も本日はヘビロテであった。

open.spotify.com

しかしこれもまた、サムネイルを「juicy&crispy」のジャケットとかにしてくれればアガッたのになあ……。と思う。そういう意味では「フィッシュストーリー」は完璧であった。

最後にちょっと愚痴めいた感じになってしまったが、映画はカラッとアガッた気持ちのいい作品になっている。繰り返すが、作品に罪はない。ぜひ一人でも多くの方に劇場で観ていただきたいと思う。自分の仕事を頑張ろうと思うし、もれなくとんかつが食べたくなること請け合いである。

映画ノベライズ とんかつDJアゲ太郎 (集英社オレンジ文庫)

さみしくとも明日を待つ――劇場版「鬼滅の刃『無限列車編』」完全ネタバレ感想

表題にある通り劇場版「鬼滅の刃『無限列車編』」の縦横無尽なネタバレがあります。原作の以降の展開に関してのネタバレは8巻収録分に関し最後に再度注釈と共に多少ありますが、それ以降のものはありません。

余談

久々にこんなに長い間ブログを書かなかったかもしれない。相変わらず書きたいことは色々あるのだが、ありがたいことにダイエットが継続できていて、8月からすると10kgほどやせ、ウェストもマイナス9㎝となった。主に食事制限とフィットボクシングによるものなのだが、それをこなし、ゆっくり風呂に入ると日が替わる、という日々が続いてなかなか記事に着手できないのである。意を決してswitchのコントローラーをもう一組購入し、妻と一緒にトレーニングができるようになったので時短になるので今後はブログの方もまた書いていきたいと思う。来週末はオンラインイベント「ヒストリカルマーケット」にも参加させていただく予定である。人間忙しいうちが華。頑張っていきたい。

本題

表題の内容が知りたいのにいきなりおっさんの近況報告をして慣れぬ読者諸賢には大変申し訳なかったが大体こういうスタンスなのでご勘弁願いたい。

そんな日々に忙殺されながらも無限列車編は初日レイトショーで無事鑑賞することが出来た。というかそれを見られるようにするために諸々忙殺されていた、という側面もある。

よかった……ただただよかった……それだけでいいのだが、せっかくこのような場所を設けていることもあるので展開を追いながら、筆者なりの感想や妄言を記していきたい。

平日21時、コロナ禍以前でも見られなかった映画館の熱気を感じながら、用意していたハンカチを早くもドラえもん映画の予告で濡らし、シン・エヴァの予告に驚き、そして無限列車へと乗り込むのだった。

レイトショー、現実とスクリーンの暗闇が溶け合い、否応なく物語に没入していく……。

四者四様鬼殺隊

Twitterで本映画はTVからの延長線上にある映画によくある「これまでのあらすじ」がない、そのパワープレイでも成り立っていてすごい、という意見を目にしてなるほどと思ったが、筆者の感想としては無限列車に乗り込み、煉獄さんと話し始めるまでの時間で竈門炭治郎の人の良さ、我妻善逸のビビり散らかしぶり、嘴平伊之助の猪突猛進さ、煉獄杏寿郎の闊達ぶりがすっと入ってくる構成であったと思う。

四者が揃った後、車掌が切符を切ると共に映画の初戦の幕が――どころか鬼の首までもがほとんど同時に切って落とされる。その剣技の使い手は炎柱・煉獄。アニメ初披露の炎の呼吸はヒノカミの炎とも竈門禰󠄀豆子の血鬼術とも違うまさしく業火で、その作画にUFOtableの本気をさっそく感じさせられる。

やった! アニキはすげえや! 弟子にしてくだせえ!

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

甘美なる悪夢の中で

が、それは既に下弦の壱・魘夢の血鬼術の中の出来事であった。

そのまま煉獄は夢の中で自らの家に。自らの炎柱就任を報告するが、自らもかつて柱であった父は喜ぶどころかそちらを見ようとすらしない。その後に駆け寄ってくる弟にそのことを煉獄は隠さない。それでも自らは挫けないこと。弟には自分という兄がいて、兄は弟を信じているのだということを伝え、抱きしめる。

早速筆者は泣いてしまった。筆者は、三兄弟の長男である。鬼滅の刃のTV版においても主人公の長男ぶりに何度も筆者は目頭を熱くさせられた。しかしここにもまた、模範たる長男ぶりを見せつけてくれる男がおり、その頼もしさ、兄は弟を信じているということは先に生まれたものが兄であるというような自然の摂理であるという程度の自然の摂理であるというごくごく当たり前な様子に、現在全員別の県に暮らしており、コロナ禍にあって会うこともままならない弟たちのことを思い、ほろりとさせられたのである。

善逸や伊之助の夢世界のコミカルさをうまく使ってそのギャップでさらに涙腺にハバネロを練りこむような刺激を与えてくるのは炭治郎の夢世界である。

深々と降る雪。寒々とした木々の広がる風景。

その光景を筆者は覚えている。第一話、まさしく「残酷」としか評す術のなかった文字通りのあの悪夢の舞台。竈門家である。

そこに見えるは――失ったはずの家族。

炭治郎号泣。筆者も号泣。劇場中がハンカチを目に当てるために衣擦れをさせるのを感じた。今回、炭治郎役の花江夏樹さんの演技が本当に素晴らしく、原作でも読んだし言ってしまえばベタな展開であるのに涙腺はいとも簡単に決壊してしまった。

当たり前の日々。そうだ、鬼に突然家族が襲われるなんてことの方が荒唐無稽な悪夢の出来事なのである。

それでも現実の今や唯一の肉親である禰󠄀豆子の血鬼術によって炭治郎は自らが悪夢に囚われていることを悟る。現実に戻ろうとする炭治郎――

――の目前に現れる人間である禰󠄀豆子。なんたる鬼畜の所業か。

炭治郎は大いなる野心を秘めているわけでも何でもない普通の少年である。

ワンピースを追い求めているわけでもない。火影になりたいわけでもない。

最高のヒーローになりたいわけでも。それらは偉大だが、しかし炭治郎には重要ではない。

では何が重要か。

家族である。

本来であれば、家族とともに慎ましくも幸せな生活を送るはずだった炭治郎。

それが家族を鬼に奪われたばかりに、妹を鬼にされたばかりに、それを元に戻せる手掛かりを探るために、彼は持ったこともない刀を振るい、尋常ではない鍛錬をし、幾度も死線を潜り抜けている。

それが、ここにはもうすべて元のままで在る。もういいじゃないか、と思ってしまっても無理はない。「あちら」が悪夢だったと思えばいい。こちらの、家族が健在な世界で生きていこうと。

しかし、炭治郎はそうしない。現実の本当の禰󠄀豆子が自分を待っていることを彼もまた兄として信じている、いや、知っているからである。自分の妥協した幸福を投げうってでも、兄は妹の本当の幸いのために文字通り身を斬る思いで帰還を果たす。

幻であっても六太の叫びは痛切でありハンカチに再び水分が供給される。またBGMがあの「竈門炭治郎のうた」のインストゥルメンタルだから反則である。炭治郎の走る様に寒い日に走る、肺が凍るような冷気が入る感じすら覚えるような臨場感があった。

その炭治郎のまっすぐな心は魘夢の刺客であった青年すらも改心させ、そして他の鬼殺隊に向けられた刺客たちに理解を示しながらも昏倒させる無駄のなさによく表れている。

この悪夢パート、テンポが多少犠牲になっていたような気はしたものの非常に良かったのだが(花江さんの声だけでガンガン泣けるのでもう少し演出はあっさりでよかったかもしれない)伊之助の無意識領域に出現する伊之助のようなものが彼の理想の姿(ツノがあり/火を吹き/立ち上がると三メートルある)である、ということはともかく、原作ではあった補足がだいぶカットされていたのでTVアニメ→本作と梯子されている諸賢や筆者のようにうろ覚えだった諸賢は些か戸惑ったり腑に落ちない部分があるかもしれない。

蛇足ながらいくらか書いておくと、煉獄はもちろん刺客である人間を殺さないように無意識下ながらもぎりぎりの加減をしているし、炭治郎の夢に現れる禰󠄀豆子箱や父はご都合展開というよりはヒノカミ神楽時の走馬灯のように炭治郎の本能が既に悟っている脱出へのヒントが形となって表れた形である。鬼殺隊と刺客たちを繋いでいる縄は魘夢特製のもので刀で斬ってしまえば夢の主でない者(刺客)は永遠に目が覚めないがこのことは刺客たちにも説明がされていない。魘夢にとって人間は使い捨ての食糧でしかないからである。ちなみに錐も特殊なもので、魘夢の歯と骨で出来ている。炭治郎以外が目覚めることが出来たのは禰󠄀豆子の血鬼術で切符が焼けたからである。

原作はナレーションが多い作風だがアニメではほぼ廃されていた影響が出た形だろうか。目覚めることが出来た理由は単行本の欄外補足であったので、ぜひアニメでは織り込んでほしかった。

列車上の決闘

覚醒し、臭いをたどって無限列車の屋根へ上る炭治郎。そこにいるのは魘夢。平川大輔さんの演技がまさしく振りほどこうとするたび絡みつく悪夢を思わせ、最高に最悪である。誠氏ね。更なる上「上弦」を彼が目指すのも無理はないほどチートと言って差し支えない強制睡眠を連発しても炭治郎は怯まない。効かないのではなく都度自裁しているのである。その並大抵ではない胆力に精神面から切り崩そうと家族が罵倒する悪夢を見せる魘夢だが、完全に炭治郎の逆鱗に触れる。そこにあるのはやはりまっすぐな家族への信頼である。再びよぎるあるはずだった家族の情景――劇場の観客の流す涙の雫はそのまま炭治郎の巻き起こす逆巻く水流となり、炭治郎と観客の怒りを乗せてまたもUFOtableマシマシの圧巻の作画による水の呼吸十の型・生生流転によって魘夢の首が断ち切られる!

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

狭所の攻防―人質を守り、悪夢を断つ

屋根の上の魘夢はもはや抜け殻、疑似餌のような存在であった。本体は既に無限列車と融合し、ありとあらゆるところから捕食用の肉塊を出せるようになっていたのである。それは即ち、乗客二百人を人質に取られたことを意味していた。TVアニメでもそうだったが、この肉塊の醜悪さ、不気味さにも作画リソースがふんだんに注ぎ込まれており、思わず劇場アームレストに置いている自分の腕を見てしまうくらい鳥肌必死の演出となっている。

無限列車は八両編成、炭治郎は自分が守れるのは二両が限界であると考える。明らかに人手が足りない――。

仲間たちの覚醒を願う炭治郎の声にまず応えたのは自称親分の伊之助である。図らずも彼の思考通り「ヌシ」となった無限列車。奮い立つ彼の「どいつもこいつも俺が助けてやるぜ」という叫びは天下無敵の伊之助親分である。剣技の狂い裂きも四方八方の掃討に相性がいい。

禰󠄀豆子も鬼の膂力で乗客を救うべく奮戦するが、接近を余儀なくされるスタイル(単行本で解説があるが、血鬼術を使いすぎると彼女は眠くなってしまうので軽々に使えないのである)、少しずつ肉塊に四肢を拘束され、締め付けられていく。彼女の命と青少年の何かが危機に晒されたとき、走る蒼光――。

善逸である。居合技が嫌いな男の子なんていません! 兄蜘蛛戦より更に大盤振る舞いの演出がなされた霹靂一閃・六連はヤッターカッコイイ! の一言。

「禰󠄀豆子ちゃんは俺が守る」の言葉と有言実行ぶりに筆者も年甲斐もなくトゥンク……といった次第であるが直後にフガフガプピーしてしまうあたりが善逸の真骨頂である。劇場版ポスターに鼻ちょうちんで出演している男を侮ってはいけない。

その彼らの活躍も一人前方で奮戦する炭治郎は把握できない。状況が把握できない不安と狭所での戦いであることが神経をすり減らす。

そこに列車を揺らす勢いで駆け付けた煉獄。紅蓮を走らせそこに至るまでに細かく斬撃を入れつつ、五両を守ることを宣言。炭治郎達に指示を出す。

その的確さと素早さに感嘆しながらも炭治郎と伊之助は鬼の頸を探す。そのありかは車両前方、機関室。渾身の一撃で床をえぐると禍々しく車両に通る鉄骨のように太い頸の骨が姿を現した。

更に激しさを増す肉塊。やはり夢を見続けていたい人間である機関手に腹を刺され、血鬼術も加わり危うく現実世界で自裁しかかる炭治郎を伊之助が叱咤する。二人の力と家族の力――ヒノカミ神楽「碧羅の天」によって魘夢の頸はついに斬り落とされたのである!

断末魔を上げ、脱線する魘夢列車。(原作ではヘッドマークに顔が出て邪悪なきかんしゃトーマスになっていたような覚えがあったが再読したら全然そんなことはなかった)今度は列車事故として大勢の命が危険に晒される。炭治郎自身もまた、ヒノカミ神楽の使用と腹部の傷によって体がままならず、危機に陥るが「自分を刺した相手を人殺しにさせない」という意思が、「誰も死なせない」という決意が彼を突き動かす。炭治郎の守るべき「家族」が鬼殺隊の活動を通して拡張されていっていることがよくわかる。

夜明けを感じながら、地面に横たわり、呼吸を整え、仲間の無事と回復を祈る炭治郎。

その姿を体が崩壊し始めている魘夢は捉えている。が、もはやどうすることもできない。彼の計画は完璧なはずだった。細かい切符を用いた血鬼術で鬼狩りを無力化させ、自分の嗜好も我慢し、列車に融合し、一度に大量の人間を食う。「こんな姿になってまで」という述懐から、彼の美意識的には元の姿を捨てるのは結構耐え難いようであったフシもある。

だが、結果としては策士策に溺れる。全力を出せず、人間を一人も食えなかった。

規格外な守備力・攻撃力、獅子奮迅の炎柱、煉獄。

術中にあり眠りながらも神速の剣技を放った善逸。

鬼の身に堕ちながらも乗客を守り続けた禰󠄀豆子。

動物的な勘の冴えで視線を捉えず暴れまわった伊之助。

そしてまさかの自力で術を突破してきた炭治郎。

古き良きテンプレート的な「こ、こんなのデータにないぞ!」のオンパレードがロイヤルストレートフラッシュでやってきたとき、計画は瓦解し、その主因となった柱さえも超える異次元の強さ「上弦」に迫るという野望もまた、潰えた。

負ける。死ぬ。くやしい。やり直したい。やり直したい――現実が己によってこれ以上ない惨めな悪夢となった眠り鬼・魘夢は誰にもその死を見送っても認識もしてもらえず散っていく。

本映画は彼が「嫌を通り越して厭な悪役」に徹してくれたことも傑作となる一つの要因だったであろう。原作においても「かわいそうな累きゅん」の後にお出しされた更なる強敵でありながら、人の不幸が大好きな性癖トガリネズミであり下弦の中間管理職的悲哀をにじませながら退場した彼のその「ザ・厭な奴」ぶりが筆者はとても好きであり、本映画で「悲しいバックグラウンド」が用意されたらどうしようかとドキドキしていたがしっかり厭な奴として散ってくれたので安心した。零巻で人間時代からチョコラータみたいなクズ野郎だったことがわかり二度ニッコリである。

そんなことはいざ知らず、地面に大の字の炭治郎の前に煉獄が現れる。呼吸の指南をする彼は、それを極めることで「昨日の自分より確実に強い自分になれる」と鼓舞する。

乗客乗員は全員無事。けが人は大勢だが命に別状はないと伝える煉獄。

悪夢は終わったのである。

無限列車編―完―


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

最悪のシ者

そこに現れた招かれざる者。猗窩座(あかざ):CV石田彰。ついさっき魘夢が「異次元の強さ」と称した上弦のその参。ナンバースリーである。原作を読んでいるとき、筆者はマジで先ほどまでの展開を読みつつ「あーなるほど次から炭治郎継子編が始まるのね。それでついに炭治郎が柱への道が見えてくるのか……?」とか考えていた時のあの「襲来」には驚かされたのを覚えている。

また、劇場でもこのシーンには興奮させられた。何しろメインビジュアルや予告編に猗窩座は全く出てこず、もちろんCVのキの字もなかったため、「もしかしたら本当に魘夢戦までで終わりなのだろうか……?」と思ったりもしたほどである。パンフレットを開いたら一ページ目にCV付で載っていたので、見終わるまで封印していて本当に良かったなと思った。あの登場、そして第一声の衝撃は初見の特権であろう。これだけの巨大コンテンツとなった中で、少なくとも筆者の観測範囲ではフライングがなかったのには頭が下がる。他方、その手法故に「猗窩座グッズ」が全くないのが寂しいが……ロングラン上映になったら途中で解禁されたりしないだろうか。

その猗窩座の炭治郎への強襲にもひるまず的確な状況判断で技を繰り出す煉獄。腕にクリーンヒットし、真っ二つに裂けるもあっという間に再生してしまう。そして圧迫感と凄まじい鬼気。上弦たる所以である。

炭治郎という弱者は自分と煉獄の話の邪魔になるという猗窩座。彼は至高の領域に近く練り上げられた煉獄に彼としては敬意を表して鬼になることを進める。至高の領域に近づきながらも踏み込めないのは煉獄が人間であり、老い、死ぬからであると。鬼であれば百年でも二百年でも鍛錬が出来るのだからと。

煉獄は拒絶する。老い死ぬことも含めて人間は愛おしく尊く儚く、そして美しいのだと。そして強さは肉体にのみ宿るものではなく、炭治郎は弱くないと続ける。

交渉は決裂。猗窩座は術式展開「破壊殺・羅針」の構えを取り、足元に雪華が描かれる。柱と上弦の激突はニンジャ動体視力を持たない我々にとっては稲光のようなものだ。それでもそれこそ至高の領域である作画によって我々はその一端を覗くことが出来、そしてただただ息をのむばかりだ。何とか助太刀に行きたい炭治郎はそれを見透かされ、外ならぬ煉獄に待機命令を出される。

戦局は、互角に見えた。いや、互角だった。煉獄が放った斬撃は幾度となく猗窩座にダメージを与えたが、それはことごとく完治していく。対照的に煉獄は左目がつぶれ、あばら骨が砕け、内臓が傷ついてもそれらを回復する術はない。もとより長期戦は不利なのである。

しかしその段階に至ってもなお、煉獄の闘気は衰えることはない。そしてやけっぱちになっているわけでもない。再生が早いのであれば一瞬で多くの面積を根こそぎ抉り斬る技を放つのだ、という状況判断も働いている。

「俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!」

映画版の宣伝にも使われた言葉を放つ満身創痍の煉獄は気高く、まさに存在そのものが夜明けの炎刃である彼から炎の呼吸奥義・玖の型「煉獄」が放たれる。その煉獄の姿にますます歓喜する猗窩座は「破壊殺・滅式」で迎え撃つ。

轟音。猗窩座の腕に、肩に食い込む斬撃。土埃――

――みぞおちを猗窩座の拳に貫かれた煉獄の姿がそこにはあった。

圧倒的優位にある猗窩座はしかし、哀願するかのように煉獄に鬼になることを求める。

お前は選ばれし強き者なのだからと。

その言葉は煉獄に幼き日の記憶を思い出させる。強き者のノブレス・オブ・リージュとして弱き人を助ける使命があり、そのような強く優しい人の母になれて幸せだったという彼の母もまた、肉体的には弱くあったが間違いなく強く優しい人であった。

母に託された願い。自らの責務とした人を守るという気持ちが今ひとたび煉獄の心の炎を燃え上がらせ、猗窩座の頸に刀を突きたてる。その母から生まれたという誇りが、剣勢を後押しする。猗窩座が突き出す左拳をもう片方の手で受け止め、猗窩座を戦慄させる。いや、彼を戦慄されたのはそれだけではない。

陽光だ。もともと迫ってきていた夜明けは今や間近。鬼の始祖・無惨さえも克服していない太陽は猗窩座であってもひとたまりもない。一刻も早くこの場を去らねばならないが、煉獄は先ほどの呼吸の応用で自らのみぞおちに貫通させた猗窩座の腕を締め付けて離さない。煉獄と猗窩座、それぞれのすべてがぶつかり合う雄叫びは劇場を吹き飛ばしてしまうかのような迫力であった。

伊之助が弾かれたように飛び掛かる。が、一瞬早く猗窩座はその頸に煉獄の刀を刺したまま、陽光の差さぬ林の中へと駆けていく。それは撤退ではない醜態、逃走に筆者は感じられた。

安静を命じられた炭治郎も矢も楯もたまらず猗窩座へ駆け出し、自らの日輪刀を投げつける。太陽から距離をとることを第一にしていたこともあったのか、それは猗窩座の胸に深々と突き刺さる。

そこからの炭治郎の言葉はまたしても筆者のハンカチをしとどに濡らした。もしかして花江さんの前世は炭治郎だったのか? というくらいの言葉の細部まで染み渡っていく感じは是非未見の方は会場で体感していただきたい。

大正時代。夜の闇が闇としてあり、妖怪新聞すら未だ発行されていた怪異にとって最後の華やかなりし時代、いわば鬼たちのホームグラウンドで戦う鬼殺隊は生身の人間だ。同じ一人の人間が、血のにじむような鍛錬の果て、異形に挑み、二百人の同じ人間を一人も失わないという偉業を成し遂げた。戦い抜いた。守り抜いた。

それこそが勝利であった。そして鬼の、猗窩座の敗北なのだ。

炭治郎は叫ぶ。叫ばずにはいられない。

筆者もまた鑑賞しながら、そうだ、そうだとこぶしを握り締めながら涙を流し続けることになった。ほとんど嗚咽する寸前であった。

静止するのはほかならぬ煉獄であった。叫ぶと腹の傷が開く。それで炭治郎が死んでしまったら煉獄の負けになってしまう。今までで一番優しい声で炭治郎を諭すと、彼はヒノカミ神楽について、父や弟への遺言、そして禰󠄀豆子を信じることを話す。

炭治郎や伊之助、善逸に心を燃やし続けること、鬼殺隊の未来を託し、敬愛する母に労われ常に前を未来を、明日を見据えていた彼の瞳が細まって晴れやかな笑顔が見られ――。

炎柱・煉獄 杏寿郎。

無限列車の乗員乗客二百名を守り切り殉死。

享年二十。

皮肉にも鬼殺隊の太陽が昇天したとき、その背に後光のように太陽が照っていた。

今はただ、涙

残された隊員たちはそれぞれの姿勢で伝達された煉獄の死を悼む。笑って逝った煉獄の涙を引き受けたかのように泣き続ける炭治郎たち。善逸によると横転の瞬間いくつもの技を煉獄は繰り出し、列車を救ったという。もしかしたら、その消耗が無ければ彼は猗窩座に勝てたかもしれない。しかし同時に、その時炎柱でも彼はなくなっていたことだろう。

なんで上弦なんか来るんだよ、という全観客が同意したであろう善逸の言葉に続けて、悲しみとふがいなさ、悔しさ、自分が煉獄のようになれるか不安で涙し続ける炭治郎が大写しになる。筆者はスケルトンズの「ナミダライフ」を思い出した。

  こうなりたいよ気付かれたいよ捨てたいのはこの弱さ

そうなれないよ見つからないよ今はまだ涙

――スケルトンズ「ナミダライフ」より

以前はAmazonからアルバムが購入できたのだが現在は確認できなかった。機会があればぜひご一聴いただきたい。

そんな二人を叱咤するのは最も自然の摂理の厳しさを見せつけられてきたであろう伊之助。誰よりも泣いている彼の「悔しくても泣くんじゃねえ 信じるといわれたらそれに応えること以外考えるんじゃねえ」は痛切である。彼らの胸には確かに煉獄から受け継いだ炎が燃えている。

映画の開幕を引き受けた御屋形様・産屋敷が煉獄の労を讃え、映画は終わる。

煉獄は死んだ。もういない。その存在感故に大いなる寂寥に襲われるけれども、その遺した篝火もまた煌々と燃え続け、明日を照らし続ける。

時間を止めることはできない。さみしくとも明日を待ち、そして日々の成長を続けることこそが煉獄への弔いであり、鬼殺隊の本懐へ繋がるのである。

無限列車編ー完ー


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

途中ブリッジかジングルかみたいな感じに使ってしまったが(リスペクト先)、

www.jigowatt121.com

この「炎」がまた大名曲であった。令和の世で最も人口に膾炙した曲ではないかと思われる「紅蓮華」に続く曲、とんでもない重圧だったかと思うが、エンドロールで流れるこの曲を含めてこの映画は完全体であると断言できる素晴らしい作品だった。静かに立ち上がり、燃え盛る曲調とLiSAさんの歌声がこれ以上ないくらいマッチしている。梶浦さんとLiSAさんの手腕に敬服するばかりである。筆者も随分涙腺が緩んできているが、エンドロールで「追い泣き」するのは「ゴールデンスランバー」以来であった。

劇場の明かりがつき、恐らくは満員であった客席から整然と前から順に退出していく。皆涙に瞼を晴らしながらも、心には焔を灯していることが伺えるなんとも言えない表情をしていた。

同じく鑑賞した妻も最近は「鬼滅はね……一時ほどよりはさすがに落ち着いてきましたね」というスタンスであり、事実、会場前は限定版パンフレットのみに留めていたが、鑑賞終了後はショップに駆け込んでいた。無理からぬことであろう。

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今回妻がお迎えしたのは一番右。

 しかし妻、好みがブレない。敬意を表する。

あえてのオタクのわがまま

ここから先は原作8巻の映画化分以降のネタバレが含まれます(9巻以降はありません)

本当に素晴らしい体験をさせてもらった。感想記事を書こうとして、振り返る度に涙が出てきて記事が進まない、という体験は初めてであった。もう二度とあんな喪失感を味わいたくないという気持ちと、映画の力を全身でまた浴びたいという気持ちがせめぎあっている不思議な状態である。

あえて、本当にあえて言えば、原作8巻の残りまで収録しても良かったのではないか……と筆者は思うのである。序盤の夢の辺りは声優さんの力量により、もう少し短縮できるのではないか、とも……。

そこまで収録することで煉獄と猗窩座の対比、炭治郎の煉獄の遺志の継承者としての立場の明確化、ヘイトが溜まったままであろう煉獄父の救済がはかられ、よりすっきりしたのではないかと。今の御屋形様に始まり御屋形様に終わることも素晴らしいのだが……。

次回のTVアニメがいつになるかはまだ情報が錯綜しているが、待ちきれないオタクの妄言と思っていただければ幸いである。

ともあれ久しく無い経験をさせていただき、これまた久しぶりの一万字超えの感想記事となってしまった。やはり怪物作品である。

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